作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

President Donald Trump on Monday was sworn in as the nation's 47th president

2025年01月21日 | ニュース・現実評論

President Donald Trump on Monday was sworn in as the nation's 47th president

 

 

 

 

 

 

 

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2025年01月08日(水)11 tweets(尾高朝雄と宮沢俊義との論争)

2025年01月09日 | ツイツター



使い勝手の悪くなった、X(ツイッター)


以前、現在の X が まだ Twitter と呼ばれていた時は、興味のある本を読んでいるときなど、読書ノートの代わりに Twitter でメモをとっていました。けれども、Twitter が X に変わってからは、このGooブログとも連携できなくなってしまい、せっかく X(ツイッター)で読書ノートとしてポストしても、このGooのブログに自動的に記事としてまとめて記録できなくなりました。しかし、何か方法もありそうなので、投稿した私のツイートを別にまとめて、このGooブログにも記録しておくことにしました。

ツイッターの投稿が自動的にGooブログにまとめて記録されていたことを考えると、手間もかかります。Twitter が X に変わってからは、確かにTwitter時代に比べて検閲などがなくなり、言論の自由度は増したかもしれませんが、API の自由な活用ができなくなるなど、ツイッター時代に比べて、X の使い勝手はとても悪くなったと思います。もっと簡単に、X(ツイッター)の投稿を自動的にまとめ記事として記録していく方法がないか調べていきます。

 

2025年01月08日(水)11 tweets

21時間前

赤尾 秀一@soratine

そうした宮沢の憲法学は、東大法学部中心として、奥平康弘氏や樋口陽一氏らに受け継がれて、現在に至るまでの戦後日本におけるリベラルな憲法学の源流となっている。

posted at 20:45:50

 

21時間前

赤尾 秀一@soratine

一方で、宮沢俊義の憲法観は、その本質において、日本の敗戦とその後のCHQの日本改造政策に便乗した保身的なものであったといえる。とくに彼の主張したいわゆる「八月革命説」などがそうである。

posted at 20:45:03

21時間前

赤尾 秀一@soratine

いずれにしても、この尾高朝雄と宮沢俊義との間に繰り広げられた論争についても、両者のいずれにも、その議論の前提にヘーゲルの「法の哲学」の素養を欠いていたという点において、きわめて不十分なものであったと言わざるを得ない。

posted at 20:44:24

 

21時間前

赤尾 秀一@soratine

ここで尾高朝雄が宮沢との論争を、「第六章と第七章として再録した」と書いているが、第六章の表題は「ノモスの主権について」であり、第七章の表題は「事実としての主権と当為としての主権」となっている。

posted at 20:43:42

 

21時間前

赤尾 秀一@soratine

私は、この機会に、宮沢教授の学恩に対して重ねて感謝すると同時に、議論の一方である私の主張だけをここに収録したことの非礼につき、教授の海容を乞いたい。」 >> << 引用終わり

posted at 20:41:30

 

21時間前

赤尾 秀一@soratine

この論争は、単なる議論のやり取りである以上に、主権の問題を探求する上で、若干の建設的な意味をもっていると思うので、旧著の改版を出すにあたり、私の二つの答えを、第六章及び第七章として再録することにした。

posted at 20:39:53

21時間前

赤尾 秀一@soratine

国民主権と天皇制についての私の主張に対して、その当時、宮沢俊義教授が二回にわたって懇切な批判を加えられた。これに対して、私も、私の立場を明らかにするために、その都度答えを書いた。

posted at 20:39:25

21時間前

赤尾 秀一@soratine

国民の厳粛な信託を受けて、実際の政治に携わる政党人にとって、その心構えがとくに必要であることは、いうまでもない。そういう角度から、国民主権ということの意味を考えなおすためにも、ここで私のかつての発言をもう一度くりかえして見たいと思う。

posted at 20:37:43

21時間前

赤尾 秀一@soratine

今日の日本の議会政治は、筋の通らぬことがあまりにも多すぎる。これを是正するためには、さまざまな現実的な配慮が加えられなければならないと同時に、国民の政治的行為に公共性もしくは道義性の筋金を入れることが、ぜひとも必要である。

posted at 20:36:54

21時間前

赤尾 秀一@soratine

尾高朝雄は自らの本『国民主権と天皇制』の序言の中で次のように書いている。 >> << 「終戦後の日本は国民主権の下に議会民主制を実行してきたのであるが、その実態は、今までのところ、はなはだ香しくない。民主政治も現実政治である以上、筋の通らぬ駆け引きがともなうのは、やむを得ないが、

posted at 20:36:22

1月8日

赤尾 秀一@soratine

日本の鉄鋼を潰して中国の世界トップを維持させるバイデン大統領のUSスチール買収禁止令(遠藤誉) - エキスパート - Yahoo!ニュース is.gd/uUkwNB

posted at 15:00:01

 

 

 




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明けましておめでとうございます

2025年01月05日 | 日記・紀行

「初夢図」

「初夢図」は、白隠禅師が「一富士、二鷹、三茄子」をモチーフにして描いた禅画です。今年の年賀状は、この絵を素材に使わせていただきました。

この「初夢図」には、次のような意味が含まれているそうです。「富士山」は禅の不動心や悟りの境地を、「鷹」は禅の精神的な高揚や集中力を、「茄子」にはその具体的な成果や実りが、それぞれ象徴されているそうです。三つ目の茄子がなぜ白いのか私にはわかりません。禅的には「無心の境地で得られる実り」と解釈されているそうです。

白隠 慧鶴(はくいん えかく)1686年1月19日(貞享2年12月25日) - 1769年1月18日(明和5年12月11日))は、臨済宗中興の祖と称される江戸中期の禅僧。諡は神機独妙禅師、正宗国師。


※出典

白隠慧鶴(はくいん えかく) - 
Wikipedia https://is.gd/qv7VK3

 

 

 

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年の終わりに

2024年12月31日 | 日記・紀行

20240407

年の終わりに

 

時の過ぎるのは早いもので、今日で2024年令和6年も終わります。今年最後の私の日記ブログ「作雨作晴」を見てみると、「このブログの人気記事」のトップに、「戦争はなぜ起きるか」 - 作雨作晴 https://is.gd/vnqanA
が上がっていました。見ると投稿日が2008年07月25日となっていましたから、それからすでに16年以上も経過していることになります。

2008年頃といえば、当時は福田康夫内閣で、自民党内閣も麻生太郎内閣へとコロコロと入れ替わり、よく言われる「失われた20年」とかが始まって間もなくの頃でした。その間に日本国が「失った時間」は、G7といわれる欧米先進国と比べても、今となっては取り返しのつかないものです。日本の政治家たちや日本銀行など、政治と経済政策に的を得ていなかったからだと思います。

しかし、いずれにせよ、戦争についても、その頃アメリカとの長期化した戦争で泥沼化していたイラクでは、アメリカはこの年に就任したオバマ大統領によって撤退の姿勢を示し始めていました。

パレスチナでは、イスラエルとガザ地区を実効支配するハマスとの対立がすでに激化していました。すでにほぼ20年前の2006年にも、イスラエルはヒズボラーに反撃するために、レバノンのカナに攻撃を仕掛けていました。その時の感想も記事にして投稿してあります。「カナの婚礼(ヨハネ書第二章)」 - 作雨作晴 https://is.gd/l17Odi

戦争については、人類の歴史と切って切り離せるものではありません。年末の今この時もなお悲惨な戦争は止むことはありません。そして、戦争の当事者たちは、相手方、敵方の非道、悪行をいずれも声高に批判します。

しかし、戦争については、その論考の中でも論じたように、それぞれの敵、味方双方にいずれにも言い分があり、そのどちらの言い分にも、それなりの「根拠」はあるものです。それは、先の第二次世界大戦における日中戦争、日米戦争における日本や中国、アメリカの立場も同じことだと思います。

この年末にもシリアのアサド政権が崩壊するなど、争いの絶えない一年でしたが、その時間ももう残り少なくなりました。幸いにGOOブログには、記事一覧で索引できる機能があるので、一年の終わりに調べてみました。振り返ってみて、一年間の仕事量としては、あまりにも貧弱で涙が出そうなほどですが、これが今の私のできる能力ということかもしれません。

振り返ってみても、今年に入ってからとくに、日記と紀行の投稿があまりにも少ないですが、それは私の連れ合いが体調を悪くして、外出する機会が少なくなってしまったこともあります。そうでなければ、花の季節や紅葉の季節には、名所、観光地、寺社仏閣などももっとたくさん訪れて、そこで撮り溜めた写真などと共に、この日記ブログに記事としてあげることができただろうと思います。ふだんから出不精の私は、一人では自ら進んで外出することも少ないからです。連れ合いの体調が回復すれば、紀行文などももっと書けることになるかもしれません。

そのために「日記ブログ」を自称しているにもかかわらず、日記や紀行文は少なく、ヘーゲル『哲学入門』の翻訳と註解の記事ばかりが目立ちました。それにしても、あまりにも仕事量が少ないです。この調子だと、最後までたどり着くのにどれくらい時間がかかることやら。

ただ、「ヘーゲル『哲学入門』の翻訳と註解」の仕事の目的についてですが、これまでそれを明確には述べてこなかったと思います。もちろん、それはヘーゲル哲学を日本国民に紹介することを目的としていることは言うまでもありません。

それでは、なぜヘーゲル哲学なのか。それには、個人的な理由と社会的な、あるいは公的な理由と目的があります。後者の目的としては、より直接的には、ヘーゲル哲学の「絶対的国家観」を日本国民に明らかにすることです。ヘーゲルの「絶対的国家観」とは、要するに「立憲君主国家体制」のことですが、我が国の現行の日本国憲法は、かならずしも必要にして十分な国家哲学の上に構築されたものではないと思い、この哲学の紹介が、その改善に役立つと考えているからです。

また、現在の日本国民と日本国は、事実上マルクス主義の「階級国家観」に深く影響されていると思います。そのために、社会と人間にとって根本的に重要である「自由」が往々にして深刻に損なわれているという私なりの現実認識もあります。

このヘーゲルの「絶対的国家観」を、─── それは「自由にして民主的な独立した立憲君主国家、日本」として私なりに定式化していますが、⎯⎯ この国家理念(イデー)を一般日本国民はいうまでもなく、政治家たちも自覚することもなければ、まして、それを追求することもありません。このことが日本国の「国家概念」の歪みとして、政治や経済、文化、教育など多くの側面に現象することになっているのではないでしょうか。

今年一年ももうまもなく終わります。この一年の質量ともに貧弱に終わった仕事の内容を反省するとともに、私の立場からするヘーゲル哲学の紹介が、少しでも日本国民と国家に役立ち貢献することを願いつつ、来たる年も引き続き微力を尽くしていきたいと考えています。
今年の一年のご愛読ありがとうございました。
皆様の来たる年のより良き一年と平安とをお祈り申し上げます。

 

 

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「作雨作晴」記事一覧(20240715〜20241231)

2024年12月31日 | 目次・目録
 
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「作雨作晴」記事一覧(20240409〜20240715)

2024年12月31日 | 目次・目録
 
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「作雨作晴」記事一覧(20240104〜20240409)

2024年12月31日 | 目次・目録

 

 

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今日はクリスマスイブ

2024年12月24日 | 日記・紀行

 

2024(令和6)年12月24日(火)晴れ、のち曇り、時折小雨。

 

今日はクリスマスイブ。近所のお店でケーキを買って行き、知人の家で簡単にクリスマス・イブのお祝いをする。今日も穏やかな一日を過ごせたことを感謝します。

 

>>  <<

さらに本当に私はあなた方に言っておく。もしあなた方の二人が何事であれこの世で声を共にして願い求めるなら、天にまします私の父はそれを叶えられるだろう。

私の御名のために、二人あるいは三人が集まる中には、私もその中にいるからである。

(マタイ書第十八章、第19節〜第20節)

おそらく初期のキリスト教徒の集会においては、迫害もきびしく十分な家もなく、長崎の隠れクリスチャンのように、二人、三人の少人数で集まることも多かったのでしょう。キリスト教の母体であるユダヤ教では少なくとも十人程度の会衆の集まりが期待されたのに対して、キリスト教徒の集まりにおいては、二人三人の集まりの中にもイエスの臨在することが告げられています。

 

Vl. Vavilov - AVE MARIA CACCINI / Nina Solodovnikova - soprano / Daniele Rossi-direttore /31.05.2015


アヴェ・マリア

恵みに満ちた方、マリアよ、
主はあなたとともにおられます。
あなたは女の中で祝福され、
あなたの胎内のお子、イエスも祝福されています。
神の母、聖マリア、
私たち罪人のために、
今も、死を迎える時もお祈りください。

アーメン。

 

 

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2024(令和6)年12月10日(火)晴れ、時々曇り。#「樋口陽一憲法学批判」

2024年12月10日 | 日記・紀行

 

2024(令和6)年12月10日(火)晴れ、時々曇り。#「樋口陽一憲法学批判」

 

久しぶりの日記。といっても先月の11月には、12日と18日とたった二日分だけれども、このブログ「作雨作晴」には投稿していました。けれども、プライベートなこともあって、日記・紀行Aのカテゴリーで上げていたから公開はしてはいませんでした。

だから、もともと更新も小まめに行うブログではなかったけれど、さらに歳が行くにつれて、確かに能力も──もともと能力といえるほどのものはないとしても──それもさらに低下してきているのかもしれません。

しかし、ともあれこんなブログ日記であっても、遠くに住む親族や親戚に対して、また、今は遠くに離ればなれに暮らすようになった知人、友人たちに対しても、この日記の投稿と更新は、その内容はとにかく、私の消息を知らせ、安否を確認してもらう伝手にもなりその役目も果たしていると思います。

ただ、たといこのブログに日記の記事としては投稿しないとしても、個人的にはパソコン上には日記アプリを通して、ほぼ毎日、日記を書いていることは書いています。

それは中学生の頃からの習慣で、パソコンやインターネットが出てくるまでは、ほんとんど大学ノートに記録していました。ただ、プライベートな問題や公開する価値や必要のことを思うと、時折、日記・紀行Aのカテゴリーで非公開で投稿するだけでした。しかし、これまでも気が向けば後からでも日付を遡って投稿したりしています。

それはさておき、久しぶりに日記でも投稿しようという気になったのは、今日の「このブログの人気記事」(私の記事にそのようなものがあるとして)の2番目に

「7月3日(金)のTW:#樋口陽一「憲法論」批判」

 という、ほぼ10年ほど前に書いた記事が上がっていたことからでした。(gooブログにはこの欄があるおかげで、折々に昔に書いた記事にさかのぼれます。)

その昔に投稿したツイッターの記事の中で、

「憲法学者たちの「平和主義」には何か狂信的なカルト的性格すら感じるのは私だけでしょうか。「樋口陽一氏の憲法論ノート(1)」 - 作雨作晴 blog.goo.ne.jp/askys/e/48c5dd…しかし残念ながら、それ以後に樋口陽一憲法論の批判は全然進んでいません。」

と書いていました。

樋口陽一氏は東京大学の名誉教授ですが、樋口氏「率いる」憲法学界や、いわゆる左翼と呼ばれる人たちや、さらに若者ら集団を挙げて、今は亡き安倍晋三元首相の改憲論や安保法制に対して、反対の論陣を張っていたことはよく知られています。また、東大法学部出身で、法政大学の政治学者である山口二郎氏は「安倍に言いたい。お前は人間じゃない! たたき斬ってやる!」と言ったとか。

いずれにせよ、私は「現行日本国憲法」は極めて欠陥の多い(もちろん「それなりの意義」は認めているつもりですが)憲法だと考えており、したがって、その改憲か無効化を主張しています。それゆえ護憲論の立場に立つ「樋口憲法学」については基本的に肯定できないのは言うまでもありません。

私などは自慢ではないけれども、憲法学には全く素人で、能力的に「樋口憲法学」の足許にも遠く及ばないことはわかっています。私の「樋口憲法学批判」が一向に進まないのも私の無能力のせいでもあります。

とはいえ、「樋口憲法学批判」を進める意欲をなくしたもう一つの理由としては、憲法学者の樋口陽一氏が、故宮沢俊義氏の憲法論を引き継ぐ形で、「天皇ロボット論」を唱えていることを知ったこともあります。

これまでヘーゲル哲学を多少なりとも読みかじり、また、「立憲君主制」の必然性とその意義を主張するヘーゲルの「法の哲学」を支持する立場に立とうとする私にとっては、故宮沢俊義氏や樋口陽一氏の「天皇ロボット論」は「話」にもなりません。だから、

『天皇機関説』と『象徴天皇ロボット論』 - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/54Lvs0
を書いたり、
牧野英一 著『最後の一人の生存権』 - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/SUvfxf)
の中で、

「今は亡き東大名誉教授の奥平康弘氏は「「天皇制」は民主主義と両立しない」と主張されていましたし、今なお憲法学の権威とされる樋口陽一氏は「天皇ロボット論」を唱えておられます。私などの立場からすれば、自著の憲法学術書をたとい背丈ほどに積み重ねられようと、こうした言説を主張される限り「樋口陽一憲法学」はそれ一発でアウト、と断ぜざるを得ません。ただ誤解のないよう言っておきますが、どのような言説、理論を主張されようが、それは彼らの「学問の自由」ではあります。」

などと書いたりしました。

いずれにせよ、少なくともこの問題については、私なりに決着がついており、「樋口陽一憲法学批判」に時間を浪費するぐらいなら、ヘーゲルの『法の哲学』の研究の方にこそ時間を振り向けたいと考えているからです。

 

 

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2024(令和6)年11月12日(火)翳。#自然、#カテゴリー、#反省規定、#概念

2024年11月12日 | 日記・紀行

 

2024(令和6)年11月12日(火)翳。#自然、#カテゴリー、#反省規定、#概念

久しぶりに公園にくる。紅葉もようやく色濃くなり始めた。

ヘーゲル『哲学入門』の第二篇  論理学  第六節 の「思考の種類とその意義」の翻訳と註解を書き始めているが足踏みしている。

そこで挙げられている「思考の種類」とは、1)カテゴリー、2)反省規定、3)概念 の三種類である。これら三種類の概念とそれらの関係が今ひとつ明確にならない。そのために時間がかかっている。

哲学のもっとも基本的な対象は物であり世界である。

私の前には、秋の兆しを宿した公園が存在している。そして、また私は、季節が秋であるという、時間の意識をもって公園を眺めている。

この第六節の中でもヘーゲルが述べているように、私たちの眼前に存在する物の世界、すなわち「存在」とは、もっとも根本的で直接的なカテゴリーである。

それを、2)の「反省規定」によって、つまり、同一性や差異性、原因、結果、根拠など調べることによって、たとえば「植物」を「動物」と比較したり、植物が細胞の葉緑素によって、二酸化炭素と水から有機物を合成する因果関係などを洞察することによって私たちの意識はその本質を認識し、さらに「存在」から「本質」へと統合(アウフヘーベン)することによって私たちは「植物」という「概念」を形成する。

つまり、1)カテゴリー、2)反省規定 のこの二者を媒介として、次の段階へ、3)概念 へと進む。これが、カテゴリーを静的にしか捉えることのできなかったカント哲学と、動的に捉え直したヘーゲル哲学との違いである。

だから、カテゴリーと反省規定は「客観的論理学」の対象であり、概念は「主観的論理学」の対象である。さらにそれらも統一されて「理念」の段階へと進む。

秋の風情を私たちの眼前に広げて見せる公園の色づいた木々、流れる川のせせらぎ、家々の背後に延びる山林など「自然」は、いまだ理念が実現されないままに取り残されて存在している。ヘーゲルの表現によれば、それは理念の外化された姿だという。

 

 

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