「学問」「科学」と「宗教」のあいだ 中村 優真
今回の授業では、日本人の中に根付いていた宗教観によって、過去の歴史的な書物の内容は歪んでいることが多く、書物しか見ないような研究では正しい歴史に触れることはできない、ということに触れられていた。
確かに、宗教というものは、人を熱狂させ、さまざまな「信じる対象を崇め奉るような」物語を生み、時には学問にも抗い、事実認識を歪ませていくものである。
一方、宗教というものは、人間の行動の規範や、悩める時に寄り添ってくれる対象、また生きていく上で信じていくものを生むものであり、たとえそれが事実に対する認識を歪ませるものであろうとも、人間がそこに熱狂し、救いを求めるのも理解出来る。
歴史的研究は「あとからなら何とでも言える」といったような側面も大きいし、また当時の宗教観や封建主義社会の影響で、「崇め奉る対象に都合が悪いこと」は隠されてしまっている場合も多い。なので、いくら研究が進んでいこうとも、本当に正しいことを完全に実証できるようなものではない。一方、科学的研究は、授業でも触れられていたように現実とかけ離れた言説に対しては、物理現象、化学現象という形で間違っている、という答えが出るものなのである。
しかし、それを実社会に応用するとなると、また話は別だと筆者は思った。科学的に正しく、物理的被害を最大限に防げるような言説であっても、それが精神的、文化的な意味での人間の幸福につながるとは限らない。実社会の問題においては、どうしても科学的に答えが出ないものとも向き合わなければならず、その問題の複雑さは科学においては絶対的なはずの答えをも圧倒してくるようなこともある。また、科学的な答えもさまざまな研究分野から出ることになり、科学的に正しい全てのことを実社会で実現させるのが現実的では無くなる場合も多い。そして、未来を完全に予想することも不可能であり、科学的な条件設定では想定していなかったような事象も起こるのが実社会なのである。こうなると、今まで科学的に正しかったものが正しくなくなる、ということが起こりうるのである。
このような実社会では、科学的に正しいはずのひとつの答えも、ある種の宗教的な言説と化してしまうのかもしれない。答えがひとつに定まらず、科学的にははかれない要素も含むような課題に、科学は一方的な答えを押し付け、認識を歪ませる、ということを起こすからだ。それでも私たちは信じるものを持ち、ひとつに定まらない答えの中で決断を下さなければならないのである。
科学ですら持っている事実を歪ますような宗教性には気をつけつつ、それでも決断する時にはしっかりと決断を下せるような人になりたい、と思う。
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