作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

「改正」教育基本法の「愛国心」

2006年05月25日 | ニュース・現実評論

教育基本法の改正について、国会で論議が行われようとしている。その中で、愛国心が問題になっている。
愛国心とは、国民一人一人の個人にとって、家族や社会が、共同体や国家、民族が、要するに「国」が、自分たちの心と身体の拠りどころであり、大切な目的であると考えるような心のあり方である。何も、大げさに旗を振ったり、ことさらにがなりたてたりすることではない。そして、愛国心には本当の自由があるが、戦後日本の浅薄に理解され誤解された「自由と民主主義」は、個人と民族や国家との有機的なつながりを切ってしまった。

この愛国心は、法律家や政治家が作成した一篇の法律から、生まれたり作られたりするものなどではない。この国に新しく生まれ来る子供たちが、周りの家族や社会や民族や国家(制度)によって、大切に守られ愛され育まれていることを実感することによって、自然に生まれてくるものである。国民の間に相互扶助の精神が浸透することによって生まれてくる。

この愛国心が、たった一編の法律によって生まれ育つことはないし、まして強制して作ることのできるものではないことはいうまでもないことである。

現代日本人の愛国心の欠乏は、何も現行の教育基本法の欠陥によるものではない。政治家、公務員(官僚)、法律家、教師、宗教家など国民に対して指導的な地位にある者たちに、本当に同胞と国を愛する心が、愛国心がないからである。子供たちに「愛国心」を教育するなどというおこがましいことを考える前に、音頭を取る者たち自らがまず自分の胸に手を当てて見るべき問題だろう。


どこかの小学校で、通信簿の中に「愛国心」について評価する項目を設けていたらしいが、言うも愚かな行為である。自由の価値と人間の尊厳がどこにあるかを教師が全く理解していないことの証左である。これが現代の日本国民の現状なのだろうか。学校教育がこれほど普及し、そこで多くの知識や技術は教えられているが、教師たち自身に自由の価値が本当には理解されていないのである。残念ながら、これが戦後六十年たったわが国の民主主義の水準なのかも知れない。

この事実に見るように、まだ国民自身が自分たちの思想・信条等についての「自由の保証」に自信がもてない。漠然とした不安がある。だから、与党の改正案が示すように「愛国心を育てる」と言い切ることができない。そして「国を愛する態度を養う」などという笑うべき記述を、基本法の中に書き込んで恥じることもない。心や精神を養わずして、どうして「態度」が培われるのか。それとも「改正」教育基本法は偽善者を造るための法律か。いずれも国民の間に十分に「自由」を尊重する意識が確立しておらず、浸透もしていないからこういうことになる。


「愛国心を養う」といったことを、教育基本法に書き込んでも何の意味がないと思うが、仮に、百歩譲って、そうした文言を入れたとしても、愛国心を持たない人間が存在するのはやむをえない。善と悪を自由に選択する能力を持つのが人間である。善であれ悪であれ、その選択は完全に個人の自由に任せなければならない。人間はただその選択の結果に対してだけ責任を負うようにすべきなのである。通知簿で子供や生徒たちの愛国心の度合いを、一体誰がどのようにして測定するというのか。そんなことをすれば、教師に対するゴマすりか、面従腹背の偽善的な子供をせいぜい作るだけである。

たとい、教育基本法の中に、「愛国心を養う」という文言が入れられたとしても、愛国心のあり方については完全に個人の自由に任せるべきものである。仮に「愛国心」を持たない者が存在してもそれはしかたがない。思想や信条、信仰についてと同じように、そのあり方については一切の強制からは自由でなければならない。こうしたことは成熟した自由の意識を持つ国民にとっては自明のことである。

この自由についての自覚が国民の間に自明のものになっていないために、「国を愛する態度を養う」という偽善者を育成することを目的とするような条文を入れなくてはならなくなる。精神を、心を、内面を養わないで、どうして態度が養われるというのか。


北朝鮮に拉致された同胞を、自らの命を賭してでも、戦争という手段を用いても、取り返し解放しようと決意するのでもなく、また、年間に三万人に及ぶ同胞の自殺者の問題の解決に真剣に取り組むこともなく、また大衆の預金者にゼロ金利を強制しておきながら、その同胞から、三割を超える高金利と暴力的な取り立てを放置する国民自身の同情心のなさが、愛国心の欠乏をもたらすのである。「情けは他人のためならず」という。自業自得である。何億円もの賄賂を取って正義を損ない、自分と一部の特権層の利益のために、国民全体のための政策を歪める役人や政治家たちが、子供たちや国民から愛国心を干からびさせるのだ

 

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経財相「株安、日本経済が悪いわけでない」

2006年05月19日 | ニュース・現実評論
与謝野馨経済財政・金融担当相は、19日午前の閣議後記者会見で、18日に日経平均が1万6000円を一時下回るなど株価の下落傾向について、「米国の経済や長期金利(の利上げ打ち止めなど)に、欧州、日本の市場関係者が確たる見通しを持てないという状況が株価の不安定さを生んでいる。ただ、この問題は1カ月くらいで片づくと思っている」と指摘。「日本経済が悪いから株価が下がっているのではなく、長期金利、為替レートが落ち着くまで買い控えようという心理が投資家にある」と分析した。

 その上で、「(日本)経済は好調。ファンダメンタルズを考えれば、日本の株価が上昇してきた環境は変わっていない。海外に不安定要因があり、欧州の市場も反応している」と述べた。〔NQN〕  (10:49)

 

GDP実質1.9%成長・1―3月期年率、5期連続プラス

 内閣府が19日発表した1―3月期の国内総生産(GDP)速報値は、物価変動の影響を除いた実質で前期比0.5%増、年率換算で1.9%増となった。プラス成長は5・四半期連続。個人消費と設備投資が堅調に伸び、国内需要がけん引する景気回復の姿が確認された。物価の動きを示すデフレーターのマイナス幅もやや縮まり、デフレからの脱却に向けてさらに前進した格好だ。

 この結果、2005年度の実質成長率は3.0%、名目成長率は1.7%となった。実質成長率は1990年度(6.0%)以来、15年ぶりのの高い伸びで、4年連続のプラス成長だった。

 1―3月期の実質0.5%成長のうち、国内と海外の需要がどれだけ成長率に寄与したかをみると、内需が0.5%なのに対し外需は0.0%。成長率のほとんどを内需が占めた。名目GDPも前期比0.04%増(年率換算0.2%増)と2期続けてプラスだった。  (11:35)

日経平均、一時1万6000円割れ

 19日午前の東京株式市場で日経平均株価が続落し、一時1万6000円を下回った。取引時間中に1万6000円を割り込むのは前日から2日連続で、下げ幅は一時150円を超えた。前日の米国株式相場が下げ止まらず、外国人投資家などの売りが幅広い銘柄に出た。取引開始前に内閣府が発表した1―3月期の国内総生産(GDP)速報値が事前に予想されていた内容を上回ったが、好感する動きは限られた。

 日経平均の午前の終値は前日比95円80銭(0.6%)安の1万5991円38銭。東京証券取引所第一部の午前の売買代金は概算で1兆2320億円だった。  (11:15)

日経平均、下げ幅拡大

 19日前場中ごろの東京株式相場は軟調な展開。日経平均株価は下げ幅を拡大し、10時過ぎには1万5900円台半ばまで下落した。ナスダック総合株価指数が8日続落するなど米株相場の下げが止まらないため市場参加者の投資心理が悪化しており、1―3月期の実質国内総生産(GDP)が市場予想を上回る伸びとなったにもかかわらず、さえない展開となっている。機関投資家による大口売りの観測も出ており、日経平均の下げ幅は100円を上回っている。東証株価指数(TOPIX)も軟調。

 業種別TOPIXでは不動産業や建設業、保険業、倉庫運輸関連、銀行業など内需業種の下げが目立つ。一方、海運業や鉱業、石油石炭製品などが上昇している。

 10時現在の東証1部の売買代金は7673億円、売買高は5億2488万株。東証1部の値下がり銘柄数は1081、値上がりは487、変わらずは122だった。〔NQN〕  (10:18)

 

 note

今日のニュースで注目したのは、アメリカのGMのワゴナー会長が米議会指導者と会見した後に、円が過小評価されているとし、ドル90円が適切だと発言していることである。GMやフォードの経営の失敗を、政治問題に転化するこうしたアメリカの経営者のやり方はもちろん不公正である。フォードの経営の失敗は円安によって生じたものではない。米国民もそれくらいはわかっている。

また、道州制特区法案が閣議決定された。道州制の実現に向けて、いっそう進むことが望まれる。

なお日銀が引き続きゼロ金利政策を維持することを決めた。まだ日本経済の回復基調に水をさしてはいけないということなのだろうが、住宅、土地バブルも懸念され始めるようになるだろう。

しかし、一般消費者物価については、これほどに経済がグローバル化し、インドや中国、東南アジアその他の諸国との貿易関係が緊密化している以上、そんなに簡単にインフレ懸念が生じるとも思えない。

ここしばらくは、取引は様子見にとどめておくべきだろう。資金に余裕があれば、安値で底を打ったと思われる物件については買い入れを検討してもよいかもしれない。

先日小沢一郎民主党首と小泉首相の間で、党首討論が交わされた。小沢氏は教育問題を取り上げたが、図らずも小泉首相の教育に関する見識のなさが暴露された。小泉首相は思想的にそれほどに深い政治家ではない。

  <小泉首相は英雄か>

  <小泉首相の靖国神社参拝>

この党首討論にせよ政党助成金にせよ、小沢氏の肝いりで始まったものだが、企業の政治献金については、相変わらず放置されたままである。

確かに小沢氏はそれなりの政治家なのかも知れないが、本質的には角栄系譜の政治家であると思っている。基本的には小泉支持である。まだ、思想・能力ともに評価できる政治家はわが国にはいない。

金権政治とは無縁の自由民主主義者による政治を希望している。この点では、小泉・竹中改革を基本的に支持できるのは幸いである。

早く道州制を実現して、地方が主体的に政治をになってゆけるようにして行く必要がある。しかし、大阪市の関市長に見るように、現行の地方政治は、能力、モラルともに人材が枯渇している。もちろん、地方政治に責任がないから人材が育たないという面もある。横浜市や三重県のように優秀な首長を選んでいる自治体もあるから、一律にはいえないが、大阪のように、衆愚政治が病膏肓に入る事態になっては、治療も困難だ。これが、キリスト教倫理を背景に持たないわが国の、戦後情実民主主義政治の現状だといえる。

政権交代の随時実現できる政治を実現しなければならないが、そのためには、現在の民主党の政権担当能力を向上させる必要がある。もちろん、政治家だけを交代させても意味がなく、少なくとも、幹部クラス国家公務員もそれに伴って入れかえる必要があるのはいうまでもない。今回、小沢氏が党首に就任したことは悪くはなかったかも知れない。民主党内の若手政治家が、小沢氏の政治家としてのよい面を学んで成長することである。

 

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自転車紀行(1-2)洛西

2006年05月14日 | 日記・紀行

 

東海道自然歩道になっているこの辺りは、洛西を取り巻く西山に沿っており、この場所からは、はるか眼下に京都の街並みを一望できる。京都駅前に立っている京都タワーも小さく見える。

ここからは「花の寺」の名で知られる勝持寺も近い。花の寺と聞いて、いかにも俗受けのする観光向けのネーミングだと思っていた。しかし、そうではなかった。この寺で西行法師は出家したそうだ。彼は好きな歌人だったので、この偶然が嬉しかった。西行はこの寺に庵を結び、桜を植えていつくしんだという。その桜はやがて人々から西行桜と名づけられ、そこからこの寺は花の寺とも呼ばれるようになったという。それを知った時、私は自分の無知を恥じた。その桜の木が今でもあるのかどうか知らない。戻ってきてからまだ一度もこの寺を訪れていない。今年の桜の季節にも来なかった。この寺も小塩山もポンポン山もいつかまた訪れるときがあると思う。

少し肌寒いかと思い、少し厚めのジャンパーを着て出たのがあだになった。自転車を走らせると汗ばんでくる。北の方に行くと九号線から亀岡の方に出る。今日は南に走り、昔の田舎の面影をまだところどころに残している山里の、閑静な家並みの間をゆっくり走った。

 

少し坂を上って、女子大のグランドの近くに行くと、その一角に洒落た喫茶店があった。街中ではないから敷地も広く、入り口に至るまで、さまざまの花が並べられ売られていた。多分、花屋さんを兼ねていたのかもしれない。あるいは、花屋さんが喫茶店を兼ねていたのか。とにかく、のどかで落ち着いた感じのする喫茶店だった。どんな花が並べられていたのか思い出せない。それからさらに少し山間に入ったところの木陰などには鷺草が見られた。また、小さな崖の下には山ツツジなどもこっそりと咲いていた。


間もなく石作町に出る。この地は、竹取り物語のかぐや姫に求婚した五人の貴公子の一人、石作皇子のゆかりの地であると言う。この石作皇子は、インドにあった仏の御石の鉢を持ってくるように、かぐや姫から求められたのだった。石作皇子は今もそのユーモアで私たちを楽しませてくれる。確かに、この辺りは洛西ニュータウンができる前は広大な竹林に覆われた丘陵だったから、ここでかぐや姫が生まれてもおかしくはない。竹から生まれた「かぐや姫」を記念する祭りも町にはある。

 

ふたたび下り坂に入って少し走ると、業平ゆかりの寺、十輪寺の標識が立っている。今日はそちらの方には行かず、市街地に至る道の方へと、散輪ももうおしまいするつもりで走らせる。この辺りには大原野の畑が一帯に広がっている。まだもちろん、田植えは行われてはいなかったが、所々に稲の苗代が見られた。柔らかなビロード地の肌触りの絨毯のように、きれいな黄緑色をして風になびいている。畑のサヤエンドウも、スイトピーのような白い花をつけていた。農家の人たちが、観賞用に植えているのか、ヒナギクや大きな花弁を垂らしたショウブも(あやめやカキツバタとの識別が私にはできない)あちこちに見えた。

 

市街に近づいたとき、仕出し料亭「うお嘉」さんの駐車場に送迎用のマイクロバスが着いたばかりらしかった。ウグイス色の和服を着た仲居さんたちが、バスから降りてくる団体客を案内して信号の変わるのを待っていた。このあたりの料亭は筍料理が十八番である。

さらに市街地に入って、スーパーマーケットに近づいたとき、先日に買い忘れをしたことを思い出した。ついでに立ち寄って買って帰ろうと思った。途中に、サラリーマン風の男性に、「料理屋のうお嘉さんはこの道を行けばよいのですか」と尋ねられた。私は自転車を止め、来た道を振り返って指差しながら、「まっすぐ行けばいいですよ。でも歩くと相当ありますよ」と言った。さっきの団体客の一人が、マイクロバスに乗り遅れでもしたのだろうか。荷物も提げていたから気の毒になる。

 

その昔はこの辺りも多くが竹林だった。最近はずいぶんにたくさんに家が新築されて立ち並ぶようになった。しかし残念ながら、そこにかもし出される街並みの印象や雰囲気は、私にはとても気品があるとは思えない。私の価値観や美意識が今の時代には特殊なのだろうか。最近のこうした戸建て住宅の設計者や建築家の美的感覚はどうなっているのだろうと思いもする。もちろん素人の口出すことではないことはわかっているけれど。ただ、そうした風景をその眼に刻みこむ住民や子供たちの精神は、日常にどのような印象や影響を受けて育つだろうか。果たして優れた美意識がはぐくまれるだろうか。 


やがて鉄塔の立っている池の横に出た。この池は町の共同管理地になっている。その池の中のところどころに、黄色のアヤメが、キショウブと言うのだろうか、群生しているのが見えた。それを見て、やはり人間の造形は、とりわけ現代日本人のそれは昔の人以上に、自然の美しさにはまだ及びもつかないのだと思った。

(06/05/12)

 

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自転車紀行(1)洛西

2006年05月12日 | 日記・紀行

久しぶりに、自転車で散歩に出かけた。今日は一日曇り空で、少し肌寒いくらいだった。天気予報を調べても、終日曇り空らしいが、雨は降るようにはないので、気軽に夕方の散輪に出かけた。

とりあえず郵便局が閉まる前に、まず立ち寄ることにした。郵便局の前についたとき、郵便局員の青年が、ちょうど赤いポストから郵便袋を取り出し、その首をロープで括って集配の軽自動車の助手席に放り投げたところだった。その青年は車の後部に回って、運転席に戻ろうとしていた。

ちょと残念な気がしたが、仕方がない。それで自転車を止め置いて、郵便物をバックから取り出してポストに投げ入れようとしたところ、その青年は、助手席の窓を下げて、「まだ大丈夫ですよ」と言って、手を出してくれた。眉の濃い好青年だった。

それで、ポストに入れかけた封書を二通、ありがたくその青年に手渡すと、彼はちらっと宛名と差出人を確認してから、郵便袋に仕舞い込んだ。もし自分が若い女性ででもあったなら、ここから小さな恋愛ストーリィが始まるかもしれないのに。彼に軽く会釈してから、最後の客らしい一人が出てくるのと入れ替わりに自分は局舎に入った。

時間に余裕があれば、その場で書類を書き上げて提出してしまおうと、印鑑なども用意していったのだけれど、時間まぎわなって入ってきた客に、どこか郵便局員はきびしい表情のような気もしたので、書類だけ受け取って、家にもどってゆっくり書き上げることにした。

いつもなら散歩に出るときは、まず九号線に出て、それから洛西ニュータウンの方向に向かう。しかし、今日は、京大付属植物研究所の横手の道から、もう少し早く北に逸れて行った。すると、ちょうど回生病院に通じる道路に出た。この道をたどるのは、洛西の地に帰ってきてからは、多分初めてだと思う。この病院の前の坂道になった道路を少し登ってゆくと、竹林公園に通じている竹の径のコースに入る。久しぶりに、この道を辿ってゆくことにした。この地で長女が生まれたが、幼い間に別れざるを得なかったので、幼かった彼女とこの竹の資料館に一緒に来たのも数えるほどでしかない。いずれにせよ、遠い昔のことになってしまった。

時間は五時を回ったか回らないかの時間のはずだが、最近はすっかり日足も延びて、まだ明るい。竹林の中に入ってしまうと、人影は全くない。少し進んでゆくと間もなく、大きな円筒型の府の水道配水施設が見える。周囲の壁には竹の木のデザインが施されている。

その前を過ぎると間もなく四叉路に出くわす。左の方に行くと、駅の方に向かう。それで反対側の右に折れて、竹の資料館のある道を行った。人影はやはりない。堀り残された竹の子があっちこちに生長して、熊の毛を生やしたような先のとがった杭が、方々に地面に打たれているように見える。竹林の高い梢の方からは、時々、ウグイスの鳴き声が聞こえてくる。人影はない。清小納言は五月のホトトギスは声が醜いと言ったが、このウグイスは、それほど声も濁ってはいない。まだ十分に澄んでいてきれいだ。

ちょうど、竹の資料館に近づいたとき、静かな竹林には不釣合いなほど大きなボリュームで閉館時間を知らせる放送が流れてきた。この頃に、五時になったようだ。この竹の資料館の正面入り口に差し掛かったころ、鎖に閉ざされた駐車場の中で中学生が三人、青いジャージー姿でふざけあったりしながら帰途につこうとしていた。途中で路肩に三台ほど自動車が駐車しているのが見えた。GYAOなどのサイトで知られている新興企業のUSENの営業マンの車らしかった。中の運転席に人がいた。この会社は最近あのライブドアの買収に名乗りをあげことでも知られている。

新緑も美しいが、今はまだ花の季節である。途中に家々の軒並みや公園や畑や山の中に、実に色とりどりの花々が咲いていた。そんな花々の形、色彩を見て、それから、竹林を飛び交う小さな名も知らぬ小鳥やウグイスの鳴き声を聴いていると、大自然の造形の妙に感心せざるを得ない。そこに神を感じるか否かはとにかく、その創造の美には本当に驚く。

特に今の季節では、家々の軒先や公園を飾っている花では、やはりツツジが目立つ。白い花と赤い花がきれいなコントラストを描いている。春らしく黄や黒紫のパンジーもよく植えられていた。そんな軒先の花を眺めながら、境谷の町並みを抜け、洛西高校の横手の新しい歩道から春日町の通りに出た。

この辺りは全く初めてのような気がする。まだまだ、新しい発見のできる場所は多い。これからの残された時間で、この地をどれほど散策できるかは分からない。しかし、でき得ることなら生涯の間、何度でも、定点観測のように、繰り返しこの小さな土地の「紀行文」を書き貯めてゆきたいと思っている。

やがて古い町並みの中の細い通りに入ると、赤茶色の築地塀があり、それを辿ってゆくと、西迎寺と書かれた小さな石碑が目に付いた。この辺りも、このお寺も全くはじめてだった。付近一帯がどこか懐かしい気がする。そして、この辺りの多くの家々は、それぞれ小さな畑を持っていて、木立や畑の間にひっそりと家が建っているという風情である。畑にはトマトや糸瓜の苗が糸に吊るされて植わっていたりする。こうした光景は私にとっては理想郷に近い。以前もこんな風景に出会ったとき、いつか自分もできれば、こんなところで暮らしたいと思ったものだ。

この辺りからは大原野神社は近いはずだったが探さなかった。自転車のハンドルのまま、気の向くままに進む。ただ、大原野の方へは向かおうと思った。

一度、東京の生活から帰ってきたとき、かって、そこで飲んだり食べたり過ごした駅前の小さな中華料理店や商店街が、何か天国のように感じられた記憶もある。何も大きな都市だけが価値があるわけではない。小さな町に、昔の人が、長い歳月を経たのちも、昔のままに暮らしている。天国を何も天空の宇宙に捜し求めるまでもない。

そんなことを考えながら、しばらく走っていると、道端に、東海道自然歩道の表示板に出くわした。

 

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遊女の救い

2006年05月09日 | 芸術・文化

 

ようやく連休が終わった。桂川の土手をバイクで走っていても、美しい新緑が眼に沁み入る。新緑のきれいな季節になった。

先日、たまたま日経新聞を読んでいたら、その文化面に、たぶん五月三日の記事だったと思うけれど、河鍋暁斎の「地獄太夫と一休」の絵について、どこかの学芸員による解説コラムが掲載されていた。

一休禅師は室町時代の僧侶であるが、河鍋暁斎は幕末から明治にかけての画家である。江戸、明治期の画家が、室町の一休宗純と遊女の地獄太夫を題材に絵を描いている。

そのコラムの解説によると、地獄太夫という女性は、もともと高貴な家の──武家らしい──生まれであったが、悲運にも泉州堺の遊郭に身を落とすことになった。誘拐され、身代金代わりに売られたとも言う。江戸時代のみならず先の戦前までは、日本には遊郭は存在したし、戦争ではそうした女性は慰安婦と呼ばれたりもしていた。

太平洋戦争後、日本から少なくとも公娼制が廃止された。もし、それが敗戦によるものとすれば、それだけの価値はある。もちろん現在においても、実質的な「遊郭」は、今もその名前だけを変えて存在しつづけているけれども。

遊女という「職業」は、人類の歴史と歩みを伴にしている。聖書の福音書の中にも、姦通を犯して石打の刑にされかかった女が救われた話や(ヨハネ第八章)、イエスの足を涙と髪で拭った罪深い女性の話が出てくる。(ルカ第八章)

遊女の境遇は「苦界」とも「苦海」とも呼ばれたりする。そして、女性がそうした世界に身を沈めるのは、多くの場合「お金」のためである。貧困のためであったり、借金を身に背負ってそうした世界に足を踏み入れる場合も多いのだろうと思う。ドストエフスキーの小説『罪と罰』のソーニャもそうした女性の一人だった。

今、サラ金業者のアイフルがその強引な取立てのために、金融庁から業務停止の処分を食らっている。聖書の中では、すでに数千年前にモーゼは、同胞からは利息を取ってはならないと命じている(レビ記第二十五章、申命記第二十三章)。同国人から暴利と高利を貪る現代日本人とどちらが品格が高いか、藤原正彦氏に聞いてみたいものだ。サラ金や暴力金融の取立てから、売春の世界に余儀なく落ちる女性も少なくないのではないか。10%以上の金利は法律で規制すべきだ。それが悲劇をいくらかでも減らすことになる。まともな政治家であれば、そのために行動すべきである。サラ金から政治献金を受けて、高金利を代弁するサラ金の走狗、あこぎな政治屋でないかぎり。

一休和尚となじみになった地獄太夫も、自らを地獄と名乗ることによって、彼女自身の罪を担おうとした。一休はそうした彼女を、「五尺の身体を売って衆生の煩悩を安んじる汝は邪禅賊僧にまさる」と言って慰めたそうだ。しかし、一休は現実に彼女を解放することはできなかった。そんな言葉だけの慰めが何になる。

遊女の隣にあって、一休和尚が骸骨の上で踊っている姿は、すべての人間の真実の姿である。骸骨が、肉と皮を着て、酒を食らい宴会で踊っている。仏教ではこんな人間界を娑婆とも呼んでいる。

 

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