桔梗おぢのブラブラJournal

突然やる気を起こしたり、なくしたり。桔梗の花をこよなく愛する「おぢ」の見たまま、聞いたまま、感じたままの徒然草です。

法然上人御忌まつり

2019年04月25日 23時38分28秒 | 歴史

 東漸寺で国光大師・法然上人の御忌(ぎょき)まつりがありました。小雨だったので、どうかなと心配しながら出かけましたが、時間どおり開催されました。
 法然上人(1133年-1212年)が入滅されたのは実際は一月二十五日なのですが、東漸寺で行なわれたのは三か月後のことです。




 先導するのは山伏姿の男性。



 つづいて笙(しょう)と篳篥(しちりき)。



 さらに稚児行列。
 私の知人(東京生まれ・地元育ち)は幼稚園児だったとき、この稚児行列に参加したことがあるといい、もう一人の知人(地元生まれ・地元育ち)はこの日は学校(東漸寺の隣は市立の小学校です)が休みになったといっています。




 行列の最後に法然上人の坐像を載せた輿がやってきました。
 前後左右十八人がかりで担ぎ、最後に馬を持った二人がつづきます。出発点の東漸寺幼稚園からこの撮影地点までは200メートルもありませんが、担ぎ手の皆さんはすでに疲れ果てているようでした。




 境内には露店が出ていましたが、まだ客の姿がありません。


 



 いつもはスッピンの仁王門も観音堂も五色の幔幕で飾られていました。



 本堂には緋毛氈が敷かれていました。
 一時間後に稚児行列が戻ってくると、本堂で稚児聖水潅頂式が行なわれます。東漸寺のホームページには、今年も恒例の「御忌大法要」を行ない、二十五
日から二十七日にかけて「御忌まつり」として子どもたちが楽しみにしている縁日が開かれる、と告知されています。以下が日程です。

●日程
日時:平成30年4月25日(水)
午前10時30分 円光東漸大師渡御・稚児行列出発
午前11時30分 稚児聖水灌頂式(本堂)
午後12時 清興
午後1時 法話 大本山布教師 佐藤雅彦上人
午後2時 御忌大法要
4月25日~27日 御忌まつり・縁日

●清興(せいきょう)とは

※香衣大師渡御・稚児行列は、午前10時30分に出発地である東漸寺幼稚園を出発し、街を行脚いたします。お時間のございます方は、ぜひ沿道や参道にてご覧いただければ幸いです。

●御忌(ぎょき)大法要とは…

御忌大法要とは、浄土宗の宗祖で、鎌倉仏教の開祖ともいわれる法然上人(1133~1212)の忌日法要を意味いたします。御忌という言葉は、もともと天皇や皇后のご命日に限って使用されていました。法然上人のご命日に限って「御忌」と称するのは、太永4年(1524)に後柏原天皇が法然上人の徳風が天下に普きことをお知りなされて「今より後、孟春の月に遭わば、宜しく京畿の門葉を集会して一七日昼夜、法然上人の御忌を修せしむべきなり。」と詔勅を下賜されたことによります。

これを「太永の鳳詔」と称し、以後、浄土宗の大本山で、法然上人の忌日法要を御忌\大法要と称し、盛大に営むことになりました。法然上人ほど当時いろいろな階層の人々から慕われた方はありません。

法然上人がひとたび吉水の御坊で説法をされると、念仏の声は、台地に水がしみこむように巷に広がり、僧俗、男女を問わず、すべての人々に生きる喜びの声として迎えられました。阿弥陀如来のご本願―絶対的な救いの力として「南無阿弥陀仏」のご名号を唱導し、その教えを広められた法然上人。御忌会は法然上人を偲びご恩報じの念仏供養する、浄土宗で大事な法要なのです。

東漸寺で御忌大法要を奉修するようになったのは、享保20年(1735)、当山二十三世鸞宿上人の時、かねてより関東化縁の墾望のあった京都東山の長楽寺に安置されていた「香衣円光東漸大師(法然上人)の遺像」を増上寺に遷座したのち、名僧をたびたび輩出した檀林寺院である当山に寄附をされてからです。その当時の寄附書状並びに御忌大法要奉修嘆願の連判状、香衣円光東漸大師の謂れ書等は、当山宝藏に大切に保存されております。

当時は、「香衣円光東漸大師の遺像」を担いで、約1カ月かけて当山の末寺32カ寺を巡り、4月25日に当山に戻り、浄土宗僧侶や信者だけではなく、各宗の僧侶も随喜して御忌大法要を奉修していたといわれています。現在は交通事情により、お練りは東漸寺界隈で行い、4月25日にのみに行われております。

江戸時代より、東葛一円の人々に「御忌のおまつり」として長く親しまれ、大法要の日を機に3日間(毎年4月25日より27日まで)、参道や町に多数の植木市や露店がにぎやかに立ち並ぶ御忌の日。戦前は東葛一円では、学校が休みになっていたほど楽しみにしていたと言われています。

参詣の人々は第一礼装で当山を訪れ、地元小金では、お嫁にいっていた娘が小金の実家に帰り、草餅をつくり、集まった親戚の人たちに振る舞うというような慣習も伝わっています。


 雨に降られて東漸寺から戻ってくると、なぜかサティ(Eric Satie)のピアノ曲が聴きたくなりました。MDプレーヤーはいつでもスイッチがジムノペディ第一番が聴けるようになっています。



 雨上がりの散歩径。
 夏になると、半夏生が咲く(半夏生は葉っぱの色が変わったのが花が咲いたように見えるのですが)径です。雨が上がっただけではなく、陽射しが出ました。
 黄色いのは菜の花ではなさそうですが、窪地になっていて、降りて近づくことができないので、葉っぱの形を確かめることができません。

 この先、暗渠になっている富士川を越えて、結構急な上り坂を上ると、梨畑と香取神社があります。かつては猫のうさ伎と小春がいたあたりです。この猫たちがいたころは毎日のように足を運んだものですが、相次いで姿を消してからは足が遠のいてしまいました。



 梨畑では花の季節が終わって、小さな実を結び始めていました。

 

 こちらは別の梨畑。
 前の畑に較べると、蕊の残り方が若干多いと思えば、まだ花を残している枝もありました。


 

 こちらはキウイ畑。



 田んぼでは水張りが終わっていました。

 
 


 こちらの田んぼでは代かきが始まっていました。



 我が庵まであと数分のところまで帰ってきました。
 我が庵があるのは高さ20メートルほどの台地の上なので、どこへ行くにしても、行きは坂を下り、帰りは上らなくてはなりません。最近は歩数が四千歩を過ぎるころになると、太腿に痛みが出て、脚に疲れを覚えるようになりました。
 声には出しませんが、「ヨッコラショヨッコラショ」と自分を激励しながら坂を上ったら、ワッ、クッサ~、と感じる臭いが充満していました。ジャスミンの臭いでした。香水のジャスミンの臭い(匂いではなく、あえて臭いと書きました)も私は好きではありませんが、ときおりすれ違う女性の臭さにも、文字どおり鼻が曲がるような気がします。私がおかしいのでしょうか。


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