駅前糸脈

町医者をしながら世の中最前線の動きを感知、駅前から所見を発信。

兼業ノウか?

2012年10月16日 | 政治経済

             

 世の中には理解出来無いことが多いが、市長をやりながら知事をやりながら党首や幹事長を兼ねて、党結成の挨拶回りに遠方へ出向けることができるというのはどういうことか?

 私は趣味で絵を描くけれども画家ではない。時間のある時気が向けば絵筆を握るだけで本職にはほど遠い。誰も私をプロのエカキとは認めてくれない。まあ、世の中には多才な人がいて、二足三足のわらじを履いている人もいるようだが、自由業というか拘束の少ない一人で出来る仕事が殆どだろう。そして一足専業の人には敵わないとしたものだ。兼業農家がもたらしたものを検証してみるといい。

 もし大阪府知事や大阪市長が兼業でできる仕事なら、市長や知事は操り人形というかお飾りなのだと思えてしまう。普通の人には出来なくても、俺には出来ると言うのなら、それは私は危険人物であるという告白に等しい。

 次から次と言葉を操る才能、ああ言われればこう言い返す才能は認めるけれども、語ることのできることと実行できることとは違う。ワシは夢を売るのだというのなら、正確に幻想を得るのだと言い直した方がよさそうだ。恋は醒めるもの、それでも見事に結実する夫婦も多い。維新は醒めても褪せないものを示すことができるだろうか?。妻には謝って済む?のかもしれないが、国民には謝って済むものではない。

 マスコミの陰には考える国民がいる。止まると倒れる一輪車乗りはプロではないと申し上げる。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

神様に聞いてみたい

2012年10月15日 | 身辺記

           

 昨日は一時間半ほどのドライブでちょっと遠出をし、初めての店で昼飯を食べて帰ってきた。標高三百メートルほどの山間の町で秋が濃い。この頃はどこに行っても何とか牛、何とか豚と土地の名の付いた銘柄肉の料理がある。私は豚のソテー家内はローストビーフを注文した。付け合わせの野菜も旨く、お値打ちのお値段で満腹になった。

 今日は月曜日、ブルーマンデイとまでは行かないがさあ働くぞと言うほどの元気はない。三十分ほど早く目覚めたので、7時前の電車に乗って出てきたが、正直、医院を開けながら日曜日があるから働き続けることができていると感じた。正確には何とか働けるというところだ。

 明治以前の人は、どういうサイクルで働いていたのだろう。月の満ち欠けで、日の流れを把握していたのだろうが、月に二度、新月と満月のお休み程度ではとてもじゃないが疲労困憊、顎が出てしまいそうだ。落語などでは奉公に出ると盆暮れの休みとなっているから、他の時は毎日働いていたのだろうか。

 週七日で六日働いたら日曜日は安息日というのは、聖書由来で向こうの神様が決めたことのようだが、どういう理由で七日にしたのだろうか。今は子供の時からの習慣で、七日のサイクルで働くのが心身に染み込んでしまったが、最近は週四日くらいが良いと感じている。実際に週休二日の人達も多いようで、土曜日半日とはいえ、週六日働いている私には羨ましい世界だ。

 いずれにしても週七日と云うのは太陽や月の動きには関係の無い決まりで、なぜ七日にしたのか神様に聞いてみたくなる。これが世界標準になったのには、やはりそれが人間が暮らしやすいサイクルだったせいだろうか?。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ちょっと違う山中先生

2012年10月14日 | 人物、男

     

 山中先生は偉いのだが偉そうではない。謙虚で真摯な紳士で、体育会系の気質も持って居られるようだし、関西系笑いの乗りもお持ちのようだ。この五日間で大の山中ファンになってしまった。一番弟子の高橋和利さんもこの師にしてこの弟子ありと言う素晴らしい方のようで嬉しくなる。

 日本の宝物なのだから、ここは奥様に腕まくりをしていただき、宅の山中を引っ張り回すのはいい加減にして頂戴と見得を切って頂こう。

 山中伸弥教授は未だ五十歳の最前線の研究者、ラボに居る時間を最優先にしてあげたい。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

いじめは文科省をはみ出る

2012年10月13日 | 世の中

     

 田中真紀子文科相には学校でのいじめの問題に力強く取り組んで頂きたい。お役所的な対応を越えた対策が少しでも出せれば花丸だ。

 とても小文ではいじめを論じきれないが(大文でも私には無理そう)、いじめがあるのは学校だけでないことを大きな声で指摘しておきたい。学校のいじめほど露わではないが、より根が深く複雑ないじめの構造が社会の中に存在する。子供にいじめはよくないと諭すならば、大人も社会の中に巧妙に仕掛けられたいじめに取り組まなければ片手落ちということになる。

 残念というよりは、事実として根が深く複雑な問題でとても解決は難しく学者も歯が立たないようではあるが(学問個々の視点での取り組みはあると推察する)、社会の中に一見いじめに見えないいじめの構造が存在するのを明らかにするだけでも意義深いと思う。

 いじめるいじめられるや虐げる虐げられるには微妙なニュアンスがあり、もうそれだけで複雑な意味合い様相を呈し簡単には論じられなくなってしまうが、差別の存在という切り口で捉え、差別される側の心理に目を向けるだけで、浅薄な見出しの後ろにある事実への理解は深まると思う。正義のように見える正義の危うさが浮き彫りになるだろう。

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

忍び来るもの

2012年10月12日 | 小験

        

 忍んで来るようなものは大抵歓迎されないものとしたものだ。色恋沙汰なら、まんざらでもと思われる方も居られるかもしれないが、人目を忍ぶのでは歓迎しない関係者が居るだろう。

 院長と言えば統括が仕事のように思えるが、零細医院ではレジの小銭を揃えるのも仕事になっている。どうも妻が事務長というのは考えものだ。

 いちいち小銭の枚数を数えるのは手間なので、小銭入れに並べて五十枚にしている。これはまずまず順調にできる。問題は揃えた十円や百円をレジに入れる時だ。崩して手の平に受けてやればいいものを両端を抑えて棒状のまま移動させようとするから事故が起きる。力の入れ方が足りないと、棒が中ほどで破綻し小銭をばら蒔くことになる。それには懲りているので十分力を入れて慎重にやるのだが、肘が壁に当たってあっという間に小銭をばら蒔いてしまう。こうなると、ことだ。リリーは私は泣いていますベットの上でと歌っていた。私の場合は受付の床に這いつくばって泣いていますということになる。なぜかというと、小銭を上手く摘まみあげられないからだ。

 ついこの間まで、こんなドジは踏まなかったし、小銭を床から摘まみあげるのもさほぼ難儀ではなかった。薄暗い待合室を振り返ると背後に私に忍び来るものの気配を感じる。なんだか「おい、おい」。と泣きたくなる

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする