桔梗おぢのブラブラJournal

突然やる気を起こしたり、なくしたり。桔梗の花をこよなく愛する「おぢ」の見たまま、聞いたまま、感じたままの徒然草です。

將門の里(1)

2009年08月15日 15時31分40秒 | 歴史

 十三日、將門の里といわれる茨城県坂東市(旧岩井市)を探訪してきました。



 柏から東武野田線に乗って、愛宕という駅で降りました。乗り換え時間も含めて、新松戸からここまで四十七分です。これまでの散策の中では、距離的にちょっとホネがあるかなと思っていましたが、意外とすんなり着きました。携帯してきた本を読んでいる間に呆気なく着いてしまったという感じです。
 しかし、ここから先がいけない。
 駅前でバスを待ちましたが、五分後にくるはずのバスがなかなかやってこない。駅前の通りは見るからに田舎の通りなのに、一体どこへ行く用があるのかと思うほどの交通量です。バス停が踏切手前にあることも手伝って、車の流れは渋滞気味です。

 十分遅れで岩井車庫行のバスがきました。一時間に一本だけという便です。
 途中、芽吹大橋で利根川を渡ります。愛宕駅から利根川までは5キロ弱なのですが、この日は四十分以上もかかりました。
 


 坂東市のホームページから入手した地図はこんな地図です。
 赤丸のつけられたスポットはそれぞれに別のWebページが開くようになっていて、解説があり、地図を見るというリンクがあるのですが、クリックしてもこの地図しか出てきません。

 最初の訪問地は國王神社と決めていましたが、どこでバスを降りたらいいのかわからないので、中心街らしき町並みに入ったところ、同乗の客の多くがゴソゴソと席を立つのに釣られて、「岩井局前」というバス停で降りました。なんの「局」だかわかりませんでしたが、あとで郵便局らしいとわかりました。



 国道354号線。旧岩井市のメインストリートです。妙にきれいです。

 國王神社の祭神はもちろん平將門です。
 上記のアバウトな地図とプリントアウトして持ってきたマップファンの地図を見比べながら歩き始めました。
 目星とした交差点らしきところに出ましたが、現場に立ってみると、どっちがどっちやら方向感覚が失なわれてしまいます。
 
 


 それでも、幸いなことに、道を間違えることもなく、方向を間違えることもなく、國王神社に着きました。バスを降りて2キロ弱。所要二十分強。

 我孫子にある將門神社のうら寂しいイメージが残っていたので、境内が結構広く、森閑として静まり返っていたのがうれしかった。茅葺きの社殿も雰囲気があってうれしいものでした。神社には滅多に参拝する気の起きぬ私ですが、お賽銭をあげて二拝二柏手一拝。



 誰もいなかったので、失礼して拝殿の中を撮影。
 右手イーゼルらしきものの上に飾られている写真は將門の坐像で、拝殿を覗くだけでは拝めませんでしたが、この木造がご神体として祀ってあるそうです。

 伝説ではこの像を刻んだのは將門の娘だといわれています。
 父・將門が敗れたとき、娘は会津の恵日寺に逃れて出家。如蔵尼と称し、將門の死後三十三年目にこの地に帰って庵を結び、父の霊を弔ったのだそうです。そのとき、刻んだ像を祀った祠がこの神社の始まりだといわれています。

 このところ、散策に出る日の午前中は曇、目的地に着くころには強い夏の陽射しが出る、というのが決まりみたいになっています。
 この日も朝は曇っていたのに、愛宕駅でバスに乗るころから陽射しが出ました。すでに私の身体は汗みずくです。

 國王神社の杜をあとにすると、左右は田畑になって、木陰はありません。



 石井営所跡。
 將門が関東一円の制覇を企てたとき、本拠地とした陣営の跡です。



 石井の井戸跡。
 石井営所跡から緩やかな坂を下ったところにあります。我孫子にある將門の井戸とは違って、水が出ている形跡はありませんが、台地の裾野にあって、いかにも湧き水が出そうな場所でした。

 伝説によると、將門が王城の地を求めていたとき、喉が渇いて仕方がなくなった。ふと見ると、老翁が大きな石の傍らに立っていた。翁が大石を持ち上げて大地に投げつけると、そこから清らかな水が湧き出して、將門は喉を潤すことができた。將門が翁の身許を訊ねると、岩井を守る翁だと歌を詠んで名乗り、姿を消してしまった。
 將門はその翁を祀り、石井営所を本拠とすることに決めたのだと伝えられています。

 石井営所、石井の井戸ともちょっとしたスペースはつくってありますが、結局は記念碑の域を出ていません。往時を忍べるような工夫はないものか、と思うのですが、記念碑だけではどうにも想像力が羽ばたいてくれません。

 將門軍の特徴は馬と鉄でした。世界史上ではヒッタイトや中国北方の騎馬民族など、遙か昔から馬と鉄の軍を備えていた国々がありますが、十世紀というまだ黎明期に近い日本で馬と鉄に着目したのは、非常に先進的前衛的な考えだったと思います。他の陣営とは違って、將門の営所では独特な物音もあったのだろうと想像したいのですが……。



 真言宗豊山派延命寺本堂。
 將門の子孫(自称)相馬氏が文安二年(1445年)に創建したお寺です。前の石井の井戸跡の画像で左に写っているのがこのお寺の杜です。
 周囲は稲田で、民家も数軒あるのみ。お盆だというのに、無人でありました。



 延命寺境内にある薬師堂。
 通称島の薬師と呼ばれ、將門の菩提寺でもあります。本尊の薬師如来は將門が守り本尊としていたものだと伝えられています。

 


 國王神社拝殿と同じような、趣のある茅葺きの薬師堂山門。
 相馬氏が創建したあと、寺は二度に亘って火災に遭ったようです。本堂も薬師堂も焼けましたが、この山門だけが焼け残りました。室町時代らしい、わびさびがあります。

 將門の里探訪はまだつづきますが、最後まで行くと相当長くなりますので、今日はその第一部として、あとは後日。

↓市のホームページよりはマシかと思える参考マップです。
http://chizuz.com/map/map55655.html


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