今朝は四時半に目を覚ましました。
廣徳寺へ作務に行こうか、と思いましたが、ここ数日の暑さを振り返ってみると、朝夕は涼しくなったものの、明るくなるとすぐに暑くなる。
作務に出るのはもう少し涼しくなってから、と思うと、そろそろ一か月以上の空白をつくることになりますが……。
可燃ごみを出したついでに近隣の散策に出ました。
常磐線を渡るためには、北小金駅のコンコースを抜けるか、駅の少し東側にあるこの跨線橋を越えなければなりません。
新松戸の場合も、線路の向こうへ出る道は限られていましたが、向こうへ行く必要はあまりなかったので、特別不便だとは思いませんでした。
ここでは繁華街が常磐線の向こう側にあるのです。
またハワイ通りを歩きました。先日行った郵便局から100メートルほど歩くと、棕櫚(シュロ)の樹が見えてきました。これがハワイ通りと名づけられた名残です。残されている樹は六本。ここだけ建物がセットバックされ、歩道が幅広くなっています。
交差する道路の右手坂上に妙典寺という日蓮宗の寺院がありました。本土寺に近いので、本土寺の末寺かと思えば、本寺は中山法華経寺。
本堂正面にある芭蕉の句碑。
志ハらくは 花のうへなる 月夜可奈
芭蕉の年譜を調べると、この句が詠まれたのは貞亨五年(1688年)春、蕉翁四十五歳のとき。
裏側に何か彫られていますが、植え込みが邪魔をしていたので、よくわかりません。
碑が建てられたのは文政八年(1825年)三月五日。句の脇には松朧庵探翠建之と彫られています。
松朧庵探翠は小金在住の人で、今日庵元夢の弟子。今日庵元夢は小林一茶が俳句の道に入るきっかけをつくった大川立砂の師です。
妙典寺前にプロテスタントの教会。いま、読んでいる隆慶一郎の「風の呪殺陣」にも、叡山の僧侶と聖母マリアに憧れる美少女との絡みが出てきます。
妙典寺からは近いので東漸寺に参詣。
仁王門前に黒の野良殿がいました。私が近づくとサッと逃げましたが、腰を下ろしてミオを取り出すと、ちょっとだけ戻ってきて尻尾を振っていました。
中門を望む参道。佳い雰囲気です。
本堂前、左手にある観音堂です。聖観音を祀っています。
本堂前に到ると、ちょうど読経の最中でした。蝉の声が高かったので、はっきりとは聞こえませんでしたが、「ナムアミダーブー、ナムアミダーブー」というのが何度も聞こえたような気がします。阿弥陀経だったのでしょうか。
竹内兄弟の墓。
元治元年(1864年)三月、水戸の武田耕雲斎、藤田東湖らを首領とした天狗党が挙兵しました。小金の郷士だった竹内廉之助、哲次郎兄弟も天狗党に参加しましたが、同年九月、哲次郎は戦死(二十四歳・右の墓)。廉之助は薩摩藩邸の浪士隊(のちの赤報隊)に加わりました。しかし、赤報隊は偽官軍と見なされて、やがて壊滅。このときの戦いで廉之助も戦死(三十一歳・左)。銘を刻んだのは渋沢栄一。
縄文前期(六千年前)と後期(三千五百年前)の貝塚・境外(けいがい)遺跡と六地蔵。
小金道を歩いたときに見つけた鐘楼脇の小径を下りました。びっしりと落ち葉です。熊手でゴッソリとかき集めたくなります。
小径を下って車の通行量の多い道路を横切り、再び坂道を上ると、八坂神社の前に出ました。
小金一帯の鎮守で、元はサティがある場所に祀られていましたが、昭和四十七年、市街地再開発に伴って現在地に遷座されました。
一風変わった手水舎です。真ん中の簾を上げると、柄杓があります。
随分顔のほっそりとした狛犬です。
こちらは拝殿右にあった小社の狛犬。多分昔からある狛犬です。阿吽の配置が一般とは反対。
北小金駅南口・サティ前の交差点に建つ八坂神社跡地の碑です。
裏を見ると由来が彫られているようですが、まったく読めません。とりあえず撮影しておいて、あとで拡大、と思ってカメラに収めましたが、うっすらと「天文年間」という字が読みとれる以外、結局読めません。
南口デッキにある史跡の案内板。旧水戸街道旧屋敷、東漸寺と一緒にマツモトキヨシ発祥地(上から四つ目)も標示されています。うーむ、マツモトキヨシ発祥の地もすでに史跡のうちか。
北口にある鹿島神社。小さな社で社務所もありません。もちろん無住。
電車で一駅なのに、北小金が新松戸と違う一つは焼き立てパンを標榜する店のないことです。
絶無というわけではありませんが、旧宅近くにあったパン・デ・モルデのように、朝早くから店を開け、そこで食べることもできる、というような店はありません。
鹿島神社の入口に、「あった!」と思ったら、いまは製造とパン教室を開いているだけのようでした。
元は 一流ホテルのパテェシェをやっていたとか聞きました
パンデモルデより あたしは好きです