延命寺を出ると、またカンカン照りの野道です。
次に目指すのは高聲寺(こうしょうじ)ですが、プリントしてきたマップファンの地図を見ると、真っ直ぐな道はなく、「て」の字型に歩かなければなりません。
小さな川に突き当たりました。江川という川です。川に沿って歩くほうがいくらかでも涼しいだろうと考えて、道をそれました。しかし、川は方向違いに向かって蛇行を始めます。そこで田んぼの畦道に分け入りました。
歩を進めるたびに両側の田んぼでズボズボという音がします。私に愕いた小さな蛙が次々に稲田に逃げ込むのです。
♪お手ェ、天麩羅、つぅない,デコシャン、蚤の○○真っ黒ケェ、と歌いながら歩くと、ズボズボ……。結構面白い。
田んぼの畦道ですから太陽を遮ってくれるものは何もありません。たまらなく暑いので、脳漿が熱せられ、やけくそ気味でもあります。
このブログの一番下に添付した航空写真を見ると、一面平地に見えますが、東側は稲田、西側は小高い台地です。その台地のほうへ道が分かれていても、上り坂になっている上に曲がっていたりするので、見通しが効きません。通り抜けられそうだと思って上って行くと、民家の玄関で行き止まりだったりします。
背後になった延命寺の杜を目印にしながら。大きく曲がっているらしい田んぼ道を歩き、坂を上って突き返されるということを繰り返しているうちに、どれが延命寺の杜であったのかわからなくなってしまいました。
道に迷った……??。
としても、まだ陽は充分に高いので、さほど深刻な問題でありません。遠いけれども民家があるのが見えるし、車が走っているのも見えます。ただ、願わくば木陰がほしい。
しばらくして細い用水路に出ました。地図には高聲寺の裏手に小川が描かれています。多分同じ川だろうと勝手に決めて、その代わり、川から離れまいと川岸の道なき道を歩くと、ちょっとした高台があり、微かにお線香の匂いが漂ってきました。
僥倖のようなものですが、偶然高聲寺裏手にある墓地に突き当たったのです。
塀に沿って正門に廻ると、門は閉じられていました。鉄格子の扉に腕を突っ込んで撮影。
右手に廻ると通用口があって、寺内に入ることができました。延命寺は無人だったのに、こちらは墓参りの人が次から次へとやってきます。通用口前と寺内にも駐車場があって、結構繁盛している寺です。
創建は正応元年(1288年)。
唱阿性真という浄土宗の僧がこの地を通りかかったとき、眠気を催して仕方がなかったので、しばしうたた寝をした。すると、夢に平將門が現われて、「讒訴によって謀反人とされたことが残念でならぬ」と嘆くので、霊を鎮めようとこのお寺を建てた、という言い伝えがあります。
この寺が建つと、夜ごと「ええ、おお」という高い声が聞こえるようになりました。それが將門の声であったのかどうか……。いまのところ、それに触れた史料には出会えていません。高聲寺という寺の名はその声にちなんでつけられたということです。
高聲寺から市役所庁舎前を通って、メインストリートの国道354号線に戻ると、
「←ベルフォーレ800メートル」
という標識がありました。
ここには平將門公之像があるというのですが、ベルフォーレとはなんぞや。
家に帰ったあと、市のホームページを見ると、ベルフォーレとは音楽ホールと図書館からなる複合文化施設、とありましたが、アバウト地図も道路標識も「ベルフォーレ」との標記だけ。
札幌にはベルフォーレというラブホテルがあるし、こういう名のレストランをどこかで見かけたこともあるし、そもそもなんぞやと訝りながら、標識の指し示す道を進みました。
やがて信号のある交差点に到りました。アバウト地図によると、ベルフォーレはその道路沿いにはなく、右折しなければなりません。
一旦右折しましたが、像らしいものは見当たらない。
元の道に引き返してさらに進むと、山道に分け入って行くのか、という感じになりました。あとになれば、ここで家並みが途切れるのはほんの短い距離に過ぎないのですが、このときはどこかで道を間違えたと思ってしまいました。
間違っていたら戻ればいいと肚をくくって進み、緩い坂を下ると、視界が開けて、広い道路の向こうに、馬に乗った將門のブロンズ像が見えました。
我孫子の志賀直哉旧宅と同じように、途中に分かれ道があったり、交差点があったりする場合は改めて標識があったほうがありがたい。
像は北を向いて建てられています。京から自分の領地に帰ってくる姿を表現したものらしい。ベルフォーレの完成を記念して製作されたとのこと。
まあ、いまから千百年を去る昔、このあたりを將門が馬を駆って走り回った可能性はなくもないが、史跡とはいえません。一応写真だけ撮りました。
近くに平將門文学碑というものもありましたが、同じ理由で関係なしと判断してパス。
最後にしようと思っていた西念寺を目指します。
ここはちょっとホネのある距離です。ベルフォーレからは3キロ近く、三十五~四十分は歩かねば、と覚悟せねばなりません。
相変わらず陽射しは強烈です。民家や店舗が建て込んでいれば陽射しを遮ってくれるのですが、市の中心部から離れつつあるので、県道20号という幹線沿いなのに、疎らに空き地があります。すると真横から強烈な西日。
南東に向かっていた道は岩井消防署前を過ぎると、向きを東に変えます。今度は背中から西日。
バスは一時間に一本。きたときの遅れを考えると、時刻どおりにくるとは思えませんが、もし逃したらと思うと、ついせかせかと歩いてしまいます。増幅される汗また汗。
汗ぐっしょりとなって西念寺に着きました。
西念とは関東二十四輩と呼ばれる親鸞聖人のお弟子さん二十四人のうちの第七番西念(1182年-1289年)のことですが、このお寺の開山というのではありません。
西念の没後、彼が布教の道場としていた長命寺(さいたま市)が兵乱で焼けたとき、たまたまこのお寺(当時は天台宗聖徳寺)に縁があったので、長命寺の宝物が納められることになった。
西念寺と名を変え、浄土真宗のお寺になったのは江戸時代初期です。
遙か昔、この鐘楼の鐘を持ち去った者がいました。將門軍団の兵卒です。彼は陣鐘にするのにちょうどよいと考えたのですが、撞いてみると、鐘は西念寺のある土地(辺田)を恋しがって「辺田村恋し、辺田村恋し」と嘆いたのだ、とさ。
兵卒たちは気味悪がり、逆に士気が衰えてしまう。將門は肚を立て、寺に返させたということです。
坂東市内の將門の遺跡は、私が半日で巡った七か所(近くを通りながら端折ったところは三か所)のほかに、まだ五か所あります。
ところが、いずれも市街から離れていて遠い。歩いたら一日ではとても足りぬし、バスがあるかどうかもわからない。仮にバスがあっても、例によってどこで降りればよいのかわからない。
坂東市が誕生する前、岩井市の隣町だった猿島町には將門と藤原秀郷の主戦場となったところ、逆井城趾公園などがあって、行ってみたいと思いましたが、最寄り駅は東武線ではなく、東北線の古河になってしまうという方向違いなので、今日の日は断念。
將門の首は京に送られましたが、遺された胴を葬ったといわれる胴塚のある延命院。ここは西念寺から徒歩二十分と遠くはないのですが、ぼやぼやしていると、バスに乗れるのは二時間後ということにもなりかねないので、やはり今日の日は断念。
我孫子にも取手にもあったように、コミュニティバスというのがありますが、申し合わせたように日に二便しかありません。
歩いてくるような奴はくるな。きたければ車でこい、ということなのでしょうか。
↓今回のぶんの参考マップです。
http://chizuz.com/map/map55808.html
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