荒川三歩

東京下町を自転車で散策しています。

「かどや」の鯛めし

2023年06月20日 | 散文

松山空港に居ます。11時55分発の飛行機で、羽田着が13時30分です。昼食のタイミングが悪い便です。空いているのでいつもこの便にしています。空港のレストランで昼食を取ります。あれ?!見たことがあります。帰郷して食べてない「宇和島鯛めし」を食べたかったのでちょうど良かったです。

 

以前に東京大学の山上亭で食べた記憶が蘇りました。入ります。

 

食レポに慣れていません。料理が出て来てすぐに盛り付けました。写真を撮っていません。普通の鯛めし(鯛の炊き込みご飯)と違って宇和島鯛めしは、鯛の刺し身と海藻を生卵の入った出し汁に漬け込んで、ご飯にかけて食べます。卵かけご飯に刺し身と海藻が入った状態です。

東京大学で食べたときと同じ美味しさでした。当然です。愛媛県が本店だもの。東京大学で食べたのと同じメニューでした。

東京大学の鯛めしはこちら

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年代物の養命酒

2023年06月20日 | 散文

帰郷したものの雨ばっかりです。何処か行きたいけど、雨だと自転車に乗れなし、車は無いしで、今日も自宅で冷凍食品の昼食を食べて居ます。

昔から我が家の食器棚に有るな、と思っていました。アルコールは何でも来いの私だけれど、養命酒はそもそも飲んだことがありません。従って放っていました。写真の背景は誰も住んでいない家を、妹が片付け中の部屋です。

 

片付け中に妹が見つけて、処分しようと封を切ったけど、キャップが固くて開かないそうです。どれどれと取った私の握力でもキャップは回りません。

 

懐かしいラベルではありますが、もうボロボロです。

 

手にとって眺めていたら、下方に何やら数字が打たれています。

 

これって、製造年月日じゃないでしょうか?「1978年8月18日」と読めそうです。末尾の「A」の意味は分かりませんが、もしそうだったら、今から45年前のものです。昔両親が飲んでいたのを覚えていて、その残り物だと思います。

封を切ったものの新品です。箱も無いし、お宝とは言いませんが、レアな物件ではないでしょうか?

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母の生家訪問

2023年06月20日 | 散文

帰郷してから雨が振り続けます。今年は本格的な梅雨です。

妹に連れられて母の生家へ行ってみました。伯父が亡くなった時以来の訪問です。子供の頃はしょっちゅう泊まりに来ていました。ずいぶんお世話になった親戚です。伯父が亡くなった後は伯母さんが施設に入って、今は誰も住んで居ません。

 

庭の隅の駄屋(家畜小屋)です。牛を4頭飼えました。古い家を取り壊して前掲の家を建てる時、牛を売却して建築資金とし、空き家にしたここで煮炊き寝起きをしたのを覚えています。自宅に帰れば良いのに、キャンプみたいな生活を親戚と一緒にしていました。それを今でも覚えているのは、相当楽しく思って過ごしたに違いありません。駄屋の横と裏には複数の鶏小屋が有りました。

 

庭の反対側にも家屋が在ります。1階右側は駄屋です。中は案外広くて、ここでも牛を4頭飼えました。時々馬を飼っていて、背に乗せてもらった写真が残っています。左側は穀物倉庫です。

 

2階は、当時大学生だった母の末弟の部屋でした。夏休み等しか帰省しないので、突然居たりするのを不思議に思い馴染みにくい叔父でした。後年頼りにしている叔父です。

 

家の右のスペースです。ここには「離れ」が在りました。母は5男5女の長女でした。未婚の叔母達に遊んで貰った建物が場所です。今はその跡形もありません。大きな柿の木も有りました。活発な4番目の叔母にねだって、木に登って熟した柿を取って貰っていました。

 

表に戻って、家を右回りに進みます。ずいぶん広いと思っていた築山です。誰も居ないので荒れています。子供の頃は遊ぶのに十分過ぎる築山でしたが、遊んでは祖父に𠮟られていました。

 

庭を通って裏へ行きます。

 

ここはトイレです。大家族だったので、2個のトイレが有りました。

 

角を曲がると風呂の焚き口です。廃屋になる前にガス風呂に改造しています。風呂炊きは子供の仕事でした。ある夜ここで大きくて赤い飛行物体を見ました。伯父はソ連の人工衛星だと言っていました。...航路を外れた飛行機だったと思います。

 

こちらは風呂の出入り口です。百姓家なので、土に汚れた体で家の中を汚さないよう、外から風呂に入る構造です。

 

裏庭です。ここの中央に大きなナツメの木が有りました。沢山食べたのを覚えていますが、もうありません。

 

塀の向こうの荒れた田圃です。台所からよく見た田圃です。耕作放棄地になっています。

 

ここが台所と外との出入り口です。離れとの連絡口でした。

 

背後が離れの在った場所です。あの角にトイレが有りました。家に上がらなくても済むように、農作業中に使う外便所です。

 

この場所に樹木は無く、だだっ広い庭でした。脱穀をしたり、駄屋を掃除するのに牛を繋いだり、ニワトリが遊ぶスペースでした。

 

ここにも鶏小屋と鳩小屋が有りました。牛小屋の周囲にも鶏小屋が有りました。普通のニワトリだけでなく、チャボや軍鶏を飼っていました。軍鶏は闘鶏に使います。チャボは軍鶏の卵も抱かせていました。祖父は闘鶏に夢中でした。お餅を噛んで、口移しで食べさせていました。我々孫より可愛い風情でした。

犬も猫も居ました。動物だらけの家でした。

家の前は太平記の舞台、世田山・笠松山です。世田山には、柿取りが上手だった叔母が嫁いで行った家の墓が有ります。落城時、城主と共に自刃しました。

思い出が次々に蘇ります。雨が降っていますが浸って居たいです。...もう来ることは無いかもしれません。

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