桔梗おぢのブラブラJournal

突然やる気を起こしたり、なくしたり。桔梗の花をこよなく愛する「おぢ」の見たまま、聞いたまま、感じたままの徒然草です。

来客の多い日曜日

2009年08月17日 20時34分27秒 | 風物詩

 將門の遺跡を一通り訪ね終えて、虚脱感のようなものにとらわれています。
 これで將門が好きになったのかというと、左にあらず。まだよくわからない状態です。

 自分の住んでいる近くに將門の遺跡が数多く遺されていると知るまで、私は歴史に興味を持ってはいたものの、時代的には戦国時代以降でした。
 その理由を、自分ではそれより前の時代になると、体温が感じられなくなるからだと分析していました。
 まだほんの少しですが、名前だけしか知らなかった將門を知ることによって、平安以前でもとくに構えて見るようなことはなくなったようにも思います。かといって親近感を持つようになったか、というと、疑問です。

 昨日曜日は朝方、近隣の散歩に出たほかは終日家におりました。そのせいではないでしょうが、来客の多い一日でした。来客といっても、顔見知りはおりません。
 我がマンションが光対応になったので、インターネット回線を光に変えることにしました。朝一番でルータが届けられました。
 髪を洗っている間に朝日新聞がきました。先週の日曜日にやってきて、一年間契約を延長したので、景品の洗濯用洗剤を持ってきてくれたのです。
 それからマンション内の回覧板。

 あとは人ではありません。ベランダに並べた植木類、手摺り、壁、網戸と蝉が代わる代わるやってきて、一声挨拶しては帰って行く。
 うるさいことこの上ない。
 が、彼らも最期だろうと思うので、追い払うようなことはせず、啼くのに任せておきました。
 油蝉の来訪ばかりつづく中で、珍しくミンミン蝉が訪問してくれたので、訪問記念の写真を撮ろうとしたところ、あっさりと逃げられてしまいました。

 写真を撮るためには網戸を開けねばなりませぬ。立て付けが悪いので、音を立てずに開けることができません。ギシッというだけで、客は啼き熄んで逃げてしまうのです。
 虫コナーズがあれば、網戸を立てなくてよいのですが、あいにく虫コナーズの用意がありませんでした。そもそもそんなものを吊していたら、来客そのものがないかもしれない……。

 以降の来客もことごとく逃げられました。
 で、啼くのに任せておりましたら、日の暮れるまでに二十匹以上……。



 朝方、前に行った大谷口(小金)城趾への途中、馬屋敷緑地というところまで散策しました。
 大谷口城の西側で、文字どおり馬屋敷のあったところです。いまは樹木が覆い被さってトンネルのようになった公園になり、水飲み場が一か所とベンチがあるだけ。



 この緑地へ行くのには、我が庵から横須賀橋で新坂川を渡り、流鉄の踏切を渡ります。
 大谷口城、大勝院、廣徳寺などを訪ねて行くのに何度も通った道ですが、昨日は踏切のかたわらの一段下がったところに、小さな祠があるのに初めて気づきました。
 広さ一坪あるかないかの祠です。



 平戸弁天、別名・いぼ弁天と説明がありました。

 時は元禄七年といいますから、赤穂浪士討ち入りがあった八年前です。
 近辺に住む富豪の日暮玄蕃夫妻に、お逢(私は「お縫」の間違いではないかと思っていますが 、説明板には「お逢」と書かれています)という別嬪の娘があったそうです。近所で評判の別嬪でしたが、やんぬる哉、目の下に疣(いぼ)があって、それが玉に瑕。
 両親は広く医師を求めたのですが、効果がない。お逢は疣が取れないことを気に病んで、やがて病気になってしまいます。

 心配した母親が願をかけたところ、夢で大坂に弁天の祠があり、その弁天によく頼むがよい、というお告げを得ました。
 行ってみると、清らかな湧き水がありました。三七二十一日の間、その水で疣を洗ったところ、疣は日ごとに小さくなり、ついに消えてしまった。悦んだ一家が寄進したのがこの弁天堂、といういわれです。
 いまは清水の湧き出ている様子はありません。近世になって新坂川が開削されたので、水の流れが絶えてしまったのでしょう。

↓非常に近いところを歩いただけですが、大谷口城趾、廣徳寺を含めた参考マップをつけました。
http://chizuz.com/map/map55863.html



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