今月の薬師詣では葛飾区を歩きました。
参詣するのは極楽寺と普賢寺です。両方とも参詣は二度目になりますが、薬師詣でで訪れるのは、ともに初めてです。
前にきたのはいつであったか、はっきり憶えはないが、いつであったろうか……と思って調べてみたら、もう六年も前、2012年二月のことでした。
常磐線を金町で降りて、京成電鉄に乗り換えます。
京成金町から柴又、京成高砂と二駅だけ乗って、今度は京成本線に乗り換えるのですが、京成に乗るのは久しぶりだったので、京成高砂駅では同じ京成電鉄であるのに、一旦改札を出て、また改札を入るという仕掛けがあったのをすっかり忘れていました。
京成高砂から三つ目、堀切菖蒲園駅で降りました。
干支神・堀切十二支神。右から子丑寅……一番手前が亥。「西遊記」に出てくる猪八戒みたいです。
途中まで堀切菖蒲園通りと名づけられた道を歩きます。
今日の行程の近くには、観音寺(2016年二月:薬師詣でをした年月)、宝持院(15年十一月、16年二月)、薬師寺(11年十月、17年八月)、善養寺(14年三月、17年八月)と、薬師如来をお祀りするお寺が四か寺もあります。
二度三度と詣でてはいけない、という決まりはどこにもないので、歩く余力がありそうなら、どこかに寄ってもよいと考えていましたが、庵を出るころから、気温は30度に迫る勢いでした。ポコポコと歩いているうち、その暑さがボクシングでいうロウブロウのように利いてきます。
暑かった夏が、静まることなくつづいていれば、暑さに対する抵抗力も弱まっていなかったかもしれませんが、六日前の今月の二日、最高気温が24度台と非常に涼しい日を体験してしまったために、抵抗力と気力が途切れています。電車を降りて歩き始めれば、すぐゼイゼイハァハァという有様です。
途中で堀切菖蒲園通りを離れますが、六年前、堀切菖蒲園から極楽寺を訪ねたときは同じ道を歩いているはずです。細々とした記憶は薄れていても、「アレ?」と思うようなことはないはず……と思っていたのですが……。
極楽寺門前、短い参道にある、いぼとりり地蔵。歩いてきた道路に面してあった(はず)と記憶していたので、ちょっと戸惑ってしまいました。
山門は閉ざされていたので、右の通用門からお邪魔します。
宝徳元年(1449年)、新義真言宗の本山・紀伊根来寺の普済阿闍梨によって創建されました。
永禄三年(1560年)八月、大洪水のため本堂以下ことごとく流失したので、同五年、正済法印が再興しました。
境内の薬師堂の本尊は「寅薬師」または「砦内の薬師」とも呼ばれ、室町時代にこの地の領主であった窪寺氏の城内にあったものだということです。
窪寺氏とはどのような氏族なのか、資料がないのでわかりませんが、東京堂出版の「後北条氏家臣団人名辞典」には、窪寺大蔵丞という名があります。
今回は寄りませんでしたが、堀切天祖神社相殿の譽田別尊は宝徳元年(1449年)、千葉介実胤の家臣・窪寺蔵人頭胤夫が武運長久祈願のため勧請した八幡宮とされています。
かつて天祖神社の別当はこの極楽寺でした。
御堂の前には御香台があり、風雨に晒された感じの十円硬貨が十枚ばかり載っていました。私はその中に百円硬貨を添えて、友人知人たちが無事息災であることを祈りました。
極楽寺から七分。妙源寺という日蓮宗の寺院に寄りました。ここも前回寄っていますが、極楽寺と同様、佇まいは記憶にありません。
妙源寺には安積艮斎先生の墓(右)がありました。私が敬愛する幕末の勘定奉行・川路聖謨さんの先生です。
今月から携帯電話をスマートフォンとタブレット端末に代えました。
薬師詣でに行くときは地図が必須なのですが、プリンタが故障してしまいました。八年前に買ったものですから、そろそろ壊れても不思議ではないと思いますが、一万円弱で買ったものなのに、修理代の見積もりをとったら、一万一千円。莫迦莫迦しいので、修理はあと廻しにして、代わりにスマートフォンとタブレットを導入することにしたのです。
普賢寺へ向かう途中、上千葉小学校前を通りかかりました。
葛飾区なのに、何ゆえ「千葉?」。千葉氏と関係でもあるのでしょうか。
いまは地名としての「千葉」は消えてしまいましたが、昭和四十年代初めごろまで「上千葉町」「下千葉町」という地名があったそうです。現在の葛飾区東堀切と堀切・お花茶屋・小菅・西亀有の一部です。
室町時代の資料に「木庭袋」という地名があり、これが「千葉袋」になりました。
「袋」とは川が袋状に蛇行している地形のことをいい、かつてあたりが古隅田川に面していたことも関係していると考えられています。
また、千葉氏がここに城を築き、「木庭」を「千葉」に改めたという言い伝えもあります。
妙源寺から二十分かけて普賢寺に着きました。
普賢寺の薬医門。
くぐってきた山門の天井板碑には、開基は治承四年(1180年)八月と記されています。また「新編武蔵風土記稿」に記されている縁起には、寿永(1182年-84年)のころ、この地にあった朽ちた大木の根本から、清水が湧き出したので、領主だった葛西兵衛尉入道寂昌がその根を堀らしめて薬師仏の像を得た。寂昌は堂を建てて、普賢寺と名づけ、寺領等を寄付した、とされています。
それから百年近く経った建治元年(1275年)、和田北条合戦のとき、当時の領主・葛西民部少輔は討死し、寺も焼亡しましたが、その子・六郎常則はわずかに三歳、その母が薬師像を懐にして母子ともに立ち退き、十四年後、常則は北条家に仕えて、本領葛西の地に戻り、弘安六年(1283年)、薬師堂を再興し、法空阿闍梨を請待して導師としたと伝え、山門の天井板銘ではこの法空を中興開山としています。
本堂右に不動明王。
今日のお勤めを終えて亀有駅を目指します。
西亀有せせらぎ公園。とにかく暑い!!
水は飲めません、という注意書きがありましたが、飲もうにも流れていませんでした。
遠くにイトーヨカドーが見えて、亀有駅も近くなってきました。
残暑厳しい中を、途中でしばし休息をとっているとはいえ、三十分近くも歩きつづけてきたので、脚の「ろれつ」が廻らない状態です。
帰りは亀有駅から。
→この日、歩いたところ。
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