押入れを整理していたら、綴り箱の片隅に色々なものが出てきました。
開けるまで忘れていましたが大事にとっておいたようです。
高校2年生の担任の先生からの手紙がありました。大学生の頃、私は、何かで悩み、どうやら先生に手紙を書きその返事を送ってくれたものです。
その手紙の最後に「私は今の君も大好きです。君らしく生きてください。」とありました。
先生は元気にしてらっしゃるでしょうか。
もう一つ、大学で東京に出てきた時、父が半紙に「典子(本名です)らしくがんばれ」と書いてありました。
二つの中には、「私らしく」と書いてあります。この時は20歳前でしょうか。
どんな私だったかな。あの時大事にしていたものはなんだったのだろう。
私にはわからないことが、わかっていたのでしょうか。私らしくっていったい。
この時に、「私らしくって何ですか」と質問すればよかった。今も尚わからないのだから。
私の母は琵琶湖近くで育った人で、その辺りの風習も大事にしていました。関東ではあまりしないようですが、私は十三参りをしました。嵐山の法輪寺にお参りをし、渡月橋を後ろを振り返らずに渡りきるのです。
この時、法輪寺には半紙に墨で一文字好きな文字、言葉を書いて自分の代わりに置いてくるということもしました。十三歳にはちょっと照れくさい慣わしです。
私が、その時、自分なりに思いを込めて書いた字は「心」でした。
とても純粋な気持ちだったと思います。澄んだ空気を静かに吸って少し緊張して書いたのを覚えています。
年を重ねるに従って、はかりしれない「心」の良心、真心、は、深いところに存在して、表面の邪心にとらわれる日々もあります。
何度か訪れる転機に自分の良心と向かい合ってそれに従うことができる素直さを持っていたいと、それを全うできない自分の情けなさに腹が立つこともあります。
小学校のおはなし会に行った時、5年生の教室の前にお習字がずらっと並んでいました。そこには「美しい心」と書いてありました。
心は優しい心に、美しい心に、育ってほしいが原点なのですよね。
心は磨かなければ、尽くさなければ、配らなければ育たないものなのでしょう。
大事なときに何を選択するのかも心ひとつ。
私らしいとはなんでしょう。たくさんの方に出会い、経験をし、学ぶことも、教えられることもあった今、この自分が進む道はどこへ向かうのか考える年になってきました。
と、綴り箱を開けたばっかりに浦島花子のように昔に返って純粋だったン十年前を思い出してみてしまいました。
12月ですからね。自分を省みるのもありでしょう。