作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

樋口陽一氏の憲法論ノート(1)

2008年03月31日 | 哲学一般

 

樋口陽一氏憲法論ノート(1)

憲法学者の「権威」である樋口陽一氏が、日本人の人権意識の確立に大きな貢献をされていることはたかく評価しうるものです。しかし、それでも氏の人権論は、国家論との関係でいささか問題を感じるところがあり、樋口氏の論考について出来うる限り検証してみたいと考えています。単なるノートに過ぎないですが、いつか、この検討をまとめられる日が来ると思っています。そして、何よりも樋口氏の憲法論の検討を通じて、現行日本国憲法の問題点を検証してゆければと思っています。多くの方がこうした議論にも参加していただければと思います。

参考資料

 樋口陽一 争点と思想(樋口氏の憲法観と論点がまとめられてあります)http://www.geocities.jp/stkyjdkt/issue.htm

(樋口陽一氏の文章)>>マークははその引用個所。

> 

「おしつけられた憲法」という言い回しは1945-46年の具体的な制定過程についてだけでなく、立憲主義の内容そのものが少なくとも17世紀以来の西欧文化によって非西欧文化圏に「おしつけられ」ているのだという抗議を含意している。

 日本の改憲論はまだ近代立憲主義の枠内での可能な複数の選択肢を提示するという段階までには 達していない。

 主権原理の転換と政教分離の導入による神権天皇制の存立根拠の否定と神権天皇制と結合した皇軍そのものの解体の立憲主義にとっての不可避性、その必然的結びつきを解いてよいほどまでに「戦後」が終わったか。 「南京事件は無かった」「大東亜戦争は解放戦争だった」という言説が大きな抵抗にあうこともなく行われている日本はまだ「戦後」を終えることができないでいる。

 憲法論の内部問題としても思想・表現の自由とそれを制度的に担保すべきはずの司法の役割が自由の支えとしてのとしての非武装平和主義をとりはずしてよい程度まで成熟したか。 憲法九条は国家の対外政策の条件というより自由の条件として絶対平和主義を説いている。

 戦後日本で憲法九条は社会全体の非軍事化を要請する条項として批判の自由を下支えする意味をもつ

 第九条を争点の中心とする日本国憲法は戦後日本にとって個人の尊厳を核とする「近代」を日本社会が受容するため必然のもの。

 西洋近代の人権=立憲主義は自国の総力をあげた戦争に対してもそれを「汚れた戦争」として弾劾する、精神の独立と表現の自由を可能とするものであった。(アルジェリー・ベトナム反戦)しかし戦争そのものを否定するものではなかった。

 憲法九条はそのような西洋近代の内側で個人の尊厳をつきつめる観点から批判する意味を持っている。憲法九条の理念を個人の尊厳の核心とする近代立憲主義は自らに必然のものとしてあらためて 選び取り直すことが求められている。

ここでの樋口氏の論考に対する批判:

大学で説教する一個の憲法教科書のなかで理想論を語るのであれば、どんな理想を語っても許されるだろう。しかし、一国の、しかも諸外国との排他的な諸関係におかれている現実的な国家における憲法のなかでは、一国の憲法のなかで理想論のみを語って現実を没却することは、国民に対する責任の放棄以外のものではない。樋口氏が「戦後日本で憲法九条は社会全体の非軍事化を要請する条項として批判の自由を下支えする意味をもつ」というとき、彼は、国際的な諸国家間のさまざまな諸関係の葛藤のもとにおかれている日本の現実を忘れて、実現される見込みもない「自由の条件として絶対平和主義」の空想を語って反省することもない。

自国の戦争に対する批判は、たとえ、現行憲法の第9条がなくとも認められるべきであることはいうまでもない。しかし、だからといって日本国民の個人的な自我の弱さや批判的な精神の弱さを、現行憲法第9条によって補足しようというのは、筋が通らない。

自国の国家政策に対する国民自身の批判的な精神の確立についての問題は憲法第9条の条項とは切り離して議論されるべきである。

一般に樋口氏の論考に感じられる問題点は、理想主義的な憲法学者としての氏の主張はとにかくとしても、それをストレートに、国家の現実の憲法の中に持ち込もうとしていることである。現在の世界史の段階では、国際社会に信頼して(国連に信頼して?)、そこに自国の安全の保障を求めようとする現行日本国憲法の前文の精神の空想性とその現実的な帰結こそが批判的に検証されなければならないのではないだろうか。

憲法九条は国家の対外政策の条件というより自由の条件として絶対平和主義を説いている。

ここにもすでに樋口氏の限界が出ている。樋口氏は、憲法が単なる憲法学者の理想を語る作文でもなければ、単なる哲学的作品であってはならないという基本的なことすら忘れてしまっているようだ。憲法学者の私的な研究論文や哲学的著作であるならば、いくらでも好きなだけ「軍事力の放棄を、自由の条件としての絶対平和主義を説いて」理想を語ることも許されるだろう。しかし、いざ一国の憲法となると別である。憲法にあっては、哲学的な抽象論や理想論を語るよりも、むしろ国際的な「対外政策の条件」を主たる考慮において規定しなければならないのである。ここにも、樋口氏の現実的政治家ではありえない空論的学者の虚しさ、現実的な国際関係を無視した憲法学者の空論的無能力が出ている。

いずれにせよ、樋口氏の「平和主義」や「人権主義」は、人間性善説の上に構築された理論で、人間性悪説を十分に検討されているようには思えない。少なくとも、人間性悪説に立ったものではない。

  (次回より樋口氏の著書に直接当たって検討して行きたいと思います。)

 



 

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春の訪れ

2008年03月28日 | 日記・紀行

春の訪れ

今年も春が訪ねてくる。里山は華やぎを増してくる山にひとり静かに咲く梅は小町の肌のようにほのかな紅の中にしっとりと白い。

西行法師のように歌を詠めればいいのだけれど、不肖不才の我が身を嘆いても仕方がない。歌の修行を積んでせめて師のその影でも踏みたい切ない気持ちはあるけれども。

我が師、西行法師の御歌四首を今日の記憶とともに。

     題しらず

756  さらぬだに   世のはかなさを    思ふ身に
                ぬえ鳴きわたる   あけぼのの空

そうでなくても、この世のはかなさを思い沁みている私に、
ぬえこどりのか細い鳴き声が、追い討ちをかけるように、夜明けの空に聴こえてくる。

法師の心の痛みが伝わってくる。

759   世の中を    夢と見る見る    はかなくも 
          なほ驚かぬ    わが心かな

この世を夢のようにはかないものと知りながら、愚かなことに、
いまだ覚めることもなく
悟ることさえできない我が心よ。

760   亡き人も    あるを思ふも    世の中は  
          ねぶりのうちの    夢とこそ見れ

すでにこの世になく時間の彼方に消え去ったあの人も、かってはこの世に私と同じように生きていたことを思うと、すべてが深い眠りのなかの夢のように見える。

薄い紅を染めたようなほの白い梅の花を見て。

1248     色に出でて   いつよりものは    思ふぞと 
            問ふ人あらば    いかが答へむ

いつから思い初めてお前の恋心は顔色に出るの、と訊ねる人がいるなら、梅の花よ、あなたはどう答えるのでしょうね。

 

(短歌の試み)

        薄い紅を染めたほの白い梅の花の                                      野山に咲いているのを見て。

         薄紅の唐衣着なれし小梅   小町が面影宿しつ  野に佇みし

気にかかっていたジャガイモの仮り植えを今日ようやく終えた。桃の木とイチジクは木の芽の膨らみから根付き始めたのは何とか確認できた。木の堅い柿はまだわからない。

 

 

 

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中国チベット動乱と日本

2008年03月27日 | ニュース・現実評論

チベット当局、3月10日の抗議運動で13人を拘束=現地紙(ロイター) - goo ニュース

1989年は、ベルリンの壁が取り払われた年である。この年に東ドイツ、ハンガリー、ポーランドなど東欧共産国やユーゴスラビア、ルーマニアなど中欧共産国でも政権が崩壊して行った。その後、ロシアにおいてもソビエト共産党政府は崩壊し、第二次世界大戦後以来続いた冷戦の構図が崩れ始めることになる。中国でもすでに、これら諸国の共産党政府の崩壊に先立って、学生たちが天安門前広場に集結して民主化を要求して立ち上がっていた。

本来なら、社会主義・共産主義政権が軒並みに世界的な凋落の波に襲われたときに、中国共産党政府もその倒壊の運命に巻き込まれることがあってもおかしくはなかった。しかし、学生たち反体制側勢力の戦術の拙さと小平の強硬な戦術が功を奏して、中国の人民民主主義国家は延命することになる。

天安門事件で中国の民主化運動を制圧することに成功した小平は、中国国内ではその後開放改革路線を敷き、経済的な豊かさを追求することによって、国内矛盾を深刻化させることなく乗り切ろうとした。

その一方で、中国国内のチベット自治区などに居住するチベット民族と中華人民共和国を形成する漢民族の中国共産党政府とのあいだの矛盾が深刻化しつつあった。この事実はすでに多くの人に気づかれつつあったことだが、中国の報道管制もあって公然化することもなかった。中国政府の立場からすれば、中華人民共和国の成立にともなって隣国であるチベットを解放したことになるのだろうが、それがかならずしもチベット民族の主体的な選択ではなかったことも、その後に多くの問題をはらむ原因にもなっていた。

中国の経済発展にともない青蔵鉄道の開設などチベット地域への進出もすすみ、漢民族とその資本がこの地域にも流入することになる。そのためにチベット民族の自給自足的経済は貨幣経済へと変質し中華経済圏へと組み込まれて行った。それがこの地域の民族間の軋轢をさらに深刻化させることになった。

しかし、短期的にはとにかく、いつまでも民衆の自由に対する欲求を押さえつけていることはできない。国内外の民衆の自由に対する要求を満たし得ない国家は、長期的な観点からは倒壊せざるを得ない。中国や北朝鮮が現在の国家体制のままで存続できる期間はそれほど長くはないはずである。

中国も北朝鮮もいずれ、しかるべき時に体制転換を図らざるを得ないときが来る。ただ問題は、それがかってのチェコスロバキアのように比較的流血の少なかった「ビロード革命」のような穏健なかたちで変革を実現できるのか、あるいは、ルーマニアのチャウシェスク政権の崩壊をさらに規模を大きくした形でハードランディングせざるを得ないのか、それはわからない。北京オリンピックや上海万国博が終了してから、その後に国家目標を中国が探し出せないときが焦点になる。そのとき、中国の国内矛盾や周辺民族との矛盾がどのような形で噴出するかである。

それが、共産党政府の崩壊という体制変換として実現するのか、あるいは、日本やアメリカとの対外戦争という形での外部に対する矛盾の転化になって現れるのか、それはもちろん、現在の段階では予測はつかない。

もっとも理想的であるのは、現在の中国人民民主主義国家が平和裡に、欧米西側諸国のような自由民主国家へと体制転換が図られることである。そのことによって国民が国内矛盾を合法的に自力で解決してゆく制度が確立されなければならない。そのことによってチベット民族の自治や自由も拡大できるだろうし、また、北朝鮮問題も解決に向けて前進する。

日本は北朝鮮に対しては拉致問題や核兵器問題を抱えてはいるが、この問題はもはや北朝鮮一国を相手にして解決できる段階ではなくなっている。

北朝鮮問題はすでに中国問題と一体化し、中国問題の解決なくして、――それは中国が日本や欧米の価値観を同じくする自由民主主義国家へと転換することことであるが、それなくしては北朝鮮問題(拉致や核)も、現在発生しているチベット問題などの中国周辺の民族問題も、根本的な解決をはかることができない。

それに中国の民主化は、日本が真に自立した独立国家になるためにも必要である。中国やロシアが現在のような体制のままでは、日米安全保障条約の解消などは机上の空論にすぎず、日本国内からのアメリカ駐留軍の撤退も幻想に終わる。自力の軍事力を日本が必要十分に確立しうるためには、どうしても中国やロシアの国家体制の変換が前提になる。

中国国内の同一民族のみならず、周辺異民族の自由と民主化の要求に対しては、日本にできることは、インド、オーストラリア、アメリカ、その他の欧米民主主義諸国と協力しながら、自制と自重を求めつつ中国の国家体制の平和的な変革の環境を追求して行くこと以外にない。

しかし、現在の中国で実権を握る「人民解放軍」や北朝鮮の「先軍政治」の実情から言っても、このことはきわめて困難な課題にはちがいない。

やがて五月に胡錦濤主席が日本を訪れる。そのとき、日本の指導者たち、福田首相や町村官房長官は中国国内の自由と人権の問題について胡錦濤主席に対して、どれだけ明確に懸念と配慮を説得できるだろうか。それは同時に日本の政治指導者たちの自国の国家理念についての認識と信念の度合いが試されることでもある。それを断固として行うことが中国との紛争を少しでも抑止することになる。死を恐れるものは自由を享受することもできない。

それともやはりお茶を濁すことしかできないか。中国が民主化されないままであるとき、日本は本当に独立を確保しながら中国との戦争を回避できるかどうか。人民解放軍が日本との戦争を絶対に望まないといったい誰が断言できるか。それとも属国に甘んじる道を選ぶか。日本国民もやがてその選択を問われることになる。

 

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青い麦

2008年03月25日 | 日記・紀行


青い麦

自然は自力で育つ。一粒の種から芽が出てやがて花が咲き、ふたたび多くの種になって稔る。一粒万倍。不思議といえば不思議。水が葡萄酒に変わるのも奇跡なら、あの小さな種から青々とした芽が出るのも奇跡だ。
ここ二三日の雨と暖かさで、ずいぶん成長したらしい。
素人の道楽ごとでしかも一年生の初心者だから、これくらいが関の山か。

横の崖の脇に見知らぬ花が咲いていた。その色彩ゆえに見つけられてしまう。もちろん花は見つけられるためにこそ色美しく装うのだろうけれど。野バラもその愛らしさのために、いたずら好きの少年ゲーテのために折られてしまう。名前は知らない。
ただ自然は美しい。

ジャガイモの畝を作る。

麦畑青くしたたる崖下に隠れるごとく咲き居りし紅のバラ

 

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小野小町7

2008年03月22日 | 芸術・文化


小野小町7

小町の恋愛とその生涯が後の世にこれほど広く深く広まったことには、さらに南北朝時代から室町時代に生きた観阿弥、世阿弥の親子の力があったと思う。

彼ら親子は能という芸術を通じて、小町の恋愛と仏教の無常観を象徴的に描き出した。それが武士階級を通じてやがて民衆の間にも広まっていったと考えられる。しかし、卒塔婆小町や通小町など七小町として謡曲などの物語の主人公となった小野小町は、もはや仁明天皇に采女として仕えた歴史的な小町ではない。ひとりの生きて泣き笑う具体的な肉体をもった女性ではなく、すでに物語の中の小町は、人々に人間と人生の真実を告げる普遍的な小町そのものになっている。

勅命を受けて古今和歌集の編纂に従事した紀貫之たちは、同じ氏族の紀静子を母とする惟喬親王や、父の謀反の失敗ゆえに出世の路を閉ざされた在原業平と同じく、当時天下を牛耳りつつあった藤原氏のようには運命を謳歌することはできなかったにちがいない。そんな彼らに代わって、紀貫之は六歌仙の世代に属する人々の笑いや悲しみや恋の物語も美しい歌物語として編み残そうとしたようである。

古今和歌集の末尾には、

698         恋しとはたが名づけけん言ならん 
                      死ぬとぞたゞにいふべかりける

と詠じた清原深養父の歌を連想させるように、深養父に呼びかけながら、詞書きとともに貫之自身が次の歌を詠じて締めくくっている。

    深養父  恋しとはたが名づけけん言ならん下

1111        道しらば摘みにもゆかむ 
                      住之江のきしに生ふてふ恋忘れ草

この歌は明らかに鎮魂歌でもある。歴史の中に生まれ、そしてその中に姿を消していった多くの人々の恋の歓びや悩み、花の美しさや別れの悲しみを歌いながら時間の彼方に消えて行った人々の心を慰めるために歌ったようにもみえる。

しかも、貫之は、仮名序の中で小野小町のことを衣通姫(そとほりひめ)にたとえていた。そのそとほり姫が帝のことを恋い慕って詠んだ歌が貫之の歌の前に置かれてある。

      そとほり姫のひとりゐてみかどを恋ひたてまつりて

1110        わがせこが来べきよひなり  
                      さゞがにの蜘蛛のふるまいかねてしるしも

 



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小野小町6

2008年03月21日 | 芸術・文化


小野小町6

小町が思いを男性に託して恨みを述べている歌としては、ただ一つ
残されている。それは小野貞樹に当てたもので次の歌。

                                       をののこまち

782         今はとて  わが身時雨にふりぬれば 
                           言の葉さえに移ろひにけり

          返し                          小野さだき  貞樹

783         人を思ふ心この葉にあらばこそ  風のまにまにちりもみだれめ

小町が当時のきびしい身分制度をのりこえられずに、恋を成就させることができたのは、この小野貞樹だけだったのかも知れない。この歌からも推測されるように、貞樹との交際は、小町が若き日々を過ごした宮仕えを離れてからのことであったように思われる。

もし若き日に小町が采女として帝にお仕えしていたとすれば、小町が帝に身近に接する機会もあったはずだし、当時は北家藤原氏の子女のほかには御門の正室や側室になることはむずかしかったから、帝の方もかなわぬ恋でありながらも、政略のからまない美しい小町に思いを寄せたことがあったとしてもおかしくはない。

同じ古今集の墨滅歌の中にも、天の帝が、近江の采女に我が名を漏らすなと詠っている歌がある。また、巻第十四の恋歌四には、世間の噂を心配する近江の采女に贈った帝の歌(702番)ものせられている。

702         梓弓ひき野のつゞら  
                すゑつひにわが思う人に言のしげけん

このうたは、ある人、天のみかどの近江の采女にたまひけるとなむ申す

703         夏びきのてびきの糸を 
                      くりかへし言しげくとも絶えむと思ふな    

この歌は、返しによみたてまつりけるとなむ

采女や更衣はそれほど帝とは身近なところにいた。

深草の少将が実際に誰のことであるのか少し調べてみても、桓武天皇から土地を賜った欣浄寺にゆかりのある深草少将義宣卿がその人であるとするには無理がある。この人は仁明天皇が生まれて間もない頃にはすでに亡くなっている(813年)。仁明天皇にお仕えしたと考えられ、この帝の亡くなられた(850年)後も交際のあったらしい小町や僧正遍昭とは、世代が会わない。

深草の少将のゆかりの寺とされるこの欣浄寺にはその後、仁明天皇から寵愛を受けた少将蔵人頭、良峰宗貞(後の僧正遍昭)が御門の菩提を弔うためにそこに念仏堂を建て、帝の祈られた阿弥陀如来像と御牌を前にして念仏にいそしまれたという。だから、畏れ多いこの帝が後の人々によって深草の少将に名を変えられたとしてもおかしくはない。また、この天皇は深草に葬られて、その御陵も深草陵と呼ばれている。ただ、これ以上の詮索はたいして意味があるとも思えないのでこれくらいにしておきたい。

 



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小野小町5

2008年03月20日 | 芸術・文化


小野小町5

また小町自身がどのような女性であったかについては、1300年頃の鎌倉時代に生きた吉田兼好の徒然草の第百七十三段に小野小町が事として、「極めて定かならず」とすでに書いている。吉田兼好自身は小町ゆかりの山科の小野の山里に領地を買って住んでいたらしいから、小町の言い伝えなどは、よく耳にする立場にいたはずである。深草の少将が誰であったかについては語られていないから、まだその頃にはこの伝説も成立していなかったのかも知れない。

つれづれ草で語られているのは、晩年の小町の衰えた様子が『玉造小町壮衰書』という本に見えること、清行という男がそれを書いたらしいこと、また、この本を当時すでに流布していたらしい弘法大師空海の著作とするには、小町の若く美しい盛りは大師の死後のことらしいから、道理にあわずおかしいと言っている。だから、たとえそれが「極めて定かではない」ものであったとしても、すでに小町のことが世代を越えて人々の記憶に留められていたことは明らかである。

兼好がここで小町のことを書いたのは、その前段の中で、心の淡泊になった老年の方が憂いと煩いが少なく、情欲のために身を過ちがちな若い時よりも勝っているという感慨をもったことから僧正遍昭や小町のことを連想したためらしい。小町の晩年について流布している言い伝えも、この『玉造小町壮衰書』という本が大きく影響していることは明らかであり、それは仏教の教えの中に取り入れられて語られている。

113   花の色はうつりにけりな   いたづらに我が身世にふるながめせしまに

小町が美人の代名詞であればこそ、その美のはかなさも嘆きも深刻なものになる。恋多き生涯とその時間の移ろいの早さを嘆いた小町の歌が、時間という絶対的な流転のなかに生きざるを得ない人間の運命を象徴するものとなった。このような歌はおそらく小町のような女性のほかに詠まれる必然性はない。伊勢にも紫式部にも詠まれなかった。

そして、それがやがて仏教思想の流入と広がりとともに、小町の生涯は無の諦観によって解釈し直されて『玉造小町壮衰書』などにまとめられ、もう一つの小町の伝説になっていった思われる。

兼好法師は、この本は弘法大師ではなく清行が書いたと言っているが、この清行という男が、小町とともに真静法師が導師をつとめる法事に参加したときに、導師の説教にかこつけて言い寄って肩すかしにあった(古今集第556番)あの安部清行のことであるなら、振られた意趣返しに、小町の晩年をこの本で残酷なものに描いたとも考えられる。彼なら小町の生涯を身近に見聞きしていたとも考えられて興味深い。

      下つ出雲寺に人のわざしける日、真静法師の導師にて
      いへりけることばをうたによみて、小野小町がもとに
      つかはせりける
                            あべのきよゆきの朝臣

556   つつめども袖にたまらぬ白玉は  人を見ぬ目のなみだなりけり
           
      返し                   こまち

557    おろかなる涙ぞ袖に玉はなす  我はせきあへず  
                  たぎつ瀬なれば
 



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小野小町4

2008年03月19日 | 芸術・文化


小野小町4

小野小町にまつわる伝説には二つの方向があると思う。一つには深草の少将の百夜通いの話と、老いて落魄し行き倒れる小町である。

小町のこの二つの女性像には理由がないわけではない。いずれも小町の残したわずかな歌の中にその根拠があるように思う。

深草の少将の百夜通いの言い伝えは、まことに美しく幻想的でさえある。小町に恋いこがれた深草の少将が、小町のもとに百度訪れるという誓願を立てて通ったが、最後の雪の日に思いを遂げることのできないまま亡くなったという。                                              
小町の心も知らないで足が疲れくたびれて歩けなくなるほど繁く小町のもとに通っていた男のいたことは、事実としても次の歌からもわかる。

623    みるめなきわが身をうらと知らねばや  かれなであまの足たゆくくる

おそらく深草の少将の話は、安部清行や文屋康秀たちに返したような男を袖にした和歌が小町にいくつかあることに由来するにちがいない。

しかし、小町が単なる色好みの女性であっただけとは思われない。言い寄る者たちの中に彼女が深く思いを寄せた男性のいたことは明らかだ。それは次の歌などからもわかる。ただ、その男性とはかならずしも自由に会うことはできなかったようで、そのために夢の中の出会いを当てにするようになったり、その出会いに他人の目をはばかったり、世間の非難を気にかけたりしている様子がうかがわれる。だから、小町にとって真剣な恋は秘めておかなければならなかったようにも見える。

552    思ひつゝぬればや人の見えつらむ     夢と知りせばさめざらましを

553    うたゝねに恋しき人を見てしより    ゆめてふ物はたのみそめてき

554    いとせめて恋しき時は   むばたまの夜の衣をかへしてぞきる

657    限りなき思ひのまゝによるもこむ   夢路をさへに人はとがめじ

1030    人にあはむつきのなきには    思ひおきて胸はしり火に心やけをり

ただ、小町がおいそれと心を許さなかった、この百夜通いの伝説の深草の少将が実際に誰であるのかはよくわからないらしい。百夜通いの伝説の根拠についてはすでに黒岩涙香が江戸時代の学者、本居内遠の研究を引用している。それによれば、同じ古今和歌集の中にある次の歌、

762    暁の鴫(しぎ)のはねがき百羽がき     君が来ぬ夜は我れぞ数かく
     

が、三文字読み替えられて、

あかつきの榻(しぢ)の端しかきもゝ夜がき     君が来ぬ夜はわれぞかずかく
     

となり、それが、深草の少将が小町のもとを訪れたときに、牛車の榻に刻んでその証拠にしたという話になったという。歌の内容と伝説との関係から見る限り、その蓋然性については納得できるところはかなりある。

そうして恋する女性のもとに通いつめながらも、その思いも遂げられずに雪の夜に亡くなった男に対する民衆の共感と同情が、やがて伝説として伝えられることになったにちがいない。

 

 

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小野小町3

2008年03月16日 | 芸術・文化


小野小町3

古今和歌集の中でも実際にその贈答歌の中で、互いの名前が記録されて、小野小町との人間関係が成立していると考えられる可能性の高いのは、巻第十二恋歌二で(556に対する557)小町の返歌のある安部清行、また巻十八雑歌下(938)に小町の返歌がある文屋康秀、それに後撰集の中に歌を贈ったことが記されている僧正遍昭の三人である。

実名の記録されているこれらの人はおそらく小町と何らかの関係もあったのだろうけれど、業平についてはわからない。古今集巻第十三の恋歌三(622、623)にも在原業平の歌に次いで小町の歌が並べられてはいるが、紀貫之が意図的に編集したかも知れず、いずれも歌の上手な美男と美女として高名であったところから、並べて取り沙汰したということも考えられる。互いの贈答歌であるかどうかについての詞書きもなく、それぞれの歌の内容から言っても疑わしい。

しかし、実際二人の間に何らかの直接的な人間関係のあった可能性が決してないわけではない。むしろその可能性は大きい。業平の恋人だった二条の后(藤原高子)に文屋康秀が仕えていたことは、巻第一春歌上8からも明らかであるし、その文屋康秀自身が三河の国に下級官吏として赴任するときに、小町を誘っているから相当に親しい関係にあったことは推測される。

業平も、仁明天皇(在位833年~855年)、文徳天皇、清和天皇に蔵人として仕えたし、僧正遍昭については、そもそも仁明天皇に仕えていた良岑宗貞がその崩御に殉じて出家して僧正遍昭になったものである。

また文屋康秀も下級官吏として仁明天皇やそれに続いて文徳、清和天皇に仕えた。一方の小町も女官として同じ仁明天皇に仕えていたから、在原業平とも交際の機会のあったとことは十分に考えられる。

これら業平や小町ら六歌仙の世代はいずれも紀貫之よりは一世代か二世代上で、たとえば平成昭和の人間が大正明治の人間を回顧するようなもので、その人間像の記憶もまだ生々しいものだったと思われる。紀貫之も土佐から京へ帰還する途上の桂川で、惟喬親王や業平を追憶している。

時代は平安遷都から日も浅く、いまだ権力も固まらず、薬子の乱や承和の変、応門の変などの騒乱が続いた。そうした歴史的な事件の詳細な実証的な検証は歴史家に任せるとして、ふたたび小町の残したわずかな和歌と人々が彼女に託した伝説から、人間の内面の問題により入り込んでゆきたい。

古今集巻一春歌上8

二条の后の東宮の御息所ときこえける時、正月三日おまへにめして、仰せごとあるあひだに、日はてりながら雪のかしらに降りかゝりけるをよませ給ひける
                                      文屋 康秀

8   春の日の光にあたる我なれど  かしらの雪となるぞわびしき

後撰集1196

石上といふ寺にまうでて、日の暮れにければ、夜明けてまかり帰らむとて、とどまりて、「この寺に遍昭あり」と人の告げ侍りければ、物言ひ心見むとて、言ひ侍りける 
                                      小野小町

岩のうへに旅寝をすればいとさむし苔の衣を我にかさなむ

返し
                                         僧正遍昭

世をそむく苔の衣はただ一重かさねばうとしいざふたり寝む

 



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小野小町2

2008年03月15日 | 芸術・文化


しかし、古今和歌集に収められてある小町の和歌を詠む限り、紀淑望の「艶にして気力なし。病める婦の花粉を着けたるがごとし」というのは少し言い過ぎのような気がする。やはり、紀貫之ぐらいの評価が妥当であると思う。そこにみられるのは、和歌の創作よりも、恋愛そのものに関心を示している女性らしいふつうの女性像である。小町の歌からは女性としてとくに特異なところはみられないと思う。ただ和歌からもわかるように、彼女自身も自分の美貌を自覚していたようで、そのことから多くの男性との交渉もあったのかも知れない。しかし、恋愛においてはむしろ受け身で控えめな女性ではなかっただろうか、彼女の歌からはそんな印象を受ける。

和歌については、小町の語彙は必ずしも豊かではなく、後の紫式部や西行の和歌にみられるような、哲学的ともいいうるほどの思想的な情感や、しみじみと自然に感応した描写や詠唱があるわけではない。恋愛感情を叙してはいても深みがあるとは思わない。おそらく当時は仏教思想などもまだ民衆にはそれほど深いレベルで浸透していなかったことも読みとれる。また紫式部のような教養豊かな環境には育たなかったせいもあると思われる。

小町の歌を詠んでいて、あらためて気づいたのは、古今和歌集に

623   みるめなきわが身をうらと知らねばや     かれなであまの     足たゆくくる

という歌の前に、

                             なりひらの朝臣

622   秋の野に笹わけし朝の袖よりも  あはでこし夜ぞひちまさりける

と在原業平の和歌が並べておかれていたことだ。そして、この二つの歌が、伊勢物語の第二十五段において、恋愛する二人の男女の贈答歌として取り入れられている。この段では女性は単に「色好みなる女」といわれているだけで、小野小町という女性の名はここでは明らかにされてはいない。

しかし、古今和歌集の読者にしてみれば、歌の贈り主が在原業平であり、返歌の作者が小野小町であることは分かり切ったことであったから、伊勢物語の読者は当然に二人が恋愛関係にあるとみるだろう。ここから、後世の古今和歌集の注釈家たちも小町と業平が恋愛関係にあったと言うようになったらしい。

ただ、古今和歌集を少し読んでみてわかったことは、後代の藤原定家の小倉百人一首と同じように、あるいはそれ以上に、この古今和歌集おいても、個々の和歌の美しさ以上に、それぞれの和歌の配列の妙に紀貫之の絢爛たる美意識が編纂されているらしいことだ。その秘密を読み解く古今和歌集の注解釈がそのために特定の家系の秘伝のような趣をもたらすことになったのではないだろうか。

紀貫之が、小野小町の歌と業平の歌をあたかも贈答歌のように隣あわせに配列にすることによって、単独の和歌では醸し出せない交響曲のような躍動する美しさを生みだすことになった。そこから、逆に小町と業平との間に恋愛関係か推測されるようになり、また、それが伊勢物語にも組み入れられることになって、小町と業平の伝説になったと。この事実はすでに広く周知のことであるに違いないが、私には新しい知識であったので、これまで頭の中にバラバラに存在していた二人がはじめて結びついて、推理小説を読んだときのようなおもしろさを感じる。

たしかに、小町と業平は同時代人であったから、実際に恋愛関係にあり、それがそのまま、古今和歌集に取り入れられたと考える方が、より興味を駆り立てられるには違いないけれども、もしそうであるなら、伊勢物語の第五十段に登場する「うらむる人」も小野小町であって、業平と二人は「あだくらべ」(浮気くらべ)をしていたことにもなる。女の返した歌も小野小町が詠んだ歌ということになる。

しかし、二人の関係について歴史的な実証はむずかしいのではないだろうか。古今和歌集の成立は913年(延喜十三年)、伊勢物語は880年頃に原型ができ、集大成されたのは946年頃であるとされるから、紀貫之らが、業平と小町の二人に歌の世界で架空の恋愛を仕組んだとも考えられるし、それとも遷都してまだ間もない新しい町並みの京の都のどこかで、実際に二人は顔を合わせていたか。

 

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