作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

一年を振り返る

2009年12月31日 | 日記・紀行

 

一年を振り返る

青少年の頃からアナログの日記は記録して来ているけれども、近年になってインターネットやブログなども出来るようになって、過ぎ去った昔を瞬時のうちに回顧できるようになったのはありがたい。そこではアナログ日記ほどに詳細な記録はできないけれども、それでも我が言行の事跡の概略を容易に辿ることはできる。

あらためて今一度2009年(平成21年)の私にとっての意義を振り返っておきたい。この一年は論文の制作としてはまったくまったく貧弱な結果に終わった。けれども、とは言え、まったくに無駄な一年だったと言うことでもなかったか。「悟性的思考と理性的思考」や「国家の基礎としての聖書」など、いくつかの私にとって重要な論考を公表できた。ただ懸案の「哲学百科辞事典」の構成についてはほとんど着手できずに終わった。反省しなければならない。

秋になって裏庭にはじめてコスモスを咲かせた。取るに足らないことだけれども、それでも四年越しの思いは実現した。計画していた京都の町々の歴史的な探訪や紀行文もほとんど実行できず、成果がなかった。けれども、わずかながらも、近所の松尾神社で観月祭をに参加することのできたことの思い出はささやかでも印象深い。また年の暮れになって、はじめて田舎の古民家を見学した。それがもし一つのエポックを画すことの端緒ともなればうれしい。

農事に関しては、今年は夏野菜を作ることが出来なかった。多忙で暑かった夏は論考においてほとんど何の成果もなかったけれども、その反面では貴重な体験を経たといえるかもしれない。

その暑く忙しい夏の終わりに、衆議院総選挙があり、民主党が政権交代を実現した。このせっかくの歴史的な政治的エポックの時期に、2005年の小泉郵政総選挙における民主党の大敗の時のように、選挙の経緯を追跡できなかった。残念だった。だから、社会主義の影響を色濃く残している現民主党政権の「バラマキ政策」による財政破綻という最大の懸念に対して、せいぜい「民主党は「社会主義の歴史」に学べ」という小論を書くことくらいしか出来なかった。

この一年は少なからず個人的生活において変化はあったが、それにも関わらずというと言うべきか、わずかながらも論考の軌跡を残しておくことのできたことで良しとしなければならないのかもしれない。哲学や思想の営みは、衣食住の満ち足りた余暇(SCHOOL)にこそ、実行しうるものでもあり、生活に追われている者が片手間でできるようなものではないからである。ましてや2009年は、昨年末のいわゆる「リーマン・ショック」を端緒とした、アメリカの住宅バブル、サブプライムローン問題の破産とその清算に全世界がのたうち回った一年でもあったから。

年末の冬の野菜については昨年よりも豊かな収穫を得られた。柿の木については、十分な添え木を怠ったために、サルに根本から折られるということに相成った。まだ、自然の表面をなぞるような飯事に終始している段階ではある。

年越しの除夜の鐘と美しい星空も、今年は山で聴き眺めながら過ごすことができなかった。おそらく来年も基本的には生活のスタイルは変わらないと思う。目的はただ一つ。「神の国」を求めよ。御国の来らんことを。さらに哲学と思想に進歩と充実のありますように。ギリシャ語やドイツ語の語学力に進歩のありますように。論考においても、さらに稔り多き年でありますように。

私自身が世界と歴史の中心である。主観的にはすべての個人はそうでしかありようがない。詩篇の註解をはじめとする聖書の註解を書くことこそ、真に意義のある価値ある唯一の仕事かもしれないのに、それを放置したまま、どうでもよい些末な事柄に従事している。三位一体の聖書の神を、さらに深く知ることの出来ますように。これこそ哲学の最大の核心的な課題といえる。

このことと比較すれば、政治や経済を論じることなどは児戯に等しいのかもしれない。金儲けや政治に多数の支持を得るために駆けずり回るような生涯に満足できる者にはそうさせておけばいい。蓼食う虫も好き好きである。ただ私としてはひたすら論考に打ち込める日々の早く来たらんことを。

上の写真は、年末に見学した古民家。

 

 

 

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今年もまたクリスマス

2009年12月25日 | 日記・紀行

 

今年もまたクリスマス

今年は残念ながらクリスマス・イブの12月の24日にブログ記事を投稿できなかった。また、送るべき多くの人にクリスマスカードを送って、ご挨拶することもままならなかった。毎年、年を経るごとに、不義理、わがままの度が強まってゆくような気もする。

これまで2005年に記事の投稿をはじめてからも、クリスマスに投稿を欠かしたことはない。今年は余裕もないけれど、かろうじてクリスマスに間に合うように、やっつけ仕事のように記事をとにかく作成。最近は聖書の繙読さえもおろそかになっている。聖書詩篇の註解もほとんど中断したままになっている。主よ、許したまえ。

12月に入り、年末が近づくと、近年になって町中にイルミネーションの明かりが目立つようになった。夕暮れや夜間に、町中を歩いていたり、自転車で走っていると、とくに、最近では発光ダイオード(LED)の普及によるせいか、鮮明な色彩のクリスマスの飾り付けが至るところに見られる。

ひと昔は遊園地や教会やイベント会場などの場所に限られていたクリスマスツリーなどの明かりも、最近は普通の民家でも飾り付けられるようになってきた。それだけに、キリストのご降誕祭が日本国民においてもすでに完全な国民的な行事になったということなのかもしれない。

イエス・キリストの真実の誕生日はわかってはいない。だから、その日は永遠に隠されたママなのだろう。しかし、マリアを母として誕生日のあったことはまちがいのないことなのだから、象徴的な一日を選んで、そのご降誕を祝うのはかならずしも悪いことではない。ある宗派のように、お誕生日がわからないのだから、クリスマスを祝わないというまで「偏狭」でなくともよいと思う。主の苦難の十字架のその道行きに、三十数余歳の御生涯が象徴されているように、主イエス・キリストの短い一生は愛と犠牲そのものだった。その苦難と忍耐は、主のすべての弟子に受け継がれている。

今年になっては京都国立近代美術館において、12月27日までボルゲーゼ美術館展が開催されている。おそらく今度も鑑賞の機会も逃してしまうにちがいないが、この展覧会にはマドンナの肖像画で有名なラファエロの「一角獣を抱く貴婦人」も飾られているという。わが国にはすでに滝廉太郎のようなクリスチャン音楽家は生まれているが、画家についてはまだ知らない。しかし、いずれはこの非キリスト教国日本にも、ラファエロのようなクリスチャン画家も生まれてくるのかもしれない。

ブログ上の交流でも私の不精のゆえにさほど深まったとは言えないけれど、hishikaiさんやmatubaraさんやpfaelzerweinさんのブログには折りに触れて訪れている。とくに今年になっての菱海孫さんとのブログ上の交流は楽しかった。少なくとも氏のように思想的に哲学的に近い(私の独断と偏見か?)ブログ上の論者を発見できたことはうれしい。私もまた僭越にも、ブログでも少なくともなにがしかの思想なり哲学を主張している。今後も言論の立場から私なりに終生国家に貢献してゆきたいとは思っている。

21世紀に入って隣国中国の台頭に比べて、日本国の衰退の傾向は著しいが、やはりその根源は人材の枯渇にあるのだと思う。第二次世界大戦における大日本帝国の敗北とマッカーサーGHQの占領政策がボディブローのように効き始めているということか。しかし、ポーランド、ハンガリーなどに見るように、真実のキリスト教民族、キリスト教国家に亡国の運命はまだ聞いたことはない。

退廃した自民党に代わって政権交代を果した民主党の小沢一郎氏は、今、明仁天皇のご意思も左右する小沢新天皇として権力の絶頂を極めつつあるように思える。かって小沢一郎氏は、高野山で金剛峯寺の松長有慶会長と会談したときも記者団に対して、「キリスト教は排他的で独善的な宗教だ。キリスト教を背景とした欧米社会は行き詰まっている」とのたまうたそうだ。この一言に、小沢一郎氏の「思想と哲学と人物」の水準とその「罪と罰」が明らかになっている。

欧米社会と日本国のどちらが行き詰まっているか、私にはよくわからないけれども、選挙で多数を得るためならどんなことでも言うようなキリスト教嫌いの小沢一郎氏が、中国や韓国などにご拝謁と贔屓とを賜るために、くれぐれも国を売ることのないように願いたいものである。

                                    
バッハはその音楽創作でプロテスタント国家とキリスト教化に貢献した。今夜のクリスマスの楽曲としては、久しぶりにマタイ受難曲の片鱗でも聴いてお茶を濁すことにしよう。せっかくバッハ全集を所有しているのに、鑑賞と論評に能力の余裕のないのは残念なことではある。だけれどもそれも先の楽しみとして、またここでお得意の言い訳をする。

今年のクリスマスの宵をともに過ごすことの出来なかった人、友人たちに、お詫びを込めて、また、とにかく曲がりなりにも平安のうちにクリスマスの夜を迎えることのできたことに感謝を込めて、この拙記事でご挨拶を送ります。

皆さん、クリスマスおめでとう。

 

Contralto Eula Beal sings Bach's "Erbarme Dich"
http://www.youtube.com/watch?v=gIdNBgyC88o&feature=related

 Contralto Eula Beal sings Bach's "Erbarme Dich"

 

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山の恵み

2009年12月16日 | 農事

 

山の恵み

山で畑仕事をするようになって、冬野菜などであればニンジンやダイコン、壬生菜、水菜などいくつかの野菜に不自由しなくなっているのがいいところでしょうか。ただ、本命の果樹はやはり収穫に時間がかかるようで、今年になってはじめてイチジクの実をいくつか味わえたぐらいでした。

ニンジンやダイコンは食べきれないほどの収穫があり、また、どうしても自分で作ったという先入観か、柔らかくおいしく感じます。ダイコンおろしにしても甘辛くておいしいです。どなたかご希望があればお裾分けしたいほどです。農薬は使ってはいません。今日は、山の畑の収穫を、野菜の記念写真のように、仲良く並べて撮ってみました。

二度目の挑戦でせっかく根付いたかに思えた柿の木は、サルの悪戯か、根本からぽっきりと折られてしまった。木が生きながらえているかどうかは、来年に再び木の芽が芽吹くかどうか、見てみるまでははっきりしないようです。

秋に蒔いたあの小さな種から、写真のように大きな「ダイコン」や「ニンジン」の姿が現れてくるのは、まさに奇跡としか言いようがありません。私にとっては「種子」は現実的な「概念」でもあり、野菜の生長は、概念の具体化であり、理念の実現をこの眼で見ることでもあります。

私自身はかねてから、国民皆農論者であり、また国民皆兵論者ですけれども、誤解のないようにいえば、皆兵といっても原則として国民が兵役に従事するかどうか、また、皆農として農業や酪農に従事するかどうかは、もちろん国民各人の自由であると思います。農業や酪農はやりたい人、好きな人がやればいいのであって、もちろん、やりたくない人はやらなくて良いのは言うまでもありません。他人の趣味などに口を挟むのはよけいなお節介でしかないと思います。

ただ兵役の義務については、農業の場合と少し場合が異なるかもしれません。が、しかし、基本的には兵役の義務についても、国家のために自発的に兵役に従事したい人、むしろ、国家の自存自衛のための兵役に従事することを権利として自覚する人、そこに名誉と光栄を感じる人、進んでそれを義務と感じられる人が率先して兵役に就けばよいと思います。そこに強制が一切ないに越したことはないと思います。

ただ問題は、自らの国家によって、国民自身がどれだけ恩恵と自由を自覚することが出来ているかでしょう。理想的であるのは、国民一人一人にとって、みずから献身しうるだけの価値と恩恵をその国家の存在に見出すことのできるものでありえているかどうかだと思います。それが先決の問題でしょう。そうした国家であれば、強制がなくとも、国防のための兵役に進んで自発的に従事する国民も少なくはないはずです。それだけ国家の防衛も強固なものになるでしょう。

最近のテレビ報道をみるにつけても、隣国の中国が経済的、政治的、軍事的に国際的にもその存在感を高めているのは著しいことです。それに対比して、わが日本の凋落ぶりは悲しいかぎりです。戦後のGHQの手で実行された、日本の「民主化」政策、日本人とその文化の改造政策が功を奏し始めたのか、日本人の国民的な資質は劣化し続けているようにも感じます。だから、せっかく民主党などが国家の司令塔として「国家戦略局」などを鳴り物入りではじめても、その中に入れる器が、菅直人氏ぐらいの頭脳でしかありえないでいるのも残念な話です。

とは言え、泣き言を言っても始まりませんから、明治維新の原点に還り(敗戦時のマッカーサー統治の原点ではなく)、国民教育の再建、そして真のエリートの育成からやり直してゆくしかないようです。それこそ、国家百年の大計が今こそ求められていると思います。

そして同時に、あらゆる機会を利用して、アメリカやインド、オーストラリア、EU諸国などとのあらゆる協力を通じて、隣国中国の民主的変革を、1989年11月にチェコスロバキアで起きたビロード革命のような平和裏の変革を、追求して行く必要があると思います。

この夏の自民党から民主党への政権交代の結果として、ふたたび沖縄の普天間基地の移転が問題になっています。もちろん、究極的な目標としては、日本からアメリカ軍の全面撤退のことをつねに忘れてはならないとしても、その理想の実現を焦るのは拙速になりかねません。熟した柿の落ちるように、忍耐強く条件の成熟、歴史の成熟を待つべきであると思います。それは、金正日北朝鮮国家体制の崩壊であり、中国の民主化です。それまでは、たとえ屈辱的であるとしても、アメリカ軍の沖縄などの国内駐留はやむを得ないものとすべきでしょう。

この共産主義国家中国に、最近になって小沢一郎民主党が総勢600人という大人数を率いて中国を訪問し、胡錦濤主席に謁見を許されるという構図は、民主党政権になって日本がアメリカとの間で、沖縄の普天間基地の移転が問題になっている時期だけに、日本のアメリカ離れをアメリカに見せつけるものになっています。小沢一郎氏の中国への傾斜は、明らかに、氏の恩師故田中角栄氏の跡を踏むものでしょう。小沢一郎氏は、かって駐日米大使のシーファー氏から、テロ対策特別措置法の延期について話し合いたいという要請を受けた時も、「アメリカの自由にならない」と、一旦は会見を断ったこともあった。ロッキード事件での故田中角栄氏の失脚との因縁があるのかもしれません。

この小沢一郎氏の今度の訪中が、中国の習近平国家副主席の天皇との特例会見問題の底流にあったことは疑えません。今ここで小沢一郎氏の政治思想や民主主義観についてくわしく論評はできないけれども、民主党の小沢一郎幹事長が韓国訪問中に、李明博大統領が天皇陛下の韓国ご訪問について要請したことに対し、「韓国の皆さんが受け入れ、歓迎してくださるなら結構なことだ」と言ったそうです。小沢氏としては、おそらく軽い気持ちで語ったのだろうけれども、小沢氏をはじめとする民主党の「政治主導」が天皇陛下の意向をも自由に「政治主導」できるものと考えているのなら問題は大きいかもしれません。

しかし、いずれにせよ小沢氏の新人議員(いわゆる小沢チルドレン)を引き連れての、この時期での600人の中国大訪問団の意義や目的に首を傾げざるを得ません。そこに小沢一郎氏の権力誇示の欲求といった小沢一郎氏自身によりも、親分にノコノコついて行くような構図の、民主党議員たちにこそ問題を感じます。現在の民主党議員たちにとって、小沢一郎氏は、それほど卓越した存在であるのでしょうか。そこに、かっての自由民主党の金権政治の象徴であった故田中角栄氏を、故金丸信氏や故竹下登氏らが取り巻いていた古い派閥政治の再来を見ることができるようです。

そのもっとも象徴的な事件が、自治体などの陳情を党で一元管理する新ルールを作って、幹事長室が“仕分け”を行うようになったことです。来年度の税制改正や予算編成にかかわる地方自治体や業界団体などからの陳情の絞り込み作業を、民主党の幹事長室を通させることによって、事実上小沢一郎氏の采配の元におくことになったといえます。このことが、かっての故田中角栄氏流の金権政治の再現につながらないかどうか、国民は注視してゆく必要があるでしょう。いずれにしても問題は小沢一郎自身にあるというよりも、岡田克也氏、前原誠司氏らなど、まだ子供の―――チルドレンの多い、民主党自身の体質にあるようです。

かっての自民党時代のように、官僚が清貧で有能で、政治家が自分の仕事を官僚に丸投げできる間は、政治家はどんなに無能でも、さして問題が露呈することもありませんでした。が、しかし、ここ20年の間に見られるように、日銀総裁や旧大蔵省、財務省などの公務員、官僚たちはかならずしも有能でも清貧でもなくなったようです。むしろ、かっての旧社会主義諸国や共産主義中国の官僚テクノクラートのように、特権階層化し利権集団化して、国民、国家全般の利害と矛盾し相反しあうような状況では、政治家が国民全体の利益を代弁しているかぎりにおいて、行政の政治主導ということは自明のこととして実行されてしかるべきであることは言うまでもありません。

かってのように、政治家よりも官僚たちの方が清貧で有能で、国家国民の利益をより代弁できていた時代もありました。だから、かならずしも政治家が行政すべてを取り仕切ることそのものが良いとは言えないと思います。肝心なことは、政治家と官僚のいずれが国家国民のために働くことが出来るか、その意思と能力があるかということでしょう。小沢民主党の「政治主導」は、民主党の政治家たちにその能力と資格があるかどうか、という本質的な内容が問われるべきであって、単なる形式的な問題にしてはならないと思います。

 

 

 

 

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真珠湾攻撃から六十八年

2009年12月08日 | 歴史

 


真珠湾攻撃から六十八年

12月8日の今日は、かって68年前に太平洋戦争の火ぶたを切って落とすことになった真珠湾攻撃のあった日である。今日もNHKの「クローズアップ現代」でも、かっての太平洋戦争を回想させる番組を組んでいた。「さまよう 兵士たちの“日の丸”」として、作家の半藤一利氏を登場させて、相変わらず大日本帝国政府と帝国陸海軍を誹謗、中傷させていた。

「アメリカ軍は戦後墜落された兵士のその後を徹底的に追跡調査して、いかにも兵士の一人一人の生命を大切にしていたのに比べれば、日本政府は「一銭五厘」の赤紙で国民を徴兵し、いかにも日本人の生命を軽んじていた」ように言う。

それに対して、家族や同郷の隣人、知人、同僚は「日の丸」に、「武運長久」と書いて、出征兵士の無事の帰還を願っていたという発言をして、相変わらず、太平洋戦争開戦当時の政府、軍隊の非人間性、悪党ぶりを強調していた。いつものようにそれは、GHQのアメリカ軍は解放軍であり、旧日本軍は非民主的で悪逆な軍国主義の象徴であったという、現在のNHKの太平洋戦争史観、階級闘争史観を代弁させるものでもあった。

もし、先の太平洋戦争で日本軍が勝利を収めていれば(それはありえないことではあるけれども)、日本軍も日本政府もまた、戦死したり行方不明になった日本軍兵士を調査し確認する作業をもっと丁寧に行うこともできていただろう。もし戦争の勝者であれば、それだけの余裕、余力もあったはずである。半藤一利氏にはそれくらいの想像力すらもないのか。

半藤一利氏は「勝てば官軍、負ければ賊軍」という諺の真理を今一度かみしめるべきだろう。半藤氏は、太平洋戦争に敗北した日本政府と帝国陸海軍をどこまでも悪者にしたいために、「賊軍だから負けたのではなく、負けたから賊軍になっている」ということすらわからないのだ。物事を相対化して思考することさえできない人である。旧帝国陸海軍や軍人首相の肩を私は一方的に持つつもりもないけれど、物事はもっと客観的に相対化して見なければならない。それが科学であり、歴史研究である。

長崎、広島に原爆を投下して、数万人の非戦闘員の女子・子供を瞬時に殺戮、蒸発させたアメリカ大統領が戦争犯罪人としてその罪の問われない理由を問いたい。

国家間の戦争の当事者を捉えて、一方を善とし、他方を悪として断罪するのは愚かしいことである。善だから勝者ではなく、勝者だから善なのである。これが一切の言い訳の効かない歴史の厳しさである。

私たちはこれからも歴史研究の一環として太平洋戦争史の研究は継続して行く。それは、なぜ日本の国内にアメリカ軍が駐留しているのか、アメリカの従属国家、日本の現実を知るためであり、私たち日本人が「植民地文化」から脱して、真に自由と独立を回復して行くためである。

アメリカの鏡・日本(ヘレン・ミアーズ)                                              http://www.sam.hi-ho.ne.jp/s_suzuki/book_mirror.html#gaiyou

宣戦の詔書

 


 

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旧体制の反撃

2009年12月02日 | ニュース・現実評論

 

鳩山首相、元秘書立件でも続投 偽装献金問題で表明
http://www.47news.jp/CN/200911/CN2009113001000858.html
(12/2)
偽装献金、首相聴取見送り 首相側、地検に上申書提出へ
http://www.nikkei.co.jp/senkyo/2009shuin/elecnews/20091201AS1G0103L01122009.html



旧体制の反撃

今年の2009年8月30日に衆議院の総選挙があり、民主党が115議席から308議席へ躍進し、民主政権が誕生して、多くの国民の念願だった政権交代を実現した。自由民主党が野に下ったのは、もちろん今回が初めてではない。十六年前にも、小沢氏の新生党、細川護煕氏の日本新党、社会党、公明党、民社党、社会民主連合、民主改革連合などの各党派が連立政権を樹立することで合意して、細川護煕氏を首班として細川連立政権内閣が実現した。

しかし、その時野に下った自民党は、細川護煕氏の佐川急便グループからの借入金処理問題を材料に、執拗に細川政権を追及し続けていた。海千山千の自民党の議員たちの追求に、元公家育ちの細川護煕氏は耐え切れず、政権を投げ出すことになる。その結果、国民から見放されたはずの自民党が、社会党と手を結ぶという究極の談合政治を行って政権に復帰することになる。細川政権が崩壊してから後、今年になって民主党が政権交代を果たすまでの、失われた政治空白の惨めな20年は周知の通りである。この20年の間に、赤字国債を乱発して借金は国内総生産(GDP)の約1.8倍に上った。

そして今、ふたたび自民党は、鳩山由紀夫首相の政治献金問題を材料に、かっての細川政権に対して行ったように、鳩山首相の「故人偽装献金」疑惑や「実母からの資金提供」問題を執拗に追求している。それによって細川政権を崩壊させたように、鳩山政権崩壊という二匹目のどじょうを狙っている。

 

 

 

 

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作家と絵

2009年12月01日 | 日記・紀行

 
作家の小川国夫氏が亡くなられたそうである。とは言え、小川氏が亡くなられたのは、あらためて調べなおしたのだが、2008年4月8日のことだそうである。うかつにも、一年半ほど、氏の死去に気がつかなかったということになる。とくに現代文学の最近の動向についてもほとんど知らないし、最近は、文学や小説のことにはほとんど関心を失っているから無理もないことなのかもしれない。

ただ、私も青年のころには、まだ、文学への関心もそれなりに強く、また、青年時代の知人に小川国夫氏の崇拝者たちもいたから小川国夫氏らの名前は聞き知ってはいた。無類の酒好きの方でもあったらしい。小川国夫氏がどこかの新聞で『悲しみの港』と題された自伝小説風の新聞小説を連載されていたときも、気のつくかぎり眼を通していたと思う。その内容の記憶は今となってはほとんど失われているけれども、氏の独自の文体の小説世界の印象は残されている。

小説よりも、宗教や哲学に関心の深かった私にとっては、小説家としての小川国夫氏よりも、カトリック教徒としての小川国夫氏により関心があったのかもしれない。だから、NHKの教育番組で、「聖書案内」のような教養番組の解説者として、小川氏が登場したときも、欠かさずに見た。ただ、その聖書註解は、独自の知見をもたらしてくれるものではなく、私にとっては平板な印象しか残らなかったけれども。

小川国夫氏が亡くなられたのを知ったのは、先日、2009年11月29日の日曜日の日経新聞朝刊で、シリーズの「作家を魅了した絵③小川国夫とゴッホ」という記事の中に、小川国夫氏の肖像写真に付して、「晩年の小川国夫」という記述があったからである。「晩年の」という形容詞を見て、おやっと思った。生者にこんな形容を付すことはないからである。それで、WIKIで、小川氏のことを調べてみると、生涯は2008年4月8日で閉じられてあることを知り、あらためて小川国夫氏の逝去を確認することになった。

小川国夫氏は、文学界ではそれなりに知られていたはずだから、ご逝去の折りには、新聞やテレビで報道もされていたはずだが、情報音痴の私は気がつくこともないまま、ほぼ一年半も経過していたことになる。青年時代にオートバイで南欧を旅行したという小川国夫氏は、老年期にあっても頑健そうで、死とはまだ縁が薄そうな印象が私にはあった。

その新聞記事によれば、小川国夫氏はゴッホに心酔していたそうである。ゴッホはプロテスタントの牧師の息子でもあったから、聖書やキリスト教が、この作家と画家を互いに引きつけ結びつける糸であったのかもしれない。そこに精神的な因縁もあったことだろう。

小川国夫氏がなぜゴッホに深く惹かれたのか、小川氏の著作もほとんど読んではいない私には今のところよくわからない。ただ、互いに惹かれ合うところがあるということは、精神的に何らかの近親関係の存在していることを示している。さもなければ、電車で隣り合わせに座ったとしても、互いに何らの関心もなく擦れ違うだけだろう。

ゴッホはたしかにその数奇的な短い生涯と合わせて、画家と芸術に興味がないではない。とは言え、少なくとも私にとってはレンブラントやセザンヌ、スーラ、シスレー、小林古径、菱田春草、フェルメール、ピサロら以上にゴッホに関心を惹かれない。

少なくとも私には、ゴッホの絵を前にしたとき、とくに「ひまわり」や「星月夜」、「鴉の飛ぶ麦畑」「赤い椅子」「種播く人」などの絵を前にしたとき、何か不安感と忌避感が先に立って、長時間にゴッホの絵画の鑑賞に浸っていられない思いがある。これまでもゴッホの作品のいくつかを私のブログのイメージ画像として使っているにもかかわらず。だから、また何人かの画家のいくつかの絵画の印象記も書いているが、ゴッホの絵についてだけはまだ一度も書いて見たいという気は起こらなかった。

その新聞記者は、小川国夫はゴッホの絵の中に「終末観的、絶望的な絵の中に込められた希望のサインに目を向けている。」とも書いている。しかし、今の私にとっては、ゴッホの絵に不安やおののきを感じることがあっても、少なくとも「希望のサイン」などを見出すことができない。

それにしても、世界からの関心が薄れてゆくのは、老年者の宿命かもしれない。時間に余裕がないせいもあるけれども、最近になっても、小説や文学や絵画をゆっくり鑑賞することから遠ざかっているのは悲しいことではある。生涯に時間が限られているとすれば、何かを選択し、他方を放棄せざるをえない。

政治や経済についても同じことである。貴重な残された生涯の時間を何に振り向けるかは、ますます重要な選択になる。政治や経済などの「世事」への興味と関心は打ち切り、没世間な農事と哲学と普遍的な科学への選択と傾斜への沈黙を深めてゆくのもやむを得ないのかもしれない。ただ、事物へのみずみずしい関心と問題意識はいつまでも失わないでいたいとは思う。


http://mainichi.jp/select/wadai/graph/2008Requiem/9.html
(肖像写真)

 

 

 

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