桔梗おぢのブラブラJournal

突然やる気を起こしたり、なくしたり。桔梗の花をこよなく愛する「おぢ」の見たまま、聞いたまま、感じたままの徒然草です。

布佐を歩く

2012年08月04日 20時55分10秒 | のんびり散策

 千葉県の利根川沿いに布佐(ふさ)という街があります。いまは我孫子市の一部ですが、江戸時代から明治の初めにかけては、銚子で獲れた海産物や東北地方の物産を江戸に運ぶ、一大物流拠点であった街です。
 その町をそぞろ歩いてみました。

 降りたのは成田線の布佐駅。この駅に降り立つのは去年五月以来二度目です。そのときは隣県・茨城の利根町へ行くために通り抜けただけなので、見物らしい見物はしていません。

 物産を江戸に運ぶ街道は「なま街道」と呼ばれていました。「なま」には「鱻」という字を当てるのですが、読める人はほとんどいないでしょう。「鮮魚」と書いて、「なま」と読ませるようにしているみたいです。

 私が布佐を歩いた四日 ― 。
 松戸の江戸川畔では松戸花火大会があり、我が北小金にある東漸寺ではヴェルヴェッツなるヴォーカルユニットのコンサートがありましたが、私はそれらの催しに背を向けるように出かけてきました。花火大会のほうは暗くなってからなので、行こうと思えば行けないわけではなかったのですが、最初から行く気はないのです。



 我孫子で成田線に乗り換えると、四つ目が布佐です。



 我孫子・上野方面行(いわゆる上り)のプラットホーム。
 私が降り立ったのは反対側の下りホームだったので、改札口を出る前に立ち寄って、カメラに収めました。

 ホームの端っこのほうに、高さ70~80センチと見られる、このような金属製の棚がいくつか並べられています。何に使われるのかというと、行商のおねいさんたちが電車がくるのを待つ間、ここにリュックサックの化け物のような背負子(しょいこ)を下ろすのです。
 布佐駅のプラットホームは二つのプラットホームが二本の線路を挟んでいる形の川式ですが、この棚があるのは上野方面行のプラットホームだけ。上野からくるほう ― すなわち帰ってくるほう ― にはありません。



 布佐駅北口にある石井ストア。
「布佐観光案内図」には「石井商店では、毎朝、元気なおしゃべりとともに、品物を仕入れたり、交換したりするおばちゃん達を見ることができます」と紹介されています。行商のおねいさんたちは東京へ向かって出発する前、この店に集まってワイワイガヤガヤとやっていたようです。昔むかしのお話かと思いきや、案内図の奥付を見ると、平成二十二年の発行となっています。すなわち一昨年。ひと昔前のお話ではなく、いまでもおねいさんたちの活躍はつづいているようです。



 最初に利根川を眺めに行きました。利根川に架かるのは栄橋。対岸は茨城県利根町です。
 この景色を撮すためには堤防上を走る国道356号のバイパスを横断しなければなりません。二車線の道路を大型トラックと普通乗用車、商用車が入り交じって走っているので、車の流れの途切れることがなく、わずか数メートルの道路を渡るのに五分以上も待たされてしまいました。



 堤防から上流に目をやると、寺院の伽藍らしき建物の側面が見えました。

 延命寺(真言宗豊山派)の虚空蔵堂でした。



 延命寺本堂。創建は文禄二年(1593年)。本尊は薬師如来のようです。

 布佐駅から栄橋のたもとを経て延命寺まで、十五分ほど歩きましたが、車以外に歩く人の姿を見かけませんでした。真夏の暑さに眠っているような街です。



 先ほどバイパスを渡った、国道356号の本線です。信号のないバイパスができたので、こっちを走る車はあまりありません。
 のんびりとした道を歩いていると、「ビジネス旅館布佐」という看板が目に留まりました。つげ義春の世界を思わせるようで、暑さに閉口しつつも、のどかで佳い雰囲気に浸ることができました。



 延命寺から細い路地に入って、100メートルばかり歩くと、勝蔵院(天台宗)に着きました。

 創建は延命寺より一年早い文禄元年(1592年)。本尊は阿弥陀三尊です。



 勝蔵院を出て、また細い径を歩いて行くと、松並木の道が現われました。布佐の鎮守・竹内神社の参道でした。

 


 神社正面の石段はさほど高いとは思えませんでしたが、齢とともに高所恐怖症が顕著になってきた私は切り立つように見える石段を避けて、右手にあった緩やかな女坂を上ります。

 女坂といえど、結構急で長い。

 林に隠れているのでよくわかりませんでしたが、ずんずん上って行くと、社殿らしき建物が下方に見えるようになりました。



 ??
 神社の屋根が眼下に見るようになってしまって、一体全体どこへ出るのか? と訝りながら坂を上り詰めると、目の前に拡がっていたのは布佐小学校の校庭でした。

 我孫子市内ではもっとも古い小学校で、明治六年(1873年)に刀寧(とね)小学校として開校したのが始まり。今年で創立百三十九年を迎えます。
 夏休み中なので、ひっそりとしています。

 遠慮しつつ校庭の隅っこを歩くと、社殿の背後を回り込む形で竹内神社の境内に入る径が見つかりました。



 竹内神社。創始は承平年中(931年-38年)。
祭神は天之迦具土命(あめのかぐつちのみこと)。



 上るのを避けた石段の上に立って、下を覗いてみました。
 やはり急です。ここを上っていたら途中で腰が引けてしまったでしょう。上らなくてよかったと思いながら、帰りも女坂を下りました。

 さほど大きな神社とは見えませんでしたが、毎年秋に挙行される例大祭では交通規制がされるほど賑わうようです。
 例大祭は享保年間(1716年-35年)に発祥した伝統ある祭りです。地元の上町・布佐一丁目・二丁目・三丁目・大和町の五つ地区のうち、一地区が持ち回りで当番町を受け持ち、神社神輿を担ぎます。
 今年の当番町は上町。ほかの四地区はそれぞれの山車で練り歩きます。成田街道(国道356号線)沿いで神輿・山車が巡行する際は、多くの見物客で賑わうそうです。最終日には神社の参道から歩いて十分ほどのところにあるスーパー(ナリタヤ食彩館布佐店)の駐車場に神輿と山車が集結して競演を繰り広げるということです。

 布佐駅前に戻って駅前を通り過ぎ、350メートルほど歩くと、旧鮮魚街道との交差点に出ます。



 交差点に立って左手(北=利根川方向)を見たところ。昔の面影は何もありません。



 交差点をそのまま左へ行けば利根川に突き当たり、そこが布佐河岸跡ですが、まずは右に曲がって成田線の踏切を越え、国道356号我孫子バイパスの交差点まで行ってみました。

 画像奥が松戸方面ですが、ここもかつての面影らしいものは何もありません。

 


 鮮魚街道近くにはこんな店や家が数多く残されていました。このあたりは去年三月の東日本大地震で、液状化現象という被害の出た地域です。

 去年、私が訪れたときは地震の二か月後だったので、到るところで電柱が傾き、道路の補修工事が行なわれていました。
 今回きてみると、インフラは復旧されたようですが、道路に人影はなく、ひっそりとしていることは前と変わりがありません。
 この家々は地震前から廃業または廃屋状態であったのか、地震後、とても修復不能と判断されて廃されたものか。道行く人もいないので、訊ねようにも訊ねられません。



 鮮魚街道の起点―利根川の堤防下にある布佐観音堂です。

 祀られているのは馬頭観音。魚藍観音も祀られています。
 魚を運ぶのに貢献し、死んでしまった馬の霊を慰めるため、問屋と馬主が建立したものです。
「江戸みち」とも呼ばれる鮮魚街道はこの御堂の裏に沿って延びています。この御堂は明治三年(1870年)の利根川堤防決壊で流失し、大正二年(1913年)に再建。



 再び堤防の上に出て、布佐河岸跡を捜します。

 建て札も何もないので、このあたりだったのだろうというところをカメラに収めました。画像奥が上流。遠くに栄橋が望めます。



 先の「布佐観光案内図」に掲載されている鮮魚街道図です。

 江戸時代、銚子や九十九里方面から利根川を遡って運ばれてきた鮮魚はここで荷揚げされ、一刻も早く日本橋市場に出すため、松戸河岸まで馬で陸送する鮮魚街道の起点となったところです。最盛期は一日四千籠の鮮魚を百三十~五十頭の馬で運んだといわれます。
 布川(布佐の対岸の町・現在は茨城県利根町)に生まれた医師・赤松宗旦は自著「利根川圖志」に、
「銚子浦より鮮魚を積み上げするをなま舟という。舟子三人にて日暮に彼処を出で夜間に二十里余の水路を遡り未明に布佐布川に至る。特にこの処を多しとす。故にその賑い他所に倍し、人声喧雑肩摩り踵接し、傾くる魚は銀刀を閃かし(中略)而して冬は布佐より馬に駄して松戸通りよりこれを江戸に輸り夏は活舟(いけぶね)を以て関宿を経て日本橋に到る」
 と記しています。
 この先、浦部(印西市)~平塚(白井市)~藤ヶ谷(柏市)~佐津間(鎌ヶ谷市)~五香(松戸市)~金ヶ作(同)~門前(同)を通って松戸の納屋川岸まで運ばれたのです。




「利根川圖志」から布川魚市之光景。



 前の画像を撮ったのとほぼ同じ場所から下流を眺めたところ。このあたりが網代場跡。

 赤松宗旦は「利根川圖志」に、「その味利根川一」と称賛していますが、布川鮭の網場です。
 ここも建て札はないので、このあたりであろうというところを撮影。



 堤防を降りて五分ほど歩くと、岡田武松邸跡(現在は我孫子市近隣センター・ふさの風)があります。岡田武松(1874年-1956年)は第四代中央気象台長(現在の気象庁長官)。予報課長時代(三十一歳)、日露戦争の日本海海戦時に「天気晴朗ナルモ浪高カルベシ」と予報したことで著名です。



 帰りは再び鮮魚街道を歩いて、布佐駅南口から。



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