このもとに
那智に籠もりて滝に入堂し侍りけるに、この上に一二の滝おはします。それへまゐるなりと申す常住の僧の侍りけるに、具してまゐりけり。花や咲きぬらんとたづねまほしかりける折節にて、たよりある心地して分けまゐりたり。二の滝のもとへまゐりつきたる。如意輪の滝となん申すと聞きて、拝みければ、まことに少しうち傾きたるやうに流れて下りて、尊く覚えけり。花山院※の御庵室の跡の侍りける前に、年旧りたりける桜の木の侍りけるを見て、「すみかとすれば」※と詠ませ給ひけんこと思ひ出でられて
木のもとに すみけるあとを 見つるかな 那智の高嶺の 花を尋ねて
那智の御社に籠もって、滝に身を清めておりましたときに、お堂の上方に一の滝と二の滝がありました。そこへお参りするという那智山に常住のお坊さんがおられたので、連れだってお参りしました。花が咲いているだろうかと尋ねてみたかった折りでしたので、頼み甲斐のある気持ちがして、ともに草木を分け入ってお参りしました。二の滝のところまで辿り着きました。如意輪の滝と申されるのを聞きましたので、拝みましたが、如意輪観音様のお姿と同じように本当に少しうち傾げられているように流れ下っていましたので、尊く思われました。花山院のお住みになっていたお庵室の跡の前に、年旧りた桜の木の立っていますのを見て、「すみかとすれば」とお詠みになったことの思い出されて、
桜の木の下に 心清らかにお住みになっていた跡を 私は見つけました
那智の滝のある高嶺へと 花を尋ねました折りに
※
http://contest.japias.jp/tqj1999/20106/seimei/ookan.htm
木(こ)のもとをすみかとすればおのづから花見る人となりぬべきかな(詞花276)
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/kazan.html
NSCには制服組の意見を活用するシステムが出来ているのか。>>「敵基地攻撃能力」を云々する前に、米国との間で任務、役割分担について真剣に協議していくことが必要だ。【中韓につけ入る隙を与え、米国を不安にさせた日本】JBpress - s.shr.lc/1d2eF2V
NSCには制服組の意見を活用するシステムが出来ているのか。 fb.me/6qu1M3vZE
こんな話は法的整理すれば、もっとフェアに、素早く、法改正なしでもできる。だから2年前から法的整理といったが、それに猛反対して裏でこっそりといういつものスタイルだな←東電、16年度にも持ち株会社に 初の発送電分離 :日本経済新聞 s.nikkei.com/1ba53DS
「武道と伝統」とくに青少年の身体機能の開発と発達の方法論の一つとして、また、それを社会に倫理規範の修得の機会とすること、また、精神的な修練の手段とし... blog.goo.ne.jp/askys/e/cf75fd…
中日はもはや何も話すことはない、軍事衝突への準備を整えよ―中国紙 (XINHUA.JP) - Yahoo!ニュース p.tl/2IvV
天安門突入「背後にテロ組織」 中国公安責任者が名指し: s.nikkei.com/1ctpONY <<こうした事件に見るように、中国共産党政府と一般民衆や少数民族との中国の国内矛盾は一層深刻になっている。最近の環球時報の報道を見ても、中国共産党政府は国内矛盾を尖閣諸島への
軍事侵攻によって中国共産党に対する国民大衆の不満を国外に転化させる可能性は極めて大きい。日本国民は自由と民主主義の立憲君主国家体制を防衛する決意と覚悟を固めるべきだろう。政府や防衛省は米国と緊密な連絡体制を構築して、万一の状況に対応できるよう、早急に態勢を確立して行く必要がある。
Yoshio Sugino sensei Katori Shinto Ryu.flv(+ 再生リスト)
武道と伝統
YOUTUBEで音楽やドキュメントなどを視聴していると、たまに武道、武術関係の投稿映像に出会うことがある。学生時代に剣道や合気道をやっていたこともあって武道には興味や関心がないわけではないので、ついつい引かれて見て時間を潰してしまうことになる。先日もどこで迷い込んだのか、YOUTUBEで武道関連のいくつかの投稿映像を見ることになった。
学校を卒業してからもしばらく、たまたま近くに道場のあった関係で継続して練習していた。しかし転居を切っ掛けに近所に道場もなくなり、また多忙にもかまけてそれ以来、今では剣道にも合気道からもスッカリ離れてしまっている。それでも武道や武術に興味や関心を失ってしまったわけではなく、この歳になっても環境さえ許すならば再開したいという思いもある。卒業して以来進級はないが段は持っている。廿歳前後の学生時代に習得した技は今も忘れてはいない。合気道の創始者である植芝盛平翁なども、私の学生時代にはまだ存命中で何度か演武も近くで見た記憶がある。藤平光一の指導を受けたこともある。ただ、とっくの昔に「武道」から離れてしまっているので現在の武道界の実際についてはほとんど知らない。
最近は学校などでも授業で武道教育が採用されるようになっているらしい。私たちの中学高校時代にもフォークダンスや武道などの授業があったから、世代交代の中で途中でなくなっていたのが復活したのかもしれない。よくわからない。新しい教育基本法が制定され、教育の目標に「伝統と文化を尊重する」という項目が掲げられた成果だという。武道の科目としては、剣道、柔道、相撲など外に、合気道、薙刀、弓道、空手などもあるらしい。
この武道の必修化についても様々な意見があるようだ。私自身としては基本的にはこの方向を支持したいと考えている。武道を伝統文化の一つとして捉える。公教育における「武道教育」の採用は、戦後に失われた多くの伝統文化の復活の一つとして評価できるものと思う。
武道は歴史的には封建時代に軍事力を担った武士階級が、彼らの利害をめぐる様々な抗争、戦争を繰り広げる中で、いかにして敵を制し勝利を手に入れるか、戦いの技術、方法を研鑽してゆく中で、特に、剣や槍などの武器を所持した戦いの中での肉体を行使した戦闘技術として磨かれ発展してきたものである。
やがて戦国時代を経て、織田、豊臣、徳川と時代が変遷し、徳川幕府が支配権を確立してからは実際には戦争は行われなくなったが、それでも軍事力がその統治の背景に存在した。軍事力の担保することなくして平和が存在しないことは、今日においても江戸時代においても変わりはない。
武道はそうした軍事力の担い手であった武士たちが戦闘技術を向上させて行く過程で発達してきたものであるが、それは肉体を行使するものであり、肉体は精神と深く関係するものであるから、禅仏教の影響などを受けるとともに「精神修養」としての性格も深めていった。また、とくに当時は封建社会の主従関係における倫理道徳の思想として儒教が深く浸透していたから、武道においてもその倫理観に深く影響されながら発展してきたものである。
だから今日の私たちの眼前に伝統として文化遺産として残されている「武道」には、身体的な技術と倫理教育的な要素が含まれている。ただ今日においては「武道」などが古い「儒教思想」の影響を受けているからという理由で否定される傾向もないではない。しかし「武道」が「封建時代の遺産だ」という理由で全否定されてしまうのは、それこそ「盥の水といっしょに赤子も流してしまう」のと同じで大きな損失だと思う。それらは貴重な伝統遺産であって現代においても復活され活用されるべきものである。新渡戸稲造がその著書『武士道』で明らかにしたように、『武士道』には時代や民族を超えた普遍的な価値は存在する。それを「武道」の修得を通じて現在に活かして行くことは、とくにGHQ教育政策の名残として、伝統的な普遍的な倫理観を単に過去の封建時代の遺産として盲目的に否定されてきた傾向のある戦後の、否定の否定を通じて回復することは意義のあることである。
とくに青少年の身体機能の開発と発達の方法論の一つとして、また、それを社会に倫理規範の修得の機会とすること、また、精神的な修練の手段として、武道における伝統的な遺産を活用することの意義は大きい。自らの経験としても、青年時代に「武道」に関わって肉体と精神を多少なりとも「鍛錬」する機会を持ち得たことの恩恵を、この年齢に至っても痛感することもある。