人間の社会では制度や慣習は徐々に変わることはあっても徐々に変えることは難しい。変革は急速に勢いを持って初めて可能になる。概ね、これは歴史的な真実と思う。まあ、私は社会学者ではないので、歴史的真実が言いすぎとすれば、仕事柄経験している生活習慣の改善から類推出来るとしておこう。
田中文科相が三つの大学の認可を認めなかったことに反発が出ているようだ。詳細は知らないが、文科相の言われることは一般論としては筋が通っているように思う。この問題を田中じゃじゃ馬発言的に捉えては、問題の核心がぼやけてしまう。
ここには二つの問題が現れていると思う。大学の価値と役割を見直す必要性と行政の物事の決め方を見直す必要性だ。文科相の決断は唐突のように見えるが、実は以前から懸念のあった問題なのだろう。
自分は法律のことはよく分からないが、問題のある内容が手続きと形式を瞬間芸で擦りぬけて認可されると突然問題のない問答無用の存在に変身する構造には改革が必要だと思う。勿論、改革を生かし支えるには高い民度が必要とされるだろうが、無関心と無理解をよいことに真実や正義よりも便宜が優先されては敵わない。
例えば放射能とか化学汚染とかに対して人為的操作的な安全宣言を持って問題なしと思考停止を強いる手法と構造に疑問と不安をもつ人は多いだろう。今回の問題をそれと同列に扱っては、教育事業者から反論があるかもしれないが、半世紀前、大宅壮一は駅弁大学と雨後の竹の子の大学を揶揄している。大学の意味は変わった今更何だと言われても、混迷の今の時代に大学の意義と大学の認可方式を見直すのは意義深いのではないか。