桔梗おぢのブラブラJournal

突然やる気を起こしたり、なくしたり。桔梗の花をこよなく愛する「おぢ」の見たまま、聞いたまま、感じたままの徒然草です。

日光御成道鳩ヶ谷宿(本編)

2011年02月03日 12時44分07秒 | 歴史

 日光御成道鳩ヶ谷宿探訪の〈つづき〉です。
 旧鳩ヶ谷宿を歩きながら、目についた歴史的建築物を撮影しました。いまは商店街になっているメインストリートを歩いただけですから、路地の奥にはもっとあったのかもしれません。 

 
 
 


 画像三つ目の蔵は顧みられなくなってから久しいと見えて、窓に草が生い茂っていました。

 茨城県の石岡や土浦であれば、市の指定文化財にして建築年代など由来を記した案内板が建てられていますが、鳩ヶ谷市のホームページを見ても、該当するページはないようです。
 それとも、私には結構年代ものに見えたけれども、実際はさほどの価値はないのでしょうか。

 


 かつては商家だったらしき建物も民家に替わっています。
 商売をつづけているのは一軒だけ、「文楽」という地酒を売る酒屋さんでした(画像上)。

「文楽」は北西亀吉という人が明治二十七年、埼玉県の上尾で醸造を始めた日本酒です(いまも上尾に会社があるようです)。
 この店の名は北西本店とあったので、いまでいうところのアンテナショップとしてつくられたのでしょうか。



 表札には「醫院」とあって、右手には自宅用玄関がありましたが、開業しているのかどうかわかりませんでした。
 医院ではなく、「醫院」という表記を遺したままであることがふさわしい建物で、玄関前に立っていると、森鴎外のように立派なカイゼル髭を生やした先生がいまにも出てきそうです。
 
 鳩ヶ谷宿の中心近く、りそな銀行(鳩ヶ谷支店)の壁に「→法性寺大門入口」という標識があったので、しばし御成道をはずれて足を延ばしました。



 室町末期の建立と伝えられる法性寺の山門。



 法性寺本堂。文明八年(1476年)の創建、開基は太田道灌。
 当初は天台宗のお寺だったようですが、扇谷vs山内の両上杉の戦いの間、僧は兵乱を恐れて遁れ去り、堂宇もことごとく荒廃してしまったのを、明応七年(1498年)になって、震龍という曹洞宗の僧が再建して改宗。

 


 再び日光御成道に戻ると、やがて見沼代用水東縁(ひがしぶち)を渡ります。
 用水に架かる橋を吹上橋といい、昔は橋の北の両側に一里塚がありました。

 


 草加道を東へ行けば日光街道(奥州街道)、蕨道を西へ行けば中山道。
 道は四通八達していて、鳩ヶ谷が交通の要衝で、周辺物資の集積地だったころを窺わせます。



 日光御成坂公園のからくり時計。高さ約4メートル。
 平日は五回、日曜は午前十時から午後八時までの毎時、僧侶が鐘を撞いて時を報せる、というからくりが施してあるようですが、壊れて修理中でした。



 前回のブログの締めくくりにした地蔵院前から1キロとちょっと。鳩ヶ谷市役所西交差点の中央分離帯に建てられた石碑です。
 江戸から向かってくると、ここが鳩ヶ谷宿の入口ですが、逆方向の北から歩いてきた私にはここが終点となります。

 


 宿の外れに源永寺があったので寄ってみました。
 真言宗智山派の寺院。創建は不詳。当初は荒川河畔にありましたが、江戸時代初期に現在の場所に移されたのだそうです。
 画像下は境内にある六百五十年以上も前の板碑(青石塔婆)。右は建武五年(1338年)、左は貞和四年(1348年)の銘があります。建武、貞和という年号は南北朝時代、北朝方が用いた年号です。



 帰りは埼玉高速鉄道の鳩ヶ谷駅に出ました。くるときに降りた戸塚安行はここから二つ目、その次が武蔵野線に乗り換える東川口。

地蔵院から鳩ヶ谷駅まで



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