先月三十日に発表された十日間天気(予報)。待ち構えていたのはその日から十日目、すなわち今月八日の薬師詣での日の天気です。
本来は薬師詣でで少々遠めの外出をすると決めている八日。一時雨、という予報の上、午後は雷雨があるかも、という予報が加えられました。
訪れるつもりの桶川市の天気を調べてみると、一日中曇という予報でしたが、我が地方とそれほど離れていないところです。雷雨の「ら」の字はなくとも、降らないとは断言できません。わりと長距離を歩くことになるので、できることなら折り畳み傘といえど携行したくありません。軽いと思ってもトートバッグに入れて歩いていると、徐々に肩に食い込むようになってくるのです。
逡巡した挙げ句、八日の薬師詣では地元の慶林寺参拝だけにとどめ、桶川行はこの日も縁日である今日十二日に決行と決めたのです。
遠出をする前に地元の慶林寺に参拝して行きます。
参道入口のオタフクアジサイ。紫の色づきが濃くなっています。
これは山門前のオタフクアジサイ。
河津桜の木陰になっていて、日当たりがよいとはいえない参道入口の紫陽花に較べると、こちらは断然日当たりがよいのに、ほとんど咲いていません。
北小金から新松戸~南浦和~さいたま新都心と乗り換えて、桶川へやってきました。初めて降りる駅です。
駅の西口に出ると、こんなバスが待っていました。名づけて「べにばなGO」。桶川はかつて紅花の名産地だったのです。
バスは一日八本、桶川市の西側を時計回りにグル~リと巡って、西口に戻ってきます。どこまで乗っても¥100。
五つ目の停留所・サン・アリーナ入口で下車しました。
バスが走ってきたこの道路は桶川市と上尾市の市境になっていて、バス停があるのは上尾市だったようです。
バスを降りて歩くこと十四分。最初の目的地である薬師堂に着きました。地図には「薬師堂」とあるだけで、名前がありません。
御堂のある一角は墓地になっていました。たまたま墓参りにきていたご婦人がいたので、この御堂の名を訊ねてみましたが、あいにく土地の方ではなく、身寄りの墓参りにきただけなので、わからないということでした。
入口には「林公庵墓地整理記念碑」という石碑が建てられていたので、以前は林公庵という庵室があって、薬師堂は遺された堂宇の一つかとも思いますが、ネットで検索してみると、上尾市内の文化財を示す「あげおがいどアビマップ」には薬師寺と記されています。しかし、このマップはこのあと訪れる密厳院の所在地を示すマップで、その端っこにたまたま載っていただけで、「上尾&薬師寺」をキーワードに検索してもみても、何もヒットしませんでした。
名前未詳の薬師堂(あとで藤波薬師堂というのだとわかりました)から六分。密厳院に着きました。
臨済宗円覚寺派の寺院です。本尊は聖観音。
「新編武蔵風土記稿」には「元は新義眞言宗の古道場なりしが、中古衰廢せしを明応の頃、太田資家(?~1522年)己が叔父叔悦善治を請して堂塔を再興し、済家に改宗して(鎌倉の)圓覚寺ての末に屬せりよりて叔悦を開山と崇め、資家をもて開基とす、資家大永二年正月十六日卒し、養竹院義芳道永庵主と謚す、叔悦は天文四年七月十六日寂を示す、又比企郡表村養竹院も當寺と同く資家が叔悦を開山として草創せし寺なれば、幷せ觀べし、本尊正観音を安ず、腹籠りに運慶が刻んだ長さ一寸八分の尊像を収む、是太田道灌の守本尊にて、資家が納めしものなりといへど、其正しきことを知らず」と記されています。
太田資家は太田道灌の甥です。
密蔵院をあとにして五分。
地図を見ても名前が載っていない川を、これも名前が載っていない橋で渡りました。
これもあとで調べてみると、江川といって、荒川の支流でした。川の名はわかりましたが、橋の名はもともとないようです。ここまで上尾市。
橋を渡ると、再び桶川市。こんな砂利道がつづいていました。
八日に訪れていて、こんなところで雷雨に見舞われたとしたら、雨宿りできそうなところはどこにもなく、びしょ濡れという事態に陥るところでした。
密厳院から十七分、もう一つの薬師堂に着きました。きれいに整地されたところにポツンと御堂が建っています。入口に地蔵と青面金剛らしき石像があるだけで、説明板のたぐいはありません。
名前不明の薬師堂をあとに東光寺を目指して歩いていると、道路の右手に小さな御堂があるのが見え、その後ろに真新しい建物がありました。
近づいてみれば、薬師堂自治会館とありました。この先、東光寺を過ぎると、国道17号のバイパス・上尾道路を横切る交差点があり、地図にはその交差点の名は薬師堂(北)とあります。上尾道路を大宮方面に向かうと、次の交差点は薬師堂(南)。てっきり薬師堂というのは地名なのか、と思いきや、このあたりの地名は川田谷。ということは、画像上の小御堂が薬師堂ということなのでしょうか。
バイパスを横切って、東光寺に着きました。天台宗の寺院です。慈覚大師円仁が天長年間(824年-34年)に創建したと伝えられ、縁起には「大師御作ノ不動尊ヲ安置ス」と記されています。
本堂(画像上)と薬師堂です。
富士見ホタル親水公園。途中に標識があったので、少し道を外れることになりますが、どんなものであろうかと、寄って行くことにしました。
園内には紫陽花(アジサイ)の群落があり、こんな掲示が出ていましたが、紫陽花はいまがその時期だというのに、ボウボウと伸びた去年の枝がほったらかしのままで、花もまったくといっていいほどありません。腕に覚えのある住民がいたら、鋏を振るわずにいられないのではないかと思います。
しかし、勝手に腕を振るうな! という警告があるものだから、結局ボウボウ、よって花なし。
親水公園から目印の老人ホームを左手に見て、立派な門構えのお屋敷が出現……と思ったら、次に目指していた泉福寺の通用門でした。
天台宗の寺院。天長六年(829年)、先の東光寺と同じ慈覚大師円仁を開山として創建されたと伝えられています。
本堂。鴟尾があって、天平ふうを思わせる伽藍です。
阿弥陀堂。こちらも優美な佇まい。
阿弥陀堂前にある耐火収蔵庫です。重要文化財の阿弥陀如来坐像が収蔵されています。本来は阿弥陀堂に安置されていたのですが、文化財保護の観点からこの耐火収蔵庫に収められることになりました。
仁王門。正面から写すのには径が狭過ぎたので、斜め前から。正面を写そうとしてうっかり下がってしまったりすると、後ろは荒川によって削りとられた斜面です。
泉福寺をあとにしてしばらく歩くと、紅花畑がありました。桶川ではこの十五日(土)、十六日(日)と「べに花まつり」が開かれるのです。
紅花、といえば山形 ― 。
なにゆえに桶川でも紅花なのかというと、現在では廃れてしまいましたが、江戸時代、桶川は紅花をはじめとする農作物の集散地兼宿場町として栄え、とくに紅花は、幕末ごろになると、山形の「最上紅花」に次いで全国で二番目の生産量を誇ったというのです。
当時は到るところで紅花畑が見られたといわれています。
桶川における紅花の生産は、天明・寛政年間(1781年-1801年)に江戸商人がその種子をもたらしたことから始まり、「桶川臙脂(えんじ)」の名で全国に知られるようになっていました。
最上地方では七月にならないと収穫できなかったのに対して、気候が温暖な桶川ではひと足早い六月に収穫することができました。そのため、早庭(場)「はやばもの」とも呼ばれて、紅花商人に歓迎されたのだそうです。
江戸期後半は、江戸や大阪の大都市だけでなく地方の町も発展し、町人を中心とした消費生活が高まったので、桶川臙脂の生産も急速に伸びて行ったようです。
当時の取り引き価格を比較してみると、米は一反あたり平均二両だったのに対し、紅花はその倍の四両にも達し、幕末には「最上紅花」を上回る相場で取り引きされていた、といわれています。
まつりが開かれるのは三日後です。そこそこ咲いている畑もありますが……。
別の畑はこんな状態。まつりに間に合うのかどうか、他人事ながら心配です。
帰りの市内循環バスに乗る生涯学習センター入口に着きました。事前のシュミレーションより二十分早く着きました。
このバス停から歩いて十分ほどのところに江戸時代初期の陣屋・川田谷陣屋跡があり、そこに薬師堂があるのですが、それを知ったのは庵に帰ったあとでした。いつか機会を見つけて……と思いますが、再び訪れる機会があるかどうか。
カメラに収めませんでしたが、このバス停の標識を写そうとして立っていた私の後ろは蝋梅(ロウバイ)の林でした。蝋梅は我が庵近くでもちょくちょく見かけますが、林という形態は見たことがありません。なにゆえに……という思いも、多分解答を見つけ得ぬ宿題のままです。
→ この日歩いたところ。
歩き始めたところとゴールから桶川駅は市内循環バスを利用。
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