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細田暁の日々の思い

土木工学の研究者・大学教員のブログです。

学生による論文(142) 「忘れられないHR」 小野寺 菜乃 (2021年度の「土木史と文明」の講義より)

2022-01-28 09:06:55 | 教育のこと

「忘れられないHR」 小野寺 菜乃

 私には一生忘れられない授業がある。それは高校一年生の時の担任の先生が開いたHRの授業である。おそらくどこの学校でも同じだと思うが、HRの授業は主に学校行事についての話し合いがメインである。例えば文化祭の出し物についてや合唱コンのパート分けなど行事に関わる事は大体この時間に行う。しかし、何も行事について話し合うことがない場合、担任の先生が用意した資料に沿って「思いやり」や「親切心」といったものについて議論し合う、道徳の授業になってしまう。そうなると退屈さゆえにクラスのうち半分くらいは授業中に寝てしまう。しかし、担任の先生の「一生忘れられない授業」で生徒は1人も寝ていなかった。

 さて、ここまで私の担任の先生について述べてきたわけだが、ここからは一体その先生がどのような授業をしていたのか話していこうと思う。

 その先生はHRの授業で自身の好きな「アニメ」についてのプレゼンテーションを行ったのだ。いくらHRという、ある程度の自由が認められた授業時間とはいえ、学校の備品であるTVを教室に持ってきて、わざわざ自分の家から持ってきたDVDを使って、「アニメ」に対するプレゼンを行う授業なんて高校一年生の私の度肝を抜いた。しかしプレゼン内容自体は非常に面白かった。その先生のプレゼンでは、主にアニメの描写の読み取りについて詳しく説明してくれた。例えばアニメにおける光の使い方や、上手下手の話など今後アニメを見るのが100倍おもしろくなるような知識が詰まっていた。

 私はこの授業を受けた後からアニメを見るときにいろんなことを考えるようになった。アニメはストーリーを追うだけだったが、いろんなことを考えながら見るとそのストーリーの深みやキャラクターの考えがより一層理解できるようになった。そして今でも担任の先生のHRで学んだことからアニメを楽しく見ることができている。

 同じクラスだった友達もこのHRの授業を今でも覚えているらしく、たまにその担任の先生の話をする。しかしその友達はあまりHRの授業の内容は覚えていないそうだ。確かに日頃からアニメを見ない人からしたらその授業は異質ではあるものの、内容が記憶に残らないのも納得できる。

 このことから私は人に何かを教えることの難しさを感じた。その担任の先生は私のクラスの生徒に対して全力でアニメについてHRで語ったが、今でもその授業内容を覚えている者が私の他に何人いるのかというとおそらくそんなに多くはないだろう。だから教える側がいかに上手く授業を行おうと結局、受け手である教えられる側がどのような受け取り方をするかでその授業における理解度は変化する。そのため、私は全員にウケのいい授業ではなく、一部に刺さるような授業の方が私はいいのではないかと思う。むしろそれくらいの方が先生の個性が飛び出てくるくらいの授業の方が記憶に残るし、面白いし、授業内容も入ってくると思うのである。しかしこれには先生の体力をかなり求められると思うため、そんな授業をしてくれる先生が少ないんだと思う。私はまだ教えられる側にしか立ったことがないため、教える立場も理解してこの問題を再度考えたい。


学生による論文(141) 『ミヒャエル・エンデ『モモ』論』 落合 佑飛 (2021年度の「土木史と文明」の講義より)

2022-01-28 09:05:23 | 教育のこと

『ミヒャエル・エンデ『モモ』論』 落合 佑飛

<目次>
0,あらすじ
1,物語として読むあり方
2,登場人物に注目して読む読み方
3,ジジに自己投影する読み方
4,ベッポに自己投影する読み方
5,スピードレストランニノについて
6,画一的な住居(団地のような建物)に対するとらえ方
7,幼き日の思い出と教育
8,モモをローマ的な女神とみてとらえるあり方
9,灰色の男たちを忍び寄る脅威と見ての考察
10,時間を奪われる日々への考察
11,時間を取り戻したコロナ禍の日々の考察


0,あらすじ
 ミヒャエル・エンデのモモは私の好きな著作である。
 このお話は、円形劇場の跡地に浮浪少女のモモが住みつくところから始まる。
 町は貧しいけれども心の豊かな人が多く、またモモの人の話を聞く能力のおかげもあって、何か困ったことが起きた際にはモモのところへ行ってごらん、というのが合言葉であった。モモのところに行くと喧嘩をしていても自然と仲直りをしてしまうのであった。モモは人の話を聞く特別な力があった。モモが解決策を示すのではない。モモに向かって話しているうちに問題がひとりでに解決していく、という特性を持っていたのである。
 そんなモモの住む町に、いつも葉巻をふかしている灰色の男たちの影が忍び寄る。彼らは例えば雨の午後のように少し憂鬱で自分の人生このまま終わるのかな、などと自分の生き方に自信が無くなるときにやってきて、人間に時間を節約させることを誓わせる。人々はやがて自分の意志で時間を節約するようになり、生活にもほころびが出てくるのであった。
 このお話はモモが灰色の男から時間を奪われたことで、時間に追われてあくせく働く人たちに奪われた分の時間を取り戻すお話である。

 この本が名著とされるゆえんの一つには読む人のあり方によって様々な受け取り方があることだろうと考える。私は折々にこの本を読むが、毎回新しい発見と変わらない喜びがある。この本が児童書でありながら児童書の枠にとどまらないのはこうした部分も大きいだろう。
 さて、それでは本書の何が面白いのか、その読み方を見ていこう。

1,物語として読むあり方
 本書は児童書である。だから、お話として読んで面白い。私も小学生か中学生かくらいの頃初めて読んだが、この時は以下に述べるようなことは全く考えることなくただただ面白いお話だ、という認識だけで読んだ記憶がある。まだ本書を読んだことが無い人にはぜひ一度はストーリーそのものを楽しんでもらいたいと思う。

2,登場人物に注目して読む読み方
 本書はファンタジーである。登場人物の紹介をすると、モモは友達の話をよく聞いてくれることから、誰からも好かれる素質があったが、その中でも観光ガイドのジジと道路掃除夫のベッポが一番の友達であった。
 ジジは面白い人物で悪意のない嘘で人を楽しませるのが巧みであった。私は彼の作ったほら話が好きである。この小説の素晴らしいところは多くの登場人物の特徴や心情を描き分けていることである。こういう人いるよね、とか、自分に似ている気がする、というような読み方も可能である。
 またカメのカシオペイヤも素敵な登場人物であるから、ぜひ注目してほしい。

3,ジジに自己投影する読み方
 ジジは夢想家で自分がいつか大きな家に住むことを夢見ていた。やがて彼の夢は叶うわけだが彼の生活は一変し、もはやピエロに成り下がったと自身のことを思っている。彼の生き様を見るのは自分自身を見るようでもあるなと感じた。

4,ベッポに自己投影する読み方
 道路掃除夫のベッポは高齢と言ってもよい年齢だが、現役で道路を掃いて回る仕事をしている。彼は大変思慮深く聞かれたことの答えを何日もしてからゆっくり返すような男だったが、道路掃除も大変な愛情と時間をかけて行った。彼の誇り高い仕事ぶりは見習うものがある。職業に貴賎なしとはいうが、彼が自分の仕事を一所懸命に行っているのはすごく魅力的に映る。

5,スピードレストランニノについて
 これは作中で出てくるレストランである。
夫婦で切り盛りしているお店だが、昔はおじいさんが数名、端の方の席でワイン片手に一日粘っているというような今にもつぶれそうなお店だった。ところが、灰色の男たちが暗躍するころになると店の雰囲気もがらりと変わり、ファストフードを提供するようなお店となっていた。
 確かに繁盛するようにはなったが、モモに言わせればそこで出される料理は「紙のような味」がしたそうである。食べることは生きることであるからおろそかにしてはいけないが、完全栄養食に代表されるように私たちも「何を食べても同じことだ」と思ってはいないか、とふと不安になる一説である。

6,画一的な住居(団地のような建物)に対するとらえ方
 私自身は団地で活動しているから、団地の良いところをいろいろ知っているつもりではあるが、モモの作中では近寄りがたいよそよそしい建物として描かれている。
 効率重視でどんどん作られた建物や都市そのものに愛着は沸くのだろうか、というような読み方ができるようにも思う。

7,幼き日の思い出と教育
 モモのいた円形劇場には灰色の男たちの暗躍後しばらくは子供の訪問は増えるばかりであった。彼らとの遊びは素晴らしい独創性を持っていた。この遊びの内容が幼いころの私自身のごっこ遊びをありありと思い出させるものであり、ミヒャエル・エンデの描写に脱帽した。
 この後、この子供たちはみな施設に収容され、意義の分からないゲームを延々とさせれれるようになる。これはまるで小学校や中学校の詰め込み教育のようだともいえる。幼いころの鮮やかな思い出と、学校での教育のあり方を問うているように思われる。

8,モモをローマ的な女神とみてとらえるあり方
 古代ローマには夫婦の間の喧嘩をいさめる神様がいた。喧嘩中の二人が神様に交互に訴える。お互いの言い分も分かり、心もだんだん落ち着いてきて、最後には一緒に帰る、ということが行われていたようである。神様がもしいるなら、神様のしたことは時間をかけて両者が心行くまで話を聞くことであった。
 そして、これはモモが町の人たちにしたことと同様であった。彼女も町の人同士の喧嘩に一日中付き合ってそれぞれの言い分に耳を傾けた。実際、夫婦の喧嘩を聞いていたこともある。モモは彼女が円形劇場の跡に住んでいたということも含めて古代ローマの神の具象と考えることも可能であろう。

9,灰色の男たちを忍び寄る脅威と見ての考察
 我々の生活は実は悪の組織や権力者の陰謀に操られている、このような論調を展開するのが陰謀論である。もっとも、陰謀論も事実である場合もあるだろうから、陰謀論は全てうそ!とはいえない。
 ただ、陰謀論的な言説でありがちな、みんなが知らないうちに危機がひたひたと差し迫っている、という構図は陰謀論的であると読める。

10,時間を奪われる日々への考察
 コロナ以前、まだ私が高校生だった頃読んだ時の感想であるが、私自身知らぬ間に灰色の男たちに時間を奪われているような気がしていた。日々を通学や勉強、部活動等で忙しく過ごしていた私にとって、本書はすとんと腑に落ちるものだった。日々の暮らしに忙殺される中で何か大切なものを見失っているように感じていた。ただ、私の世界にモモはいない。どのようにしたら静かで豊かな暮らしを取り戻せるのだろうかとずっと考えていた。

11,時間を取り戻したコロナ禍の日々の考察
 そして念願叶ったのが大学一年生の時期である。大学にはコロナを理由に行かなくてよいので授業が始まる3秒前に起床すればよい。時間が有り余っていた。大学受験までに奪われた時間が倍になって帰ってきたかのようなゆとりのある生活を送った。
 しかし、徐々に私は気づき始めたのだが、オンライン授業は退屈なのである。時間はあるがそれを有意義に使っているという実感はなく、むしろ大学受験までの忙しかった日々の方がよほど充実していたように思えてきた。日々特筆すべきこともなく過ぎていく毎日はつらいものであった。きっと引きこもりの人も大変つらい毎日を送っているのだろうと思う。こうした毎日は私がこの世に存在している価値を見失わせるものであった。見えない他者との心理的な競争によって生じる自己肯定感の著しい低下と、時間はたっぷりあるからいつやってもいいや、という感情から起因する怠惰によって自己効力感の大幅な低下が認められた。時間があり過ぎることによってむしろ自らの豊かな人生を見失っているように思えた。どうやら時間があるだけでは豊かな暮らしにはならないのではないかと悟った。
 この経験から私が得た結論は、人々は忙しいときにこそ輝かしい毎日を送れるのではないか、ということである。私が考えていた以上に時間という観念は複雑なもので、時間にゆとりがありさえすればよい、というものでは無かったのである。忙殺されるのではなく、かといって暇すぎるのでもない、持ちつ持たれつのちょうどよい塩梅で暮らしていけることに豊かな暮らしが在るのではないだろうか。具体的には、他者との緩やかな関りの中で、確固とした自分を立ち上げて行ければ、自らの人生を豊かなものにできるのではないかと感じた。
 現在は時間とは人生だと感じている。そして人生はどうせなら幸せに過ごしたいと思う。そうであるならば、幸せとは何かを考えなくてはならないだろう。幸せとは何か、多くの人が論じているし、本書の中にも答えの断片が映し出されているが、100人いれば100通りの答えがあるだろう。幸せについての話は今回の主題ではない。だから今回このレポートでは触れずにおく。幸せについて一つ言えることがあるとすれば、折々に触れて様々なことを考えさせてくれる本書に出会えたことは私にとって幸せなことであった。

 さて、以上のようにいくつもの読み方ができる本書が私は好きである。私のこれらの解釈は今後変わっていくものかもしれないし、すでに本書を読んだことがある人とは違ったものかもしれない。しかし、そのすべてを包容するところに本書の素晴らしさや奥深さが感じられるのである。

 


学生による論文(140) 『読書論』 落合 佑飛(2021年度の「土木史と文明」の講義より)

2022-01-28 09:02:48 | 教育のこと

『読書論』 落合 佑飛

<目次>
はじめに
大学生が本を読むべきこれだけの理由
インターネットが読書にとって代われない理由
本を読めない理由は何か
マッチング・サプリ
焦燥
まとめ
追記
 

はじめに

 本を読むべきだ、ということはよく言われる。しかし、よく言われるということは多くの人が実現できていないからである、ということに他ならない。今回は、読書が必要だと考える理由と読書ができない理由の両面から読書論を書こうと思う。読書についての本は多くの文筆家が古今東西を問わずに書いている。私自身の読書論はこれらと比較すれば足元にも及ばないのだろう。しかし、私も一人の読書好きとして読書についての自分の考えをまとめてみたいのである。


大学生が本を読むべきこれだけの理由
・幅広い知識を身に着けることが必要である
・時間が余っているのだから
・考えの多様さに触れる
・巨人の肩に乗る

・幅広い知識を身に着けることが必要である
 大学生というのは幼稚園や小学校から続く教育機関の最高峰である。大学生は大学の期間を過ぎれば知識をどんどん活用していくことを要求される。我々が純粋に学ぶことだけを志向しできるのは大学生までである。では、どんなことを学べばよいのか。
 専門科目や自分の好きなことだけを学んでいても視野の狭い人間になるだけである。多彩なジャンルから本を読むことで、どんな問いを立てられてもそれに対する答えを考える際の出発点を持つことができるようになる。自分の専門に通じているだけではその知識の使い方を誤ってしまう。その最たる例が核兵器である。核兵器の開発はどんどん進められている。中には民間に払い下げられて我々の生活に資するものもある。それでも核兵器を作ってしまった科学者の罪は重い。彼らは自分の原子の研究の外側に何があるのかを理解しなかった。彼らは人の痛みを想像できなかった。ただ上から言われたから開発しました、では済まされないのである。今や核兵器は世界中の人を何度殺せるかしれないほどの質・量を誇るようになっている。我々の社会は科学者の人間の生への決定的な無知によってこれほどまでに脅かされているのである。
 我々大学生は、自分自身の幅広い考察を助ける手立てとして、研究や権力の暴走を止めるための手段として、普段から幅広い知識を身に着ける必要があると言える。

・時間が余っているのだから
 大学生はみな総じて暇である。忙しいというのはまやかしである。すべて自身で選んだ決断だからだ。例えば、バイトやサークルは自分の力でコントロールできるものである。あまりに家計が貧しく、自分で学資から食費まで賄わなくてはならない一部の学生を除いては、自分でシフトは調整できるし、サークルが忙しくて大変ならやめればよい。飲み会が嫌なら行かなければいい。これらで忙しいというのはバイトに行くという選択やサークルに行くという選択、仲間とお酒を楽しみたいという自らの決断から生じているものである。その意味で、忙しい大学生も大体は本質的には暇である。自ら用事を入れたから忙しいのであって、向こうからやることが押し寄せてくる社会人とは忙しさの質が違っている。だから真に忙しくなる社会人になる前に、本を読んでおこうとアドバイスするのである。自分たちが通ってきた道だからこそ見えるものもある。先達の話に耳を傾けるということは価値のあることだ。

・考えの多様さに触れる
 いろいろな本がある。ある本はAはBだと主張する、しかし一方の本はAはCであると主張する。人々は同じ事実から考察を出発しても、判断は分かれることがある。多くの判断項目の中から何を重視するかがその人の価値観であるが、これは本を読むうえでもあたっている。事実は一つでもそこから見えるものは一つではないから、当然結論は変わってくる。ああ、自分とは違った着眼点やアプローチで問題を解決する人がいるのだ、ということを肌感覚で体感できるのである。
 これ以外にも、私たちの間で考えが分かれることがある。同じ本を読んでいるのに感じ方が違うことがある。多様性とは生態系とか政治とか、そんな高次な話だけではなく、自分たちの身の回りにもあふれているものだと気づくことができるだろう。

・巨人の肩に乗る
 本を読むことが大切であると言える大きな理由の一つが巨人の肩に乗ることができるから、である。巨人の肩に乗るとはどういうことであろうか。
 我々が経験から学べることはそう多くない。私たちの短い人生で経験できる事象には限りがあるからである。そこで私たちは他者の経験からも学ぼう、と考えることになる。これが巨人の肩に乗る、ということである。愚者は経験に学び賢者は歴史に学ぶ、という格言があるが、まさに賢者が歴史を学ぶ際には読書という形態を採って行われる。歴史とは人々の成功と失敗の積み重ねであり、ここから学ばないものと、ここから学ぶものとの間に大きな差が生まれることは致し方ないことである。歴史に学ぶこと、それすなわち他者の経験に学ぶこと、であるが、この手っ取り早い方法が本を読むということである。いろいろな人から学ぶことで他者の経験や考えすら自分のものに取り込むことができる。その結果、私たちの視点はうんと高いところに持ち上がり、まるで巨人の肩に乗ったかのように広い視野で物事にあたれるようになるのである。

 さて、ここまで四つの項目に絞ってなぜ読書をするべきなのか、を述べてきた。しかし、ここまで内容に対して、特に論説文などについては「読書という手段でなくてもいいのではないか」という反論が当然あるだろう。
 確かに、情報を得る、という目的だけであるならばインターネットや人づての情報でも構わないだろうと考えるのも無理はない。情報は一見等質だからである。
 しかし、考えてみてもらいたい。インターネットが爆発的に普及したのはここ10数年の話である。そしてこの歴史の浅さや歴史の近さこそがインターネットの信用の低さにつながるのである。


インターネットが読書にとって代われない理由

・歴史が浅いから
・歴史が近いから
・匿名性

・歴史が浅いから
 なぜ歴史が浅いと信用に値しないのだろうか。それは、歴史が浅いということは情報量に年代別の偏りが生じているからである。同じ情報でも、本の情報は消費財ではないことが多い。事実今でも源氏物語は現代語に訳され多くの人に読み継がれている。ところがインターネットの情報はすべてそうではない。なぜなら源氏物語が執筆された時代にはインターネットが無かったからである。インターネット上の情報はすべてインターネットができた後の人間による捜査があって存在するのである。だから同じ源氏物語でもインターネット上のものは翻訳の他にインターネットに乗る、という情報を付与されている。その意味でインターネット上のクラッシックはネオ・クラッシックとでも呼ぶべきで、原典とはすでにその性質を異なものにしているのである。
 しかし、ネオ・クラッシックとなったインターネット上の情報は粗悪なのであろうか。私はそんなことはないと考えている。しかし、読書の意義である、多様な価値観に触れる、であったり巨人の肩に乗るであったりといった読書によって得られる効果とは異なるものであることを指摘しているのである。現代の人が、一度手をまわし、二次創作のような形で分かりやすく紹介されているクラッシックは、クラッシックの意義がその分かりにくさにあることからもまったく異なる性格のものであることを指摘したい。すなわち、多様な価値観に触れる、ということを目標にしているのだから、作者の考えや息遣いにより近い形態で作品に触れるべきで、それには読書という形態が一番いいのである。
 以上、文学や歴史において、その時代の風俗等を学ぼうとする際には、その時代に存在しなかったインターネットというツールを利用してしまうと現代というフィルター越しにしか見られなくなってしまうのである。そして、その状況は望ましくなく、こうした状況を回避するためには読書の方が有用であるのである。

・歴史が近いから
 そうは言っても、と思っている人もいるのではないだろうか。翻訳は現代の人がしているのだからインターネットに上げるのと同等だろう、という指摘である。これにはインターネットというツールの歴史の近さという観点から反論できる。
 一般に現代史では直近の出来事は扱わないそうである。それはなぜか。それは直近の出来事はどれが重要でどれが重要でない出来事かを判断することが難しいからである。例えば、アウトバーンは、ナチ党が率いていたころには100%正しいと信じ、評価されていたことだろう。ところがそのままドイツは戦争に突入した。造った道路が人を殺すための戦闘機の滑走路として代用されたり、強制収容所関連の物資や囚人を運んでいたりした可能性を考えると、100%正しいと考えていた当時の判断は100%間違っていたことになる。“現在”から近すぎる過去は何が本質化を見抜けなかったり、一時的な利害に惑わされていたり、その後の大きな問題を惹起していたりして評価ができないのである。映画館でスクリーンに近すぎる席に座った際に全体が見えずに難儀する、あの状況が歴史にも起こっているのである。
 さて、インターネットの評価についてだが、インターネットの歴史が近すぎる、という点からまだ評価をすることはできない、という結論に至る。インターネットは世界中の人を瞬時につないだ一方で、無差別テロのために悪用されたり、身近なところではいじめのツールとして強力に働いたりしている。これだけ多くの人を巻き込む巨大なパラダイムを今ここで評価することはできない。したがって、インターネットで得られる情報が本に比べて劣るか、という問いには直接は答えられないことになる。
 しかし、インターネットがまだないころ、我々の先祖は偉大な功績を残し続けてきた。当然学習方法はインターネットではなく読書である。インターネットが神の使いか悪魔のささやきかはっきりしない一方で、本は有用であることがはるか昔から明らかになっている。これこそが読書の強みである。インターネットに存在する近すぎて正しいか間違っているかすら判断できない情報群やインターネットそれ自体の功罪も判断が付かないなかで、本の実績は圧倒的なものである。100年後ならいざ知らず、現状では本はそのツールとしての強みも保持しているのである。

・匿名性
 最後に触れるのがインターネットの匿名性である。これは言い古されていることではあるしこれに対する対応策を練っている心ある発信者もいるだろう。しかし、全体として書籍よりもインターネット上の方が匿名での情報発信が多い。匿名性の問題点はすでに言い尽くされているので深くは触れないが、無責任な放言や誹謗中傷の温床となる。当然、インターネット全体の信用度は落ちるだろう。ツールや使い方を間違えなければ力を発揮するインターネットだが収集できる情報の質に細心の注意を払わなくてはならず、読書よりも情報を受け取る際に気を付けなくてはならないことが多い。

 情報は等質に見えるが、責任の有無によって重みづけがされているのである。
 さて、ここまで読書の有用性や優位性について見てきた。ここからは本を読めない理由について迫っていきたい。
 実は本を読めない人は二つのパターンに分けられる。一つ目のパターンが本を読む必要が無いと思っている人である。二つ目は本を読みたいけど読めない人である。本を読めている人、というのがそもそもレアなので、私含め多くの人がこのどちらかのケースに含まれるだろうと考える。


本を読めない理由は何か

・読書に価値を見出していない、必要ない
・日ごろからの習慣が無い
・新しい知識を受け入れる営みである
・能動的な行為
・前提条件を理解していない

・読書に価値を見出していない、必要ない
 読書は無駄である、と考える人も中にはいるだろう。あるいは、自分のライフサイクルを変えてまで本を読もうとは思わない人もいるだろう。自分の生活の中でさして読書の必要性を感じていない人は、読書を始める前にどうしてそう考えるに至ったのかを考える必要がある。人それぞれ理由はあるだろうが、これまでの生活の中に組み込むほどには本を読むことに価値を見出していないから、であろう。そして、今もそのように考えている人にこうした人に本を読んでください、ということは難しい。そもそも、本を読もう、とどれだけの人が本気で考えているのだろう。本を読むのが好きな人ならいざ知らず、本を読むことを手段ととらえる大多数の人にとっては必要に迫られなければ読書をすることはないだろう。だから、今本を読めない人は本を読む必要性を感じていないと言える。その人の日々の生活の中にはもっと優先順位の高い事物があるということだろう。日々の生活の中で読書が最も優れた方法だと感じられないからこそ本を読まないのだろう。
 ここまでをまとめると、読書に価値を見出していない人は、読書の必要性にも迫られていないため、読書をしなくても生活を組み立てていける、ということである。

・日ごろからの習慣が無い
 しかし、そんなことはない、本を読むことが有意義であることは理解している、とこういう人の中にも本を読むことができていない人はいるだろう。
 ところで、私たちは毎日歯を磨いたり授業に出たりバイトに行ったりしている。これはだんだん習慣になってくるものである。歯磨きくらいはどんなに忙しくてもやる、という人がほとんどだと思う。歯磨きをしないと気持ち悪くて眠れない人は、それが習慣になっている。読書だって歯磨きくらい分の時間から始めてみればいいのである。俗に言われることだが、ゼロをイチに変えるのが難しいのであって、その行為自体が難しいのではない。すなわち、普段本を読んでいない人が急に読み出すから難しいのであって、慣れるまでは大変だと観念してゆっくり読み進めればだんだんと読めるようになるのである。いきなりは本を早くは読めない。これは仕方ないことだろう。毎日少しずつ楽しめればいいのではないだろうか。

・新しい知識を受け入れる営みである
 我々はハチに刺されるとアナフィラキシーショックになることがある。また、ある食品を食べると蕁麻疹が出たり呼吸困難になったりすることある。我々の体は異質なものを迎え入れることが苦手である。異質なものが自らを攻撃してくるかもしれないからである。
 読書という営みは新しい知識を受け入れるという営みに他ならない。そして、このことは自分の中に異質な価値観を取り入れるということである。本を読むという営みは自分の中にすでにあった知識や経験からなる価値観と、筆者の価値観とのすり合わせの作業にほかならず、これが読書を大変にする要因である。自分の中に未知の考え方や概念がポンポンと放り込まれてくるとびっくりしてしまって受け入れられないことがある。我々が著者や他者の意見に対して否定する気持ちから入ってしまうことがあるのは、自分自身が異質な考え方を受け入れる体制が整えられていないからであろう。読書も他者の意見に晒されるという点で大変体力のいる作業であるから、ここがネックになって読書に二の足を踏んでいるのかもしれない。特に新書などの論評文を読むときには自分の考えをどこまで変えていいものか分からないこともあって、難しいと感じるのではないか。

・能動的な行為
 テレビやスマホからの情報にも有意義なものはあるだろう。しかし、これらは自分から求めているものでは無く、相手から与えられるものである。自分にできるのは与えられた情報を受け入れるか否かだけである。一方読書は自分から絶えずページを繰っていかなくてはならない。これは自分の意志からなる行為であり、自発的かつ能動的なものである。ゆえに情報を得る手段であるという点ではテレビやスマホと同じでも、自分の意志で能動的にその情報を獲得しなくてはならないというのが読書が困難になる理由である。仮に読書に価値を認めても、自分から読まないといけないとなると挫折してしまうことがあるだろう。

・前提条件を理解していない
 論説系の本はある事象についての批評をしているだろうし、小説ならば風刺をしていることもある。意見や意図が無ければ文章を書くことはない。筆者がある考えに至ったり、文章を書いたりするにあたっては必ず下敷きとなる思想がある。基本的に、筆者はある考え方Aに対して賛成反対の表明や、AでなくBであるというような反論・批評などをするべく文章を書いているのである。そして、我々にはそもそも考え方Aを詳しく知らないがために、筆者の主張が根本から理解できないこともある。こういう時には本の中で言われている前提条件を理解していないので本の内容も必要以上に難解なものになってしまう。よって私たちは文章を難しく感じるのである。

 さて、ここまで5つの項目を見てきた。ここまでの内容は、私自身の読書経験から来る体感と、読んだ本の内容から敷衍して構成されている。


マッチング・サプリ
 では、次に私がどうやって本と出会っているかを紹介しようと思う。これは私のやり方が素晴らしいから紹介するというよりも、他の方法があれば教えて欲しいと思うから書くのである。とはいえ本の選び方がいまひとつ決められないという人にとっては、この項目が本とのマッチングの処方箋(サプリ)となるかもしれない。
・ぶらり
・おすすめ
・古典
・著者

・ぶらり
 私は本屋であれ古本屋であれぶらぶらとその店内を散策するのが好きである。この項では私がどのように本屋をぶらぶらして本を選んでいるのかを書いてみたい。
 まずお店に入るが、この時荷物は軽く、バックのキャパシティーと時間に余裕がある状態が望ましい。読みたい本に出会うには時間が掛かることもあるからである。また、肉体的に疲れてくると早く帰りたくなるので、コンディションには多少注意を払うほうが望ましい。
 本屋に入ったらどこか気になった通路を歩く。私は、古本屋などであれば安いコーナーから順にみていく。目当ての本があるわけではないから、安い本で満足できるならそれが素敵だろうと思ってしまうからである。
 ある本に目が留まったら、とりあえず手に取ってみるか決める。うーん、いいかな、と思えばそのまま素通りすればいいし、ちょっと気になる、と思うならとりあえず手に取ってみればよい。
 もしその本を手に取ったのならば、次は開いてみるかを決める。表紙をちらっと見て、やっぱりいいかな、と思えば元に戻すし、ぱらぱらっとページを開いてみることにすることもある。
 次にパラパラめくって考えるのはこの本を読みたいかである。特に古本屋では本によって値段が違うから、値段との兼ね合いもある。100円だからお買い得だし買おう、と思うときもあれば、面白そうだけどその値段なら新品で欲しいからいらない、と判断することもある。
 むろん値段だけで判断するわけではない。この本はとっても面白そうだ、と思ったらその場で読んでみてもいいし、すぐに購入することに決めてしまってもいいだろう。古本屋などは特に争奪戦だから、次回来た時に買おう、という考えは甘い。私自身、この前の本あるかな、と古本屋を訪れると、陳列がまるっきり変わっていて落胆したことがある。本との出会いは一期一会だと痛感した。
 さて、このように歩き回っていると手元には数冊の本が残る。手元に残った本は現在自分が抱える問題意識の塊である。自分が何に悩んでいるのかを知りたいときにはこの過程を踏んでみると面白いのではないかと思う。私自身も、毎回少しずつ購入するジャンルの本が異なっていることに気づき興味深く思っている。店頭の本との出会いだけでなく、自分の感情もその時限りのものなのである。
 また自分のお金で買った本だから、もったいないので読もうと思うことになるだろう。読む動機が無い、という人にもおすすめの方法である。
 一つデメリットがあるとすれば、自分の読む本のレベルが分からないことである。例えば私は源氏物語に詳しくなりたい!と思ったことがあり、ちょうどよさそうな本だと思って購入したが、原文の中の“ぬ”などの文法的な用法などを紹介する本で早々にあきらめたことがある。上記の通りすべての本は他の本や著者、社会など様々な物事との関係の間にあるので、前提条件を理解していない本を購入してしまうと大変である。

・おすすめ
 他の人がおすすめした本を読むのは有意義である。他の人におすすめしたくなるくらい面白い、と思っている本だからである。実は、他の人に本をおすすめするのは緊張する瞬間である。それは自分の価値観や読書歴がばれてしまうからだ。だから、本を紹介してくれた、ということはその本が自分の中で自信をもって素敵な本だ、とかこの本の考え方には賛成できる、と思っている本を紹介していると思ってまず間違いない。だから他の人が紹介してくれた本を読むことは、おすすめしてくれた人は少なくともいい本だと思っているという点で自分ひとりで選ぶよりも一人よがりになりにくいのである。
 デメリットを上げるとすれば、全くかかわりのない本を紹介されることが多いため、読み始めるまでの気力がわかないこともあることである。あるいは、紹介する人が気を利かせて、あなたはこういう本が好きそう、という先入観で紹介してくれることもあるので、そうすると自分の読む本に偏りが出ることもある。

・古典
 基本的にハズレの無いチョイス。有名な本を読むのはいいことだろうと思う。古典は長い年月をくぐる抜けてきただけのパワーがあると思うからだ。しかし、古典は読むのがとても大変なので時間と気力が必要なことも多い。ただ、古典的小説の中には『走れメロス』や『羅生門』など短くて楽しいお話もある。はじめから難しいお話にアタックしなくても、短くて素敵なお話はあるだろう。

・著者
 何冊か本を読んでいくと、この人の本は面白い、と感じることがある。そう思ったらその人の本を探してみるのもよいだろう。同じ人が書いているから、同じような面白さが期待できるためである。私自身、この人有名だし読んでみようか、という気持ちで購入を決めることもある。この決め方は比較的小説を読む際に多いように思うが、論説文を読むうえでも有効な決め方で、メリットとしては筆者の考えの変遷が垣間見えること、筆者の文章のクセを予め分かっているので読み進めやすいこと、著者の考えの基盤となるものが見えてくることによって一冊目より二冊目の方が理解がしやすい可能性があることが挙げられる。
 デメリットとしては初めからはこの方法を使えないことである。数冊読んだくらいではどの本が面白いのかを掴むことは困難である。だからこの人の他の本も読みたい、と思えるだけの著者にすぐに出会えるとは限らない。
 以上私が普段している本の決め方を紹介した。それぞれメリット、デメリットがあるが。この決め方は本が手に取れるところならどこでも使えるので、図書館でも使える。たくさんの本の中から面白そうな本を探す作業は私には宝探しのようにも思えて面白い。


焦燥
 私自身の読書量は多くないだろう。それでも、私は自分が読書好きだろうと思っている。読書をしているうちは楽しいし、ついつい本屋に立ち寄ってしまう。そしてぶらぶらしてしまう。ただ、私が一生のうちに読める本は全体の0,000001%にも満たない。古典、名著、必読書、多くの人がおすすめするあの本から、図書館の閉架で眠るその本まで、私たちはどれだけの本を読んだとしても本を読み切ることはできない。中には本をよく読む人と、本をまったく読まない人との間には0,000001%分の違いしかないのだから、本を読もうと読まなかろうと変わらないことだ、と思う人がいるかもしれない。自分の限りある人生の時間でこの0,000001%を積み上げることの意味はどこにあるのか、読書の理由を見失うこともあるだろう。それでも、私は読書は人の人生を豊かにする効果があると信じている。多くの本の中から今私の手元にある本との出会いは運命だろう。この本は私がまだ持っていないものをもたらすものであり、私のために選ばれてやってきたのだろう。この本の中には自分の糧になるものが埋もれているのだろうと私は信じる。


まとめ
 今回のレポートでは、なぜ読書が必要なのか、から考察を始めた。読書が必要な理由は自らの知見を広げ、物事を多角的にとらえることができるようにするためであった。また、先人たちの成功や失敗から多くのことを学ぶことで我々の生活に還元することを目標とするものだった。
 しかし、こうした内容の営みは読書という行為以外からでも達成できるのではないか、という反論を生むだろう。そこで、インターネットが読書に変わることのできない理由を歴史の浅さと近さ、匿名性に焦点を置いて紹介した。インターネットの歴史が短いために、インターネット上には近年の情報ばかりが集まっていること。そしてこうした近年の情報は歴史の審査を潜り抜けていないため何が本質か見抜くことが難しいことが挙げられた。この他、匿名性の問題も見逃せない。
 こうして考えると、読書には歴史と実績があり、インターネットにはない信用と有用性があることが分かってくる。そこで読書をどのようにしたら円滑に進めることができるのか、読書をするにあたっての阻害要因を考えた。
 阻害要因は5つの項目に大きく分けられるが、私が今一番痛感しているのは前提条件を理解していないため、という項目である。多くの本に触れてみようと心がける中で、その本の言っている当たり前のレベルに自分自身が達していないことがある。こうした文章を読むときには何が何を指しているのかを一つ一つ拾い上げなくてはならず、難しい本だと感じる。
 この自分と本との間にあるレベル感の差を生み出しているのが私の本の選び方であった。4つ程紹介したが、これらは独立というわけではなく、ただぶらぶらしていたり、ぶらぶらしながらある作家さんの本を探していたりといろいろである。本を探すことも本を読むこともどちらも楽しいことである。読書は私たちの知見を広げてくれる。
 言ってみれば、読書家は鉱夫である。まだ見ぬ世界を一頁ずつ掘り進めて行くのだ。


追記
 前回のレポートでは啓蒙に対する批判的な考え方を述べた。啓蒙には「啓蒙するだけの力があること、その力に対して自己批判があること、啓蒙の内容を絶えず磨き上げること。」の三つの力が備わっていることが大切だと述べた。
 今回の私のレポートには啓蒙臭さがある。本を読む私と読まないあなた、の構図である。むろん、私にはそのような意図はない。どうして本を読めないことがあるのかを考えてみたかっただけである。ただ今回のレポートによって、啓蒙という営みにはブーメランのような効果があって、自分の心にも刺さるものであることが分かった。それから、自分の読書好きが分かったような気がした。

 


学生による論文(139) 「形のないインフラ」 小田 瞳 (2021年度の「土木史と文明」の講義より)

2022-01-28 09:01:22 | 教育のこと

「形のないインフラ」 小田 瞳 

 今回の講義内で、言語はインフラである、という話があった。私はこれまで、インフラというと単に道路や鉄道、橋梁などといったものしか思い浮かばず、言語はそのように捉えたことがなかった。言語のみならず、他にもさまざまな無形のインフラがあると気づいたので、それらについて考えてみたい。

 まず、言語についてだが、これにも形として残るものもある。新聞や雑誌、書籍など、文字に起こされたものである。しかし、先生も仰っていたが、そこに記されていることが正しいかどうかは、我々にはわかりかねる。ただ、それらに対し自分はどう感じ、何を考えるか。そして実際に言語を用いて何を発信し受け取るか、という点は大きな価値があるに違いない。コミュニケーションに反映させることで、互いを刺激し、新たな技術や価値が創造されていく。それは、豊かな国に直結するものではないだろうか。

 芸術もまた、言語に近い側面があるのではないだろうか。例えば、美術であれば絵画や彫刻として存在し続ける。しかし、音楽や、歌舞伎や能などといった伝統芸能は、録音や録画の技術がない当時の公演は記録として残っていない。そこで、それらを可能な限り後世に伝えるために生まれたのが、楽譜や台本なのであろう。ただ、作者が実際にどのようなものを理想とし作り上げていたか、それは今の私たちにはわからない。実際、音楽を例に挙げれば、楽譜においてほとんど表現記号を用いない作曲者も珍しくないし、同じ楽曲であっても楽団によって演奏の仕方はまるで異なる。しかしこれは、受け取り方、発信の仕方が私たちに委ねられている、とも言える。自由な感性・発想で良いのであって、そこから新たな発見や刺激を得ることもできる。もちろん、過去の作品のみならず、毎日のように生み出される新たな芸術においても同様である。

 ここで、私がなぜ芸術の話を出したのか。それは、芸術も重要な社会基盤と考えるからである。一見、芸術は経済活動には直接関係が無いように思える。たしかに、必要最低限の生活を送る上では、無くても困らないのかもしれない。しかし、本当に必要ないのであろうか。コロナ禍で、多くの芸術活動が停止してしまった。その時、多くの人々は再開を強く希望し、芸術が途絶えてはならないと、助成などさまざまな手を施した。ここに、私たちが無意識のうちにどれだけ芸術と密接な関係にあったのかが表れているように思う。生活する上でさまざまな制約が付きまとう中、求められた芸術。芸術そのものが経済活動を生むのはもちろんだが、芸術は私たちの心身に豊かさを与え、それにより私たちの行動にも変化がもたらされる。芸術は、まさに国の重要なインフラの一つといえよう。

 有形・無形に関わらず、私たちの周りには、かつての人々が残したインフラで溢れている。しかし、そこからいかに多くの刺激をもらい、自分なりに咀嚼をするか、発信できるか。ジャンルを問わず、インフラのストック効果をどれだけ発揮できるかは、全て私たち一人ひとりの行動次第であるに違いない。


学生による論文(138) 「わからない」 大河原 知也 (2021年度の「土木史と文明」の講義より)

2022-01-28 09:00:00 | 教育のこと

「わからない」 大河原 知也

 日本語はとても異質な言語である。4世紀後半に中国から朝鮮半島を経て伝わった漢語、9世紀初めに漢文を和読するために訓点として借字(万葉仮名)の一部の字画を省略し付記したものに始まったカタカナ、和語といった3つの異なる言語の組み合わせの言語である。日本における漢語とカタカナは「いつ」・「どのように」成立したのか、ほとんど明らかになっているが、和語(やまと言葉・日本祖語)に関してはその成り立ちはまだ明らかにできないでいる。アルタイ語族(トルコ語やモンゴル語が含まれる)説を主張する学者は他の語族説を主張する学者より多く、類似性の高い分野もあるが、基礎語彙については同系統とするに足るだけの類似性は見出されていない。オーストロネシア語族が日本祖語を形成するうえで重要な役割を果たしたことについて、多くの論者が同意しているが、それを単なる借用とみなすのか、系統関係の証拠と見るかについては合意に至っていない。

 つまり、こうやって今使っている日本語はわかってないことだらけである。そもそも言語学上の未解決問題に「語の普遍的定義はあるか?」「文の普遍的定義はあるか?」「ヒトはいつ、なぜ、どのように言語を使用し始めたのか?」などと言ったものが存在しているように言葉についてもなんにもわかっていないのである。ここでいう「わからない」は解像度の高い「わからない」である。プロの学者が何年かかけて膨大な量を検証した上で「わからない」ことがわかったということであり、我々素人が「日本語の起源の本読んだけどわかってないことがわかったわ」と言うのとは圧倒的にわけが違う。

 高校までの学問では、「学問は正解に向かっている」ものだと思い込んでいた。大学に入ってから専門性が高くなるほど「経験式なので正確なものではないがかなりの精度で一致します。」「つい最近までこの方法を取っていたが間違えていたことに気付きました。」といったものをちらほら見かけるようになった。初めは「なんだよ、なんもわかってねーじゃん!」と思っていた。違った。とても高い解像度での「まだわかりません」は十分評価に値する。

 人間の都合お構いなしに火山が噴火したが、その時の気象庁の対応。「津波かどうかわからない」「メカニズムも不明」。この会見は深夜だったが私は眼を輝かせて見ていた。太平洋の津波災害を何度も受けてきたこの国の気象庁が「わかりません」といったのだ。またその中でできることを最大限してくれた。解像度の高い「わからない」であった。私の見える範囲ではこの気象庁の対応にポジティブな反応を示す人が多かった。

 では一般市民の土木への解像度はどうであろうか。言語のように当たり前に存在し、当たり前に使っている。ただしインフラと言語と違うのは必ずしも自然発生したものではないということ。自然言語とは違い、誰かが目的をもってその事業を行なったはずだ。一般市民はどれだけそのインフラの意義を、誰が、どのようにして行なったのかを理解しているのか。何もわからない人が多数いるであろう。このことは改善されるべきだ。最低限「ここまで調べたんだけど文献も見つからなかったし、こっちの本は読んだんだけどよくわからなかった。」といったレベルの解像度まで市民の意識を向上させていく必要がある。


学生による論文(137) 「空海に学ぶ 忌み嫌われる土木から好かれる土木に変えるには」 伊藤 美輝 (2021年度の「土木史と文明」の講義より)

2022-01-28 08:58:28 | 教育のこと

「空海に学ぶ 忌み嫌われる土木から好かれる土木に変えるには」 伊藤 美輝

 土木の人気がない…ということは土木広報を曲がりなりにも行っていると、悩みごとの一つとして挙がってくる。大抵、建築の人気には勝てないので、「建築」というワードも混ぜながら、土木に中高生を誘導できないか、と考えている始末である。実際、一学年約300人いる私の出身高校から土木に進んだ人は、私ひとりかもう一人いるか…といった次第で、理工系ならば情報工学に進む人ばかりだったことからも土木の人気は高くないことがうかがえる。

 この論文では、この土木の人気のなさを土木の「イメージの悪さ」に原因があると仮定し、その解決策について、空海に学びながら考えていきたいと思う。

 現代を考える前に、昔の土木事業についてのイメージを見てみよう。講義内では、昔土木関係の労働に就くことが嫌がられていた理由として、宗教的思考をあげていた。全てのものに神が宿っていると考えていた日本人は、土木は土の深いところに手を加えるので、土地の神様を怒らせてしまうと考えていたのだ。その名残として今も地鎮祭が行われている。神様を怒らせてしまうと、悪いことが起きるのに、わざわざ土木事業を行うなんてありえない、と考える人が多かったのだろう。

 しかし、現代はどうだろうか。確かに、先ほども例に出た地鎮祭や、トンネル工事の化粧木などで、神様を鎮めるという風習は残っている。だが、現代の、特に若者に「土木工事なんて神様を怒らせるようなことできない」と考えている人はいるだろうか。恐らく少ないだろう。では、なぜ今も土木のイメージは悪いのか。私は、3K(きつい・汚い・危険)の労働環境や、むさくるしい男社会…といったイメージがどうしても強いからではないかと考える。実際、日建設計シビルが土木を学ぶ学生421名に行ったアンケートで、土木のイメージを「きつい」と答えた人は109人、「汚い」と答えた人は66人、「危険」と答えた人は61人であった。また、土木の現場で女性が働いていると、「おお」となってしまうのも、男社会のイメージから来ているだろう。

 このように、昔と今で土木のイメージが悪い理由に、共通項はないように思える。しかしながら、そのイメージを克服して、土木事業へ人々を従事させる手法は、昔に学べる点があるように思える。その方法とは、①悪く思われる原因の解決②人望ある人のすすめ③やりがいの周知の三つである。

 昔満濃池の改修を行った、空海の例を見てみよう。空海は、讃岐の巨大な満濃池がたびたび決壊して、周辺地域を浸水させていたことを憂慮し、これの改修工事の統率を行った。ここで、空海というお坊さんが土木工事に携わったことが①悪く思われる原因の解決にあたる。先述した通り、当時は神様の存在が強く信じられていて、土地に深く手を入れるというのは、神様を怒らせ悪いことを誘発する原因だとされていた。空海が携わることで、空海自身がお坊さんの立場からこの神様の魂を鎮めることができ、人々は安心して作業に従事したことだろう。また、空海が統率したという点は、②人望ある人のすすめにも当たる。空海は故郷讃岐の住民が「故郷の誉れ」と仰いでいたとされ、また空海がこの事業に携わると知り、全国から民衆がこの工事のために集まった。③やりがいの周知についても空海は行っている。空海をしたって集まってきた人々に対し、空海は「農業の大切さと工事のやり方を分かりやすく教えた」とされている。大切な農業を安定的に行うためには、この工事が重要なのだと伝え、人々の心を一つにしたのだ。

 これらのポイントを現代に適用させたらどうなるだろうか。まず①悪く思われる原因の解決では、3Kとむさくるしい男社会のイメージを払しょくする必要がある。3Kを克服する取り組みは実際に行われていて、例えば「きつい」「危険」は機械化・自動化によって改善されてきており、「汚い」も改善できるよう、例えば先日の現場見学会で訪問させていただいた鹿島JVさんのオフィスは、住宅展示場と見間違うくらいきれいに作られていた。加えて、土木に携わる女子「ドボジョ」も増えてきていると現場に長年携わる土木の先輩がおっしゃっていた。あとは、これらの改善事業をしっかりと広報していくことが大切だろう。②の人望ある人のすすめについては、現代人望がある人といえばスポーツ選手や、長年芸能界で愛されている芸能人、SNSのインフルエンサーなどだろうか。これらの人々にお願いして、土木広報を手伝ってもらうと効果的に人を呼び込める可能性が高い。③やりがいの周知については、今まで土木技術者は多くを語らない風潮があったので、自分の仕事がどれだけ役に立っているかということを、もっと広く発信していくようにしたい。個人でSNSをもっとやってもらったり、学校に出向いてお話をしてもらったりして、学生の内からあこがれの職業として土木が上がるようにしてもらいたいと思う。

 以上のように、土木のイメージアップには①悪く思われる原因の解決②人望ある人のすすめ③やりがいの周知の3点が大切だろう。これらを念頭に置きながら、今も、社会人になっても土木広報を行っていきたい。

<参考文献>
日建設計シビル「土木を学ぶ学生対象アンケート 学年別まとめ」
https://jsce-chubu.jp/chubu/wp-content/uploads/2016/01/sc-report2012-student.pdf
discoverJapan「空海は9つの顔を持つ稀代のマルチクリエイター ?!はじめての空海と密教」
https://discoverjapan-web.com/article/31804
「人を助け国を作ったお坊さんたち」
https://www.jctc.jp/wordpress/wp-content/uploads/2011/02/ehon2.pdf


学生による論文(136) 「歴史教育の意義」 市村 夏希 (2021年度の「土木史と文明」の講義より)

2022-01-28 08:57:21 | 教育のこと

「歴史教育の意義」 市村 夏希 

 同じ時代に生きる人同士であっても場所が違えば歴史を共通に学ぶことは困難であり、実際に異なる歴史的解釈を基にした認識を保持している。特に国が違えば、歴史教育の意図も方法も異なり、どの時代に何が起きたという出来事の概要以外には全く同じに認識されていることはほとんどないのではないだろうか。こうしたことから私自身の中には昔から、歴史を教えられても、「それは本当に正しいのだろうか」という疑問が存在し、また正しいかどうかを確かめる方法もないと考えてきた。特に最近は様々な情報にあふれ、そのどれもが誰かの何らかの意図の基に発信された真偽の不確かなものである可能性を感じ、現代に起きている事でさえも真実を捉えることが非常に困難であると感じている。現実に起きていることでも自分が実際に体験しないことであれば、確からしいという判断しかできないのにも関わらず、時間も場所も違う自分と全くかけ離れた歴史上の出来事を真実として学ぶのは不可能に近い。そもそも歴史は真実としてではなく、伝える側それぞれの考えの基における事実として伝えられてきたため、特に証拠や根拠とされるものがなければ正しいかどうか判断できないことが多いと言え、そんな中で歴史を学ぶ意義を見つけられずにいた。国の教育指針のもとに作られた教科書には歴史的に重要な出来事でも政治的意図によりその解釈が多くは載せられていない事があるのも事実であり、特に歴史的解釈の違いから対立の大きい中国や韓国との歴史上の関係については具体的な学びが避けられてきたようにも思える。私は歴史を学ぶことについて、自分が正しさを述べられないことへの怖さや違和感から深く学ぼうとしてこなかった。しかしながら、そもそも歴史上の事実の全てを真実として語るのは不可能であり、本来歴史を学ぶことの意義とは、解釈の違いがあることを認識した上で、複数の事実や捉え方・多数の知見を学び吸収しながら自分なりに深く思考することにあるのではないだろうか。私自身はいつ何が起きたかやそれに関連した人物や国名を覚えるだけの歴史教育を受けてきたが、今後の歴史教育では歴史の諸事項の関連や背景を十分に説明した上で歴史の論理を自らの思考により身につけられるような主体的・実践的な教育が必要であり、世界と対等に議論できる人材を育てていかなければならない。


学生による論文(135) 「唯一無二の日本」 飯田 理紗子 (2021年度の「土木史と文明」の講義より)

2022-01-28 08:56:04 | 教育のこと

「唯一無二の日本」 飯田 理紗子 

 日常の多くの場面で日本人は物事の「縁起」の良し悪しを気にしている。正月には「縁起の良い具材」が揃えられたおせちを食べたり、死や苦しみを連想させる数字の4や9のような「縁起の悪い言葉」の使用を封印したり、「縁起の悪いお日柄」である赤口に結婚式を挙げることは避けられたりする。冷静に考えればこれらの事柄には科学的事実は無いわけで我々が真に受ける必要も無いはずだが、人々はなぜこういった思想にすがりつきたくなるのだろうか。それは、人間の力だけではどうしようもない事象とも向き合う武器を手に入れるためであるだろう。すなわちこれこそが日本の宗教であり思想の対象であったのかもしれない。「縁起が悪い」という言葉で片付けて都合が悪い事柄から逃げれば人々に非難されるが、時代を前に前に進めていくためにも現実と向き合うには未来を担う我々にどのような視点が必要であるかについて以下では述べたいと思う。

 日本で生まれ、沢山の日本語に囲まれながら日本で育った私にとって、初めて他の国に触れたり自国についてより理解したりするようになったきっかけは、外国語を学ぶようになったことであるだろう。小さなころから「風情ある日本の四季」や「『いただきます』や『ごちそうさまでした』という自然の恵みに感謝する言葉」など日本特有の自慢を沢山教わり、そして沢山経験した。多くの人々は、それぞれの季節ごとに木々が見せる様々な表情を目にすると自然と気持ちが安らぐし、それは我々にとっての心の拠り所となる。実際、私は手紙の書き出しに時候の挨拶文が書かれる慣習がなんとなく好きである。こうした文化を知ることに加え、日本人の勤勉さや協調性のある国民性を評価される話を聞けば、幼い私はますます日本は良い国なのだろうと感じるようになっていた。

 しかし、中学校に上がり英語を本格的に勉強するようになると見える世界が一気に広がったような気がした。今まで自分が見聞きした日本の良さを確信することもあれば、今まで知らなかった側面が見えることもあった。例えば日本では、初対面の人に「はじめまして」と挨拶するが、英語では”Nice to meet you”と挨拶する。こうした簡単な日常会話から日本と欧米人のそれぞれの考え方の違いを知ることが出来るだろう。日本語では初めて会ったという事実を単に述べているのに対し、英語では会えて嬉しいという感情までオープンに出している。この比較だけでも、日本人は欧米人よりも感情が控えめなのだろうか、とかそれは逆に小心者ということなのだろうか、とかいろいろ想像することができる。

 また、英語を話す機会が増えてくると、「日本人はシャイだ」「没個性的だ」などという指摘を受けることも多くなっていった。私自身もこうした典型的な日本人の特徴によく当てはまり、自らの個性を全面的に押し出したり、話し合いの場で進んで挙手したりすることはあまり得意ではない。このような指摘があると必ずと言って良いほど多くの人々の間で生まれるのが、「日本人が初めから英語を話していれば良かったのに」という類の考えである。しかし少し見方を変えれば、「シャイであること」は「謙虚であること」だと言えるだろうし、「没個性的であること」は「周囲を見渡しながら集団行動を取ることができること」であると言うことができるだろう。

 賞賛される側面と批判される側面は常に表裏一体である。物事の良い面ばかり見て楽観的な思考に偏ることも、悪い面ばかりにとらわれて悲観的になり失望することも、いずれも単なる現実逃避でありナンセンスであるだろう。日本が更に発展するために今こそ必要なのは英語ではないし、日本がたとえ過去に英語を話すようになっていたとしても今の日本に存在している世界に誇れるものは呆気なく消滅していたのかもしれない。つまり、英語をはじめとした他言語は日本の独自性を「消し去る」ために使うのではなく、日本の独自性を「明確にする」ために使うべきだと私は考えている。

 他者から「この国はこれが特別だ」と一方的に教わるだけでも、日本の国そのものについてはある程度知ることができるだろうが、それだけでは真に国を理解することはできない。我々は、何がどれほどどのような理由で異なっているのか自ら探し出す力を手に入れることも必要なのではないだろうか。冒頭に述べたように、時には現実逃避や思考停止とも言える行為が日本独自の文化を生み出すこともあるかもしれない。しかし、比較対象が無ければ現実から目を背けたり慢心したりしやすくなってしまうだろう。他と比較することで見えてくることは必ずあるはずだ。

 土木工事を一つするにしても、書物から歴史を解明するにしても、何にしても目の前に並べられたものだけで判断するのではなく、様々な世界へとつづく扉を叩き続けることが重要だと考える。中には上手く開かない扉もあるかもしれないし、大変な扉を開けた割には思った成果が得られないこともあるかもしれない。しかし、こうして常に現実と向き合い続けることで少しずつ日本が唯一無二の存在になっていくのではないだろうか。


学生による論文(134) 「追体験はなぜ重要なのか」 天野 雄浩 (2021年度の「土木史と文明」の講義より)

2022-01-28 08:54:58 | 教育のこと

「追体験はなぜ重要なのか」 天野 雄浩 

目次
1 経験は最良の師
2 宗教と自分
3 『呪術廻戦』はフィクションなのだろうか
4 自由律俳句と日本語
5 他者の経験を追体験する意義

 
1 経験は最良の師
 英文のことわざに”Experience is the best teacher.”というものがある。この英文のことわざの意味は、「経験は最良の師。亀の甲より年の劫。」である。この文における「経験」の意味は、机に向かうような勉強から得られる経験ではなく、本人が実際に体験して積み上げていく経験を指しており、後者の方がより多くのことを学べるという文脈になる。自分はこのことわざの意味を理解した上で、前者の必要性も主張したい。つまり、机に向かうような勉強、すなわち他者の経験と直接体験はどちらも重要なことのように考える。なぜなら、前者を理解することで後者の理解はますます深まり、その体験はまた前者に活かされるからだ。つまり、前者と後者は相補関係にあるだろう。
 また、経験は様々な方法で得られるものだと私は考える。実際にその場所に訪れて、五感から直接体験するものもあれば、家でタブレットを開いて得られるものもあるだろう。例えば、歴史的な建造物について興味を持ったら、実際にその場所に訪れてみることは大きな実体験といえる一方で、その建造物について本や論文や映像などで情報を得ることもまた大きな実体験だ。一つの実体験を様々な方法で得ることでより客観的な経験となり、自分のために役立つよいものになるだろう。

2 宗教と自分
 宗教というものを考えてみると、意外と自分の生活に関わるものであった。自分の中学校や高校がキリスト教の学校であったことを除いて考えたとしても、神社や寺への参拝、お盆やお彼岸、クリスマスなどの宗教行事は幼少の頃から馴染みのあるものであり、また家には知らず知らずのうちにお守りや神棚がある。最近は宗教行事に参加すると、これらの行事の歴史の重みを改めて感じるようになった。確かに、神社や寺、教会などの建物やそこにある道具、ご住職様にあたる人からそのようなものが伝わってくるものだ。しかしながら、作法に従って「右へ倣え」の精神で参加していたのだろう。本講義を受けて日本文化の穢れや怨霊といった概念に触れることで、また宗教に対する見方は変わった。それは、神社や寺が「恨み」を鎮める施設としての機能を持っているという意識が強くなったことだ。現代の日本で生きていると、恨みを持ったままこの世を去り、怨霊として災いをもたらすという場面はあまりないので実感がわきにくい。こうしたことは、本や論文や映像などの情報によってうまく追体験できるとよいだろう。

3 『呪術廻戦』はフィクションなのだろうか
 日本で現在大ヒットしているアニメ、映画に『呪術廻戦』という作品がある。『呪術廻戦』は、人間の負の感情から生まれてくる呪霊を呪術で鎮める主人公の空想小説だ。作品中で起こる不吉な出来事、事件のほとんどは現実とかけ離れたものとなっている一方、作品の背景になっているものはまさに日本の宗教観、社会構造ではないだろうかと自分は考えた。「1000年前の両面宿儺、死者の呪い」が作品の軸となっている一方で、現代でもしばしば議論の対象となる「教育組織、縦割り社会の問題」や「血縁に関する問題」についても取り上げられている。こうした様々な現代の問題によって、作品のリアリティはより高まっている。日本が得意とするアニメという形で、日本文化の様々な価値観を追体験できる面白い作品であると自分は考えた。

4 自由律俳句と日本語
 種田山頭火の俳句に、「まっすぐな道でさみしい」という作品がある。山頭火が45歳前後の頃、旅の途中に詠んだ句といわれている。僧侶になったものの、俗世の人間らしい考え方を捨てられなかった山頭火の心情がひしひしと追体験できる作品である。自らの残りの目的のない人生を「まっすぐな道」に例えて、行乞しか選択肢が残されていないという山頭火の孤独感が「さみしい」という純粋な表現で伝わってくる。季語や構成といった難しい表現方法は一切使わずに、容易な比喩表現と作者の情報だけで理解できる点が素晴らしいと自分は考えた。また、平仮名表現のやわらかさと漢字の硬さ、情的な平仮名表現から伝わる人生の無常さ、「道」という漢字を中心として対称な構造を持つこの俳句の表現の美しさなど多くの発見も同時あるだろう。この俳句から自分は、実際に体験したことのない視点から人生の奥深さを感じるとともに、言語情報の奥深さ、日本語という母国語の美しさも感じることができた。

5 他者の経験を追体験する意義
 個人が直接体験できるものの総量は、時間や環境によって限られている。もちろん直接体験したものは、他者の経験からの追体験で置き換えることができない現実的で極めて重要なものであるから、時間や環境の許す限り増やすべきである。一方で他者の経験は、インフラストラクチャーとしての機能を持った言語情報を通じて、文献、本、論文、映画、アニメなど多様な形で我々に供給されるものだ。その多様さは、個人が得られる直接体験をはるかに上回る量と質であろう。直接体験に加えて他者の体験を追体験する活動を行うことで、前者と後者に相乗効果をもたらし、自分自身に役立つ経験がより豊富になるのではないかと自分は考える。直接体験に加えて他者の体験を追体験する活動も積極的に行い、自分の人生が「まっすぐな道でさみしい」状況にならないように努めたい。

参考文献
・【まっすぐな道でさみしい】俳句の季語や意味・表現技法・鑑賞文・作者など徹底解説!!、俳句の教科書、2019-12-25、2022-1-22閲覧、https://haiku-textbook.com/massugunamichi/#i-2

 


学生による論文(133) 「興味・関心がもたれない土木」 柳浦 拓希 (2021年度の「土木史と文明」の講義より)

2022-01-28 08:53:19 | 教育のこと

「興味・関心がもたれない土木」 柳浦 拓希

 道路や鉄道,港湾,上下水道といった社会資本は私たちが豊かな生活を送る上ではなくてはならないものである.しかし,これらの社会資本(特に鉄道や道路)というのは,単に私たちの生活を支えるだけではなく,地域活性化や防災面での役割も果たしている.

 例えば,山陰を東西に結ぶ山陰道はまだ全線開通していないものの,多くの区間で開通しており,多くのドライバーに多様な目的で利用され,高速で快適な移動は勿論,新たな賑わいが創出された.また,昨年,出雲市の多伎町で豪雨による大規模な地滑りが発生し山陰道と並行して走る国道9号線が長期間全面通行止めになった.その際,これまでならば大幅な迂回が必要であったが,数年前に開通した多岐・朝山道路によりそれを回避することが出来た.このように,山陰道と国道9号はお互いに補完しあっており,地域住民を支えている.

 一方で,近年はこれらの社会資本の老朽化が大きな問題となっている.
 橋梁や道路と下水管いった社会資本は高度経済成長期に集中的に整備された.そして,これらは,建設されてから数十年の年数が経過し,徐々に老朽化してきている.しかし,現在の日本では,これらの社会資本を維持管理するための十分な財源が確保されていない.また,現在,利用出来ているからといって後回しに放置されているものもある.そのため,本来ならば多くの投資を行い,状態が深刻化する前にメンテナンスを行うべきであるが現実はそうではない.このような悲しい状況が続けば,維持管理にかける費用が更に増大してしまい,これからの未来,十分なメンテンスを行えなくなってしまう可能性もある.そして,近い将来,首都直下地震や南海トラフ地震といった巨大地震が発生すると予測されている日本で,このように社会資本が放置され,それが倒壊し,どれだけの被害額が発生することになるだろうか.

 このような私たちの生活を支える社会資本の老朽化の問題を,一般市民はどれだけ認識出来ているだろうか.また,このような社会資本を通じてもたらされる,もたらしている豊かな生活に,一般市民にどれだけ適切に理解されているだろうか.

 話は脱線してしまうが,私は,秋学期に一般教養で「ジェンダー」に関する講義を受講している.この講義は,土木史の授業のように自分の中で考えさせられることが多い内容で,日常生活を送る中でジェンダーの視点から物事を考えるようになった.ここで何が言いたいのかというと,私たち人間は,何かきっかけがなければ自分の専門分野以外のことには興味・関心を抱けないということである.関心が集まらないから,土木の偉大さや現状に気づいてもらえない.だから,投資額が増えない,私はこのように考える.しかし,土木に関係しない人たちの関心を集めることが何よりも重要であるがそれはなかなか難しいものである.

 これから先,土木に興味・関心がもたれるきっかけというのが,災害等が発生し,社会インフラが崩壊した時でないことを心から願う.

 


土木スーパースター列伝 津田 永忠

2022-01-22 12:19:01 | 趣味のこと

from DOBOKUの連載、土木スーパースター列伝への寄稿を2つ依頼され、2つ目が公開されました。津田永忠です。

土木分野の方でも知らない人が多いのではないでしょうか。むしろ建築分野で閑谷学校が有名かもしれませんね。

ぜひぜひ津田永忠のことを知って、ファンになってください!

ちなみに私が執筆した一人目のスーパースターは、濱口梧陵でした。

こんなすごい方々のことを書かせていただいて、光栄なことです。土木史、というものも、私の人生において不可欠で大事なものになってきております。。。


学生による論文(132) 「戦乱の世から学ぶ」 秋田 修平 (2021年度の「土木史と文明」の講義より)

2022-01-21 09:02:46 | 教育のこと

 「戦乱の世から学ぶ」 秋田 修平 

 「戦国時代」と聞くと、どのようなイメージを持っているであろうか。武士が馬に乗り、刀を持ち、互いに戦っている場面をイメージする人、自分の好みな戦国武将をイメージする人など様々であろう。私自身、この講義を受ける前には戦国時代に対して「強い人たくさん時代」という程度のイメージしか持っていなかった。しかし、この講義を受け、戦国時代に対して今までとは少し異なる捉え方をするようになったのである。

 今回は、その戦国時代の特徴を考察するとともに、現在の私の戦国時代に対する捉え方について論じたいと思う。

 まず、日本の歴史を振り返って考えてみたとき、戦国時代はやや特異的な時代であったと考えることができるのではなかろうか。戦国時代には、その「戦国」という名の通り、各地に多くの国が存在しており、戦乱を繰り広げていた。もちろん、戦国時代以前も各地で力のある人物は存在しており、その地のリーダーとして活躍していた人物は戦国時代以外にも多くいる。しかしながら、幕府勢力の衰退のために本当の意味での全国のリーダーが存在していなかったこと、加えて、日本各地に数多くの国が点在し、それぞれの国を治める「数多くの」大名たちが全国統一のために争いを繰り広げていたことは、戦国時代の特異的な点であるように思われる。つまり、日本国内で国同士が鎬を削り、自国を大きく、豊かなものにしていくという、現代における世界の縮図のようなものが展開されていたと捉えられるのである。世界との競争力が低下している現代の日本に生きる我々は、戦国(現代ならば世界的競争)の世を生き抜き、立派な国を築きあげた優秀なリーダーから多くのことを学ぶことができるのではなかろうか。そして、この講義の主題である「土木史」も、当然、その例外ではない(例外ではないどころか、学ぶべき最重要項目の一つであるかもしれない)。「甲斐の虎」として名を馳せた武田信玄、東北地方の一大勢力であった伊達政宗、前回のレポートで論じた戦国三大武将(織田信長・豊臣秀吉・織田信長)、これら全員が土木の重要性を認識し、高い土木的センスを持っていたといえるであろう。

 さらに、これらのセンスの片鱗は、現在でもそれぞれの武将が治めていた、地域を見ることで確認することができる。三大武将に関しては前回のレポートで論じたため、ここでは甲斐の武田信玄、伊達政宗について論じたいと思う。

 まず、武田信玄であるが、「信玄堤」という言葉は耳にしたことがある人がいるのではなかろうか。信玄は自身が22歳のときに甲府盆地に流れる釜無川・御勅使川の氾濫を経験し、自国の繁栄のために治水事業をスタートさせる。この際に信玄は、家来たちの意見に積極的に耳を傾け、そこで得た知見を的確に事業へと反映させていった。具体的には、暴れ川である釜無川・御勅使川に対して、1つの策での正面衝突的な対策ではなく、将棋頭と呼ばれる岩を用いて川の流れを緩やかにするなど複数の策を用いて川の流れを緩やかにした後、最終的に信玄堤と呼ばれる霞堤において川の水を誘導していくという複合的な対策をとったのである。この信玄堤の完成までには20年弱の期間を要しており、当時の大変な大事業であったことが分かる。甲斐の虎、武田信玄の強さは、このような地道な土木事業によって下支えされていたのではなかろうか。

 次に、東北の一大大名である伊達政宗であるが、拠点として政宗が仙台に築いた青葉城に注目したい。青葉城は、その名の通り仙台市の青葉山という場所に1600年、政宗が築いた城である。この時代、政宗は反徳川派である会津の上杉氏との睨み合いが続いており、いつか起こると想定される合戦に対しての備えが必要であったのだ。この青葉城であるが、奥州街道沿いで交通の便がいい仙台市街地の近くにあるにも関わらず、山林に囲まれるなど敵からの攻撃を非常に受けにくい場所にあるのだ。つまり、利便性に長けた難攻な城であったのである。実際に私が青葉城を訪れた際、仙台駅から地下鉄で3駅ほどで青葉城に着き、その利便性を実感したのも束の間、青葉城に続く長い急坂を目にして絶望したことを覚えている。そして、なんとかその急坂を登りきると、仙台市街地から海までを一望することができ、ここでも政宗の凄さを見せつけられたのである。また、政宗は川村孫兵衛重吉という治水の名手を家来にもっており、仙台の発展にはこの川村が大きく貢献したといえるであろう。

 戦国時代というと、やはり戦乱の時代という印象が強いように思われる。しかしながら、切り口を変えてみると、国に力をつける(国を豊かにする)ために各大名が鎬を削った時代と捉えることもできるのではなかろうか。そして、その優秀な大名やその家来たちが全国各地で行った努力は、結果的に後の日本の発展、さらには現在の日本を支える「戦国時代の置き土産」となったように思われる。

 土木という眼鏡をかけて戦国という時代を見た時、私は今までとは違った捉え方、学びを得ることができた。様々な眼鏡をかけて、歴史を振り返ることはとても面白く、我々に多くの学びを与えてくれるのではなかろうか。

 


学生による論文(131) 「経路依存の克服」李 大範 (2021年度の「土木史と文明」の講義より)

2022-01-21 08:58:24 | 教育のこと

「経路依存の克服」李 大範

 私は今までの選択が正しいのか常に考えている。今回の講義で学んだように一時期判断した挙句、選択した結果が、これからの人生に大きな影響を及ぼすことが多いと思うためである。ある意味、留学の選択、志望する学科に進み、学び、これからの夢をひらめくことを願ってることにも選択をして今都市基盤学科で土木、都市に関わる勉強をしている。しかし、私の夢は建築家になることで、これからの都市に画一化されている建物の形をデザインし、再建することで、観光としての価値だけでなく都市に住んでいる人々が日常生活にアートとしてなじみ、楽しんでほしいと思っていた。ところが、いくら美しいアートとしても外部圧力(地震、災害、テロなど)が加わると一瞬に形も残らず消えていく。「芸術性を活かすことができても保つことができなかったら芸術的価値はない。」と思った。このような考え方から結局土木、シビルエンジニアリングの方向から、耐震、災害リスクを学び、これからの都市を安全で快適な空間に創り上げ、管理することが最も重要な事案ではないのかと感じた。

 このことで、先進国でも技術と研究が進んでいる日本の留学を決め、都市基盤学科に入学することができたが、さすがに建築と距離は違い学科とはいえ、建築学科の設計模型やデザインの勉強とは距離の遠い工学的な勉強、これからの都市リスクを改善のための考察などの学びが多かった。

 決心の下この学科に進学したつもりだが、建築デザインの勉強を並行してすることが難しいことを知ったら、最終的に私が変えた選択が、もともと願っていた建築デザインの道とは方向が違うため、その分野の専門的な勉強をできなくなり、土木分野の道に専念するしかないという観点から考えてしまうと、ある意味経路依存性になってしまったと思われることもあるだろう。もし建築デザインの専門的な分野を勉強したくて進路の選択を翻すことになったら、編入したり、学科の再入学、さらにそのプロセスのための受験勉強に費やす時間とコストなどのさらに付加的な面があるため、イギリスがEU離脱が困難を極めていることと同じ場合だと考えられる。

 経路依存から大きな変化を怖がることは発展はないと思う。これからの時代では大きな革命なる変化がない以上さらなる発展につながることは難しいと思う。私は進路の方向を変えた時の「安全で快適な都市空間を創ること」が第一であるため、この分野を専門的に学び、さらに、これから建築デザインの分野の知識を頭に入れておきつつ、永遠なる芸術性を保つ都市空間を創り上げていきたいと思う。


学生による論文(130) 「産業を支える道路」 渡邊 瑛大 (2021年度の「土木史と文明」の講義より)

2022-01-21 08:57:03 | 研究のこと

「産業を支える道路」 渡邊 瑛大 

 人類は、遥か昔、狩猟や採集といった獲得経済から農耕や牧畜といった生産経済へ転換した。そして、農業を行うために、農機具の性能の向上や品種改良といった機械や技術の開発だけでなく、河川の堤防の整備や溜池の建設といった自然を利用した土地の開発も行われてきた。その結果、農業の労働生産性や土地生産性が向上し、第一次産業は人々の生活を支える根幹となったのである。その後、経済の成長とともに産業構造の高度化が進行し、労働力は第三次産業へと移行した。しかし、その労働力を支えているのは紛れもない第一次産業であり、我々は第一次産業がなくなれば生活ができない。そして、人々が生活していくための産業や経済を支えているのは、道路や港湾施設、治水施設、農業生産基盤などのインフラなのである。特に、北海道では北海道開発事業によって様々な社会基盤が整備され、人々の暮らしを支えてきた。

 例えば、道東道は道央エリアと道東エリアを繋ぎ、移動を促進させることや時間を短縮させることを主な目的として建設された。1995年にまず十勝清水ICから池田ICまでの約50kmの区間が開通した。しかし、この区間は広大な十勝平野の中央付近であり、沿線人口が少ない上に並行する国道38号や国道242号などの一般道は線形が良くかつ空いていたため、わざわざ有料である高速道路を利用する人はほとんどいなかった。そのため、当初の目的は全く達成されず、当時の一日あたりの利用台数は約650台と利用状況は大きく落ち込んだ。営業係数が全国で最下位となっただけでなく、建設に何百億円もかけた結果がこうした凄惨たるものであったため、国会では不要な高速道路として槍玉に挙げられるようになり、「クルマよりクマの方が多い道」と批判されたこともあった。

 ではなぜ、需要が大きいと考えられる国道38号の難所である狩勝峠や国道274号の難所である日勝峠の辺りを通って清水や新得から占冠・千歳方面へ抜けるルートを先に建設しなかったのか。実際、1999年に千歳恵庭JCTから夕張ICまでの区間が開通した際には、一日あたりの利用台数が約2500台となり、大きな成果を挙げた。一方で十勝平野の区間は利用台数の増加に伸び悩み、2003年に池田ICから本別ICまで路線が延伸されたが、一日あたりの利用台数は約1500台に留まった。これは、道央と道東を阻む最後の砦としてそびえたつ日高山脈によって工事が難航したためである。日高山脈は地盤が非常に脆く、穂別トンネルでは一ヶ月で1mも工事が進まないこともあった。調査や設計に時間を要した上に豪雪地帯であったために難工事となったのである。だが、2011年に、穂別トンネルや占冠トンネルなどの3000mを超える長大トンネルによって山越えが克服され、当初の目的がようやく達成された。その後は全線に渡って交通量が増加しており、物流や観光などの様々な面で良い影響を与えている。

 現在、北海道では、こうした道路網や港湾・空港といった経済や産業を支えるインフラが整備されたことで、迅速かつ効率的な物流や観光客の移動が可能となっただけでなく、治水事業によって農地の洪水の被害が低減され、また農業生産基盤が整備されたことで土地生産性が向上した。そのため、第一次産業である「食関連産業」と第三次産業である「観光関連産業」を関連させた新たな形の産業が、北海道の将来を担う産業として期待されている。

 このように、この世の全てのインフラには造られる目的があり、果たすべき役割がある。インフラがその役割を果たすのは今かもしれないし未来かもしれない。また、インフラの恩恵は一時的なものかもしれないし、恒久的なものかもしれない。今は活躍していないインフラも、きっと近い将来に活躍する日が来るのだ。不要なインフラなど今の世界には存在していないだろう。


学生による論文(129) 「たかがため池、されどため池、水の都を侮るなかれ」 宮内 爽太 (2021年度の「土木史と文明」の講義より)

2022-01-21 08:55:33 | 教育のこと

 「たかがため池、されどため池、水の都を侮るなかれ」 宮内 爽太 

 以前の私の論文にて、毛馬閘門をはじめとする淀川に関連する土木施設が、大阪の「水の都」としての発展に寄与したということについて述べた。その時に用いた「水の都」という表現は、特に運河や河川に焦点を当てたものであり、一般的な「水の都」としての捉え方で述べていた。言い換えれば、「水の都」という表現から思い浮かべるものは、運河や河川といったようなものしかなかったのだった。事実、「水の都」という言葉はほとんどそのような意味でしか用いられておらず、水が都市の形成・発展に貢献しているところに対して、「水の都」という愛称がつけられている。

 しかし、本日の講義を踏まえて、都市の形成に関わる水のかたちは、運河や河川のようなものだけではないということに気づき、「水の都」という言葉の意味に足りない要素についての着想を得た。本稿ではそれについて論述し、大阪が真の「水の都」であることを証明する。

 結論から言うと、その要素とは「ため池」である。

 まず、ため池について、農林水産省によると、「ため池とは、降水量が少なく、流域の大きな河川に恵まれない地域などで、農業用水を確保するために水を貯え取水できるよう、人工的に造成した池のことである。」という。すなわち、ため池は私たちの日々の食事に大きく関わっており、なくてはならないものである。本日の講義でも紹介された狭山池ダムも一種のため池であり、現存する日本最古のダム式ため池である。この狭山池も、農業用水確保のためにつくられた土木構造物であり、私も1年前にこの狭山池ダムと、隣接する狭山池博物館を見学し、その功績を自分の目で確かめてきた。遺された堤や中樋、木製枠工など、日本最古の狭山池を形成していた土木構造物を見るだけで、積み上げられてきた歴史の重みを感じた。

 さらに、本日の講義で「世界かんがい施設遺産」というものがあることを初めて聞き、狭山池ダムもこれに登録されていることを知った。さらに調べてみると、「狭山池」が平成26年に登録されたのを筆頭に、のちに「久米田池」、「大和川分水築留掛かり」が登録され、直近では令和3年11月26日に「寺ヶ池・寺ヶ池水路」が登録されたばかりであった。これはまさに、大阪のため池をはじめとするかんがい施設が、日本だけでなく世界からも認められている証である。

 ではなぜ、それほど大阪のため池に注目するのか。それは大阪府全体を地図や航空写真で俯瞰すると見えてくるものがある。実際に俯瞰して見ると、特に府南部の方に大小様々な池が多数存在していることに気づく。それもそのはず、大阪にあるため池の数は11,077箇所で、日本で4番目の多さを誇る。また、ため池の総面積は2,500ヘクタール、貯水量は7,300トンにも及ぶ。また、先に述べた世界かんがい施設遺産に登録された4か所のため池や水路も概ね府南部に位置している。この地域がいかにため池を必要としていたということが読み取れる。

 したがって、大阪が発展するために必要としていた「水」というのは、都市の水運だけではない。人々の食を支えるための、ため池という「水」も必要だったのだ。ため池の存在をなしにして、大阪全体が「水の都」として花を咲かせることはできなかったであろう。

 正直に言うと、私は今まで過ごしてきた中で、ため池が土木に関係していて、私たちの生活にどれほど貢献しているかなどは全く知らなかった。これは農業にでも関わらない限り、ため池を本来の目的で利用する機会もないため、そう感じてしまうことは仕方がない気もする。しかし、現在は狭山池や寺ヶ池などの多くのため池が遊歩道や公園としての役割を果たしており、たとえ本来の目的としてため池が使われなくとも、今も市民にとっては必要な場所になっている。身近にある、何の変哲もない池が、実は私たちの生活を支えており、都市の貴重な水であるということは忘れてはならない。

 大阪は秀吉の水運だけではない。行基のため池も、重要な水の都の要素である。大阪はこれら両方を併せ持ち、これからも「水の都」としての名を世界に轟かす。

参考文献
・大阪府HP 「南河内のため池(教えてため池)」
https://www.pref.osaka.lg.jp/minamikawachinm/m_index/k_oshietetame.html
最終閲覧日:2022年1月7日
・農林水産省HP 「ため池」
https://www.maff.go.jp/j/nousin/bousai/bousai_saigai/b_tameike/
最終閲覧日:2022年1月7日
・農林水産省HP 「世界かんがい施設遺産」
https://www.maff.go.jp/j/nousin/kaigai/ICID/his/his.html
最終閲覧日:2022年1月7日