今月の薬師詣では武蔵野線で北朝霞まで行き、東武東上線に乗り換えて成増まで行って帰ってくる行程です。
武蔵野線は六年前、2016年十一月の薬師詣でで北朝霞の一駅手前の西浦和まで利用していますが、それより先(府中本町寄り)は私にとって処女地です。今月は西浦和~北朝霞とわずか一駅だけですが、処女地開拓と相成りました。
北朝霞駅と接続する東武東上線の朝霞台駅。隣同士なのに武蔵野線の駅名は北朝霞、東武は朝霞台です。
最初に向かうのは成増です。ちなみに成増では東武線の駅名は成増、接続している地下鉄有楽町線は北朝霞と朝霞台の距離より断然遠いので、さすがに同名にするわけにはいかなかったとみえて「地下鉄」とつきますが、地下鉄成増です。
成増駅北口に出ました。
住宅街の中に果樹園などがあって、へえなどと感心しながら歩いて行きます。
二枚の画像の間には谷が形成されていて、結構起伏に富んでいます。
道を間違えてしまったので、事前のシミュレーションより数分余分にかかって、今日最初の目的地・青蓮寺に着きました。
この日はたまたま新しいご住職の晋山式が行なわれているところでした。後ろに見える本堂まで行くのは遠慮して、少し離れたところで合掌。お賽銭はあげられませんでした。
「新編武蔵風土記稿」には「新義真言宗上石神井村三寶寺末本尊薬師」と記されています。開基開山については詳らかではありませんが、当初は現在地から2キロほど離れた場所(現・高島平四丁目)に建てられていました。水害に遭って、いつの時代にか現在地に移転したということです。
本尊薬師如来が室町時代の作風を持つので、寺の創建もおよそその時代だろうと推定されています。文政年間(1818年-30年)末期から大正初期までの約百年間は無住であったそうで、この間に文書什器等が散逸してしまったようです。
成増駅に戻って東上線を逆戻り。次に降りたのは和光市駅です。
和光市駅前。なんとなく馬橋の駅前を思い起こさせます。
このあたりも起伏に飛んでいます。この坂を下り終えたとき、また道を間違えているのに気づきました。
しかし、間違えたおかげでこんなところに出ました。
新倉ふるさと民家園です。五月の節句は三日前に過ぎたのに、まだ鯉のぼりが立てられていました。
実際は十四~五分ほどで着けたはずですが、道を間違えた上に、新倉ふるさと民家園を覗き見したりしていたので、二十分以上かかって東林寺に到着。
「新編武蔵風土記稿」には「是も三宝寺の末なり、医王山と云、本堂五間に六間、本尊薬師如来弘法大師の作を安ず、小名峯にある故峯の薬師如来と云(中略)当寺の開山等詳かならざれども、石碑に元禄八乙亥天九月などえりたるもあれば、元禄前の開基なるべし」と記されています。
帰りは正しいと思われる道を歩いたら、地蔵堂のかたわらを通り過ぎました。
いまはこのような更地になっていますが、グーグルストリートビューを視ると、御堂が写っていて、漆台足洗地蔵堂という名称が記されています。撮影年は2018年となっていました。
東京外環自動車道(道路の下をトンネルでくぐっているので見えません)を越えると、このような掲示(柿の木坂湧水公園)が目に入ったので、寄って行くことにしました。
行き止まりは窪地になっていて、清水が湧き出していました。それ以外は特段のことはない公園でしたが、暇人の私以外無人。
柿ノ木坂湧水公園をあとに徒歩七分。和光市駅に戻って、また東上線に乗り、今日の小旅行の出発点(朝霞台駅)に戻りました。
朝霞台駅から武蔵野線に沿って歩くこと九分。右手に寺院らしき建物が目に入ったので、回り込んでみると、三光院でした。
真言宗智山派の寺院です。慶長十三年(1608年)の創建と伝えられています。
三光院から足を延ばして三分。今日最後にお参りする東薬師堂は元禄五年(1692年)の創建とされています。「朝霞市史」には東薬師堂には池田イッケの墓地があり、本家の屋号(東)から東薬師堂と称されるようになった、と記されているのですが、池田イッケとは何者か、「東」という屋号は「ひがし」と読むのか「あずま」なのか、いろいろ当たってみたのですが、いまのところは何も解明できません。
閉ざされた扉の上半分はガラス張りの格子窓になっていましたが、ほんの一部だけガラスが張られていませんでした。すわ、と思い、カメラのレンズを突っ込んでシャッターを押し、モニタを見たものの、残念ながら厨子の扉は閉ざされていました。
帰りは行きに降りた武蔵野線の北朝霞から。
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