細田暁の日々の思い

土木工学の研究者・大学教員のブログです。

学生による論文(35)「技術者・研究者に求められる姿勢とは 〜国鉄分割民営化問題から考える〜」 秋田 修平(2021年度の「土木史と文明」の講義より)

2021-12-03 09:56:06 | 教育のこと

「技術者・研究者に求められる姿勢とは 〜国鉄分割民営化問題から考える〜」 秋田 修平

 国鉄(日本国有鉄道)分割民営化から30年以上が経過した今、当時の状況や分割民営化が各地に及ぼした影響を考察することにより、我々が決断を下す際に心掛けるべき考え方や物の見方について学ぶことができるのではないかと考えた。そこで、今回の論文では国鉄分割民営化の問題から現代を生きる我々が何を学ぶべきであるのかということについて述べたいと思う。

 初めに、世間でたびたび議論となっている国鉄分割民営化の是非についてであるが、これに関して「是」であるか「非」であるかという二者択一の議論に対して明確な答えを出すことは非常に難しいのではないかと思う。もちろん、私が答えを出すだけの知識を持っていないことも一つの要因である。しかしながら、それ以上に、このような大きな転換がメリットもデメリットも大きなものになるという特徴をもつことが是非の判断を難しくしている大きな要因ではないかと思う。では、我々は国鉄分割民営化をどのように評価・改善するべきなのであろうか。恐らく、分割民営化によって生じた影響について客観的な目線で分析をし、悪いと考えられる影響に関しては改善の手立てを講じ、今後の決断の際にはそれを貴重な判断材料として用いることが正しい評価・改善の方法なのではなかろうか。単純に良い悪いを議論するのではなく、過去の経験から学び、その学びを未来に活かしていくことこそ我々に求められる姿勢であると思われる。

 それでは、具体的に分割民営化によってどのような影響がもたらされたのであろうか。ここでは、好影響を2点と悪影響を2点挙げて分析をしていきたいと思う。

 まず、好影響の1点目としては国鉄(のちのJR)に対して不動産事業など、さまざまな事業に着手できる権利を与えたことによる収入獲得方法の多様化が挙げられるであろう。国鉄による「副業」は鉄道(連絡船、自動車を含む)事業にかかわる附帯事業等に限られていた。そのため、当時の国鉄にとって収入を得る手段はほぼ鉄道事業によるものであり、赤字解消のためには鉄道運賃の値上げを行う以外の方策がない状況であった。私自身、鉄道博物館に展示されていた「国鉄(わたくし)は話したい」という国鉄の運賃改定に関するチラシを見て感じた当時の国鉄の運賃値上げへの必死さは印象に強く残っている。これには国鉄が公共企業体という独立採算を前提とする団体であったことも影響していると考えられるが、ここでは公共企業体に関しての議論は避けることとしたい。いずれにせよ、設備の維持だけでも多額の資金が必要となる鉄道事業者に対して、収入獲得方法に関する「選択肢を増やす」ことができたということは民営化による好影響といえるのではなかろうか。

 続いて、好影響の2点目としては巨大組織の解体による職場規律の乱れの解消が挙げられるであろう。組織が巨大になると、その管理が末端の現場まで行き届きにくくなってしまう。特に、国鉄末期には労使関係が極めて悪化しており、それに伴う労働意欲の低下が社会的にも問題視されていた。国鉄の最大の目的である鉄道輸送にもその影響が大きく出ており、国鉄の構造改善は鉄道業者としての責務を全うするためにも必要不可欠であったと考えられる。そのため、国鉄を分割民営化することにより、風通しが良くなることで労使関係 の改善が見られ、鉄道業務をきちんと行うことが可能になったことも好影響と考えることが出来るのではなかろうか。今でも、国鉄からJRへの移行による大きな変化として、職員の勤務態度(主に旅客に対する姿勢)の改善を挙げる人は多くいるように思われる。

 では次に、悪影響についてはどのような点が考えられるだろうか。まず1点目として挙げられるのは、都市と地方の二分化である。「民営化」により、JR各社はより企業としての利益を重視することが求められるようになり、営業係数が莫大である路線については廃線にしていくという方針がより鮮明化している。また、「分割」により地方交通を担うことになったJR四国やJR北海道においてはほとんどの路線が赤字となっており、かつての「都市の路線での利益をローカル線にまわす」という方策が通用しなくなっている。このように、分割と民営化の2つの要因により、地方の鉄道網が脆弱になってしまうという都市と地方の二分化が促進されてしまったと考えられる。ここで非常に興味深いのが、分割民営化当時、分割は地方の利益になると考えられていた点である。つまり、分割により地域と一体化した企業となることで地域に即したサービスを提供できると思われていたのである。しかしながら、そのサービスを十分に提供できるだけの利益を得られていないというのが現状である。

 2点目は、完全民営化によって大株主となった海外投資ファンドからの要求やその圧力に対応する必要性が出てきてしまったことが挙げるのではなかろうか。今現在、全てのJRの会社が完全民営化を行った訳ではない。しかしながら、国は完全民営化を促進しており、この問題については将来的に全ての鉄道会社で問題になることであると思われる。完全民営化とは国又は公共団体の経営する企業について株式の100%を民間に売却し政府の株式保有がなくなった状態を指すものであり、このような状態において、鉄道会社は通常の株式会社と同様に株主への対応をすることを求められる。そして、大株主による株式の保有率が高まるにつれて株主による会社支配が始まってしまうことも懸念される。このように、日本の交通輸送を担う重要な存在であるJRが海外の投資ファンドに実質的に支配されてしまう構造を作り出してしまったことも一つの悪影響であるといえるのではないだろうか。

 ここまで、国鉄の分割民営化について好影響と悪影響の両方を挙げて分析してきた訳であるが、我々はこの分割民営化という出来事から「決断には必ず複数のメリットとデメリットが存在し、それは決断を下す時に顕在化していない場合もある。」ということを学ぶべきではないであろうか。この結論を聞くと、顕在化していないデメリットを推測するのは不可能でないかという疑問を抱く方もいるかもしれない。しかし、今回の都市と地方の二分化のような顕在化してない潜在的な(将来的に顕在化する)要素を含んでいるかもしれないという前提のもとで物事を俯瞰的・客観的に分析し、決断を下すことが重要なのではなかろうか。私は、このような姿勢こそが私のように技術者や研究者を志す者に求められる姿勢なのではないかと考えている。


学生による論文(34)「破綻への線路」 渡邊 瑛大(2021年度の「土木史と文明」の講義より)

2021-12-03 09:54:10 | 教育のこと

「破綻への線路」 渡邊 瑛大

 国鉄がJRに民営化されたことで、鉄道の運行だけでなく設備の維持や管理まで民間企業であるJRに業務を委託された。そして、これまで役割を担ってきたインフラの更新の時期となった今、JRは赤字に悩まされる顛末となってしまっている。

 例えば、JR北海道では新幹線と、札幌近郊路線である千歳線や函館線の小樽から札幌、岩見沢の区間、室蘭線の苫小牧から沼ノ端の区間は黒字であるが、これらの区間はJR北海道が管理している全線のうちではほんの一部でしかない。また、JR四国では、瀬戸大橋線と予讃線のみで全体の60%以上の収益をあげており、この2つの路線で経営が成り立っていると言っても過言ではない。このように、JR北海道とJR四国はドル箱路線が僅かな区間しかなく、ほとんどが赤字路線であり、経営の厳しい2社は、営業赤字を補填してなんとか鉄道事業を成り立たせるために、JRを所管している国交省に支援措置を求めているが、国は依然として投資を渋っているというのが現状である。

 もちろんJR東日本やJR西日本でも地方の路線は赤字である。JR西日本の鉄道事業の運営は山陽新幹線と北陸新幹線に完全に頼っており、同様にJR東日本の鉄道事業の運営は新幹線と首都圏の在来線に依存している。特に、山田線や気仙沼線、只見線などの地方ローカル線は営業係数がかなり悪く、JR東日本でなければ間違いなくすでに営業廃止になっているであろう。

 そして、こうした厳しい経営状況を少しでも和らげ、設備投資をしようとして、JRはいくつかの方策を行ってきたが、それらには様々な問題点がある。

 1つ目は、人員の削減とそれに伴う駅の無人化やみどりの窓口の廃止である。ここ数年でJR東日本の多くの駅がみどりの窓口を廃止している。また、JR西日本ではみどりの窓口の閉鎖だけにとどまらず、駅を無人化する動きが数多く見られる。確かに、人員の削減による人件費の削減は重要かもしれない。しかし、それによって利用客に大きな影響を及ぼしてしまっている。最近では、小淵沢駅のみどりの窓口の廃止が大きな波紋を呼んだ。みどりの窓口が閉鎖される前は、駅員がみどりの窓口で利用客の切符を発行していたが、閉鎖後は指定席券売機に多くの利用客が並び、駅が混雑するようになったため、結局駅員が券売機の近くに立って案内するという事態になってしまっている。つまり、効率化を求めてみどりの窓口を廃止した結果、切符の発行に余計に手間が掛かるようになり、コストを無駄にした意味のない方策だったのである。こうした状況を見ると、駅員の無配置によるサービスの低下が原因で、今後利用客が減少してしまうということも懸念される。したがって、駅の無人化やみどりの窓口の廃止は特急が停車する駅や利用客が多い駅では止めるべきであると私は考える。

 2つ目は、地方ローカル線の廃止や三セク化である。確かに、営業係数が大きい路線を手放すことで、赤字を減らすことは可能である。しかし、地方ローカル線の廃止は、地方と都市や地方と地方を繋ぐ手段を断つということであり、地域同士の交流がなくなってしまう。これは、地方活性化とは相容れない行為であり、むしろ地域を衰退させる主な要因となってしまう。また、第三セクターへの移管は、近年新幹線の開業によって地方部でよく見られるようになった。例えば、JR北海道では江差線が道南いさりび鉄道として、JR東日本では東北本線の盛岡駅から青森駅までの区間がIGR(いわて銀河鉄道)と青い森鉄道として、信越本線の軽井沢駅から篠ノ井駅、長野駅から妙高高原駅の区間がしなの鉄道として、その先の妙高高原駅から直江津駅までの区間がえちごトキめき鉄道として生まれ変わった。JR西日本では北陸本線の金沢駅から直江津駅までの区間がIR(いしかわ鉄道)とあいの風とやま鉄道、えちごトキめき鉄道として、JR九州でも鹿児島本線の八代駅から川内駅までの区間が肥薩おれんじ鉄道として新たに運行を始めることになった。三セク化を行うと容易に運賃を上げることができる。そのため、既に利用客が減少傾向にある地方部の鉄道では、採算性の低下によって運行頻度を減少させたり、運賃を値上げしたりすることになる。すると鉄道の交通手段としての競争力が乗用車と比較すると下がるため、鉄道の利用率がさらに下がり、負のスパイラルに陥ってしまう。こうした状況に進んで行かないようにするためにも、主軸としての新幹線とそれに並行する在来線の2本の動脈を維持することによって、鉄道事業のサービスを維持していくべきであると私は考える。

 もちろん、鉄道会社は運行の安全を最優先に考慮するべきであり、そのためにはインフラの建設や更新に投資を行う必要がある。しかしながら、この問題をお金のない鉄道会社だけが背負い、解決しようとしている現状を見ると、私には、この国の鉄道事業の制度が欠陥だらけなものに感じられる。特に、公共交通機関に対して投資を渋るという行為については甚だ疑問であると言わざるを得ない。このような状況を脱出し、経営に苦しむ鉄道事業を救うために、国の力が必要なのは間違いない。具体的には、インフラの維持や管理を国が担うことで、JRは運行に専念することができ、鉄道のサービスを向上させることができるのである。国が鉄道に投資をしない限りは、この国の鉄道は破綻へ向かう線路を進むだけだろう。

参考文献(2021年11月26日閲覧)
東洋経済オンライン「JR東日本の新幹線『一番稼げる』のはどこか」
https://toyokeizai.net/articles/-/193269
東洋経済オンライン「『100円稼ぐのに10万円もかかる路線』がある」
https://toyokeizai.net/articles/-/195313
東洋経済オンライン「JRで一番『効率よく稼ぐ路線』は九州にあった」
https://toyokeizai.net/articles/-/196356


学生による論文(33)「細田先生はバグ?」 村岡 泰輝 (2021年度の「土木史と文明」の講義より)

2021-12-03 09:52:45 | 教育のこと

「細田先生はバグ?」 村岡 泰輝

 私は新幹線技術というものが幾度も事故やトラブルを起こしながらも地道な技術者の努力によって構築されてきたことを知り誇らしく思った。いまや世界中の多くの人々が新幹線を完全なシステムだと思っている。そのため、マスコミは新幹線のちょっとした事故でも騒ぎ立てる。しかし中の技術者たちはそうは思っていなかった。人間が作ったものに完全なものは無いと分かっているのだ。『大切なのは常にバグ(南京虫)に注意し,大きなバグになる前につぶすことである。』とおっしゃっていたが、たくさんのバグをつぶしてきたからこそ、新幹線は人間が作った交通システムの中で最も安全性の高いシステムだと胸を張って言えるのだろう。

 人間が作ったものには常にバグが存在する。プログラミングでも人間が作ったセキュリティならばバグや弱点がありそこを突かれればたちまち大きな障害を引き起こす。人類は失敗から学び、失敗を引き起こす悪いバグを修正することで地道に発展してきた。

 さて、バグの話を聞いて、あるアニメ作品を思い出した。「世界の“システム”と呼ばれるものに支配された人類の中にバグで生まれた主人公があらわれる。主人公は“システム”から逃れながら、世界の仕組みを解明し、世界の不合理を壊す。」ここで先ほどまでとはバグが違うとらえ方をされているのに気付いただろうか。バグである主人公が世界を正しい方向へと変えるように導いた。バグが世界を変えた救世主のように描かれている。作品中でバグは世界の“システム”にとっては悪いものであるが、人類にとってはハッピーエンドに導く英雄だ。

 バグや異端なものと思われたものが世界を変えたことは歴史上にもあるだろう。例えばガリレオ=ガリレイが地動説を唱えたときに異端とされ有罪となったのは有名な話である。世界の常識を変えてきたのはその時代に異端者ともてはやされた人が多いのではないだろうか。彼らは決して特別な人ではない。大衆性に流されず自らを信じて学びを続けたからこそ真理に気づけたのだ。このような人たちは大衆性(常識)という“システム”にとってはバグなのかもしれない。

 人が理想のシステムを追い求める限りバグは生まれる。だから理想のシステムにするために悪いバグはつぶさなければならない。私は工学的な技術システムにはバグは不要だと考える。そして同じように考えると、「彼ら」は全人類を自分に都合のよいシステムとして稼働するように誘導し、大きな力で邪魔になるバグを排除しているのかもしれない。「彼ら」は彼らなりに完全なシステムを目指してバグとなる意見を排除しているのかもしれない。しかし世界には多様性を守る意味でもバグと呼ばれるものがあっていいと私は考える。

 私たちは「彼ら」が作ったシステムに縛られてはならない。自由な考えを持ち、システムが不合理ならばシステムのバグになってシステムに対抗すればいい。「彼ら」はバグをつぶそうとするだろうが、負けてはならない。所詮は人間が作ったものだから必ずシステムの弱点があるはずだ。その弱点を突いてバグが世界を変えないとハッピーエンドで終われないだろう。「彼ら」の作ったシステムの洗脳から抜け出した細田先生や土木史と文明を受けた私たちはシステムの中に生まれたバグなのかもしれない。

Ps.『デカダンス』という最近の作品でテレビアニメのみの作品です。世界観が独特で面白いです。

 


学生による論文(32)「鉄道に感謝 ー少し遅れたくらいでイライラするな、日本人ー」 宮内 爽太(2021年度の「土木史と文明」の講義より)

2021-12-03 09:51:00 | 教育のこと

「鉄道に感謝 ー少し遅れたくらいでイライラするな、日本人ー」 宮内 爽太

 我々は鉄道にしろ、ダムにしろ、身の回りにある様々な「土木」の力に感謝しなければならない。このことは、本講義を真面目に受けてきた人間なら、誰しもが頷けるだろう。鉄道、そして土木がこの世から無くなってしまったらどうなるだろうか。答えは議論するまでもないだろう。今回は土木の中でも特に鉄道に焦点を当て、いかに鉄道が我々にとって必要不可欠な存在であり、重要な存在であるかについて、日常生活と緊急時に分けて述べる。そして、日常生活については日本の鉄道の時刻の正確性についても言及したい。

 まず、日常生活と鉄道の関わり合いについて。日本において、鉄道は通勤や通学の代表交通手段であり、日々数え切れないほどの人が利用している。それは他国と比べても明らかで、新宿駅や横浜駅、大阪駅など、大都市にある駅の乗降客数は世界トップクラスである。おまけに、新宿駅はその人数の多さがギネス世界記録にも認定されているようだ。また、その人数を支えているのが高頻度運行であり、山手線や京浜東北線などではピーク時には2、3分毎に電車が来るようになっている。また、その高頻度運行は在来線だけに限らず、高速で走る新幹線においても実現されている。そして、その高頻度運行をさらに支えているのが、ダイヤの正確さである。多くの鉄道会社では、到着時刻や発車時刻がおよそ15秒単位で決められており、本当にその時刻に合わせて走らせていることが何より凄いことであり、技術力の高さが確かめられる瞬間である。しかし、海外では電車が数分遅れて来るということは普通に起こり得ることであり、日本がむしろ異常なほど時刻に正確である。そのため、日本では電車が数分遅れて来るだけで苦情の嵐であり、それは高頻度で運行する路線ほど、その様子は顕著であるだろう。なぜそのように言うことができるのかについては、次に述べる、とある経験を踏まえた上での理由がある。

 私は現在、某駅で駅係員のアルバイトをしており、通学で鉄道を利用しなくとも、日常的に鉄道と密接に関わっている。通常通りの運行中、突然車両点検が必要になったり、急病人が発生したりすることなどにより、電車に遅れが生じる。高頻度で走る路線ほど、少しの遅延でホーム上は人で溢れ返ってしまい、駅や車内がパンク状態になり、入場規制をかけることもある。このような状況になると、やはり多くのお客様から、「次の電車はいつ来るのか。」、「いつになったら運転再開できるのか。」などといった苦情が、イライラした感情を込めて寄せられる。しかし、大概の場合は5分から10分もすれば運転が再開するのだが、それにもかかわらず、なぜ待つことができず、駅員にその怒りをぶつけてしまうのだろうか。実際、私の実家の地域にも電車は走っていたが、今働いているこの首都圏ほどの高頻度運行でもなければ、路線も複雑ではなかった。そこでも、電車が遅れることは勿論あったが、それほど多くの苦情や混乱には至らなかった。

 これより、対比して言えることは、電車の遅延に対する感覚の違いは、国ごとに見られるだけでなく、国内の地域ごとにも見られるということだ。例えば、山手線は2、3分待てば次の電車が来るのに対し、人口が少ない地域、特に北海道などでは1時間に1本ではなく、1日に数本というレベルの路線がいくつかある。高頻度で運行されている地域で過ごしていると、それが常識になってしまい、かつ「日本の電車は定時性に優れている」という常識が合わさった結果、電車が遅延してしまうと、その常識が覆される形になるため、不満という感情になる。交通(電車)が発展している地域ほど、それがなければ日常生活を送ることはできないのだから、もし電車が遅れてしまったとしても、すぐに感情に任せて怒るのではなく、少し許容するような余裕を持ち、逆に改めて鉄道の普段の正確さ、偉大さ、土木の凄さに気づくことができるような人間・日本人が増えることに期待したい。

 話を本題に戻すと、鉄道は私たち自身が直接乗車し、利用していなくとも、間接的に恩恵を受けている。決して、普段電車に乗らないからといって感謝しなくてよいという訳ではないのだ。その間接的な恩恵の具体例として、鉄道による貨物輸送である。貨物では、農産物や温度管理が必要な物質、液化天然ガスなどの液体品、廃油や汚泥などの廃棄物も輸送している。これらの輸送されてきたものを、私たちが食べたり、利用したり、あるいは使ったものをも輸送してらったりしている。まさに、日常生活を送るためには必要なものである。

 ここまで挙げてきた事柄から分かるように、鉄道は日常生活に密接に関わっている。

 そして、緊急時における鉄道との関わり合いについて。緊急時とは、具体的には災害発生時を想定する。災害発生時には、電車は運転見合わせになるか、あるいは鉄道構造物が直接被害を受けて、運行不可能になることがあり得る。そうなった場合、駅は帰宅困難者で溢れ出し、タクシーを待つ人々の行列ができる。鉄道がなければ、家にも帰れないような人が、災害発生時には数えきれないほど発生する。鉄道が日常生活には必要不可欠であったことが感じられる瞬間であろう。

 また、以前の本講義の論文内でも述べたように、災害時のリダンダンシーとして、被害を受けた鉄道路線を、別の路線でカバーするということが可能である。鉄道路線が複数本存在するおかげで、私たちは災害発生後からまもなくして、鉄道による国内の移動が可能になり、また、貨物も走ることができる。この鉄道のリダンダンシーの恩恵を受け、また日常生活の話に帰着する。よく言われる、「失ってから気づく大切さ」とはまさにこのことかもしれない。

 このように、鉄道は日常においても、緊急時においても、我々の生活を支えてくれる存在であり、鉄道なしに日本はここまで発展することはできなかっただろう。そして、緊急時も経験したことで、失ってからその大切さに気づくこともできた。しかし、そこから時間が経てば、また当たり前のように走っている存在として捉えられてしまうのだろう。そうなってしまわないよう、日頃から鉄道に感謝し、土木に感謝して、この先もずっと鉄道を愛し続けたい。

参考資料
・Guinness World Records “Busiest station” https://www.guinnessworldrecords.jp/world-records/busiest-station
(閲覧日:2021年11月26日)
・JR貨物HP  https://www.jrfreight.co.jp/
(閲覧日:2021年11月26日)


学生による論文(31)「過去・現在・未来から鉄道の社会貢献を考察する」 松尾 祐輝(2021年度の「土木史と文明」の講義より)

2021-12-03 09:49:57 | 教育のこと

「過去・現在・未来から鉄道の社会貢献を考察する」 松尾 祐輝

 鉄道が社会に貢献する、すなわち社会で有効なシステムとして働くためには、車両とレールの「建設」および「補修」、そしてそれを行うソフト的なシステムが必要である。さらに、利用者である「人間」に対して正しい鉄道の使い方を教授し、実際に正しく使ってもらう必要がある。私のような大学生は、これまで記憶のある範囲で約10~15年の鉄道発達の歴史を目にしているが、歴史年表的にはその期間は短く、大まかに「現在」として近似することができると考えられる。それゆえ、普通に生活しているだけでは鉄道の「過去」を知ることはできず、「未来」についても自主的な意欲がなければ想像するのは難しい。しかし、現在鉄道が多大な社会貢献をしていることを認知し、その社会貢献を未来にわたって持続可能にするための方法を考えることが重要であり、そのためには鉄道について過去・現在・未来の3つの視点から考察することが必要である。レポートでは、講義で得た情報からこの考察を行い、自分なりの意見をまとめる。

 まず過去についてであるが、講義を聞いて今の鉄道の安全性との違いに驚いた。0から1の建設がメインであったことから、技術としてはまだ浅い時期であり、欠陥や事故もたくさんあったが、それが起きるたびに知恵を結集して改善策を考えた先人たちの努力は評価すべきものである。特に、過去の多大な努力が現在の安全性に直接関わっていることは認知すべきことである。多くの欠陥があった過去の事例は決して忘れてはならず、現在や未来に反省として活かしていく必要がある。現在や未来において新たな技術を開発するとき、これらの欠陥を忘れていると再び同じ欠陥を招く可能性があるからだ。

 現在においては、鉄道は運転の技術がない人でも簡単に乗れ、誰でも遠くまで早く安全に行くことができる優れものであるように感じる。もともと「歩行」という能力でしか移動できなかった人間が、鉄道という乗り物を通して高速で移動できることは、昔では考えられない輸送力である。さらに、乗り換え検索アプリの発達や、秒単位の緻密なダイヤ構成によって、事前に綿密な移動計画を立てることも可能になっている。これは鉄道ならではの強みであり、トラブルとなる事象がなければ到着時間の不確実性はかなり小さい。

 未来の鉄道を明るくするために現在求められることとしては、補修技術の促進と、高度な技術社会における安全性の確保が挙げられる。現在は、建設のピークが過ぎ、建設と補修の狭間にいる時期であると考えられる。今は過去に建設した「ストック」が問題なく効果を発揮している時期であるため、鉄道の社会貢献度と安全度は高いように思われるが、過去の技術をないがしろにし、補修すべき部分があっても何もしなければ、未来にわたって鉄道が社会に貢献することは難しい。そのため、建設の技術だけでなく補修の技術を発展させ、未来に備えることが必要である。また、高度な技術社会においては、誤った人間教育や過度な技術開発が安全性崩壊の命取りとなる。「誰でも」乗れるが故の電車内での殺傷事件や、他社との直通を発展させるが故の運転見合わせ時の影響など、過去に比べると起こり得る危険事象の数が増えているため、一人一人の考えの変化や、技術の発達の仕方にも気を配る必要がある。

 いずれにしても、今のうちから持続可能なシステムを作っておくことが、未来でも鉄道が社会貢献をできるための最低条件である。なお、このシステムは日本全体の鉄道を指しているため、システムの向上のために、一部の路線を廃線にするなどの要素の調節が必要となる場合もある。今後の人口減少による人手不足への対応や、欠陥が見つかった際の代替手段の準備など、未来に向けた課題はたくさん残っている。

 


学生による論文(30)「やはり改善すべきなのは、、、」 服部さやか(2021年度の「土木史と文明」の講義より)

2021-12-03 09:48:42 | 教育のこと

「やはり改善すべきなのは、、、」 服部さやか

 前回のレポートでは、国民と我々土木の専門家がどのように変わるべきであり、どのような関係でいるべきであるかを述べた。今回の論文は今までのシリーズから1度離れ、授業の冒頭で触れた鉄道大国日本という内容について言及していく。

 授業内で、山之内氏は世界で一日に鉄道を利用する人の半数は日本人だと述べた。実際にこれは今の社会に反映してみると変化があるかもしれないが、鉄道利用者のうちの多くを日本人が占めているのは確かなのである。ではなぜ日本では、世界の中でも鉄道が発達し利用客が多いにもかかわらず多くの都市でモータリゼーションが問題になり、鉄道事業が多くの赤字を抱えてしまっているのか。今までの自分の論文の内容も踏まえ、自分なりに意見を論じる。

 まず上の問の理由として、確実に都心部と地方部の格差が大きくなっていることが挙げられる。これは、いわゆる日本の都心と呼ばれる東京近辺では地方部に比べてかなり公共交通機関が発達し、自動車を利用するにも利用しずらい都市ができているということである。都心に比べ、地方部では人口が減る→公共交通機関の需要が減る→公共交通機関のサービスが低下する→モータリゼーションが進む→公共交通機関の需要が減る(以下略)という負のループが完成してしまっている。これはかなり深刻なことである。都心部の公共交通機関の発達という良いループと地方部の負のループが促進することで、全体で見れば鉄道利用者の変化はあまり見られないが、確実に地方部でのモータリゼーションは進み、それに伴って多くの環境問題や都市計画における問題が発生しているのである。これらを踏まえ、私が考える有効な改善方法をいくつか示していく。

 まず1つ目は、都心の人口集中の阻止である。現在の社会では都心の過密化と地方の過疎化が進み、それに相まって都市計画の面でも経済の面でも多くの問題を生み出している。だからこそ、都心部と地方部の格差を無くすという目的には、都心の人工集中を阻止することが有効なのである。これは、現在のコロナ禍で少し緩和している部分もあるかもしれない。多くの企業がこのコロナ禍において、オンライン上の機能を利用したテレワークの可能性を見いだし始めた。それにより通勤の必要性が考え直され、もはや会社の近くに住む必要性すら疑問を抱かれるようになった。このような風潮から、とても完全にとは言えないが少しずつ都心から人が離れていると言える。これは良い風潮なのではあるが、コロナ禍が明けたあと都心の人口が戻るか戻らないから我々の行動にかかっていると言える。

 2つ目に地方部の居住環境の向上である。現在、地方部では人口が減るに伴って多くの居住に関するサービスや環境が低下している。このままでは間違いなく、住み良い都心部と地方部の溝は埋まらない。だから今こそ、国土交通省は投資と考えて思い切って多くの資金を投入することでこの負のループを食い止めるべきであると考える。何か起こってからこのきっかけが作られるのでは遅い。負のループが深刻化する前にこれを食い止めなければ、地方部と都心部の格差はこのままなのでは無いのか。

 以上2つの理由を述べてきたが、これらをわかりやすく整理するとやはり、我々が今すべきなことはコンパクトandネットワークシティの整備なのである。今までの論文で散々コンパクトシティとスマートシティについて言及しできたが、題材が打って変わった今回も結局この話題に戻ってきてしまった。つまりは、そういうことなのである。何をするにも解決の部分は大元に戻ってきてしまうということなのである。これでよりいっそう、コンパクトシティ、スマートシティの整備の重要さが伺えたことであろう。私たちが今すべきことは、明白なのである。


学生による論文(29)「天使と悪魔」 西浦 友教 (2021年度の「土木史と文明」の講義より)

2021-12-03 09:47:15 | 教育のこと

「天使と悪魔」 西浦 友教 

 今日の講義を含めここまで八回、土木史と文明Ⅰの講義を受講してきた中で土木に関することはもちろん、土木の範疇を飛び出して、世の中をどうよくするのか、一人の人間としてどう生きていくのかについて学ぶことができているように感じている。そのようなことを考え、意識しながら細田先生の講義を聞いていると、「どんな情報を信じるのか、どこから情報を得るのか」ということが自分の思っている以上に大切であると認識できる。特に、毎時間細田先生が紹介してくださる本は、私たち若者がこの先の人生で糧となる情報を得る手段としてとても優れている。しかし、それが分かっていてもついつい私たちはSNSやテレビのワイドショーなど、容易な情報の得方に目を向けてしまう。SNSやテレビのワイドショーが悪いというわけではないが、それらは注目を集めるため、無理に人間の「間違い」を知らしめているように感じる。このような私の感覚を代弁してくれたかのような曲が、この文章のタイトルにもなっている「世界の終わり(SEKAI NO OWARI)」というアーティストの「天使と悪魔」という曲である。以下、「天使と悪魔」の歌詞を私なりに解釈しながら、細田先生の言葉と結びつけて意見をまとめたいと思う。

 「天使と悪魔」の序盤の歌詞に次のようなものがある。

『大人VS.大人の正解・不正解のバトル TVで子供らに教える「ダレが“間違って”るか」』

 ワイドショーでの政治に関する議論では当たり前となっているが、今日ではSNSに投稿される内容もそれが「正解か不正解か」の批評にさらされるようになった。そのような姿を見て子供は「ダレが“間違って”るか」を知る。非常に面白い歌詞である。その子供たちが大人になったら自分より下の人間に向けて、同じように「ダレが“間違って”るか」を教える。彼らもまた下の人間に「間違い」を知らしめる。そのように悪循環が生まれるのである。この悪循環を断ち切る術として「誰かが疑問を持つ」というものがあると考え、その糸口を細田先生の言葉から見出せるような感覚を私は持っている。

 また、曲のサビに次のような歌詞もある。

『悪魔と天使の世界であちらが正しいとか こちらが間違ってるとかわからないんだ』

 私の文章では天使を「TVのタレント・コメンテーター」や街角インタビューに答える「市民」、悪魔は「炎上する政治家やグループ」とイメージする。天使は自分たちに「道徳」があると思っており、悪魔は自分たちに「賢さ」があると思っている。お互い「道徳」と「賢さ」という違う武器を振りかざして言い争うが、論点がずれていることが多く、解決には至らない。この例えの状況には大きな無力さを感じてしまう。やはり、このような現代社会で目立つ「天使と悪魔」による無力さを漂わせる争いの波に飲み込まれないようにする術として、上記にも述べた「誰かが疑問持つ」ということが重要であると感じる。

 また、加えて、「人への賛美と嫌いな人への無関心」が有効であると感じる。気に入らない人や意見を非難するのではなく、共感できる人や意見を見つけ、発信し、注目を向けさせるのである。すべてのことに無関心であるのは大人として無責任であるが、誰かを肯定しながら抱く無関心は身の回りの環境をよくすると考える。

 今日の講義の終盤に細田先生がおっしゃっていた「やる気のない人はいい、やる気のある人と一緒に突き進むだけ」という言葉も「人への賛美と嫌いな人への無関心」に通じるものがあると解釈した。この先も疑問を持ちながら学びを続け、成長し、振り返ってみたら「共感できる人や意見と一緒に突き進んでいた」と気が付くことのできるような人生を送りたいと感じる。

<引用>
「天使と悪魔」世界の終わり(SEKAI NO OWARI)
作詞作曲:Fukase
発売日:2010/11/03


学生による論文(28)「インフラが『規定』するもの」 中村 優真(2021年度の「土木史と文明」の講義より)

2021-12-03 09:45:47 | 教育のこと

「インフラが『規定』するもの」 中村 優真

 授業では関東圏の五方面作戦の話が取り上げられた。この作戦は、1960年代ごろから、関東圏の激しい混雑に対応するために、主要幹線を急行線と緩行線に分ける形で複々線化させていったものである。

 この作戦における特徴としては、ほとんどの路線で、急行線同士、緩行線同士の上下が並ぶ路線別複々線となっており、急行線を走る列車から緩行線を走る列車に乗り継ぐには、一度ホームから降りて駅の階段を渡る必要がある。関東圏の駅の混雑は激しく、一度階段を渡って乗り継ぐだけでも、5分程度の時間がかかってしまうことが多い。こうした場合、緩行線のみの停車となった駅にとっては、本数こそ増えても、今までは同一ホームでの待ち合わせの際に乗り継いでいた優等列車への乗り換えの利便性が低下することによりかえって遠方の駅へのアクセスが低下するという現象が起こってしまう。特に、常磐線のように、緩行線が地下鉄に直通、急行線が上野方面に向かうといった具合に急行線と緩行線の向かう方向が分かれている場合は、特に乗り換えなどに不便が大きい。そしてもちろん、この当時に作られた駅は、今ほどバリアフリーに対する考慮もなされておらず、車いすの方が乗り換えを行う場合には駅員に連絡したうえで専用の昇降機を用いないと乗り換えできない駅もある。

 一方で、関西を見渡すと、東海道・山陽本線などしっかりときれいな、上りの線路が2本、下りの線路が2本横に並ぶ形の方向別複々線となっており、急行線と緩行線の間での乗り換えが基本的に同一ホームでできるようになっている。

 関東が路線別複々線の不便な形になってしまった背景としては、国鉄が五方面作戦を含めた長期計画を策定した1965年当時、関東周辺では通勤時間帯の混雑度が路線によっては300%を超えるような事態となっており、一刻も早く線増が求められていて、路線別複々線のほうが折り返し箇所などの配線が組みやすく手早く線増が可能となるからであろう。しかし、このように急いで仕立ててしまったことによってできたこの配線を、今から変更するような工事をするのは、関東圏の列車を長期にわたって機能停止でもさせない限りとても厳しく、これは当時の線増が急ごしらえ、かつ当時のバリアフリー基準によって乗客にとって不便な形に「規定」してしまったということになる。当時の事情を考えれば仕方ないにしても、インフラを作る際には、このようにほぼ永久的にシステムの構造を規定してしまうということに留意し、なるべく長期的な視野で質の高いものに仕上げる必要がある。

 インフラによる「規定」は、ある程度の「余地」を作ることで和らげることができる場合がある。2014年に開業した上野東京ラインの線路は、東北新幹線の東京延伸時にいったん在来線の東京~上野間の線路を廃止した際、新幹線の線路の上にもう1本在来線の線路を増やせる余地を準備してあったところに作られたという。このように、将来必要になった際の拡張性をもたせておくことも、インフラが「規定」するものに対抗する手段である。

 国民の意識もインフラの「規定」に対抗する手段であるのかもしれない。日本では、渋谷駅や品川駅など線路改良工事で少し運休するだけでも、極力回数を1,2年に1回ペースに抑えたうえで、数か月前から大々的に告知され、それでも調べて、見ていなかった人々からクレームを浴びる場合も多い。一方、海外を見渡すと、アメリカのニューヨークの地下鉄では、100年以上の歴史を誇るインフラのバリアフリー化などの改良を行うため、利用者の少ない時間帯などを見計らい、ほとんどの日でどこかしらで改良工事による運休や駅の閉鎖なども行っている。ニューヨークの市民はそのような事態に慣れており、代替の交通手段などを文句も言わず使っているものと考えられる。

 ニューヨークほど日々運休などを繰り返しつつ作業するのはいかがなものかと思うにしても、もう少し日本人もこのようなインフラを維持するための作業や、そのために必要な協力事項などに関心を持ち、このような運休ももう少しすんなり受け入れられるような環境になることが、今後過去の「規定」から解放され、インフラを更新していくために必要なことなのかもしれない。

 


学生による論文(27)「表面からは見えないこと」 中村 陽斗(2021年度の「土木史と文明」の講義より)

2021-12-03 09:44:46 | 教育のこと

「表面からは見えないこと」 中村 陽斗

 我々は日々様々な情報を取り入れており、それらに対し様々な判断をしている。入ってくる情報の量は膨大であり、それらに対し何らかの判断をするためにさらに必要な情報、労力を考えると自分が得たすべての情報に対して適切とされるような判断をするのは容易なことではない。そのため我々は情報の表面だけを見て短絡的な判断をしてしまうことがしばしばある。もちろん以前の授業で先生が例として挙げられていた阪神が優勝を逃したというニュースなど処理するのにも労力をかける必要がなく、またそれに対し不適切な判断を下す恐れがほぼないような情報も存在するが、入ってくる情報はそのようなものばかりではない。例えば新型コロナウイルスの一日の感染者数である。感染者数だけ追っていても感染状況がよくなっているのか、それとも悪くなっているのかというのは分からないが、情報の表面である一日の感染者数やその推移のみを見て状況を判断してしまうという人がいた。

 都市基盤の専門とするインフラというのは特に情報の表面のみで短絡的な判断をされてしまいやすい分野であると思う。授業の例で出てきた地震の際の新幹線の脱線も地震の際に新幹線が脱線したという表面だけ見れば失敗でしかないという判断になるかもしれないが、それ以前の地震の際に起きてしまった悲惨なインフラの破壊のされ方がなく脱線のみで済んだという見方をすれば改善点はあるかもしれないが対策が成功した部分も大いにあるという判断ができるだろう。また、コンクリートの構造物では大きな地震が発生した際のひび割れ方を誘導し、エネルギーを吸収することで人命、財産を守るという設計がなされているが、ニュースでは地震でコンクリートの橋脚にひびが入ったという失敗の例として報じられることもある。このように短絡的な判断をされてしまいがちな分野であるからこそ技術者サイドとしては単に専門的な知識や技術を持つのみではなく、それらを伝えるコミュニケーションのスキルというのも磨くことが重要であるとともに、それら情報を国民に伝える役割を担うメディアがこちらの意図するところと異なる伝え方をしないかチェックしていくということも必要になると考える。

 情報を伝える側が悪意なく、様々な情報を偏りなく与えていけば誤った情報の処理というのも減っていくと思うので重要なことである。しかし、より重要なのは適切に処理することができる人が増えるということである。なぜなら情報を適切に処理する能力というのは国民全員にとって必須の能力であると考えるからである。たとえ専門的な知識やニュースの内容を理解できなくてもいいという人であったとしても人のことを噂や見かけだけで判断することはしてはいけない。このように情報の適切な処理というのは生きるうえ、他者と関わるうえでも重要なことであるから情報が処理しやすい形で手に入れられることに期待するのではなく様々な情報に対し適切に処理する能力を磨くべきなのである。国民全員にとって重要なスキルというのは全員が受ける義務教育において習得すべきものである。情報の適切な処理という教育により力を入れ、その能力を習得する人が増えれば国民全体のレベルは向上していくだろう。 

 


学生による論文(26)「地方活性化の起爆剤としての単線新幹線の導入について」 白岩 元彦(2021年度の「土木史と文明」の講義より)

2021-12-03 09:43:08 | 教育のこと

「地方活性化の起爆剤としての単線新幹線の導入について」 白岩 元彦

 日本は昭和45年5月18日に全国新幹線鉄道整備法を定めて全国に新幹線ネットワークを構築することを目指しているが、現在はそのうちの3分の1程度しか完成しておらず、残りのほとんどは具体的な整備計画もない計画新幹線のままである現在の現状は非常で問題である。そうした状況を打開しいち早く日本全国に新幹線ネットワークを構築するために、私は未着工の基本計画線について、費用を抑えた新幹線整備の方法として単線新幹線の導入を検討するべきだと考える。この論文では四国新幹線を例に挙げながら、単線新幹線の有効性と実現可能性について考察する。なお、この論文では主張の分かりやすさを向上させるため、従来の2本の線路を使用する新幹線を複線新幹線、1本の線路を使用する新幹線を単線新幹線として定義して論ずる。
 単線新幹線を導入する利点として、複線新幹線と比べて安価で建設することができることが挙げられる。「単線方式による新幹線システムの建設単価推計(波床、向井)」の論文では、単線新幹線は複線新幹線と比べて、工事費が橋梁区間は約半分の46%、トンネル部分では約3分の2にあたる66%に縮小できると試算しており、単線新幹線は複線新幹線と比べて安価で新幹線システムを導入することができるといえる。そのため、あまり開業後も利用客が見込めず、複線新幹線では見通しが立たない地域にも費用の抑えられる単線新幹線を整備することで新幹線ネットワークを構築できる。

 一方で単線新幹線では新幹線が本来持つ長所とされる安全性や運転速度と密度が損なわれるという主張も存在する。確かに開業以来重大な事故を起こしてこなかった新幹線の技術力は素晴らしいが、利用客が東海道新幹線と比べて少ない地域では複線の新幹線設備は余剰であり安全に対しては新たな技術を開発することで問題を解決できると考える。現状維持で技術を使い続けていくのではなく、直面した課題に対して新しい技術の開発を目指すことでイノベーションを生み出していく必要があるのではないだろうか。もし単線新幹線でも安全に走行できる技術が開発されれば、今まで整備費用が高いことから建設されてこなかった計画新幹線の整備状況に風穴を空け、新幹線ネットワークの構築に大きく役立てられると考える。

 特に四国新幹線は単線新幹線の技術が開発されることで効果が大きく発揮されると考えられている。四国新幹線は本州・九州と四国をつなぐ新幹線の計画路線のことであり、2011年以降、基礎調査の結果を受けて、整備計画への格上げを求める誘致活動が活発化していて、リニア中央新幹線の開業に合わせた2037年の開業を目指している。単線新幹線とすることで建設費を大幅に削減しつつも毎時2本の発着を可能とした高速運転が可能となり、過疎化が進む四国がよみがえるための大きな足掛かりになると考えられる。

 ただし、四国新幹線の整備にあたっては将来的に複線化を行えるような余裕を計画段階から持たせることが必要であると考える。現在の状況では毎時2本ほどの運行本数で十分である四国新幹線も将来的に山陽新幹線の代替機能としての役割が求められる。東海道新幹線の容量向上と災害時の代替機能としてリニア中央新幹線が整備されているように、新大阪~博多を結ぶ山陽新幹線のバックアップとして大阪~高松~松山~大分間の整備が進むと考えられる。そのような場合、毎時2本程度の単線新幹線では容量不足であり、複線新幹線への変更が必要となるが、事前に単線新幹線を整備する際に複線化を見越した整備計画を完成させていれば、費用を抑えながらスムーズに新幹線の複線化を行うことができる。このように今求められている基準が将来にわたって適応されるのではなく、新たな基準が求められる場合もある。このような状況に対して社会基盤の整備では、時には無駄と思えるようなインフラの余白を残しつつも、常に長期的な視野を持ちながら誠実に対応していく必要があるだろう。

 以上のように、私は未完成のままである新幹線ネットワークを早く構築するため技術として単線新幹線を導入する必要があると考える。単線新幹線は地方活性の大きな武器の一つとなり、将来的な施設の余白を残しながら整備することで長期的に莫大なストック効果を生み出すインフラストラクチャーになるだろう。

参考文献
1.幹線鉄道ネットワーク等のあり方に関する調査 令和元年度調査結果 国土交通省
https://www.mlit.go.jp/common/001351144.pdf 
2.四国の新幹線実現を目指して
http://www.shikoku-shinkansen.jp/pamphlet_pdf/shikokushinkansen_pamphlet2.pdf 
3.単線方式による新幹線システムの建設単価推計 ―ローコスト新幹線システムの整備費用について― 波床 正敏 向井 智和


学生による論文(25)「過去を変える」都市科学部都市基盤学科2年 佐藤 鷹(2021年度の「土木史と文明」の講義より)

2021-12-03 09:28:11 | 教育のこと

「過去を変える」都市科学部都市基盤学科2年 佐藤 鷹

 過去は変えられない、と思っていた。それは時間軸を考えれば当然のことであり、遡って何かをやり直すことができないからである。例えば過去に犯した失敗は事実として残る一方で、これを経験に未来での失敗を減らすよう努力すればその結末は十分に変えることができる。未来の物事の結果は変えられるが、過去の物事の結果は変わることはない。しかし今回の授業で、過去の結果そのものは変わらないにしろ、過去の結果の“意義”はその後の出来事によって大きく変容する場合があることに気づかされた。

 授業内の線路の話で、今は無駄に思える物でも、未来では求められるものが変わり、それが必要とされるかもしれない、という話が出た。線路に限らず特に土木構造物はこうした性格が強い。すなわち土木構造物は今現在必要なものだけでなく、将来の非常事態に必要とされるものも整備する必要があるということだ。しかし即効性が求められがちな世の中では、未来の非常事態が実際に起こらなければ、その土木構造物が果たして本当に必要なのか、必要だったのか疑問視されてしまうこともままあり、満を持して建設に漕ぎつけたインフラが非難の矢面に立つことも少なくない。要は非常事態が実際になければ、インフラは無駄なものとして、立場上悪者になりやすいということである。しかし建設後、この過去の“無駄なもの”における意義は、非常事態時において大きく変容する。

 八ッ場ダムの例を挙げたい。民主党政権の「コンクリートから人へ」の流れのもとに、無駄な公共事業の象徴として事業が中止されたこのダムは、当時からしてみればその存在意義はほとんどないような状態で、世論も同様の方向に傾いていた。しかし2019年の台風19号で当ダムが下流域の水害防止に大いに貢献したという出来事によって、八ッ場ダムを建設した意義は、ほとんどないというものから、社会に欠かすことのできない、人命を守るため、というものとなった。すなわち八ッ場ダムを建設したという過去の結果は変わらないが、大型台風の襲来という非常時があったことによって初めて、過去のダム建設の意義が変容したのである。これはある意味で過去が変わったと言うことができるだろう。

 このように土木構造物は過去を変えることのできる可能性を秘めている。しかし何もこの過去の変容は土木構造物にだけ当てはまるものではない。我々の一般生活にも言えることである。自分が犯した失敗についても、後に何も特別なことを実行しなければ、過去に起きた変えられないもののままであるが、その後自分なりに努力をし、過去に意味づけをしてやれば、過去であっても変えることができる。正しい選択をすることも大切だが、自分の選択を正しいと言えるようにするために努力をすることも、同時に忘れないようにしたいと心から思う。


学生による論文(24)「人件費削減と安全性」(2021年度の「土木史と文明」の講義より)

2021-12-03 09:26:39 | 教育のこと

「人件費削減と安全性」

 1872年に日本初の鉄道路線がイギリスの技術によって開業されてから1世紀半、日本の鉄道は多くの失敗や経験から改良を重ね、今となってはイギリスに日本の鉄道車両やシステムを輸出するほどに技術が発達させられてきた。特に、日本人の慎重な国民性もあってか、日本の鉄道は安全面において非常に高い技術やシステムを有している。この高い安全性は単に鉄道車両の機械の性能が高いということだけではなく、列車が走る軌道に整備された信号システムや軌道を支える構造物が良くできていることや、列車の運転業務に携わる乗務員や指令員の持つ高い技術やヒューマンエラーの少なさの上に成り立っている。JR東日本や東京メトロなどが中古車両の譲渡をしている先として有名なインドネシアのジャカルタ首都圏鉄道会社では、上記のような安全性の高い日本の鉄道に近づけるため、JR東日本による乗務員の教育支援が行われ、指差確認喚呼などの日本式の事故予防対策が浸透してきている。

 このように日本の技術によって他国の鉄道の安全性も向上することは非常に喜ばしいことであるが、一方で日本国内の鉄道の安全性は現在も保たれているのだろうか。もちろん、通常の列車の運行に影響するハード面の技術は日に日に進化し、安全性は向上していくだろう(少なくとも低下することはないだろう)。しかし、鉄道の安全性に影響する要素はハード面だけではない。私が現在最も懸念しているのは、人件費削減のための都市部の長編成列車のワンマン化である。JR東日本は昨年から京浜東北線(10両編成)のワンマン化の検討を開始した。この事例では、京浜東北線にATOが備わった新型車両を導入することで運転士の負担を軽減するとともに、ホームドアの設置を進めることでホーム上の安全確保の負担も軽減し、乗務員の数を2人から1人に減らす形になっている。同様に都市部でワンマン化された路線は地下鉄を中心に割と多く存在するが、踏切の多い地上を走行する10両編成の列車がワンマン化されるとなると、また話は違ってくる。一番大きな問題は、事故等の異常発生時における初動の遅れだ。10両編成の列車の長さは実に200mにも及ぶ。異常が発生した際、1人しかいない乗務員が指令との連絡をしつつそれだけの長さの列車を確認するのはかなり大変であろう。また、重大な事件・事故が発生した際に確認に時間がかかっていると被害が拡大しかねず、これは安全性を損なうことに繋がると考える。

 日本の鉄道がいつでも安心して乗ることができる安全な交通機関であり続けるためにも、人件費の削減だけは進めないでほしいと強く思う。


学生による論文(23)「LRTが地方を救う」(2021年度の「土木史と文明」の講義より)

2021-12-03 09:07:21 | 教育のこと

「LRTが地方を救う」

 日本では地方から人が減り、地方経済が衰退する地方衰退が進んでいる。地方衰退の影響はその地方に拠点を置く多くの企業に影響を及ぼすが、地域鉄道もその中の一つである。一部では地域鉄道の経営が悪化して廃業となり、バスに転換することで公共交通を維持している事例もある。しかし、地方における地域鉄道は、地域の住民の通学や通勤の交通手段としての役割を担うとともに、地域の経済活動の基盤でもあり、移動手段の確保、少子高齢化や環境問題への対応、街づくりと連動した地域経済の自立などから、活性化が求められている重要な社会インフラでもある。まさに、地域鉄道は地方の経済、生活、交通、街づくりの基盤であり、地域復興のカギとなる存在なのである。そこで今回取り上げるのがLRTである。今回は、LRTによる地域復興の実現について論ずる。

 まず、地域復興を実現するためには、存続できる鉄道路線が必要となる。存続できる鉄道路線を考えるには、地域鉄道の本来の役割を考える必要がある。地域鉄道が直接的にもたらす利益は、鉄道事業としての利益と、地域の役にたつ公共事業としての利益がある。これらを考慮すると、存続できる鉄道路線とは、路線単体で利益がある鉄道、赤字であっても地域の交通手段として必要な鉄道、赤字であっても観光資源であり沿線に経済効果をもたらす鉄道の三つである。そして、これらの条件を満たすのがLRTである。

 LRTとは、昔からある路面電車とは異なり、最新の技術が反映された路面電車である。LRTの特徴は大きくわけて五つある。一つ目は、騒音や振動が少なく、快適である点。二つ目は、低床化のため、乗り降りが容易である点。三つ目は、専用レールを走るため、時間に正確な運行をする点。四つ目は、デザインが洗練されていて、街のシンボルにもなる点。五つ目は、道路上を走るため、他の交通手段との連携がスムーズになる点。これらの五つの点は、路線単体で利益がある鉄道、赤字であっても地域の交通手段として必要な鉄道、赤字であっても観光資源であり沿線に経済効果をもたらす鉄道の三つを実現する。

 LRTはいまだに日本での本格的な導入がされておらず、仮に導入した地方にはその洗練されたデザインや珍しさに引き付けられて多くの人が集まり、また街のシンボルにもなるため、鉄道の利用者数が増えることはもちろん、地方の地域活性にもつながり、路線単体で利益がある鉄道が実現できる。また、LRTは他の公共交通機関への乗り換えの利便性が高く、ダイヤも正確なため、地域の交通手段として必要な鉄道である。さらに、先にも述べたようにLRTは街のシンボルとなるため、観光資源であり沿線に経済効果をもたらす鉄道でもある。

 このように、LRTはそれ自体が存続できる鉄道路線であることに加えて、既存の地域鉄道に対する需要ももたらし、地域鉄道全体を存続できる鉄道路線に転換することができる。そして、LRT導入を契機とした街づくりや中心市街地の活性化により、地域復興の実現が可能となる。全国でLRTが普及すれば日本の地方復興は前進し、地方活性化を望むことができる。


学生による論文(22)「失恋の解剖学」 落合 佑飛(2021年度の「土木史と文明」の講義より)

2021-12-03 09:05:36 | 教育のこと

「失恋の解剖学」 落合 佑飛

 この論文は本物に触れることの大切さも説いており、失恋を通じて活物同期について触れられていると考えている。

 失恋にも色々な苦しみがあって、大きく以下に分けられるだろう。これらが絡み合って我々を襲うため、言語フェーズでの対応は不可能になり、寝込んだり泣いたりと言う身体的な解決のフェーズまで落と込んでしまわなくてはならないのである。失恋の時に感じる悲しみの原因をわかっておくことはとてもこれらに対処する上で重要なことではないかと考える。困難を分割することができるからである。

・対人的な悲しみ
・自己愛的悲しみ
・喪失に起因する悲しみ
・好きな人がいない状況になることへの不安
・能わない好意の返報
・相手に対する嫉妬
・失恋の心地よさ

・対人的な悲しみ
彼氏がいる人、彼女がいる人、あるいは自分の好きだった人の相手となる人に比して自分が不幸であると考えることに起因する悲しみ。これは本質的には失恋の悲しみではなく、たとえば学歴による劣等感や就職先の差異によっても感じることがあるだろう感覚で、一般には劣等感と言う。

・自己愛的悲しみ
失恋によって自分が必要ない存在だと錯覚することで起こる。程度の差こそあれ、相手のことを愛していたのであれば自らの存在や価値観を認めてほしいと願っていたはずであり、その意味でそれが叶わないことは自らの存在の否定につながる。こう言う場合には、まあ、俺がついてるだろ?のような声をかけてくれる同性の友人がいると心強い。具体的には彼氏彼女とは全く関係ないところで人間関係や役割を持つことができればそこに逃避することができる。失恋後に勉強や仕事に打ち込むという逃避行動をとる人は好きだった人のことを忘れるためという要素はあるにしても自己愛的な悲しみから逃れるための行為と取れる。

・喪失に起因する悲しみ
これまでであればほとんど当たり前にそばにいた相手が、不意にいなくなることで起こる心理状況。言ってみれば心の慣性の法則。あるべきものがない、と言う状況に対する喪失感で、古文ではさうざうし、と言うように古くから普遍的な感情。彼氏や彼女の好みのものを見かけた時に、あっあれあげたら喜ぶかなぁ、と一瞬思い、その後その相手を失っていることに気づく状態。

・好きな人がいない状況に対する不安
おそらく短からぬ期間を相手を愛して過ごしたであろう後の失恋は、好きな人がいないままで進む生活への不安があるだろう。恋に落ちていた人は、好きな人のことを朝夕考えたり、あるいは隣に居てくれることも多かったりして、相手なしでは生活が成立しない状況であったと考えられる。少なくとも相手とより深い関係になることを望み続けていると言う点において片思いでも両思いでも付き合っているか否かに関わらず、このような感情は自然に発現しているだろう。ただ、振られたりあるいはうまくいかなかった時点でその状況を諦めなくてはならないことになる。1日のうちでも多くの時間を相手に割いていたり、無意識のレベルで相手のことを思っていたりした場合には、もう能わないその恋をそうした感覚が不意に湧き上がってくるたびに自分にはもうその相手との関係を進めることが不可能であることを悟り、その関係を手放さなくてはならないと自覚する。そして、相手のことを考えずに過ごさなくてはならない生活に対して不安に思うのである。これは習慣の喪失に対する恐怖、悲しみだといえる。恋愛や相手に依存していたということを示すものである。

・能わない好意の返報
好意の返報性の原理がある。恋の返報性の原理は自分がしてあげた分は相手から返してほしいと思う心理で、オセアニアの原住民の贈与の文化にも同様の構図が見られる。恋愛においては、好きでいた気持ちを相手にも自分に対して返してほしいと願う、ということである。破局等の失恋では相手からの好意の返報を得ることが叶わないため、好意をこちら側がただ与えるだけという関係になってしまい、好意の返報性のバランスが崩れる。そのため人間関係や精神状態が不安定になる。

・相手に対する嫉妬
好きな人が他の人と付き合い始めた場合、彼氏や彼女を持ったことで変わりゆく相手を見続けることになる。この場合には、あの人の隣が自分であればと願う気持ちが生じることで苦しい気持ちになるだろう。単なる嫉妬であるが、扱いが難しい感情でもある。

・失恋の心地よさ
失恋している間というのはその辛さをわかってくれる人は労ってくれる。その優しさが心地よいためにもう少し続けていたいと思うことがある。
あるいは、失恋は辛いことである。しかし、この辛さは逆説的に自らの生を表すものである。なぜなら死んでいては痛みを感じることはできないから。私たちの生活はいつも延長線上にあり一続きのものである。ただ失恋はこの状況を一変させる劇薬であり、その痛みは普段の薄ぼけた生に刺激や彩りを与える。失恋を通じて自分が生きているということを確認できるのである。これは拒食症や過食症、リストカットにも共通する心理状態で自分の存在をその身体性に訴える行為であると言える。

 以上のように考えれば失恋にもさまざまなフェーズがあり、さまざまなシチュエーションの苦しみ、悲しみがあることがわかる。こうした一言では形容できない想いを抱え、挫折することは青年期における人格形成に於いて大切な過程であろう。人は痛みを知ってこそ他人に優しくできる。私自信、こうした経験を経て自分の周りには困った時には助けてくれる素敵な友人がたくさんいたことを実感できた。恋愛という原始的で情緒的な気持ちは言葉では誤魔化せない本質的なものである。本質的なものに是非触れるという意味で、つまり自分が目指すべき人間像に出会えるという面で失恋は活物同期と言え、自らの人生をさらなる高みへ向上させ得る挫折と言える。

 恋愛の問題は大人になればなるほど失敗は許されない。大学生までのうちにさまざまな恋愛をし、苦しむことや楽しむことが大切である。
失恋を経ることで相手のことを慮ったり自分の感情を整理する力をつけられる。この点だけを考えても失恋はその後の人格形成や人生設計に於いて重要であり侮ってはいけない経験である。


学生による論文(21)「インフラにおける民間と行政の組み合わせ」 大橋 直輝(2021年度の「土木史と文明」の講義より)

2021-12-03 09:03:36 | 教育のこと

「インフラにおける民間と行政の組み合わせ」 大橋 直輝

 1964年の東京オリンピックの時にたくさんできた首都高速道路などのインフラが一度に後期高齢インフラとなり、更新していくにも莫大な量になってしまう。建設当時、老朽化はしないものだと考えられていたようだ。おかげで首都高速道路は各地で大規模更新や大規模修繕工事を行っている。多くの人が長い間インフラの老朽化には盲目であった。そのことは国土交通省の「国民意識調査」より、「わが国では、これまでに多くの社会資本が整備され生活が豊かになった反面、施設の老朽化により、今後多くの施設が更新時期を迎えます。あなたは、社会資本に老朽化の問題があることを知っていましたか。」という質問の結果、70%の人がそのことを理解していないことからでも明らかである。またインフラの更新について、正しく理解をしていないので回答者の約六割が「すべての施設の更新」を進めることを希望する旨の回答をした。もちろん一度にそんなことはできない。また費用も膨れ上がってしまう。

 そのため、私の考えることの一つに、民間企業がよりインフラの更新に参加しやすい、参加する意欲が上がるような制度を作るべきだ。そもそもインフラはだれでも使うことができて、整備や更新をしても儲からないとされてきたので国や行政が運営していた。しかし国にとっても赤字ならほかの分野で使いたいお金が無くなってしまう。今まで郵政や国鉄が民営化されたが、通行料金を徴収しない一般道のでは費用は集まらない。これでは参入しようという民間企業は現れない。まず一般道で稼げるものを作る必要がある。そのスペースを使って新たなビジネスチャンスの創出をできるような法制定が進めばそこでの利益を修繕や更新の費用に充てることができる。

 平成23年度より、河川空間において、社会実験としての区画指定を行わずに全国で規制緩和の実施が可能になった。そうすることにより、イベント施設やオープンカフェの設置など地域のニーズに対応した河川敷地の多様な利用が可能になり、水辺における賑わいの創出や魅力ある街づくりを通して、都市及び地域の再生等を進めている。大阪の道頓堀川では民間事業者によるオープンカフェの設置やイベントの開催が行われた。

 このように道路空間や河川空間の利用制限を緩和し、これらの空間を民間に開放し、行政財産の商業的利用を図ることで、民間からの収益還元を活用したインフラ整備・管理の展開、地域活性化にもつながる新たなビジネスの展開等の効果が期待される。このようにして社会資本を民間に開放することにより、既存のストックを有効活用する手法を展開している。

 まずはインフラの更新に対して現状を知る、そのために国や行政からより積極的な情報提供があれば、多くの人の目に留まり、様々なアイディアがもたらされるかもしれない。さまざまな地域での事例を見たうえで自分たちの地域ではどのような対策をしてきたのか、どのように対応していくのか、持続可能なインフラ整備に関心を持ち、国や行政に任せきりではなく、民間の使えるノウハウを意欲的に使えるような制度設計を進めていき、官民一体となってインフラの再生を果たしていく必要があると私は考える。

 インフラに限った話ではないが、パッケージ化の政策をわすれてはならない。多様な価値観のある現在で社会に一意的な解は存在しない。だから一つの政策で複数の社会課題に対応し、別の政策と合わせることで相互作用を生む組み合わせを生みだし、効率化を図る。そこにあるだけでも威力を発揮してくれるのがインフラであるが、そこにあるだけではなく民間と組み合わさることがインフラの再生・活性化につながるのではないか。