桔梗おぢのブラブラJournal

突然やる気を起こしたり、なくしたり。桔梗の花をこよなく愛する「おぢ」の見たまま、聞いたまま、感じたままの徒然草です。

利根町を歩く(1)

2011年05月18日 20時27分31秒 | 歴史

 先日我孫子に所用ができたので行って、所用を済ませたあと、茨城県の利根町というところへ足を延ばしてきました。
 利根町が民俗学者の柳田國男の「第二のふるさと」といわれている、ということは前々から知っていたのですが、利根町とはどこにあるのかと思いつつも、地図を見てみることもなく、イメージからして水上のあたり(水上は群馬県ですが)で、遠いところなのだろうと思い込んでいたのでした。
 ところが、所用先を確認するために我孫子の地図を開くと、利根川を挟んだところに「利根町」とあったので、ゲゲッ、こんなところだったのかいと思うと同時に、早速足を延ばしたというわけです。



 我孫子で成田線に乗り換えて、四つ目の布佐駅で降りました。



 我孫子市は先の東日本大震災で大きな被害を受けたと聞いていました。
 四月一日付の朝日新聞千葉版によると、我孫子市東端の布佐地区で液状化現象が起き、沈んだり、傾いたりした住宅は約二百戸に上った、とされています。
 被害が集中したのは都交差点周辺。利根町へ行くのには逆方向になりますが、布佐駅から近いので寄ってみました。
 このあたりは明治時代に利根川の堤が切れて沼となったところで、川砂で埋め立てられたあと、宅地化された地域なのだそうです。液状化したのはそのためかもしれません。
 画像の中央を走る国道(356号線)は震災後二週間で仮復旧しましたが、家も電柱も軒並み傾いてしまったのですから、充分に手が回らないのでしょう。まだ傾いたままの電柱や街路灯が残っていました。



 利根川堤を上流に向かって遡り、栄橋で利根川を渡ります。栄橋から上流方向を望んでカメラに収めました。この日は少し寄り道をしましたが、真っ直ぐ歩けば布佐駅から橋のたもとまでは約十分。
 川はこの付近では両側に迫る台地の間を抜けて行くため、利根川下流に特有の広大な河原もなく、川幅は270メートルしかありません



 栄橋を渡り始めると、利根町役場前に立てられたこんな看板が見えてきます。
 私は茨城県の地図を持っていないので、手始めに町役場を訪ねることにしました。観光地図のたぐいが手に入れられるだろうと思ったのですが、何十種類というパンフレット類が集められたスタンドには利根町を紹介するものは一つもありませんでした。
 辛うじて参考になりそうなのは国土交通省の利根川下流河川事務所が出している「利根川下流を知る」という小冊子だけでした。

 利根川を紹介しよう(それも利水治水の観点から)という意図でつくられた冊子ですから、当然のことながら、利根町に関する記述はごくわずかです。私が見たいと考えてきたのは柳田國男の記念館と徳満寺、来見寺という二つのお寺でしたが、載っているのは利根町役場、琴平神社と「利根川圖志」を書いた赤松宗旦の旧居跡、それに柳田國男記念公苑だけです。
 町役場はもはや用のないところとなったのだから、どうでもいいけれども、小さな地図がついているだけなので、どこがどこだかまるっきりわかりません。

 で、まあ、適当に歩き始めるしかないのです。



 町役場のある高台と谷を隔てて鬱蒼と樹の繁る小山がありました。見上げると木々の間に由緒ありげな建物が見えたので、もしかしたら徳満寺か、と思って上り口を捜すと、琴平神社でした。
 国交省の冊子によると、この神社に奉納する相撲大会が寛政年間からあり、それを見た小林一茶の句碑が境内にあるというので、石段を上ってみました。



 琴平神社拝殿。



 ありました。

 べったりと 人のなる木や 宮角力

 一茶の句碑です。
 現在の利根町布川は一茶が俳句を始めたときに師事した今日庵元夢(森田安袋)の生まれ故郷でもあり、俳句仲間でパトロンでもあった古田月船が回船問屋を営んでいた土地でもあるので、四十九回も訪れ、延べ二百八十九日も宿泊したという記録が遺されているそうです。



 徳満寺への石段と山門。十三段プラス五十八段の石階があります。
 徳満寺の境内は琴平神社と繋がっています。神社から薄暗い径を辿れば、そのままお寺に行くことができたのですが、初めてのところだったので、私なりに礼を尽くすつもりで、山門を捜して上ることとなりました。

 真言宗豊山派の寺院。寺伝には元亀年間(1570年-73年)に祐誠上人が中興とあって、創建の年代は明らかではありません。



 山門をくぐると正面に客殿があります。



 不鮮明な画像ですが、上の客殿廊下に掲げられている「間引絵馬」です。絵馬には、母親が必死の形相で生まれたばかりの子供の口を塞いで殺そうとしている様子が描かれています。水害と天明の飢饉に襲われた農民は子どもを間引きしなければ生きて行けなかったのです。

 柳田國男は明治二十年、十三歳のときに布川に身を寄せ、二年あまりを過ごしました。その間に、「間引絵馬」を見たこと、「利根川圖志」を知ったことなど、布川における体験がのちに民俗学を志す原点になったといわれています。

 絵馬の見学希望者は庫裡へ、という案内があるので、難なく見ることもできるようでしたが、近づけば硝子窓越しに見ることができたし、堂内では何かの集まりがあって大勢の人がいたので、庫裡へは行きませんでした。



 十九夜塔(右)。旧暦十九日の夜は地区の女性たちが集まって、如意輪観音の前で般若心経や和讃を唱える行事がありました。十九夜講とか十九夜様と呼び、茨城や栃木などで盛んに行なわれた行事です。
 この十九夜塔は、万治元年(1658年)建立のもので、発見されている中では日本最古のものだそうです。
 左は時念仏塔(斎念仏塔とも)で、元禄十四年(1701年)の建立。



 本堂の地蔵堂。本尊は木造の地蔵菩薩立像で、高さは7尺3寸(約2・2メートル)。毎年十一月下旬、一週間だけ開帳があります。



 段々に 朧よ月よ 籠り堂

 地蔵堂左奥、三峯神社を祀る祠の下にも一茶の句碑がありました。文化三年(1806年)一月の句と伝えられています。




 徳満寺は元は布川城のあったところです。
 野口如月という人が書いた「北相馬郡志」によると、布河(布川)は十三世紀なかばに摂津からきた豊島頼保が開いた土地で、十六世紀の初め、付近の村々を領するようになり、台上に城館をつくって小田原の北条氏に与力した、ということになっています。

 豊島氏といえば、東京・練馬の石神井城を本拠とし、いまの豊島区の地名の元となった豊島氏がいます。
 この豊島氏は泰経(生没年不詳)の代に太田道灌と戦って敗れ、滅亡しますが、その子だと称する豊島頼継という人物が登場します。
 豊島氏の再興を図り、布河豊島氏の祖となったとありますから、どういう経緯で石神井から茨城県へ行くことになったのかはわかりませんが、摂津からきた豊島氏とは無関係ということになってしまいます。
 来歴はともかく、豊島頼継という人がいたのは事実で、永禄三年(1560年)、利根町にある頼継寺(現・来見寺)の開基となっている、という記録があるそうですから、来見寺に行けば何かわかったり、閃くようなことがあるかも……。〈つづく〉



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