今年一番の冷え込みとなった今日八日。
夏であれば、日本で一番暑いといわれる街へ行ってきました。埼玉県の熊谷です。
出発前、ちょっとしたアクシデントに見舞われました。あまり気乗りのしなかったのに注文してしまった通販商品の配達が、まさに出かけようとしていたときに届いたのです。配達のドライバーを追い返すようにして出かけました。
脊柱菅狭窄症で腰痛のある身ですが、電車に乗り遅れそうだったので、痛いなどとはいっておられず、駅までチョコマカセカセカと歩いて、ギリギリセーフかと思いきや、追い抜くことのできない狭い上りエスカレーターには悠然と立つ男が一人。頭上ではゴーッという電車が入ってくる音。プラットホームは島式になっていて、そのエスカレーターに乗る人といえば、まさに入ってきた電車に乗る人しかいないはずです。「早くしてくれ~ィ」と叫んでしまいましたが、その男はどこ吹く風という顔で(その時点では顔は見えませんでしたが)動こうとはしません。
結局、車体が見えるところまでエスカレーターが上った時点で、南無三、すでに閉まったドアが見えました。
我が最寄り駅である新松戸駅は一階が改札、二階が常磐線のプラットホームで、私が乗る武蔵野線のプラットホームは三階になっているのです。二階にある常磐線に乗るためには改札から奥の方へ行かなければならず、改札を入ると目の前にあるのは武蔵野線用のエスカレーターなので、常磐線の利用客でも、この駅の利用が初めてであったり、注意力散漫なスットコドッコイは目の前のエスカレーターに乗ってしまうかもしれません。駅を利用するのが初めてでもあり、スットコドッコイでもあったその男は武蔵野線ののプラットホームをキョロキョロしながら歩き、常磐線へ下る通路へ姿を消して行きました。
私としては一歩遅れた我が身を責めながら、十分後にくる次の電車を待つしかありません。
この日の最初の目的地である東光寺というお寺までは、事前のシミュレーションでは熊谷駅から徒歩約三十分。他に交通手段がなければ歩くしかありませんが、バスがあったのです。ただし、バス便は一時間に一本。
武蔵野線で南浦和まで行き、浦和か大宮で高崎線に乗り換えるという行程ですから、乗るべき電車を逃したら、目的のバスに乗るのは絶望です。
新年早々厄日となってしまった、と深々と腰を沈めた電車の中で首項垂れながら、どこか行き先を変更しようか、とも考えました。今後薬師詣でを予定しているところはいくつもありますが、データはすべて庵にあるPCの中です。扱いにくいスマートフォンとは同期させていないので、電車の中で考えを巡らせても意味はない。やはり熊谷へ行くしかありません。
― ということで、蹌踉として熊谷に着いたのですが、まだ薬師詣でを開始していなかったのにもかかわらず、お薬師さんのご加護か、ということがありました。
一電車遅れで、最初の乗換駅・南浦和に着きました。ここで、やはり一電車遅れの大宮行に乗り換えました。このまま大宮まで行くか、浦和で降りるかと逡巡したのち、浦和で降りることにしました。
高崎線と宇都宮線のプラットホームに上がると、次の高崎行は十六分もあとの十二時四十六分。やれやれと吐息をついて、ふと目を上げると、一段高いところに別のプラットホームがあります。う~む、新幹線かぁ、と思ったあと、浦和に新幹線のホームがあるわけはない! と気づきました。
よ~く目を凝らしてみると、湘南新宿ライン(大宮・高崎・宇都宮方面)という表記が見え、次の電車は私が乗るしかないと思っていた電車より二分早い十二時四十四分発で、しかも特別快速、というアナウンスが聞こえたのです。エッチラオッチラ階段を下り、エッチラオッチラ階段を上ったことはいうまでもありません。
結論を記すと、この電車があったおかげで、熊谷到着は事前に立てた計画より五分遅れただけ。ギリギリではありましたが、一時間に一本しかなかったバスに無事乗ることができたのです。
新松戸から所要約一時間半で着いた熊谷駅ですが、行きはあたふたとバスに乗ったので、こんな画像を撮影している余裕はありません。帰りに撮した画像です。
国際十王バスに乗車六分、向諏訪(むかいすわ)というバス停で降りました。
バスを降りて歩き出すと、こんな砂利道に出たので、この先どうなることやらと戦々恐々で歩いて行きます。
バスを降りて五分で、この日最初の目的地・医王山瑠璃院東光寺に着きました。曹洞宗のお寺です。
創建は寛永七年(1630年)。萬矢大拶大和尚(寛永十七年:1640年寂)によって開山。「新編武蔵風土記稿」には「佛師春日が作れる薬師を安ず」と記されています。
次の源宗寺を目指して歩き始めると、大きな山門と堂宇が目に入ったので寄ってみたら、真言宗智山派の一乗院でした。東光寺から十分。
ただただだだっ広い道路がありました。歩道が異様に広かったので、安心して歩くことができましたが、交通量はさほどないので、車は随分スピードを出していました。
一乗院から十三分で源宗寺に着きました。ここも曹洞宗のお寺です。
「新編武蔵風土記稿」には「開山源宗、寂年を傳へず。開基を藤井雅楽助と云。法名正山善心寛永七年(1630年)六月三日卒す。この人のことは外にきくことなし。山号寺号は開山開基名を用ひしことしらる。本尊薬師・観音の二像を安ず。共に開山源宗の作なりと云」と記されています。
本尊の薬師如来と観音菩薩の二体は「平戸の大ぼとけ」と呼ばれています。境内にあった説明板には高さはともに4・03メートルの木彫坐像。江戸時代の寛文二年(1662年)に造られたもの、と記されています。
源宗寺から超願寺までは七分。真言宗智山派の寺。ここはお薬師さんとは関係がありません。途中だったので寄らせてもらいました。
「新編武蔵風土記稿」には「真言宗新義、横見郡御所村息障院の末、平戸山多寶院と号す。本尊弥陀は恵心の作なり」と記されています。
境内にある石碑には次にような記述。「當寺は慶長年間法印秀典を以て主祖とし寛永四年宥弘堂宇を再建延宝四季祐弁本尊阿弥陀佛を修繕す。この二人を目して中興の主祖となす。その后宥照の世をすぎ文化文政の間久しく無住天保年間祐明法印は入住龍岳之をつぎしもその后又無住となる。よって隣寺太井山福聚院の兼帯する所となる(以下略)」
境内にはこんな像が。
この日、最後に詣でる金錫寺の手前で元荒川の支流・忍川(おしかわ)を渡ります。
超願寺から十二分で真言宗智山派の金錫寺。
創建年代は不詳とされています。「新編武蔵風土記稿」には「新義真言宗、上ノ村一乗院末なり。薬師山東福院と号す。本尊薬師を安ず」と記されています。
ここにもこんな像が。
この日、薬師詣でで訪れた東光寺、源宗寺、金錫寺の三か寺にはいずれも賽銭箱がありませんでしたので、お賽銭は一円も使用せずに終わってしまいました。せっかくご加護を下さったお薬師さんには申し訳のない思いです。それとも、後日、大きなどんでん返しが待ち構えているのかもしれません。
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