細田暁の日々の思い

土木工学の研究者・大学教員のブログです。

難しさ

2019-01-01 16:37:31 | 教育のこと

年をまたいでしまいましたが、昨日の続きです。

私も毎年、年を重ねていきますが、入学してくる大学生は毎年同じ18才くらいです。

社会状況の変化とともに、同じ大学1年生の資質、考え方も変化して当然です。

私は、土木史と文明、という全学教育科目(いわゆる教養科目)を8年間担当しました。これからもしばらくは担当し続けるものと思います。そのおかげもあり、様々な学部の学生たちと密にコミュニケーションする機会に恵まれており、時代の変化を学生の考え方を通して感じることもできる立場にあります。

この時代は難しい。どの時代も楽な時代なないとは思いますが、いよいよもって没落を本格化していく時代は、ある意味で恐ろしさを感じるシーンが少なくありません。

土木史と文明、の講義では、毎回学生の書くレポートに目を通して次週に返します。タイトルを自分でつけて論文を書くようにお願いしていますので、レポートの内容は多岐に渡ります。私への批判的な内容や、自分自身をぶつけてくる内容もあり、私も真剣に読んで、次回の講義で全力でレスポンスするようにしています。

私は、自分自身の考えを押し付けるつもりはないのですが、講義では自分の考えを主張はします。それを元に、感じたり、反発したり、深く考えたり、将来への肥やしにしてくれたりすれば、と願って信念を持って主張しています。

学生からの反論も基本的には楽しく読んで、それも踏まえて次回の講義をするようにしています。

ですが、いくつかの勇気ある(?)反論には、時代の難しさを感じざるを得ません。

「先生は、教養が大事だ、と言ったが、私の周りにはいわゆる教養はないのかもしれないが、楽しく暮らしている知り合いがいて、友達もたくさんいる。自分は教養が大事とは思わない。」

うーん。この論旨で一つの論文を紡がれるのです。否定する必要はありませんが、では、大学に何しに来ているのか、少なくとも教養科目であるこの講義を取る必要はないですね、と教師としては言いたくなってしまいます。自分自身の大学時代を棚に上げておいて、何を!という感じかもしれませんが。

貧すれば鈍する、ではないですが、成長しない社会において、向上する、教養を高める、という人間として当たり前と思える価値観をすら共有できない方々が明らかに増えつつある状況には、心底から危機感を覚えます。時代の犠牲者であると私は思ってしまいます。私と彼のどちらが真に幸せかは分かりませんが、少なくとも、大学という場においては、彼の論理は成立しない、というのが大学で働く私の言うべきことかと思います。知性・教養を身に付けたいのでないならば、大学に来る必要はない。

経済成長など必要ないではないか、今のままでいいじゃないか、発展すると自然環境を傷つけるのではないか、などなど「あまり深く考えずに」思考停止に陥っている方々があまりに多く、ただでさえ危機的な衰退一途の我が国の行く末が心から危ぶまれます。

私が講義で相手をしている方々は、高校を卒業したばかりの方々である、ということにもときどき、いや何度も思い至るのですが、それにしても何割かの方々の劣化の状況には目を覆わんばかりです。

私が真に相手をすべきは、このような絶望的な状況においても、秀逸なレポートで応答してくれる、少なくない、将来の真のエリート候補なのでしょう。

私が大学生のときにはとても書けなかったような秀逸な論文を書いてくれる方々もいますし、私だって凡庸な学生から努力を今でも重ねて曲がりなりにも教壇に立っているくらいですので、いくらでも私のようなレベルを追い越してくれる若者が育ってくれるはずと心から期待しています。

本日の元旦は、浦和の実家で親族での新年のお祝いです。

今年の私自身の抱負は次のエッセーに譲るとして、2019年が皆様にとって健やかな1年となるよう、心より祈念いたします。