作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

五つのソラ

2019年11月11日 | 宗教・文化

五つのソラ

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五つのソラ英語:five solae、ラテン語:cinque solas[要出典])、プロテスタント宗教改革と改革神学者たちの神学を要約したラテン語の語句である。「ソラ」は「〜のみ」を意味する語である。

目次

聖書のみ

ソラ・スクリプトゥラ (Sola scriptura) は「聖書のみ」という意味である。ルターシュマルカルデン信条において「神のことばが、教会の教えと信仰告白を確立する。それは天使であっても覆すことができない」と主張した。ルターは、教皇教会会議も最終的な権威ではなく、教会におけるすべての権威の上に聖書の権威を置き、聖書の権威に服すべきであると主張したのである[1]。そして、カルヴァンはルター以上に強調した[2]。それに対して、カトリックでは聖書が神のことばであることを認めつつも、聖書が唯一の権威であることには同意しなかった。

信仰のみ

ソラ・フィデ (Sola fide)は「信仰のみ」という意味で、信仰義認とも呼ばれる[3]。ルターは九月訳聖書とも呼ばれる『ドイツ語新約聖書』の「ローマ人への手紙」3章28節の訳語に「のみ」を付け加え、「信仰のみによる」と訳した。これが、ルターの宗教改革の中心的教理である信仰義認のテーマになった。

恵みのみ

ソラ・グラティア (Sola gratia) は「恵みのみ」という意味である。「恵みのみ」の原則は、カトリック教会によって、激しく攻撃された。なぜなら、それは倫理を破壊して無秩序と混乱を生む考えであるという理由であった[4]

キリストのみ

ソルス・クリストゥス (Solus Christus) は「キリストのみ」という意味である。ルターは義認において、救いの確信は人の内側にあるのではなく、キリストのみにあると説いた[5]

神の栄光のみ

ソリ・デオ・グロリア (Soli Deo gloria) は「神の栄光のみ(神にのみ栄光を)」という意味である。

脚注

  1. ^ カール・ヴィスロフ著『ルターとカルヴァン』p.66
  2. ^ 『ルターとカルヴァン』p.160
  3. ^ 『ドイツ宗教改革史研究』p68
  4. ^ 『ルターとカルヴァン』p.166
  5. ^ 『ルターとカルヴァン』p.38

参考文献

 
 
 
※  出典(20180713)
五つのソラ - Wikipedia https://is.gd/3z9RI0
 
 
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Ave Verum Corpus K618

2016年12月25日 | 宗教・文化


2016Xpmas

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2月1日(月)のTW:声聞・縁覚・菩薩

2016年02月02日 | 宗教・文化

声聞
しょうもん
śrāvaka

仏教用語。声を聞く者のことで,元来は釈尊の直接の弟子をさす。また,みずから悟りを求めるとともに他を救済することを目的とする大乗仏教の求道者 (→菩薩 ) に対し,釈尊の教えを忠実に実行はするが,


自己の悟りのみを追求する出家修行者,すなわち部派仏教の修行をする者をいう。

声聞(しょうもん)とは - コトバンク kotobank.jp/word/%E5%A3%B0…


縁覚
えんがく
pratyeka-buddha

仏教用語。おのれひとり悟ってよしとする孤高の覚者。教理的には十二因縁を観察して迷いを断ち真実を悟る者をいう。師なくしてひとりで悟るので独覚ともいい,音写語では辟支仏 (びゃくしぶつ) 。


《〈梵〉pratyeka-buddhaの訳。辟支仏(びゃくしぶつ)と音写》仏語。仏の教えによらず十二因縁を観じて理法を悟った者、また飛花落葉などの無常を観じて悟った者。ともに師によらないため独覚(どっかく)ともいう。


声聞(しょうもん)とともに二乗といい、菩薩(ぼさつ)と区別する。

縁覚(えんがく)とは - コトバンク kotobank.jp/word/%E7%B8%81…


菩薩【ぼさつ】

《〈梵〉bodhisattvaの音写「菩提薩埵(ぼだいさった)」の略。悟りを求める人の意》仏語。
1 仏の位の次にあり、悟りを求め、衆生を救うために多くの修行を重ねる者。文殊(もんじゅ)・観音・弥勒(みろく)・勢至(せいし)・普賢(ふげん)など。


元来は釈迦の前生時代の称で、大乗仏教がおこると、将来仏になる者の意で用いられるようになった。
2 昔、朝廷から高徳の僧に賜った称号。「行基(ぎょうき)―」
3 本地垂迹(ほんじすいじゃく)説により、日本の神につけた尊号。「八幡大―」


サンスクリットのボーディサットバBodhisattva,中国音写菩提薩【た】(ぼだいさった)の略。覚有情,大士などと訳す。菩提を求め,衆生を救おうと願って六波羅蜜(はらみつ)の行を修める人。

菩薩(ぼさつ)とは - コトバンク kotobank.jp/word/%E8%8F%A9…


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6月8日(日)のTW :日本・スイス国交樹立150周年

2014年06月09日 | 宗教・文化

スイスと日本。両国の類似点は多い。しかし、両国には決定的な違いが一つある。それは永世中立、連邦制、直接民主制など、政治体制や政治への姿勢だ。特集 日本・スイス国交樹立150周年: 似た国同士の150年の交流 swissinfo.ch swissinfo.ch/jpn/detail/con…


牧歌的な暮らし: 孤独に包まれたアルプスの奥地で - swissinfo.ch swissinfo.ch/jpn/detail/con…


孤独に包まれたアルプスの奥地で fb.me/1vzVzg4pG


 
 
 
 
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「よしわら」

2009年04月06日 | 宗教・文化

 

hisikaiさんは、ここしばらく「よしわら」と題して、日本の戦前の公娼制度の象徴としての「吉原」を取りあげられています。

これまでの論考でも明らかなように、いわゆる「戦後民主主義」については私は多くの点で低く見ているのに対して、戦前の「大日本帝国憲法」下の日本についてはかなり肯定的に評価してきました。そして、戦後教育の産物であるいわゆる「団塊の世代」やその後継世代については、民族がその形而上的な精神を喪失してしまっていることや、倫理的な意識の希薄さという点において、平安、鎌倉、室町、江戸時代などの過去の日本の封建時代の「品格」にすら及ばないのではないかと思っています。これは私がかならずしも「民主主義」を評価していないためかもしれません。

ただ、それでも私が戦後の日本を評価する点があるとすれば、太平洋戦争後には、この「吉原」に代表される公娼制度がなくなったことがあります。また、この制度の背景にあった貧困問題の根源である小作人制度が「農地改革」によって農村からなくなったことだと思います。

ただ残念なことは、日本の敗戦によってGHQの指導のもとでこれらの政治的な改革が実行されたことです。日本人は民族として公娼制度などの悪習を主体的に廃止する能力を持っていませんでした。そのために今日も風俗産業などにおける女性の人身売買などは根強く残っています。

あえて誤解を恐れずにいえば、「吉原」などの公娼制度を廃止するためなら、日本の敗戦と引き換えにしてもよかったくらいに思っています。それほど、私にとっては「よしわら」の公娼制度は憎むべき対象です。そして残念に思うのは、hishikaiさんの論考においては、この旧悪弊に満ちた「よしはら」を、文学的に歴史的に叙情的に懐古的に振り返られるだけで、この公娼制度の産物に対するhishikaiさんの憎悪がほとんど見られないのを私は悲しいと思います。

おそらくこうした風俗文化の問題の背景には、日本人の民族としての宗教の性格が深く関わっていると思います。日本の伝統宗教の中にはこれまでモーゼの宗教の影響の痕跡すら見られなかったこともあると思います。日本人がモーゼやイエスの宗教に改宗して文化や社会の質を変えるまでは、いずれにしても問題の根本的な解決を期待することはできないのではないかとも思います。

 

遊女の救い  Salvation Prostitute's

 

 

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「宗教」の善と悪、あるいは人類の「宗教」からの解放

2009年02月10日 | 宗教・文化

 

「宗教」の善と悪、あるいは人類の「宗教」からの解放

宗教ということばを使うと、普通は人は仏教や神道やキリスト教やイスラム教などの世界宗教などを思い浮かべるかもしれない。また、数百年、数千年単位の歴史や伝統をもった宗教、宗派としては、ユダヤ教、ヒンズー教、カトリック教会や臨済宗、日蓮宗や曹洞宗などが無数に存在するし、また、比較的に新興宗教としては生長の家とか創価学会とか、また社会的に問題を引き起こしたオーム真理教などの団体がある。とにかく有名無名を含めて宗教のカテゴリーに属する集団、思想、教条は数多い。また新興宗教に属する集団もいかがわしいものをふくめて無数に輩出している。

新興宗教
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E8%88%88%E5%AE%97%E6%95%99

現代国語例解辞典などは「宗教」について、「宗教とは、神や仏など、人間を超えた聖なるものの存在と意志を信じ、それによって人間生活の悩みを解決し、安心、幸福を得ようとする教え。」というように一応説明しているが、これは普通に流通している「宗教」ということばで懐く観念でありイメージであるといえる。

しかし、宗教をどのように定義するかにもよるけれども、宗教を仮に「個人の人生における究極的な価値と生活態度を規定する思想信条の体系である」とでも定義するなら、共産主義や無政府主義もまた無神論もまた一つの「宗教」と呼ぶことができるだろう。要するに宗教とは、人間の信奉する思想の価値体系として、「価値観に関わるもっとも中心的な思想信条というように広義に解するならば、少なくとも人間であるならば、それを自覚しているか否かは別として、「宗教」をもたない人間はいないと言うことができる。

また、世間では「宗教」と実際に名乗ることはなくとも、事実上「宗教」と同じ機能を果たしている事例は無数にあるのであって、この論考では、宗教ということばを、もっとも広義の意に解して、「宗教」の機能を事実上果たしているものも含めて、広義の意味で「宗教」という用語を使用したいと思う。誤解を恐れずに、無神論や共産主義、無政府主義なども事実上の「宗教」と見なして論考を進めてゆきたいと思う。

現在の北朝鮮などの国家では、その独裁的指導者である金正日などに対して明らかに個人崇拝が行われている。その個人に対する崇拝という点だけを見れば、新興宗教の指導者に対する崇拝も、阿弥陀仏や法華経などに対する崇拝と本質的に変わるものではない。

宗教が非常に頑固な固定観念にとらわれやすいものであることは、特定の宗教信者のもつ一般的な傾向として多くの人々が日常的に経験するところだろう。そして、往々にしてこの頑固な偏執的な固定観念は、狂信にまで人を駆り立てる「危険な」要素をもつ。このことも個人的な体験からも、日本においてもオーム真理教などが引き起こした社会的な事件を見ても、また世界各地で頻発している宗教紛争などの歴史的な体験からも指摘することもできるものである。

アフガニスタンなどを最前線として戦われているいわゆる「テロリスト」たちの多くが「イスラム原理主義者」と呼ばれているように、その兵士たちは狂信的なイスラム教信者であるとされる。もちろん、自己の信奉する神のみを絶対として、他をすべて排斥する狂信的宗教家、狂信的信者は、たんにイスラム教のみならず(その宗教の本質からいってイスラム教にはその傾向が強いと言えるかもしれないが)どのような宗教、宗派にも存在するし、また、新興か伝統的な宗教かを問わず存在する。

自己の宗教以外のすべてを否定し拒絶する宗教信者を「過激派」と呼ぶなら、「過激派」は、その昔にユダヤでイエスを十字架に架けた律法学者たちから、女性信者の腹に爆弾を巻き付けさせる現代のイスラム教指導者、また日本のおいても他宗教や他宗派からの布施を一切拒否した日蓮宗の不受不施派など、古今東西にわたりその類例は無数に存在する。

また、思想がブルジョワ的だという理由で同じ民族の同胞でありながら大量に殺戮したカンボジアのポルポト元首相なども、彼は共産主義者であったが、その本質は、宗教的狂信者一般と何ら異なるものではない。「宗教は阿片である」と断じるマルクス主義信者が、宗教家以上に狂信的である場合も少なくない。


とは言え宗教的な狂信者がすべて害悪をもたらす存在であると断定するのも、それ自体偏見でありまた場合には、固定観念となって真実を見ていない場合も多い。強固な宗教的な信仰の持ち主であっても、インドのカルカッタで貧者の救済に生涯を捧げたマザー・テレサのように、人々から愛され評価された宗教信者も少なくない。昔から聖人とか聖者とか呼ばれた人たちは、多くの人々の救済や福祉に大きな働きをしてきたことも事実である。

そうした一面をもつ宗教が、時には狂信的になり戦争の原因になる。個人や人類の幸福を目的としたはずの宗教が主義思想が、その目的と手段を転倒させ、もっとも倒錯的な狂信になって、この上ない害悪をなす。この論理は何も宗教だけに留まらない。最近の歴史においても、人類の「解放」をめざしたはずの共産主義運動が、この上なき抑圧と不自由をもたらしたのは、私たちが北朝鮮や旧ソ連などの現代史にこの眼で見た歴史の事実である。

こうした事実を見るとき、先ず言えることは、宗教を名乗るか否か、無神論を標榜するか否かにかかわらず、すべての宗教、主義信条においても、「善」が「悪」に転化する可能性をもつという事実である。もちろん、その逆もあり得る。もっとも良いものは、もっとも悪いものである。もっとも純潔なものはもっとも腐りやすいものである。最善のものは最悪のものである。もっとも善きものであるはずのキリスト教といえども、それが最悪の宗教に転化する可能性もある。事実、ニーチェなどは最悪の腐敗に転化したキリスト教に対する批判なのだと思う。

ニーチェとキリスト教      

           http://blog.goo.ne.jp/askys/d/20051101

そのもう一つの最悪の事例が、現在もなお戦われているイスラエル・パレスチナ間の宗教戦争である。それは人間が宗教のドグマと狂信の結果としてどれほど悲惨な事態に陥るかの事例である。まことに宗教における偏執ほどに度し難いものはない。イスラム教過激派やユダヤ教過激派信者たちを彼らの狂信から解放し、その偏執を解くのは切実なしかし困難な課題である。世界各地で発生しているヒンズー教と仏教、イスラム教、キリスト教などの諸宗教のあいだの紛争の原因となっている彼らを宗教的な偏執から解放することなくして、平和をもたらすことはむずかしい。


 

 

 

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雅歌第六章註解

2009年02月04日 | 宗教・文化

 

雅歌第六章註解

「雅歌」は詩でもあるので、人それぞれに自由に自身の器量に応じて味わえばよいと思い、註釈もよけいに思い書かなかった。とは言え私が現時点でこの詩をからどのように美と思想を得ているか記録しておくことも多少の意義もあるのではないかと思った。文章にすることによって後からそれを反省や検討の対象とすることもできる。

ちょうどパスカルが、宇宙の広大無辺な神秘の前に畏れおののきながら、自身をもっとも弱い一本の葦に喩えたように、有限な人間が世界のすべてを認識することを夢見ることの傲慢であると同じように、「雅歌」という風雪を経た古典的宗教的作品を前にしては、私の註解もおそらく「群盲象を撫でる」の類の一知半解にすぎない。

しかし、たとえそうであっても、私たちの真理観からいえば、真理は現象的認識の総和の中から明らかになってくる。その意味では拙なりとは言え、現代日本とは隔絶した時代、風土、宗教的伝統のなかに生まれたこの「雅歌」という詩についての一知半解の私の註解のようなものも、宗教詩などとはふだんは無縁の人には参考になるかもしれない。ただ、この身の程知らずの「雅歌」の註解が誤解の種を蒔くことにならないことを祈るばかり。

「雅歌」と言う作品自体が一つの比喩的な象徴的な意味をもっている。イエスが「喩えなしに何一つ語らなかった」(マタイ書13:34)と言われているように、聖書自体が一つの喩えで構成されている。秘密を知ることのできるものだけのために、雅歌も全体としては、男女の相聞歌、恋歌であるけれども、何よりもその愛が、神の愛の比喩として、象徴として歌われている。

それは神のイスラエル民族に対する愛であり、また人となったイエス・キリストの愛を象徴している。それはもっとも聖らかなる愛である。この雅歌のなかで、人の愛とは近くて遠い青年ソロモンの愛を一つの比喩として、たとえおぼろげではあっても、そこから私たちは神の愛がどのようなものかを類推的に知ることができる。

「愛」は聖書の核心的な主題であって、愛のゆえにイエスは無垢のご自身を贖罪の生けにえとして神に捧げ、神はその血のあがないによって人類の罪を許される。イエスを犠牲の羊としてこの世におくられたのも、それもまた父なる神の愛のゆえである。この「雅歌」は全八章と短編ながらその前表として、聖らかな高貴の愛を歌った貴重な恋愛詩である。

旧約の正典である雅歌の成立は、紀元前250年頃と推測され、一部にギリシャ的な美意識も見られる。新約聖書の時代に入って、パウロはこの本の主題をさらに発展させ、希望、信仰、愛の三つのキリスト教的な徳のなかで、もっとも大いなるものは愛であると言い、たとえ山を動かすほどの信仰があったとしてもそこに愛がなければ無に等しいとも言う。愛はそれほどの「最良の贈り物であり最高の道」とされている。(コリント前書第13章)

創世記では父アブラハムの息子イサクに対する愛が、またダビデに対するヨナタンの友愛、ダビデ王のバテシバに対する性愛など、聖書の中には多くの愛が語られている。新約聖書では、放蕩息子に対する父の愛をイエスが語ったことは良く知られている。この「雅歌」の中では、青年の娘に対する愛が歌われている。この青年はダビデの息子で「平和な」という意味の名をもったソロモンである。

青年と娘は愛し合っており、先の第五章で、王である青年ソロモンは花嫁になるべき娘のところに訪れるが、行き違いから娘は青年ソロモンを受け入れることができず、戸を開いて彼を迎え入れようとしたときにはすでに彼は立ち去った後だった。娘は急いで青年の後を追ってその姿を探したが見つからず、逆に街の夜警に見つけられて打たれ、着ていた衣さえ奪われてしまう。

ここには、神を見失い迷ったイスラエルがバビロンに征服され異国の地に連れ去られるという民族としての苦難の体験が比喩されている。

愛する人を見失った娘を勇気づけるように、女たちはいっしょに探そうと申し出るが、娘には青年がどこへ行ったのかわかっている。青年は自分の領地である百合の花咲く園で羊の群れの世話をしている。

羊の群れを飼う牧童は、中近東では人を養い導く神の存在の比喩で語られる場合が多い。この雅歌においても、牧童として現れる青年ソロモンの愛は、ユダヤやイスラエルに対する父なる神の愛を象徴している。ソロモンが神殿を築いたユダの国の都であるエルサレムやイスラエルの首都ティルザの麗しさが詩のなかで娘の美しさに喩えられているように、父なる神を懐くヘブライ民族がこの娘に象徴されている。

そして、ダビデやソロモンはキリストの前表とされるから、娘に対するソロモンの愛は、やがてキリストの愛を象徴するものとなる。もちろん、イエスの愛が十字架の苦難を耐え忍ぶほどに深いもので、私たちの想像を絶するものであって、もっとも高貴な青年ソロモンの娘に対する愛も人間的で、それは私たちにはより身近なものではあっても、イエスの生涯の愛の物語とは比べることの出来るものではない。

 現代の日本からは大きく異なる中近東という時代や風土を背景にして生まれた雅歌という詩には、私たちには理解しにくい表現が多い。娘の美しさはさまざまに比喩的に表現されているけれども、なかなか想像しにくい。たとえば、娘の髪や歯を、遠くの丘を駆け下りる山羊の姿や白い毛を刈られて行列をつくって列んでいる雌羊にたとえられても、実際に見て経験することもないからなかなか想像しにくい。また娘の姿をイスラエルの都ティルザやユダヤの都エルサレムにたとえているが、とくに麗しい都を実際に見たことのない者にはこれもなかなか想像しにくいだろう。

第4節や第10節などに繰り返し表現されているが、娘の美しさを、新共同訳のように「旗を掲げた軍勢のように恐ろしい」というよりも、「都市や軍隊の掲げる旗や目印のように美しさが際だっている」ということだろうと思う。第12節は、「私の気づかぬうちに(青年の乗っている、民族の守護神の名をもった)戦車のうちに運ばれていた」とも解することができ、その象徴的な意味はよくわからない。第13節は新共同訳では、第7章に組み入れられているが、「マハナイム」が軍隊の「野営地」という普通名詞なのか、あるいはそれが土地の固有名詞になったものかもわからない。

 

雅歌第六章 - 作雨作晴 https://is.gd/PhcDn8

 

 

 

 

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雅歌第六章

2009年01月31日 | 宗教・文化

 

神の呼びかけと忍耐にしめされた深い愛が歌われている。

雅歌第六章

女たちの合唱
1.   
どこへ行ったのか、あなたの愛しい人は。
女のなかでだれよりも美しい娘よ。
どこへ去ったのか、あなたの愛しい人は。
わたしたちもいっしょに探そう。

娘の歌
2.   
わたしの愛しい人は自分の園へ、
かぐわしい草の牧場へ降りて行きました。
羊の群を飼いに、園で百合の花を摘むために。

3.
わたしはわたしの愛しい人のもの、
わたしの愛しい人はわたしのもの、
百合の花咲く園で羊の群れの世話をしています。

青年の歌
4.
あなたは、ティルザの都のように美しく、
エルサレムのように麗しく、旗のようにわたしの胸をときめかせる。
わたしの恋しい人。

5.
あなたの眼でわたしを見つめないで。
わたしを戸惑わせるから。
あなたの髪はギレアデの丘を駆け下りる山羊の群のようにきらめく。

6.
あなたの歯は洗い場から追い立てられて駆け上がってくる雌羊のよう。
みんな双組にならんで失われたものはない。

7.
ベールに透かされたあなたの頬は、ザクロの実のよう。

8.
六十人のお妃と八十人の側女、乙女は数が知れぬほどいる。

9.
わたしの鳩は彼女ひとり。わたしには清らかな人。
その母のただ独りの娘。産みの親にはかけがえもない。
彼女を見る娘たちは幸せな人と言い、
お妃と側女たちも彼女をほめる。


女たちの合唱
10.
夜明けのように美しく見つめられ、
白い月の光のように清らかで、
太陽の輝きのように胸をときめかせる娘はだれ。

娘の歌
11.
流れの畔の花の実を見るために、
わたしはクルミの木の園に降りて行きました。
ブドウの蕾は開いたか、ザクロの花は咲いたか。

12.
そこで、わたしの気も付かぬうちに、
あの人はわたしの乳房を奪いました。
戦車でわたしを運び去るように。


13.
A 女たちの合唱

帰っておいで、帰っておいで、シュラムの娘。
帰っておいで、帰っておいで、あなた姿がよく見えるように。

B 娘の歌

マハナイムの踊りに人が見入るように、あなたたちはなぜシュラムの娘に見とれるの。


 

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ヨハネ書第一章第九節~第十四節註解

2009年01月08日 | 宗教・文化

 

ヨハネ書第一章第9節~第14節

9    まことの光があった。この光は世に現れて、すべての人を照らしだす。

10   彼は世にあった。世は彼によって造られたが、世は彼がわからなかった.

11   彼は自分のところに来たのに、民は彼を受け入れなかった。

12   しかし、彼を受け入れた者、彼の名によって信じた者に、彼は神の子となる力を与えた。

13   血によらず、肉の欲にもよらず、また人の欲にもよらず、その人々は神から生まれた。

14  そして、言は肉となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちは彼の栄 光を見た。父の独り子としての栄光は、恵みと真理に満ちていた。

ヨハネ書第一章第9節~第14節註解

ヨハネ書の第一章は旧約聖書の創世記冒頭を踏まえて書かれている。創世記では「はじめに神は天と地を造られた」とあるが、このヨハネ書では「はじめに言(ロゴス)があった。言は神と共にあった。言は神であった。言はこの世の存在する前からあり、言は神であり、言ははじめには神と共にあり、すべてのものが言(ロゴス)に由って神に造られた。被造物のなかで言によって造られなかったものは一つとしてなかった」といわれている。そして、「彼(言)の中に命があり、命は人間を照らす光である」(第4節)

ここに、「光」「言」「命」などの重要かつ根本的な概念が出てくる。ヨハネ書がほかの共観福音書と異なって、抽象的なギリシャ哲学の雰囲気を感じさせるのも、このような叙述の仕方にあるのだと思う。

この「言(ことば)」の原語「ho  logos」には定冠詞がついており、そこには論理、思想、理性、概念などの意味も含まれていると考えられる。それと同時にここでは、「言(ことば)」は「神」に等しいものに見なされている。そして、この「言(ho  logos)」の中に命があり、命は人間の光である。これがヨハネ書の世界観である。光も言も命もおなじ一つのものの属性である。(第4節)

そして、この光について証しをするためにヨハネが神より遣わされる。しかし、ヨハネは光そのものではないという。光に「真」と「偽り」があるのだろうか。ここで「まこと」というのは、本物と偽物において「本当の」というくらいの意味である。おなじ金色でも、本物の金とメッキの金のちがいのようなものだろうか。哲学的な用語でいえば、光の「概念」であり、光そのものである。(第8節)

ヨハネ福音書の記者は、ここで「まことの光」としてのイエス・キリストをすでに前提しており、彼がヨハネと比較されて述べられている。そして、この「まことの光」がこの「世」に来てすべての人を照らすと言う。照らすと言うことには、当然に闇の存在が前提されており、闇においては物事を識別できないということであり、光の存在によって、それに照らされて、わたしたちは物事の美醜や善悪などを明らかに認めることができるようになる。(第9節)

新共同訳の第10節では、「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった」と訳されているけれども、この個所には「言(ho  logos)」そのものではなく、代名詞の「彼=同一物(autos)」が使われている。だから、この世に来たのは、「言」であり「光」でありかつ「命」というものの全体をあわせもった「彼=イエス・キリスト」が、この世にすでに現れて来たことが示されている。

また、旧約聖書においては、全世界を創造したのは主なる神であるが、この新約のヨハネ書では、言が神と等しいものとされているから、この世もまた「言」によって造られたとも言う。だから彼(言)がこの世に現れ来るということは、ご自分のところに、自分のものであり自分の民のところに来ることになるが、彼のものである民は彼のことを認めようとはしなかった。「認めなかった」というのは、知らなかった、理解しなかったという意味もある。だから、受け入れることもできなかった。(第10節、第11節)

しかし、何人かは理解し受け入れ、その名を信じて、彼を手に入れた人もいた。その名というのは、命であり言であり、まことの光でもある方の名、すなわちイエスという名前である。彼(言)は、その人たちに神の子となる権利、資格をお与えになった。(第12節)

その人たちは、血筋に由ってではなく、身体の欲に由ってでもなく、人間の欲望に由ってもなく、つまり、わたしたちが結婚して子供をもうけるようなやり方ではない仕方で、神によって産み出される。だからその父は肉体の父ではなく、神が父ということである。言(ho  logos)を受け入れ、その名を信じることに由って、神を父として持つことになる。(第13節)

言(ho  logos)が人間の身体のかたちをとり、わたしたちの間にお住まいになった。その方の栄光を見た。彼(言が身体となってこの世に現れた方)は、愛と真理に充ち満ちた父のすなわち神の傍らにあって、その独り子として光輝いている姿をわたしたちは見た。光り輝く、栄光に満ちるというのは究極の価値を持つもの、崇拝の対象となる至高の存在についての比喩的な形容である。
(第14節)

 

 

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虚無と永遠

2008年12月21日 | 宗教・文化

虚無と永遠

ダイコンやニンジンの種を蒔いたのは、日記によれば九月十日前後のことだから、三ヶ月程度で収穫できるまでにすでに立派に生育していることになる。先々週ぐらいから大きくなったダイコンやニンジンを刈り取って、煮たりみそ汁に入れたりしている。柔らかくて美味しい。また、生姜も根を掘りだしてみると大きく生長していた。

ただ、最近はサルが出没して食い荒らし始めているようで、その対策として早めに収穫して、残りは地中に埋め、必要に応じて掘り出すことにした。ダイコンの葉などは始末に困るほどある。その一部を持ち帰って、生姜と一緒に刻んでそれにいりこを入れて炒めると、ご飯に美味しい惣菜になる。

そんな食事を採りながらも思うことは、いずれにしても私たち現代人は、米や魚、肉などの食料品や、また電気やガスなどの燃料、そのほか住宅や家具、それからこのインターネットに使うパソコンなども含めて、完全な自給自足によって生活を営むことはもはや出来ないということである。すでに分業と交換の貨幣経済の中に完全に組み込まれている。

そうした結果、実際に何らの生産的な労働に従事することがなくとも、石油やダイズ、トウモロコシなどの商品投機や株式投資などによって巨額の収益を上げることのできる経済構造になっている。今のところ問題になっている金融経済の危機的状況も元はといえば、アメリカで放任されたサブプライムローンに端を発している。ノーベル賞級の経済学者たちも参加して、その金融工学的な知識を活用しローンを証券化するなどして、投機家が利益の極大化をはかったものである。しかし、それも住宅価格が天井を打つことによって破綻する。

こうした顛末でわかることは、すでに社会主義経済でも明らかになったように、人間の理性もけっきょくはみずからの欲望さえも統制することができないということである。今回の経済恐慌も、宗教的にいえば、人間の腐敗と傲慢に対する神の裁きともいえる。人間的な知識は絶対的ではなく有限であるゆえに根本的に虚しい。

そうした知識の虚しさもさることながら、さらにその根本にあるのは、人間の存在自体の有限性ということである。その生涯の時間も七十年か八十年、どんなに長くとも百年を超えることはない。

それを明確に自覚し始めるのは、自我が意識として目覚める青年時代である。その頃に、みずからの人生の有限を自覚するようになるとともに、その意義や目的について問い始める。

その頃に私が惹かれて読みふけったのは聖書で、とくにその中でも「詩編」と「伝道の書」だった。それ以来私の思考の底流にその思想がいつもある。そして、人の死や時代の転変などの折に触れて表面に出てくる。

「伝道の書」のテーマは人間や世界の虚しさである。仏教の般若心経にも「色即是空、空即是色」と訳されているような虚無観にも通じるところがある。ただ「伝道の書」のそれが異なっている所は、そうした虚無感にあっても、なお「神を畏れ、その戒めを守れ」とその最終章に戒めているように、神の存在を否定するニヒリズムには立ってはいないことである。

聖書の中にも人間や世界のはかなさを語っている個所は少なくない。詩編第九十篇のモーゼの歌も、第九十二篇の安息日の歌にしてもそうである。しかし、そこには空無の虚しさとともに、それを乗り越える永遠の巖として存在する神に対する賛美が歌われている。

実際に人はこの世界の空無のなかで、かってアウグスチヌスが語ったように、「人は神を見出すまでは何ものによっても満たされることはない」だろう。聖書のなかにも「神を探し求めよ」と命じられている。そして「伝道の書」の中にも、最終章の第十二章に、「汝の若き日に造り主を記憶せよ。悪しき日の年老いて何の楽しみもないと言う前に」と青年に対して忠告している。

この個所は私も青年時代から何度も読んで知っている。ただ、青年の頃には、異性をはじめとして気を引き奪われる多くの事柄があって、人生の虚しさを痛切に自覚するということも、老年期ほどにはその機会は多くはない。

また、存在として有限であるものは単に人間のみに留まらない。私たちの生存の基盤である地球や太陽系そのものも永遠ではないことはわかっている。本来、永遠というものは、時間や空間などの次元とは異なったものである。そして、人間はこの永遠を見出すまでは心は精神は安らわないものである。だから私たちも、たとえこの世界と係わらざるをえないとしても、せいぜい百年足らずの間にしか係わることのできない、このはかない世事に埋没して、永遠のことを完全に忘却してしまわないことだと思う。私たちの生存の期間は一瞬で、私たちの死後の時間の方が永久だからである。

永遠とは 「その一点一画が無くなるより、天や地の消える方がやさしい」 といわれるモーゼの律法の存在であり(ルカ書16:17)、永遠の命とは「唯一の神を知ることと神に遣わされたイエス・キリストを知ること」(ヨハネ書17:3)にある。永遠とは、時間や空間にかかわることではない。

 

 

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