散策道の途中、一軒の民家の塀際に、このようなショッキングピンクの花が咲いているのを見ました。
花の色は別として、一見曼珠沙華に似ていますが、よーく見ると、花の形が違う。さらによくよく見ると、葉も違うし、花が咲いているときにすでに葉があるという形態が違う。
十日ぐらい前から咲き出したのを見るようになって、前を通って帰ってくると、思い出したように花図鑑を見るのですが、なかなか行き当たらないので、花の名前がわかりません。
昨日朝の散策時、花の前を通り過ぎたところで、その家の主婦らしき人が出てきたので、あと戻りして訊ねてみました。
「そうなんですよね」という。何がそうなんですなのかわかりませんと思ったら、この花の名がなかなか憶えられないのだといいます。
「じゃあ、ややこしい名前なんですね。外国の花ですか」
「そうです。なんていったかなぁ……。球根なんです。だから、増えるんです」
(増えたら下さい)と口に出かかりましたが、家の前は何度も通ったことがあっても、初対面の人です。
散歩の二回に一回はこの家の前を通るので、これから何度か出会う機会もあるかもしれない。挨拶の回数を積んでのち、切り出してみようと思います。
また香取神社へ行きましたが、小春はいませんでした。拝殿の欄干の下、定例の場所にキャッティを置いて引き揚げました。
昨日、日中は暖かくなりましたが、朝はかなり強い冷え込みでした。足は素足にスニーカーで出ましたが、上はいつものウィンドブレーカーでは寒そうに感じられたので、真冬のコートを出しました。
寒かったせいか、心臓が圧迫されるような感じがあって、いつまでも消えません。
香取神社へ行くのには、富士川に向かっていったん坂を下り、また上らなければなりません。何度も上り下りしている坂なのに、昨日は少し苦しいような感じがしました。
いつもならまだその先へ足を延ばすのですが、昨日は香取神社で打ち止め。三十分で帰ってきてしまいました。
やはり寒さが厳しかったせいだったのでしょうか。昼が近くなって、部屋いっぱいに陽光が射し込むようになると、心臓の圧迫感も消えていたので、県立西部図書館へ行きました。わからなかった「岩本家」について、「寛政重修諸家譜」を見るためです。
借りようと思ったのですが、貸し出し禁止図書になっていたので、コピーを取りました。
巻十九にありました。岩本という姓の武家は聞いたことがないと思っていたら、案の定、幕臣ではわずか一家だけ。ページ数にして3ページ。コピーは二枚で済みました。
「寛政重修諸家譜」の岩本家の項に最初に出てくるのは岩本能登守正房という人で、寛延元年(1748年)、六十一歳で亡くなっています。前書きに、次郎左衛門正次のときに紀伊大納言頼宣に仕え、三代を経て正房に到る、とあります。
正房のころの紀伊藩主は、のちの吉宗です。吉宗が将軍となるのに従って、晴れて江戸に出てきますが、当初は扶持米三百俵なので、旗本ではなく御家人です。
しかし、何があったのか、記述がないのですが、一か月足らずで従五位下能登守に叙任とあるので、石高は記されていませんが、この時点で旗本に列したわけです。
正房には三男二女があって、家督を継いだのは次男・帯刀(たてわき)正久という人。寛延二年(1749年)、二十九歳で死去。
正久の嫡男が内膳正(ないぜんのしょう)正利で、天形星神社に境内社として祀られている「石見様」の父親であるとともに、十一代将軍・家斉の祖父ということになります。正利の代に二千石取りに出世しています。
正利の嫡男が「石見様」こと石見守正倫(まさみち)ですが、「寛政重修諸家譜」には牧馬関係の仕事に従事していたらしき記述はあるものの、房総地区に縁があったようなことまでは書かれていません。
一橋治済の御部屋様(側室)となり、十一代将軍家斉を生んだ富子は正倫の姉です。
諏訪神社のホームページには長姉とありましたが、次姉です。三姉の次に正倫が生まれ、さらに妹が二人いますが、この二人は実子ではなく養女なので、正倫より年長だったかもしれません。男子は正倫だけだったようです。
私は前のブログ(去年八月十二日)に、富子はすこぶるつきの醜女(しこめ)であったと書きました。実際に見ているわけはないので、誰かが唱えた説か創作の受け売りです。
その容貌ゆえに縁づく先がなく、困った父親が友人の田沼意次に相談して大奥に上がることになった、とも書きましたが、これも受け売りです。
ついでにそのブログでは父親の名を「正利」ではなく、「正行」としています。受け売りするときに私が誤記した可能性もありますが、多分売り先の人が間違えていたのではないかと思います。
「寛政重修諸家譜」には正利の妻は大奥老女・梅田の養女と記されています。富子はその娘です。意次の手を煩わせるまでもなく、正利が独力で大奥に上がらせる手だてがなかったわけではないことになります。ちなみに弟の正倫の母は梅田の養女ではなく、某氏とあるので、腹違いの姉弟です。
一橋治済としては、当時最高の権力者であった意次を蹴落としてやろうと虎視眈々とその機会を狙いながら、同時にゴマすりもしていたのですから、意次が絡んでいない事案には興味がない。もし正利が意次に頼らず、富子の養祖母に当たる梅田に頼み込んでいたとしたら、富子を見初めたところでなんのメリットもない。
やはり意次が何かの形で絡み、世話をした、と考えるほうがいいようです。
「灯台もと暗しではありませぬか」と意次。
「はて?」と正利。
「そこもとのご妻女は梅田殿のご養女。孫娘を大奥に上がらせるのはわけもないことでござろう。それがしからも手を尽くしておきますゆえ、そこもとからも梅田殿に……」
「やや、これは迂闊でござった」
二人の間にこんなやりとりがあったのかしれません。
石見守正倫のことを調べに行ったのに、脱線してしまいましたが、「寛政重修諸家譜」では先に書いた程度のことしかわかりません。
うーむ、よし! と自分に気合いを入れました。
「徳川實紀」の「文恭院殿(家斉)御實紀」を借りて帰ろうと思ったのです。こちらは前にも借りたことがあるので、借り出せるとわかっています。
気合いを入れたのは、何百ページとある本を、貸し出し期限の二週間以内に隅から隅まで読まねばならないからです。厖大な量の文章の中に正倫のことが出てくるとしても、おそらく数行に過ぎないでしょう。見落とさないように、慎重に、かつまた素早く目を通しおおせねばならない。
反対側の書架に廻りました。
と、全十五巻がズラリと並んでいるはずの「徳川實紀」の二か所が空いていました。腰をかがめて覗き込むと、なんと空白の一か所は家斉の巻があるはずのところでした。
パソコンのコーナーに行って、所蔵図書を検索してみました。「状態」というところが「○」であれば、借りられるということ。「×」であれば貸し出し中か、戻っているとしても、予約している人がいて借りられない、ということです。
「文恭院殿御實紀」の「状態」は「×」でした。
帰り道、偶然金ヶ作の八坂神社前を通りかかりました。祭神は素盞嗚命。天形星神社と同じです。
天形星神社が付録のようになり、付録に追いやった岩本石見守がまた付録のようになってしまったので、なんとなく申し訳ないような気になって、お賽銭をあげました。
ヒガンバナ科(正解!)ネリネ属だそうです。
早速ネットで調べましたが、いろんな種類があるのですね。ピンクの花弁のものもたくさんあるので、色だけではまだ名前を特定することはできません。まあ、そこまで知らなくてもよいようには思いますが…。