「金曜二限の解剖学」 落合 佑飛
土木史の授業にはすべての授業に通じる明確なメッセージがある。その点、この授業は大変特異である。通常の授業は単に授業の内容に習熟することに目的が置かれている。例えば水理学の時間に源氏物語の文学的意義を考えることはない。しかし、土木史の授業では内容の習熟とは別で明確なメッセージをもって細田先生は生徒に対峙しているように思われる。
授業を通じて先生が発しているメッセージは、土木が日本をよくする、という先生自身の信条であろう。土木史の授業は学生の啓蒙と言ってもよいだろう。啓蒙が許されるのは限られた人間で、しかも条件がある。啓蒙するだけの力があること、その力に対して自己批判があること、啓蒙の内容を絶えず磨き上げること、である。今回の授業でも触れられていた「閉じつつ開く」というのはまさに上であげた3つの内の最後の項目にあたる。
啓蒙と言えばキリスト教を勝手に思い浮かべるが、私はキリスト教の啓蒙が好きでない。「唯一神の教えを持つ我々と、邪教のあなた方。我々は哀れなるあなた方のためにわざわざ啓蒙している」という立場をとるからである。まず、英語にはyouとIがあるが、ここからして傲慢である。何を言うにも「私は」「私は」「私は」。なんと自己主張の強い言語であろうか。日本語には主語を覆い隠して伝え合う文化で高慢な自己主張とそこから生じる啓蒙はない。ただ、同じ主語で通じ合える人間を身内ととらえ、それ以外を排斥するという陰湿さはがあることは事実だから、日本語も英語も良し悪しではある。ただ、日本語は自分と相手を鋭く分けて上から目線で啓蒙するという構造はないと感じる。
なぜ私がキリスト教の啓蒙に抵抗があるのか、それは啓蒙の中に権威主義を認め、これを嫌うためである。完璧な人間はおらず、したがって完璧な思想は存在しない。それにも拘わらすの主張が正しいと確信して迫ってくる相手のことをうさん臭く感じてしまうのである。権威主義の最たるものは学生にとっての大学だろうが、これに対する私の考え方はすでにGTPレースについての論考などで述べている通りである。
ただ私はここで先生が啓蒙に値するかを論じるつもりはない、それは啓蒙を受ける側の人間が一人ひとり考え、感じることだからである。私自身は先生がおすすめしてくださった本は積極的に読むことにしている。先生自身がおっしゃっているように、先生が言っていることが真か偽かは自らの目で確かめたいと思うからである。私はかようなフェーズなしに他人が啓蒙に値するか否かという偉そうなことを断じることは断固できない。
さて、ではこの授業では学生は何を求められているのだろうか。
学生の中にも一人ひとり答えらしいものが見えてきているのだろうが、私には細田先生が我々に論理的に論じることを求めているように思える。
以前私は失恋の解剖学というレポートを提出した。失恋の痛みを幾項目かに分類し、それぞれが複合的に襲うことで失恋のつらさを増長させているのだということを述べた。正直に言ってこのレポートは土木史の授業内容とは関係ない。だから、この論文が高評価だった理由はこの論文が論理的だったためだろう。
論理的に論じるということは、我々の思考を抉り出さなくてはできないことで、これについても以前論文で提出した。論じることによって何が得られるのか、それは当事者意識である。自分の感想の無いところに自分の賛成反対はない。だから土木史のレポートでは、土木史の内容で自らの感想をまず持つこと、そのうえで自らの考えをはぐくむこと、これを求められているのである。
その点、細田先生の授業は巧妙に仕組まれていると言わざるを得ない。無関心な人間に関心を持たせるためにはどうしたらいいかを考え抜いているのである。
まず、予め厳しく生徒と向き合う。これによって生徒側は「この先生やばいぞ」と危機感を持たせる。
続いて賛成反対が分かれる問題を持ってくる。これによって生徒側は論じるうえでの切り口を得ることになる。賛成反対の分かれる問題とは、これまでの知識や経験とは相容れない考え方を提示することでなされることもあり、これは次にあげる工夫にも通底するものである。
最後に、危機感をあおる。これは私自身が嫌いな手法ではあるが、最も有効な手段である。誰でも課題の提出期限が迫り焦る経験をしたことがあるだろう、この時の我々の集中力は普段の100万倍で、終わらないと思った課題も提出期限のぎりぎりの所で終わる。ふと我に帰るとあとは提出のクリックだけ、という状況になっている。これはまさに危機感のなせる業である。危機感自体が我々の行動の大きな力となるのである。危機感をあおる、ということの本質的な意味は、今持っているものを失う可能性を啓蒙する、ということである。我々が普段蛇口をひねれば出ると思っている水も明日には出ないかもしれないよ、という内容は、様々なデータとともに見せられれば信頼してしまうものである。そして、事実であるものと事実でないものの区別は聞き手にはパットは分からない。中には誇張が入っていたり、すべてが嘘だったりすることもある。この手法はネットビジネスが盛んになった現代、いろいろな場面で応用されている。例えば、YouTubeを見ていると広告で口臭対策のためのサプリメントの広告や、脱毛の広告が流れてくる。こうしたものはすべて「あなた、実は周りの人にキモいって思われて避けられてるよ」というメッセージとセットで品物が売られている。あなたの口臭がひどいせいで周りの人に疎ましく思われる未来、という情報を与えて危機感をあおり、効果も不明なサプリメントを買わせるのである。我々は感情を相手に動かされることによって、相手の意のままに動いていることがあるのである。そしてそれを知って私は身構える。危機を訴える人の真の狙いは何かを見定めなければ騙されてしまうからである。啓蒙には人の感情を動かし、その人の行動を規定する効果があるのである。今のところ、細田先生には我々をだまそうという気持ちは無いようである。レアなケースだと思う。
さて、この授業はこのように最初は強硬な姿勢でもって始まる。しかし、それだけではやがて人々の心は離れていく。歴史的にも強硬な手段だけでは失敗するという先例があるが、この授業はレポートの内容を非常に寛容にとらえてくれる。だから、我々の論文は論理的に論じている、という1点を評価軸に幅広い内容で論じても高評価をいただけたりもする。
論じたものを否定されることを人は好まない。
これまでのレポートでも触れたように、学校教育は間違えないことを目指してきた。それゆえに多くの学生は間違いを恐れている。これは少々度が過ぎているようで、間違い恐怖症とも言うべき様相を呈しているように見える。そんな環境の中でせっかく論じてみても「お前の言ってることは間違ってる」と言われると、文章は書けなくなる。この指摘をすることはせっかく開きかけた学生の心を徹底的に閉ざす悪手になる。学生は間違いを恐れるからこそ、これまで論じることをできなかったのであり、せっかく書いたレポートが間違いの烙印を押されることを強烈に恐れている。だから、細田先生が提出されたレポートが論理的であれば満点、という姿勢で学生のレポートに対峙していることはすごく理想的で、これまで自信が無く発信を避けてきた学生が論理的思考をアウトプットの次元に持ち上がることを支えている。さらに、これまでどこにもやるかたなかった過激な思想の持主もそれをいったんは受け止めてくれる細田先生を信頼するという結果になる。私自身も細田先生への信頼なしにはGTPレースの弊害を書く機会はなかっただろう。
こうして生徒の関心を程よく集めつつ、論じさせ、さらにその芽を摘み取らない教育方針はとてもありがたいものであり、我々学生よりも細田先生の器が一段二段と広いことを示す。学生が細田先生から求められていることは、この授業で少しでも論理的に思考し、自らの考えの軸を持つこと、それから歴史的偉人からも学び、自らの拙い経験だけでなく、古今東西の幅広い偉人から学ぶ姿勢を持つことである。
閉じつつ開く。細田先生が体現しているようにも見えるこのあり方を我々にも求めているのである。
この授業は、授業中には先生が正しいと思う土木思想を我々に授け、課題ではそれについての反論、反駁から授業から着想を得た事柄について自由に論じることを許し、論理的思考が習慣となるように目指しているよう思われるが、この授業を受けているすべての学生は細田先生の期待を背負っているように感じる。我々学生は、我々のやり方で且つ柔軟に専門性を深めることが大切である。その一方で、様々な分野に対して関心を持つことが大切であると言えるだろう。以上が私なりの金曜二限の解剖結果であり、金曜二限の活用方法でもある。
最後に、このような先生の授業を学生の分際で断じる、という生意気をできるのは細田先生への甘えがあるからである。私自身も将来、私のような異端な後進に出会ったときには細田先生が我々にしてくださっているように寛容にその考えを受け止めてあげられるといいな、と思うのである。
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