久しぶりに大原野神社まで足を延ばした。東海道自然歩道は散歩コースでいつも来るが、大原野神社や勝持寺に立ち寄ることはあまりない。それに最近は日の落ちるのも早くなって、日の光の明るい内に散策できる時間も短くなって、なおさら寄り道する気にならないでいた。
それでも、ここしばらく秋晴れの美しい日が続いて、それに先日に西行について書いたこともあったせいか、大原野神社の方に向かってみようと思った。
洛西高校近くの並木に、きれいな紅葉が目に付くようになり、青空を背景に春の花におとらない色彩をみせている。ただ植物についての知識に詳しくない私は、その樹木の名を指定することができない。
神社脇の駐車場に自転車をおいて、歩いて境内に向かった。時期としてまだ紅葉の盛りに遠いのはわかっていた。紅葉を楽しみたければ、もう一度来る必要がある。帽子を脱いで、神社の氏神に敬意を表す。ここで祈りを捧げる人には、氏神はどのような姿の神だったのだろうと思う。神話や伝統から疎遠な世界に育った自分には想像もできない。
この大原野神社は、前に在原業平について書いた(老いらくの恋)ときにも触れたように、当時権勢を伸ばし始めていた藤原氏が、延暦三年(784年)奈良から長岡京に遷都したときに、藤原氏の氏神である奈良の春日野大社を分霊して建てた神社である。だから、平安京の家屋敷の基礎もまだ定かでないときに、木肌も朱塗りもまだ新しかったに違いないこの神社のどこかで、業平も藤原氏の高子も、共に時間を過ごしたことがあったはずである。
清和天皇が産湯に使ったとされる瀬和井(せがい)という井戸も残されている。大伴家持も紀貫之らもこの井戸を訪ねて歌を詠んでいる。業平が恋焦がれた藤原高子は、この清和天皇の女御に上って手の届かぬ人となった。今境内を歩いていても、神社の建築などに往時の面影を見ることはできるのだろうけれども、千二百年という歳月が、その昔の姿をどのように変えたのか、タイムマシンでもさかのぼれない以上は確かめようはない。ただ正面入り口の薬医門の左脇に垂らされている悠仁親王殿下誕生の祝い幕が、歳月の隔たりを実感させるばかりだ。
西行にゆかりの深い勝持寺も神社の隣にある。私が着いたときには、拝観の時間はすでに過ぎていた。いつも車で来ることが多かったので、これまで駐車場から歩いて寺の門戸に向かっていたので気がつかなかったのだけれども、仁王門があるとは思わなかった。この日は自転車だったので、仁王門の石段下に自転車を立てかけて、門をくぐって参道を上っていった。おそらく、西行たちの時代にはこの参道を辿って寺に入ったのだろう。
ただ、この仁王門と、その両脇に並び立っている仁王像の傷みの激しいのを見て驚いた。保存のためにほとんど何の配慮もなされているようにも思えなかった。行政や管理者は一体どういうつもりなのだろう。京都市や京都府の文化財課に尋ねてみるべきかと思った。
そして、もう一つ残念だったことは、勝持寺にいたる参道が砂利道ではなくて、コンクリートで塗り固められていたことだった。たしかに、管理者には保全しやすくなるだろうが、参道の両脇の竹林にはあまりに不似合だった。
小塩山勝持寺、通称花の寺は白鳳八年(680年)に役小角の創建になるものであり、境内の鐘楼脇の桜は、西行法師手植えの、ゆかりのある桜だともいう。
こうした、歴史的な由来の深い伽藍は、その周辺の光景もふくめて貴重な文化遺産である。だから、できるかぎり往時を偲ばせるように、そのまま姿を変えずに保存されるべきものだと思う。
それなのに、残念なことに、どういう料簡か現代日本人は、千三百年も前の創建になる寺社の参道を、コンクリートで塗り固めたり、境内にプレハブの建物を建てても、何の違和感も抱かないようだ。現代日本人の感性と哲学、そして行政の問題だと思う。それが古人から問われていると思った。そうして貴重な過去の遺産が現代人の無責任によって破損されてゆく。美しい遺産はできうる限りそのままに後世に残し伝えてゆきたいものだ。久しぶりにこの寺を訪ねて思ったことだった。