ブログの更新を滞らせておりました。
何人かの方から、体調を崩したのではないか、と心配するメールやコメントをいただきました。お会いしたこともない方々なのに、心配などしていただいて、身に余る思いです。改めて御礼を申し上げます。
で、実情は……といいますと、体調を崩したわけではないのです。
四十年ぶりに連日机に向かった、という講習会の疲労が尾を引いて、ブログを更新する気力が湧かなかったあと、連休があって、その疲労も解消したかと思える十二日の火曜日、思わず知らず無理をするようなことがあって、また疲れてしまった……と、いうようなことだったのです。
どんな思わず知らずがあったのかといえば、十二日の講習は自宅学習ということになったのですが、自宅学習はせず、懸案の所用を済ませたあと、佐倉というところに行きました。
ときおり小雨が降る中を歩きました。雨に濡れたことを除けば、まあまあ順調に歩いておりましたが、最後の目的地を前に道に迷いました。
見ても見なくてもどっちでもよいというところなら、エエイッとばかり飛ばしてしまったかもしれませんが、佐倉へ行こうと思ったのは、それを見ることが第一の目的であったので、見ぬうちは意地でも帰れぬと思って、しゃかりきになってしまったのです。
その結果、悠に一時間以上は余分に歩いて、朝、家を出てから暗くなったころに家に戻るまで、なんと三万歩以上も歩くことになったのです。
おかげでドッと疲れてしまった、という次第でありました。
今日、十日間にわたった講習会がめでたく結願(けちがん)を迎えました。六十歳以上のジジイ、ババアばかり四十名中三十八名が無事結願して、一人一人修了証書をもらいました。晴れがましさより照れ臭さが先に立つような思いです。
証書は資格でもなんでもないので、これで仕事が決まるという錦の御旗ではありませんが、雑誌編集一筋の人生を過ごしてきた私にとっては、これまでやったことも、やってみようと思ったこともない仕事の体験(ほんの入口に過ぎませんが)であったので、振り返ってみれば愉しい十日間でありました。
最終日の今日は閉講式だけで講義なし。午後一時までという予定であったのに、十一時半には終わってしまいました。
今日は昼過ぎに修了という予定だったので、弁当は持たず、どこかで昼を食べて帰ろうと思っていましたから、大阪王将へ行くことにしました。南柏で二度も店を目の前にしながら、食べられなかった餃子を食べるのです。
本八幡の店には何度かきていますが、松戸市民となる前、市川市民だったころにきて以来ですから、三年ぶりぐらいです。
窓にはこんな貼り紙。さすが大阪系。某在阪球団が日本一になるのを応援しようというのです。そのおかげで今日は餃子が一皿¥100。
しかし、虎ゴンズファンである私は、「おかげ」はちゃっかりいただくものの、無駄な抵抗はやめておけ! と断言しておきます。某在阪球団が某在京球団に勝ったとしても、一位で日程を終え、勝ち上がってくる者どもを、悠然と待ち構えている虎ゴンズにはまあまあ1勝するのが精一杯、というのがよいところでありましょう。
中華丼と一緒に一皿食べて、二皿分を持ち帰りにして包んでもらいました。
十二時前に昼飯を終えてしまったので、腹ごなしも兼ねて少し歩くことにし、本八幡駅の北口に廻りました。
市川市役所のほぼ真ん前、国道14号線(千葉街道)を挟んで不知森(しらずのもり)と呼ばれる小さな森があります。
寡聞にして使われたのを耳にしたことがありませんが(「広辞苑」には採録されています)、道に迷うこと、出口がわからなくなることを、「八幡の藪知らず」、あるいは「八幡知らず」という慣用句の元となった森です。
千葉県内では、本八幡といえばそれなりに有名ですが、全国的に名が知られているとは思えません。それが「広辞苑」に載っているとは……。
いまは孟宗竹に浸食されて、森というより竹林に変わってしまっています。しかし、つい二十数年前、昭和の終わりごろまでは漆、松、杉、柏、栗などが生い茂って、森と呼ぶのにふさしい茂みがあったそうです。
森自体は約20メートル四方と決して広いものではありません。いまだから狭くなったので、昔はもっと広かったのかというと、江戸時代にはすでに現在の規模しかなかったようです。
ただひと口に江戸時代といっても、三百年近くの歴史があります。一説には、水戸黄門がこの藪に入ったら、迷ってしまったので、その名がつけられたといわれています。
人が迷うぐらいですから、江戸時代初期はずっと広い森であったのかもしれないと、視覚面から考えるより、人が足を踏み入れてはいけない、入ると祟りがある「禁足地」だと考えるほうが合理的かもしれません。
私が小さなころは、暗くなってから外に遊びに出たりしてはいけないというのを、「人さらい」が出るとか「子取り」が出る、といわれたようなものと同じです。
禁足地というからには、聖なる場所か忌み所というところでしょうが、誰にまつわる場所なのかという確たる伝承はありません。
一つは日本武尊が東征のおり、ここに陣屋を設けたという伝承。
もう一つは平將門の父親である平良將(よしもち)の墓所であるという伝承。
さらには平將門本人の墓所であるという伝承。
あるいは、ここで將門の首を守っていた六人の家臣がそのまま泥人形となった(すなわち墓所)という伝承。
もしくは森の中央に窪みがあるところから、かつて放生池があったという伝承など、さまざまです。
放生池とは八幡宮の行事の一つ・放生会で生きた魚を放つ池のことです。すぐ近くには葛飾八幡宮があります。市川市が建てた説明板によると、断定こそしていませんが、放生池説に肩入れしたそうなニュアンスが窺えます。
森の一画に祀られた不知森神社。
鳥居の後方に建つ不知八幡森の石碑。
江戸は浅草・花川戸の造り醤油屋・伊勢屋宇兵衛が安政四年(1857年)春に建立した旨が彫られています。
伊勢屋宇兵衛という人は故郷の常陸国信太郡江戸崎(現在の茨城県江戸崎町)が低地にあるため、雨が降ると人々が困っているのを思い、私財を投じて百か所にも及ぶ石橋を架けたという逸話の持ち主です。それ以外にもいまの群馬県、千葉県にも橋を架けたようですが、なにゆえここに石碑を建てたのかということは、不勉強でいまのところはわかりません。
昔々ストリップ劇場のあった総武線高架下あたり。
短い距離ですが、陰気臭い通路だけはそのまま残されているみたいです。
私が知る限り、市川・松戸・柏近辺ではただ一店だけ、目白・揚子江の味に一番近い五目焼きそばを食べさせてくれた一品香。
といっても、メニューにある「五目焼きそば」は一品だけで、実態は堅焼きそばです。「柔らかい焼きそば」と注文しないと、堅焼きそばが出てきてしまいます。
店は地下にあるので、私のカメラでは画像の解像度が悪く、はっきりしません。入口の看板だけ載せることにしました。講習が終わってしまえば、まずくることはない本八幡なので、大阪王将かこの店か、と迷ったのですが……。
本八幡駅界隈をゆっくり歩いて帰ってきても、午後一時を過ぎたばかりでした。講習があった期間は弁当をつくるのを日課にしていたし、疲労困憊のていで毎朝目覚めるのも遅め。よって、朝の散策もままなりませんでしたので、庵に帰る前に久しぶりに富士川沿いを歩きました。
近場では秋桜(コスモス)をあまり見かけないと思っていたら、そのツケを全部払ってくれるような広大な秋桜畑がありました。
日にちが前後しますが、十二日に散策した佐倉のことは後日に廻します。
今月四日はジャニス・ジョプリンの没後四十年でありました。おお、そうじゃと気づいたとき(七日だったと思います)からブログに書きたいと思っていたのですが、疲労困憊につき思いを果たせませんでした。機会があれば、これも後日。
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