古河探訪の〈つづき〉です。
古河は旧日光街道の宿場町でもありました。結構古い建物が残っています。
道路を挟んで向かい合っている二軒。画像上はかつては商売をしていたのかもしれませんが、いまは民家のようです。下・油店。軒に垂れ下がった〒マーク(左のほう)はダテではありません。ちゃんと葉書も切手も扱っていました。
篆刻美術館。篆刻専門の美術館としては日本で最初。大正九年に建設された平野家(酒類卸売り業)の三階建て石蔵を改修。大谷石が使われています。
以上の画像は古河総合博物館に到る前に撮影したものです。
古河歴史博物館入口に戻って長谷観音へ。
初代古河公方の足利成氏が明応年間(1492年-1500年)に開山。本尊は十一面観世音で、鎌倉、奈良の長谷寺とともに日本三大長谷の一つといわれています。
国道354号線沿い、松月院跡御所塚入口という案内に気を惹かれて道を曲がってみましたが、それらしきものは見つかりませんでした。
家に帰って調べてみると、この案内のあった場所からとんでもなく遠いところ(歩いて十二分ぐらい)にありました。途中で広いバイパスを横切らなければなりませんが、そこには何も案内板はない。てっきり通り越してしまったと思います。普通の感覚なら、そんな離れたところに「入口」とは標示しないと感じましたが、どうでしょうか。
で、松月院とはなんぞや、御所塚とはなんぞや。
徳源院跡の石柱。こちらも似たり寄ったり……。「徳源院跡」とだけあって、入口ともなんとも標示されていないので、ここが徳源院の跡だろうと思ってしまいますが、実際の跡はもっと奥のほうなのです。
徳源院とは最後の古河公方・足利義氏の長女の法号。「こかひめ君」「こか御所」「氏女(うじひめ)」などと称されていますが、実名は不明です。
長谷観音から1・5キロ、古河総合公園に着きました。
御所沼。背後の森(公方様の森)が沼の真ん中に半島のように突き出ていて、沼は「コ」の字を逆にした形をしています。ここが古河公方の別館があったところ。
古河公方の別館址に建つ石碑です。鴻ノ巣御所とも呼ばれます。
これにて古河探訪の目的を終えました。
流山ではすでに刈り入れは済んでいるのに、こちらではまだ水が張ってありました。
水道工事かガス工事か、迷い込んだ道が工事で通行止めになっていたおかげで回り道を強いられ、偶然通りかかった一向寺。
建治二年(1276年)、一向上人俊聖(1239年-87年)が開山。時宗のお寺です。
本堂前から山門越しに見る一向寺の榎(エノキ)。推定樹齢は三百五十年。樹高19・8メートル、幹周3・7メートル。
再び鷹見泉石記念館の脇を通り、古河第一小学校の校門に差しかかりました。
かつての城内にあることといい、煉瓦造りの校門といい、古い歴史を持つのだろうと想像させますが、学校のホームページをはじめ、この学校の歴史にふれた記述はありません。
腹が減ってきました。古河駅でもらってきた「七福カレーめん」でも食べるかと、おもむろに鞄からMAPを取り出してみると、中心街を外れているためか、周辺には扱っている店がありませんでした。
このカレーめん誕生の経緯は、古河には唐辛子取扱高日本一の会社があることと町おこしの一環である古河七福神巡りをドッキングさせたことなのだそうです。
レシピは店それぞれで、地元で調合されたカレー粉と七福神にちなんで、七種類の食材が使ってあれば七福カレーめんと認定されるという決まり。
通り過ぎてきたイタリアンレストランで、カルボナーラのミートソース・カレー風味という料理を食べさせるようでしたが、戻るのも面倒臭い思いがしたので、帰りの電車の駅でサンドイッチを買おうと決めて歩きつづけました。
もう一度篆刻美術館の前を通って渡良瀬川を目指していたら、先の松月院跡と同じ様式の、「←頼政神社・河口信任邸跡」という案内板がありました。
角を曲がってすぐ、草ぼうぼうの荒れ果てた崖に石段がありました。入口にはなんの案内もありません。念のため上ってみると、どうやらここが源三位頼政を祀る神社のようです。ようです、というのは私が見落としたかもしれませんが、それらしき神額も案内板も何もなかったからです。
治承四年(1180年)、源頼政が平家との戦いに敗れて自刃したとき、従者に「我が首を持ち、諸国を回れ。我れとどまらんと思うとき、必ず異変が起きよう。そのとき、その場所へ埋めよ」と遺言したそうです。
従者は下総国古河まできて、休息しました。再び立とうとしたのですが、頼政の首が急に重くなって持ち上がらなくなったので、遺言どおりこの地に塚を築いて葬ったのです。
かつては古河城内にありましたが、明治末、渡良瀬川改修工事のため、現在地に移されました。
河口信任邸跡は見つけられませんでした。
道の左右に目を配りながら歩いたつもりなので、見落としたとは思えません。頼政神社と同じように、その前には何も案内がなかったか、松月院跡と同じように、とんでもないところにあったか。
河口信任(1739年-1811年)とは土井家の藩医。長崎でオランダ外科医学を学んだ人で、京都で人体解剖を行なった体験を元に、明和九年(1772年)、「解屍編」を刊行しています。杉田玄白の「解体新書」より二年も前のことでした。
子ども時代の鷹見泉石に蘭学の手ほどきをしたのがこの人です。
渡良瀬川治水紀功碑(大正十五年五月の建立)。題字は当時の内閣総理大臣・若槻禮次郎。
国道354号線に架かる三国橋で渡良瀬川を渡りました。
利根川第一の支流だけあって、さすがに大きな川でした。橋の長さは547メートル。車道を挟んで両側に歩道があります。高所恐怖症の私は知らず知らず車道近くを歩いていました。
三国橋とは下総国(茨城県)、下野国(栃木県)、武蔵国(埼玉県)の三国を跨ぐことから命名。
渡良瀬川を渡り終えると堤防を下る階段があり、下り切ったところが東武線の新古河駅です。
「古河」と名はついていても、ここは茨城県ではないし、むろん古河市でもありません。埼玉県の加須市なのです。
昼食を食べ損ねたので、駅の売店でサンドイッチでも、と思っていたのに、売店どころか自販機(飲料だけの自販機はプラットホームにありました)もない。
私が辿り着いた東口こそロータリーになっていて、なんとか駅前のテイをなしてはいましたが、あったのは煙草屋と焼き肉屋(営業時間外)とタクシー会社だけ。西口に到っては自転車駐輪場があるだけで、建物と呼べるようなものがない。
オラ、こんな村、イヤだぁ……と空腹を癒すのは新越谷に着くまで我慢することにして、さっさと退散致しました。
↓昨日のブログと併せて歩いたところです。
http://chizuz.com/map/map74717.html
酒井根の大清水湧水、行きましたよ!なんか怖い所ですね!断崖絶壁の階段が急で落ちそうになりました。でもザリガニが居たりして非日常な感じが癒しスポットですね。しかしあれでは温泉は無理ですね(^_^;)