「人間と電子世界」 岩本 海人
私は2020年春に大学に入学した。そのため、入学してから1年間は完全オンラインで授業を受け、その後もいくつかの授業はオンラインで受講している。その経験の中、人間と電子世界の関係性、電子世界を生きることによる、人間への影響について深く考える機会が多くあり、その考えをここに記す。
電子情報の精密性の向上、処理速度の驚異的な向上、伝達技術の発展などの技術革新を経て、現在、世界中で電子世界が日常生活の大きなピースとなり、生活には必要不可決なものとして重大な役割を果たしている。その傾向は、Covid-19の感染拡大により、人間の直接・間接接触をできる限り減らすことが求められたことにより、急速に強まった。そのことは、教育の場面(初等、中等、高等教育にかかわらず)や、仕事、娯楽など様々な場面において見られた。
こうした中、人間は電子世界から大きな影響を受け、それらの中には注意が求められ、人間による自律が求められると、私は考える。最も注意が求められると私が考える事象について、以下に述べる。
それは、人間らしさと環境の不協和である。
人間らしさとは、これまでの人類の歴史の中で、人間が動物、植物、山、川、海、空などの環境との交流、人間同士の交流の中で創り上げてきた、人間の生き方のことだと、私は考え、定義する。
この人間らしさは、何千年もの歴史の中で、遺伝子に組み込まれているものも多くあるが、その反面、生まれてから死ぬまでの人生の中で培われていくものも多くある。始まりは、精子と卵子の遺伝子の掛け合わせのみであるが、その後、肉体も精神も、環境からの影響、環境そのもの吸収によって形成されていく。環境は影響を与えるだけではなく、食べ物や飲み物や、文化や伝承、言葉などのような環境は、人間の血肉となり、吸収されていく。
つまり、環境とは、人間に影響を与えるとともに、人間そのものとなる。人間らしさを構築するものなのである。その環境が、電子世界の登場により、大きく変動している今、人間らしさと環境の不調和が起きていると私は考える。
例として、表情を挙げる。
Z世代には、表情に乏しい、感情・考えの顔、声、身振りによる表現を得意としない人が多いと日々感じる。このことは、電子世界の隆盛が大きく関係していると私は考察する。
表情や、感情表現のほとんどは、周りの人間の表情、感情表現を学ぶこと、真似することから会得する。しかし、電子世界を見つめることでは、人間のリアルな機微を会得することは難しい、以下に理由を挙げる。
第一に、電子世界の情報は、技術的な制限を受けていることが挙げられる。電子世界とつながる方法としては、視覚、聴覚が主であるが、それらの情報は、現状、極めて簡素化されたものしか伝達されない。基本的に2次元であるし、音も平面的かつ周波数は限定的である。また、それ以外の嗅覚、触覚、味覚などの伝達は基本行われない。このような電子世界ばかりを見ていれば、感情表現が乏しくなることは当然である。家族と団欒となって話をしたり、友達とスポーツでぶつかり合ったり、自然でさまざまな動植物・無生物と触れ合ったりする時間を、得られる情報が単一的な電子世界との時間へ変換しているのである。
第二に、電子世界では、多くの場合、反応をする(リアクションをとる)必要がないことが挙げられる。電子世界では、発信者と受信者という構図がはっきりとしていて、リアクションの方法は極めて限定的、もしくは手段がない場合さえある。そのような世界では、受信者は表情や、顔、声、身振りによる感情表現をする必要性が、極めて低い。
さて、電子世界の影響による、人間らしさと環境の不協和は悪なのか。
悪である。私はそう結論づける。なぜなら、不調和を産んでいるという構造的な問題も根拠にあるが、これまでに培われてきた人間らしさを愛しているからだ。
しかし、環境はうつろい行くものであり、その一端が電子世界である。そしてそれに伴い、もちろん、人間らしさも変わっていく。そのため、現在のような電子世界による人間らしさと環境の不協和は、いつかの時点では落ち着いているかもしれない。これは、電子世界の発展という環境に、人間らしさが追いついた未来のことを指す。
私たちはすぐに古い世代となる。その頃には、今の電子世界の環境によって感性が培われ、新しい人間らしさを持った世代が生まれるだろう。その時までに、どれほどの感情表現が生き残っているだろうか。