今月も薬師詣での日は好天に恵まれました。
今日の目的地は東京都足立区です。西新井大師に近い興野というところに薬師如来を祀るお寺があるので、訪ねることにします。
北千住で降りて東武バスに乗ります。
西新井橋で荒川を渡り、いずみ記念病院前という停留所で下車しました。
バスを降りて歩くこと二分。今日、最初に訪ねたのは真言宗豊山派の光輪寺です。
創建は貞治三年(1364年)と伝えられています。永禄二年(1559年)の「北条家所領役帳」という資料には、豹徳軒(もと扇谷上杉氏の家臣・上田氏の一族)の知行地に「十五貫文渕江香林寺分」とあり、ここに記された香林寺とは、この光輪寺を指していると考えられています。
江戸時代には、このあと訪れる吉祥院(真言宗豊山派)住職の隠居寺であったと記されています(「新編武蔵風土記稿」)。
明治四十四年(1911年)から始まった荒川放水路の開削工事により、寺の敷地がほとんどがその中に入ってしまうことになったため、現在地に移転することになりました。
次に訪ねる瑞應寺へ向かう前に、荒川を見ておこうと思います。頭上を走るのは首都高速中央環状線。
土手に上ることにしました。遠目で眺めているぶんにはなんでもないと思えるのですが、階段の真下まで行くと、高所恐怖症を持つ私にとっては空恐ろしい高さに感じられました。
恐怖を押し殺して土手に上がり、眺めたところで何になる ― だから上るのはヤ~メた ― と思うようでは、どこもかしこも行く意味がなくなってしまうので、左手で手すりをしっかりと握り、へっぴり腰で上りました。
堤防の上に上がって北千住方向を臨んだところ。バスで渡ってきた西新井橋が見えます。
階段を上るときは下が見えないので、こわごわながらもなんとか上ったりしますが、下りは当然下が見えるので、上ってきたのに降りるのは断念、ということがよくあります。しかし降りないわけにはいかない。
見渡すと、工事車両用につくられたと思われるスロープがあったので、そこを下ることにしました。
光輪寺から荒川堤防を経て十八分。瑞應寺に着きました。
ここも真言宗豊山派の寺院です。開創は明応七年(1498年)。
武蔵千葉氏の菩提寺として建立されたといわれ、観音堂には千葉氏の家紋「月星の紋」がつけられています。本尊の聖観世音菩薩像は「夕顔観音」とも呼ばれています。
昭和二十年の空襲で寺は炎上してしまい、観音像もこのときに失われてしまいました。現在の本堂と観音像は昭和四十七年に再建されたものです。
台座にはフランス語で東京のノートルダムと彫られています。
武蔵千葉氏所縁の寺紋「月星の紋」がつけられた観音堂。
吉祥院仁王門。瑞應寺から五分。
ここも真言宗豊山派。正式には渕江山吉祥院星谷寺といい、山号になっている渕江とは中世以来、周辺の本木一帯を表す広域地名で、寺号の星谷とは吉祥院がある本木村の小字ホシヤを意味しています。また、吉祥院は本木村の開発ともゆかりが深く、文禄年間(1592年-96年)に石出掃部亮吉胤が、開発の際に身を寄せた場所であったともいわれています。
石出姓というと伝馬町牢屋敷の長を世襲した石出帯刀が有名ですが、彼と関係があるかどうかはまだ解明されていません。
仁王門の内側には文殊菩薩(右)と普賢菩薩。
吉祥院本堂。
本尊は高さ45センチの大日如来坐像で、江戸時代の作と見られています。寺の創建年代については、正応元年(1288年)説と嘉元三年(1305年)説があります。
吉祥院別院常念坊。吉祥院に隣接する境外墓地にあり、身の丈約1メートルの地蔵菩薩立像が安置されています。この山門は吉祥院の旧山門です。
永代供養墓(合祀堂)の上に立つ聖観音像。身丈は3・6メートル。
吉祥院から十五分歩いて、今日の目的地・善應寺に着きました。ここも真言宗豊山派の寺院です。
開創年代は貞治二年(1363年)、開基は寛朝上人と伝えられています。
江戸時代には清光寺という寺がありましたが、明治十一年(1878年)に善応寺に合併されました(清光寺があった場所は現在の善応寺の第二墓地といわれています)。
薬師堂。昭和二十年の空襲後、再建された旧本堂です。
善応寺から十七分。宝寿院妙尊寺。
ここも真言宗豊山派の寺院です。草創は応永元年(1394年)、武蔵千葉氏の祈願所であったと伝えられています。本尊は不動明王坐像です。
中曽根城趾。
室町時代、千葉次郎勝胤によって築城された城です。周囲六町四方(36ヘクタール)で、外構えに堀や土居をめぐらしていたと伝えられています。
中曽根神社。中曽根城の一画にあります。千葉氏の信仰する妙見社が祀られていましたが、昭和七年、興野の雷社と合わせて中曽根神社とし、当地の氏神として祀られることになりました。
帰りは尾竹橋通りに出ました。このときは北千住駅に向かって歩きながら、バス停があれば、そこからバスに乗ろうと思っていましたが、バスがこぬままずんずん歩いているうちに、西新井橋のバス停に着いてしまいました。バス停の表示を見ると、次の停留所は千住桜木。ということは、北千住駅はわずか四つ先……と、タカをくくったのが間違いでした。
西新井橋のバス停を背にして歩き始めたあと、そういえば徒歩で荒川を渡らねばならないではないか、と気づいたのです。どこで渡ることになるのかは出たとこ勝負ですが、高所恐怖症の私が徒歩で荒川を渡らなければ帰れない、ということに気づいたのです。
橋と高所恐怖症との因縁はどこが最初だったのか憶えてもいないし、思い出したくもない事柄なのですが、最初に肝を冷やしたのは三郷から流山へ渡った江戸川の流山橋ではなかったか。それから茨城県の古河から埼玉県の加須へ渡った渡良瀬川の三国橋。吉川から越谷へ渡った中川の吉越橋。短かったけれど、橋の高さが半端ではなかった小名木川の丸八橋。数々の橋を思い返しながら歩いているうち、ついに荒川を渡る橋が見えてきました。日光街道(国道6号線)の千住新橋です。
恐る恐る上がってみて、ホッとしました。歩道の幅は2メートル以上ありそうなので、できるだけ車道寄りを歩けばまったく怖いことはない。
歩道部分が広いとはいえ、あまりにも平気だったので、欄干から離れているといっても、こうして写真を撮る余裕すら生まれたのです。もしかしたら高所恐怖症は少し改善されたのか、と思うほどでした。
全長446メートルの橋を六分かけて渡り終えました。
橋を渡り終えると、勝手知ったる、といえなくもない北千住の街です。引き続き駅まで歩いて行く途中にある安養院と長圓寺に寄って行くことにしました。
北千住で最初に寄った安養院。右二体の仲直し地蔵と左・かんかん地蔵です。仲直し地蔵の左は寛文四年(1664年)、右は同十年に建立されたという説明があります。
前の画像で左に写っている小ぶりのかんかん地蔵。建立は元禄十二年(1669年)。
安養院本堂。
阿弥陀堂。
阿弥陀堂横に聳える黒松(クロマツ)です。樹齢五百年。
安養院を出ると、宿場町通りを横切ります。最後に寄る長圓寺のめやみ地蔵。
安養院から五分で長圓寺。ここも薬師如来を祀るお寺です。
地元に帰ってきて、慶林寺に参拝します。
夕暮れが近くなって、門は閉ざされていましたが、この日はお賽銭を上げる日なので、右手にある通用門から境内に入ります。
賽銭箱兼用の香炉後ろにあるこの小鐘を撞いてお賽銭をあげ、今日一日のお勤めは終了しました。
➡この日、歩いたところ。
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