細田暁の日々の思い

土木工学の研究者・大学教員のブログです。

歴史と自然

2018-10-12 09:45:52 | 人生論

一度読み終わって、またすぐに二度目を読み込んでいる、中野剛志さんの「日本の没落」です。大変な良書と思いますが、内容が深く、一度目では理解し切れなかった部分も、二度目に理解が深まっています。

本の終盤で、本書を通じて引用され続けている「西洋の没落」を1918年に著したドイツの哲学者、シュペングラーが、いかにしてその後の歴史を予言できたのか、その「予言の方法」が第8章です。方法論はゲーテに学んだ、とのことです。この章は相当にすごみがあります。

その中で、歴史と、自然、についての著述があります。

中野先生の解説の方が分かりやすいので、部分的に引用してみます。

『自然は世界を「成ったこと」として「認識」するのに対し、歴史は世界を「成ること」として理解することである。・・・中略・・・ 歴史は「成ること」であるのに対し、自然は「成ったこと」である。・・・中略・・・ 自然科学のような手法では、歴史を理解することはできないのである。』

『現実を理解するということは、「成ること」と「成ったこと」、すなわち歴史理解と自然理解の両方を含む。』

ここで、中野先生も読者に分かりやすく語りかけておられますが、歴史とは、過去に起きた出来事についての記録なのでは?現在形の「成ること」ではなく、むしろ過去形の「成ったこと」ではないのか?と。

シュペングラーの「西洋の没落」より
『あらゆる起こることは一度限りのもので、決して繰り返されない。それは方向(「時間」)という特徴、すなわち戻って来ないということという特徴を持っている。』

再び、中野先生の解説。
『我々は、未来へと向かう不可逆な時間の流れの中で、二度と繰り返されない一度限りの瞬間、「ただ一度だけ現実となっている諸事実の世界」を生きている。そういうふうに生きた過去の人間の感情を想像し、それに共感し、そして追体験する。歴史を研究するということは、そういうことである。
 歴史とは、偶然の諸事実でできている。』

大変に共感します。

自分が何かを頑張っても、この世の中なんて何も変わらない、ではないのです。

今週の9日(火)から、8年目になりましたが、「土木史と文明」が始まりました。講義名が少し変更になりましたが、基本的な内容はもちろん変わりません。

初回は300名近い学生がいたのではないかと思います。現在、初回のレポートを読んで点数を付けているところですが、初回にしては内容の濃いレポートが多く、楽しく読んでいます。初回から揺さぶられた学生が少なくないようですが、上記の「日本の没落」も紹介しました。

この講義だって、偶然の何かを必ずもたらしていると思います。これで人生が変わる人だっているかもしれない。私はこの講義を担当したことで人生が変わっていると思います。この講義をやっていることのおかげで学外で知り合った方だっているし、これまでの過去の受講生たちも何かをつかんで今に活かしてくれているものと期待します。

「日本の没落」にあるように、また1918年にシュペングラーが「西洋の没落」で予言していたように、この世界はまさに没落しようとしています。グローバルシティや少子化など(他にも様々な証拠が)、すでにその兆候は現実社会に様々な形でまさにシュペングラーが予言した通りに表れています。

ですが、「日本の没落」の最後に引用されているシュペングラーの言葉は、私たちを勇気づけてくれます。土木史の初回の講義でも、この部分を朗読しました。

『われわれは、この時代に生まれたのであり、そしてわれわれに定められているこの終局への道を勇敢に歩まなければならない。これ以外に道はない。希望がなくても、救いがなくても、絶望的な持ち場で頑張り通すのが義務なのだ。』