桔梗おぢのブラブラJournal

突然やる気を起こしたり、なくしたり。桔梗の花をこよなく愛する「おぢ」の見たまま、聞いたまま、感じたままの徒然草です。

下田の森と境根原合戦場

2010年10月28日 20時54分14秒 | 歴史

 昨水曜日、柏市にある下田(しただ)の森へ行ってきました。
 前日の雨も上がって、抜けるような秋晴れでした。ただ、前日から冷え込んでいたので、たっぷりとした陽射しがあったのにもかかわらず、かなり寒く感じました。



 上富士川沿いを歩いて、根木内城址を突き抜けて行きます。
 殿内という交差点で道を左に折れると、道は上富士川に向かって下り、また上ります。このあたりの上富士川は暗渠になっているので、川は見えません。
 目には見えぬ川を越えて、坂を上り切るあたりで、広々として両側に歩道もあった道路が急に狭くなって、クネクネと曲がり始めました。

 
 


 クネクネ道の行き着いた先は酒井根の薬師堂でした。正長元年(1428年)の創建と伝えられています。
 ここまで我が庵を出てから一時間。
 途中、通り抜けてきた根木内城址で団栗(ドングリ)を拾ったりしていたので、正味は五十分ぐらいか。

 下の画像は薬師堂を取り囲むように建てられた西国八十八か所の石像です。数えていませんが、八十八基あるはずです。
 安政二年(1855年)、堂守となった河瀬鳳瑞という僧侶が、みずから四国を巡拝して各霊場の土を持ち帰り、それぞれの石像の下に埋めたといわれています。



 薬師堂から徒歩三分。曹洞宗龍光寺。創建は三百五十年前という案内板がありました。

 龍光寺を出るとすぐ下田の森の入口がありましたが、先に境根原合戦場跡を訪ねることにしました。

 時はおよそ五百三十年前の文明十年(1478年)十二月十日。大田道灌・千葉自胤(よりたね)連合軍と千葉孝胤(のりたね)軍がここで激突しました。
 孝胤の父・実胤(さねたね)は自胤の兄。つまり叔父と甥の争いです。
 親子兄弟が相争う時代ですから、叔父と甥が争うのになんの不思議もない時代……とはいえ、この争いの元を探るとじつにややこしい。
 勢力を温存したり、捲土重来を期すために和睦をした、と見せかけて、一転反攻に出る、というのは朝飯前のコンコンチキ。昨日の敵は今日の友、今日の友は明日の敵 ― という時代であります。だから、ますますややこしくなるので、書きつづける暇がなくなります。
 元凶を探れば、源氏の風上にもおけぬ足利一族の右往左往、右顧左眄、優柔不断、その他もろもろにあります。
 まあ、元をただせば鎌倉公方(関東公方)などというものを置いた尊氏が瑕瑾(かきん)の始まり。室町幕府は最初から破産含みだったのに、ヨタヨタしながら、よくぞ二百年以上もつづいたものです。



 パンパスグラス。
 風が強く、陽射しも強かったので、燦然と輝いているようでした。間近に見てみたい、というか、頬をすり寄せてスリスリしてみたいと思うのですが、私が出会うパンパスグラスは不思議と近づけないような高い場所にあって、頬をすり寄せることはおろか、間近に眺めてみることすらできません。



 境根原合戦場跡に向かう途中、八坂大神があったので、ちょっと立ち寄って参拝。



 光が丘団地入口に建つ酒井根(境根)合戦場跡の標識。訪ねるのはあと回しにして、この合戦で一番激戦地だったといわれるところへ急ぎました。

 酒井根がかつて境根と呼ばれたのは、このあたりが葛飾郡と相馬郡の境であったから……。それが酒井根へと変わったのは、戦のあと、喉の渇きを覚えた太田道灌が先の薬師堂あたりにあった井戸の水を飲んだところ、酒のように美味かったので……ということらしい。
 


 柏市教育委員会のホームページによると、激戦だったのは現在の麗澤大学前あたりだったようです。
 とはいえ、実際に訪ねてみると、「前」あたり、と教えてもらうだけでは、一体どこなのかわけがわからん。大学のキャンパスは広く、入口はいくつもあるのです。
 ただ普通に考えれば、前といえば正門のある場所と考えられるので、正門らしき前に立って、周りをゆっくりと歩いてみましたが、激戦地であったことを示すようなものはありませんでした。

 


 あと戻りして、先ほどの標識のあったところから団地の中に入りました。

 甥っ子の孝胤軍は打ち負かされ、佐倉の臼井城へ敗走します。勝った太田道灌は敵味方を問わず、戦死者の首、胴、武具をそれぞれに分けて、首塚、胴塚、刀塚をつくって葬ったとされています。
 昔は数十という塚があったようですが、いまは1号塚、2号塚と呼ばれる塚が二つ並んであるだけです。入口の標識に「首塚・胴塚」と示されていたところをみると、どちらかが首塚であり、胴塚なのでしょうが……。

 


 光が丘団地で見つけた石蕗(ツワブキ)。すでに蕾がありました。



 また引き返して、ようやく下田の森の入口に立ちました。



 チョロチョロと流れる水音に誘われながら、水源はどこかと思って歩き廻りましたが、流れが細過ぎて、どっちに向かって流れているのかわかりません。



 中央から右に向かって写っている、いくつかの白い点。これはベンチに坐って絵を描いている人なのです。一か月ぐらいあとにくると、いまは緑色した樹々がすっかり紅葉するみたいです。



 この世で私が一番苦手とするもの。実物はもう何十年も見てはいませんが……。



 少し進むと、今度は「マムシ」と具体的。
 秋蛇(♀)は子どもを孕んでいるのでとくに要注意! と聞いたことがあります。コリャかなわん、くわばらくわばら、と退出することに致しました。



 下田の森の出入り口は、私が入った東側と西南、西北の三か所。これは西北側。

 西北の口で森を出て帰路に着きました。帰りは歩く気力体力がないので、また光が丘団地まで戻り、バスに乗って南柏に出ます。



 いまは住宅が建ち並んで全体を眺め渡すことなど叶いませんが、結構起伏の烈しい土地です。下田の森から光が丘団地に戻る途中にはこんな急坂もあったりします。

 


 バスで南柏駅へ……。
 昼時を過ぎていたので、駅前にある大阪王将はガラガラ。ためらうことなく入店致しました。

 本八幡店で食べたときはプロ野球のクライマックスシリーズが始まる前だったので、大阪資本らしく阪神タイガースを応援するセールスがあって、元祖焼き餃子は一
皿¥100でした。
 それから十日以上も経って、すでにタイガースは惨敗したあと。しかあれど、応援感謝セールでもやっていないかと思ったのですが、さすがに大阪資本だけあって、そうそう問屋が卸さない。本日はいつもどおりの¥230でした。

 フランチャイジーですから、同じ千葉県内といっても経営者が同じかどうかはわかりませんが、本八幡店とは微妙に異なる焼き加減でした。
 店、というのではなく、調理人に因るのかもしれません。本八幡店と較べて、好意的に表現すれば、少し柔らかく、しっとりしていました。



 昨日は夕方になって鯖雲が出ました。



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3 コメント

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Unknown (うー太)
2010-10-29 23:29:47
いつも地図片手に桔梗さんのブログを読んでます。
自分も散策してる気分になっていいですね。
今日のお昼は大阪王将のひとくち餃子たべました。冷凍のですが…
いつか店にも行ってみたいです(^O^)
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うー太殿 (桔梗)
2010-10-30 21:00:43
散策している気分になっていただけるとすれば、何より嬉しいことであります。
もっと珍しいところへ行ってみたいと思いながら、近場の手近なところばかりで申し訳ないのです。
時間は充分あるのに、経済的な事情ととりわけ精神的事情から果たせないのが残念です。
大阪王将は本八幡と南柏しか知りませんが、餃子が第一目的なら、本八幡です。
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孝胤公は自胤公の甥では、ないです。 (尊星王)
2012-01-31 15:08:07
実胤公の子供が孝胤公の筈がない。実胤公自胤公の父親を殺した馬加康胤の孫が孝胤公なんですよ
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