作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

原子力空母ジョージ・ワシントン号の横須賀米軍基地寄港

2008年09月26日 | ニュース・現実評論

 

原子力空母ジョージ・ワシントン号の横須賀米軍基地寄港

航空母艦ジョージ・ワシントン2008年9月25日横須賀入港

航空母艦ジョージ・ワシントン


アメリカ海軍の原子力航空母艦ジョージ・ワシントン号が25日の朝、神奈川県の米軍横須賀基地に入港したことが報じられていた。今年の5月に乗組員のたばこの火の不始末?による火災事故のために、一月以上も寄港が遅れたとのことである。

例によって、労働組合や市民団体が、この空母の入港に反対して気勢を挙げていた。放射能の汚染漏れ事故などを恐れてのことであるが、そもそも入港反対派は、日米安保条約それ自体に反対している。

北東アジアの情勢は動揺を深めつつある。北京オリンピック後、上海万博後の中国国内の動向、金正日の健康悪化による北朝鮮の不安定化、それぞれの国で国内矛盾が深刻化しつつある。中国はその海軍力をとみに強めて、東シナ海から太平洋への進出と覇権を目指している。最近も日本の領海内に海上自衛隊の座視するのを尻目に中国海軍の潜水艦は遊弋出没している。

また、アメリカのテロ指定国家解除の延期に業を煮やした北朝鮮は、IEAによる核施設の封印と監視装置を取り外した。中国に近い西部海岸沿いに新たなミサイル発射台が作られているともいう。その矛先は日本である。

今回の空母ジョージ・ワシントンの寄港は、動揺を深める北東アジアの情勢下に、中国や北朝鮮さらにロシアなどに対して、アメリカが日米安保条約にもとづいて、その軍事力の存在を示して抑止効果を狙ったものである。

軍事力の均衡が唯一の平和の条件であるという現実の国際関係の中で、自国の軍事力の放棄をうたった日本国憲法による不備と空白を埋めるためには、安全保障条約にもとづくアメリカの軍事力に依拠するしかないのである。そして、このことは、GHQの対日占領政策の根本目的でもあった。

歴史にみるように、諸国家は相互に排他的であり、つねに対立の生じる必然性におかれている。そうした現実にあって、日本国民が自国の独立の保証を自国の軍備に求めるという独立国としての当然の条件を放棄するとき、日本国はその空白を埋める代償として、アメリカに軍事力の駐留と存在を求めざるをえない。そして、この現実こそが日本国の対米従属と半植民地化の傾向の根源になっている。

日本国憲法の軍事力の放棄の規定そのものが、日本の対アメリカの従属とその半植民地化を必然的な帰結としてもたらしている。それにも関わらず、この現実を現行日本国憲法の擁護論者たちは見ようとせず、自らの自己矛盾を自覚することもない。

安全を他国に依存するという豚の安楽とモラルの退廃から抜け出して、独立国としての自由と主権を日本国民が独自の軍事力に求めて行くことを悲願とするなら、日本国民は国際関係の中で諸国家の間に存在する緊張と不安の中に身を置くことを覚悟せざるをえない。それは自由と独立の代償でもある。

太平洋戦争の敗北という特殊な状況下で制定された現行日本国憲法も、以来半世紀を過ぎ、その間にGNPで世界第二位を占めるなど、国際環境も国内の政治と経済の体制も大きく変化している。そして、いずれ中国海軍とアメリカ海軍が太平洋を支配し利権を分けあおうとする中で、日本が自由と主権を守ろうとするとき、現在の日本のような「経済大国」がいつまでも軍事的、政治的弱小国であり続けることはできない。それは侵略戦争を絶対的に否定する立場とも矛盾するものではない。また日本が完全な民主主義国として世界から認知されるとき、自由と主権の独立を追求するための日本の軍事力を否定する民主主義国はないはずである。

 

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国家社会の改造の仕方(1)―――麻生新内閣を評す

2008年09月25日 | ニュース・現実評論

 

国家社会の改造の仕方(1)―――麻生新内閣を評す

 

衆院選、11月2日に投開票…首相意向(読売新聞) - goo ニュース

きのう9月24日、麻生太郎内閣が船出した。この三年間に三つの内閣が入れ替わった。それだけ日本国のおかれている状況が国内外ともに多事多難であるということなのだろう。きのうの麻生太郎氏の総理大臣の就任記者会見では、国際、外交問題はとくに深く触れることはなかったけれども、国内問題については、現在の国民のおかれている状況について「景気への不安、国民生活への不満、政治への不信」というようにまとめておられた。的確に認識されているようだった。そして、「明るく強い国」にすることを、ご自身の使命と心がけておられるようである。

完全で理想的な国家社会というのは、イデーの世界に、概念の世界にしか存在せず、いつも現実においては理想的な国家社会というものはありえない。それを現実と取り違えるのは、ドンキホーテなどの妄想家、空想家でしかないだろう。私たちの乗り込んでいる宇宙船地球号、ノアの箱船は、時間の経過とともに、いつもほころびや破損を生じ、内在的に矛盾が発生してくる。つねに応急処置をして行かなければならない。そして、単なる応急処置では間に合わないとき、たとえば、わが国では明治維新や太平洋戦争の敗北といった事態に立ち至ったとき、その矛盾は小手先で対応できるものではなく、根本的な治療が、革命的な変革が必要とされるということである。

果たして、今日現在の状況はどうか。先の記者会見で、麻生太郎新首相が述べたように「景気への不安、国民生活に対する不満、政治への不信」があり、それはわずか三年の間に、三つの政権が入れ替わり、そのいずれも、国家行政のトップである首相の突然の辞任によるということが、その事態の困難さ、深刻さを示している。

年金、医療行政は破綻に近く、官僚には能力も清貧さも失われ、教育は崩壊して子供の学力は低下し、犯罪は凶悪化しつつある。消費者も生産者も役人も国民のモラルは失墜し、偽装偽造問題が日常的に蔓延している。緊急を要する国際問題にも的確に対応しうる能力を失っている。その象徴が、首相の突然の職務放棄である。

果たして、良識ある国民はこのような事態に立ち至って途方に暮れているようにも思える。その大多数は、市民として日常の生活に忙しく、私たちの信頼を託してせっかく送り出した政治家たちの能力は低く、官僚や役人たちを使いこなせず、役人たちは国民の監視の行き届かないところで、彼らの好きなように「行政」を行っている。国民の大多数の希望するような政治や行政をなかなか実行してくれない。

だからといって、市民国民は自衛隊を扇動してクーデターを起こすこともできなければ、チベットの市民のように市街地に出て、街頭で暴動に参加するつもりもないからである。

だから、せめてできることと言えば、現在の政治家という、まことに貧弱な手駒を使って戦いに、すなわち、少しでもよりましな政治と行政の実現にいどむしかない。そのとき、国民の手にする「政治家」という手駒が、飛車角やせめて金銀くらいの有能な手駒であれば、戦局も切り開きやすいが、たいていの場合は、歩か香車、桂馬クラスだから、なかなか勝負は上手に運ばないのである。

しかし、私たち国民は、たとえそんな無能で貧弱な手駒しかなくても、それを運命だと思って、現在に手にしうる手駒、政治家を使って戦いに、国家社会の改造に挑むしかない。私たち国民が議院内閣制という民主主義を選択するかぎり、そうした時間と手間と労力の掛かる方法で実行してゆくしかないのである。まことに民主主義とは手間暇のかかるものである。

そのときに私たち国民の行使できる武器といえば選挙権しかない。この繰り返される選挙を通じて、政治家たちをふるいに掛け、能力と倫理性においてより劣等な政治家は落選させ、より優秀な(残念ながらあくまで相対的にすぎない)政治家を当選させるという選挙のふるいに掛けて、政治家の取捨選択を行いながら、私たち国民の要求や希望を少しでも実行して行くしかない。現在もてるかぎりの政治家を手駒として使いながら、国家と社会の改造を実行してゆくしかないのだ。

そのとき、手駒として使えるのが歩や香車のような貧弱な持ち駒ばかりの政治家であっても、それを使う以外にないのである。そして、来るべき衆議院総選挙で私たち国民の使える手駒軍団としては、さしあたって現在のところ麻生太郎自民党と小沢一郎民主党しかない。私たち国民は、果たしていずれの手駒を使うべきか。

 

 

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麻生、小沢両氏の経済政策の骨子

2008年09月22日 | ニュース・現実評論

 

今日、自民党の総裁選で麻生太郎氏が自民党の総裁に選出された。これで、来るべき衆議院選挙は、麻生自民党と小沢民主党の戦いになる。私たち、いわゆる「無党派層」は両党の政策理念をよく研究、検証して、来るべき衆議院総選挙の判断の基準に考えたい。さらに詳しいマニフェストは、今後両党から提出されるだろうけれども、できるかぎり早く、両党の政策を研究し、それらに対する批判を始めた方が良いように思う。

ロイターの記者は「エコノミストは景気対策が争点と予想」という見出しを付けて、近視眼的な「景気対策」にしか注意を向けようとせず、記者にも「エコノミスト」にも、国家の理念から経済政策を論じる問題意識もその能力もないことを示している。

しかし、私たち国民は、マスコミやいわゆる識者任せにすることなく、もっと深い視点から現代日本の抱える問題点やその解決の方向を考えてゆきたいと思う。

[東京 22日 ロイター]ニュースから、

http://jp.reuters.com/article/topNews/idJPJAPAN-33878320080922

 

 ◎麻生、小沢両者の経済政策の骨格は以下の通り:

 <麻生氏「日本の底力─強くて明るい日本を作る」の基本政策(骨子)>

基本政策:

 1.経済政策

  ・政策減税・規制改革で日本の潜在力を活かす成長政策をとる。

  ・先端技術開発を一層加速する。

  ・財政再建路線を守りつつ、弾力的に対応する。

  ・歳出の徹底削減と景気回復を経て、未来を準備する税制を作る。

 2.社会保障

  ・安定的な年金財源確保のため国民的議論を進める。 

 3.教育改革

  ・教員が一人ひとりの子供と向き合う環境を作る。

 4.地域再生

  ・守るだけの農業から外で戦う農業に転換する。

  ・食料自給率を引き上げ、日本の優れた農産品を輸出する。

 5.外交

  ・日米同盟を強化しアジアの安定を求める。

  ・拉致問題の解決を目指す。

 6.持続可能な環境

  ・成長と両立する低炭素社会を目指す。

  ・わが国が持つ環境・エネルギー技術を活かし、新しい需要と雇用を生み出す。

政治改革:

 1.徹底的な行政改革を行い、政府のムダを失くす。国の出先機関を地方自治体に移し   二重行政をやめる。

 2.地方分権の推進。その先に道州制を目指す。

 3.与野党間協議を一層促進し、国会審議を効率化する。

 4.自民党が内閣を支える機能を強化。

 <小沢氏「新しい政権の基本政策案」(骨子)>

 1.国民が安定した生活を送れる仕組み

    ・「消えた年金記録」は国が総力を挙げて正しい記録に直し、被害を救済する

    ・全ての年金制度を一元化し、年金の基礎(最低保障)部分は全額税で賄う

    ・後期高齢者医療制度は廃止し、医療制度を一元化する

 2.安心して子育てと教育ができる仕組み

    ・子供1人当たり月額2万6000円の「子供手当て」を支給

    ・公立高校の授業料を無料化し、大学などの奨学金制度を拡充する

 3.まじめに働く人が報われる雇用の仕組み

    ・「働く貧困層」の解消に取り組む

    ・中小企業を財政的に支援したうえ、最低賃金の引き上げを進める

 4.農業社会を守り再生させる仕組み

    ・農業者への「個別所得補償制度」を創設し、農業経営を安定させる

    ・漁業についても、同様の所得補償制度の創設を検討する

    ・安全な食料を国内で安定供給し、食料自給率を高める

    ・地域の中小企業に対し税制面で研究開発や地域資源の活用を支援する

 5.国民の生活コストを安くする仕組み

    ・全国の高速道路を無料化し、物流コストを引き下げる

    ・ガソリン、軽油の暫定税率を廃止し、増税分を国民に還元する

 6.税金を役人から国民の手に取り戻す仕組み

    ・特殊法人、独立行政法人、特別会計は原則廃止する

    ・役人の天下りを全面的に禁止し、税気の無駄遣いを根絶する

 7.地域のことは地域で決める仕組み

    ・国の行政は国家の根幹に係わる分野に限定する

    ・国の補助金は全て廃止し、地方に自主財源として一括交付する

 8.国民自身が政治を行う仕組み

    ・国会審議は、国民の代表である国会議員だけで行う

    ・与党議員を100人以上、副大臣・政務官などとして政府の中に入れる

    ・政府を担う議員が政策・法案の立案、作成、策定を主導する 

 9.日本が地球のためにがんばる仕組み

    ・温室効果ガス排出量の半減に向け、省エネルギーなどを徹底する

    ・強固で対等な日米関係を築くとともに、アジア諸国と信頼関係を構築する

    ・国連の平和活動に積極的に参加すると同時に、国連改革を推進する 

 

 

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事故汚染米問題と日本の農業政策、あるいは霞ヶ関行政

2008年09月18日 | ニュース・現実評論

 

汚染米の早期売却を指示 農水省、各地方事務所に(共同通信) - goo ニュース

 

三笠フーズという会社が、中国から輸入した事故・汚染米を、さまざまな企業や卸会社に転売したことが問題になっている。本来なら、この「事故米」なるのものは、食料品として消費者に供給されてはならなかったものである。転売先には病院や学校まで含まれ、給食や誕生祝いの赤飯にまで供されたという。また、その他にも焼酎や和菓子の原材料にも使われたらしい。このような事件に見られる、太平洋戦争敗戦以降の日本国民の道徳的な退廃は、国民の間に国家意識のほとんど失われてしまっていることとも無関係ではない。国家意識なくして真正の倫理もないからである。

日本において毎回繰り返される商品偽装・偽造の問題の一つではある。人間から悪の問題を切り離すことはできないとは言え、現在の日本にはあまりにもこうした不正問題が多すぎるのではなかろうか。人間性悪説に立って、犯罪を誘発することのないような行政の制度設計が望まれる。これらの偽装偽造犯罪は、個々人が魔にとらわれて偶然に起こす犯罪であると言うよりも、むしろ、本質は行政の構造問題であると考えた方が正しいと思う。

こうした一連の問題の根本に政府及び行政官庁の公正さとその管理能力の問題が存在しているからである。公務員が国民や消費者のサイドに立って、すくなくとも生産者と消費者の間の中立な審判者として監督管理するのではなく、生産者の側に立つことによってみずから利得をはかり公正であるべきルールを歪めている。

汚染米のみならず、教育の汚染もある。大分県の教育委員会を舞台とする贈収賄汚職の問題で、昨日逮捕された、県教育委員会の教育審議監、富松哲博容疑者などがその端的な例である。もっとも公正であるべき教職員の人事選考で、能力ある合格水準に達した教職志望者を排除して、校長や教頭らの子息や姻戚関係者に縁故で下駄を履かせて不正に合格させる。富松某らの「教育審議監」はいったい何を「監査」していたというのか。この問題もまた政治家の二世議員を輩出する同じ文化的土壌の上に開いた醜く腐った花である。

こうした問題はいずれも、政府や行政の管理行政能力に大きく関係しているように思われる。以前にもたびたび取り上げられたC型肝炎訴訟問題で、厚生労働省の役人たちがフィブリノゲン製剤を投与されC型肝炎を発症した患者のリストを隠匿していたことがあった。また、防衛省の守屋武昌前防衛次官が出入りの業者からゴルフ接待を受けていた。その構図はまったく同じである。公務員や官僚が「国家」や「公共」などの普遍的な利益のために私心なく働くという意識はとっくに失われ、本来の「官僚」の精神もない。地位と職権を自らの私的利害のために歪めるという構図のみが残されている。

政治家や高級公務員の定数を減らし、これらを名誉職として、公的な「Noble Oblige」の高貴な公的精神をもった者だけが従事できるようにならなければだめで、現在のように、私益をむさぼる政治家や官僚を国民が馬鹿にするようでは、誰も幸福になれず世界の笑いものになるだけだ。

今回の事故米・汚染米の問題では、「三笠フーズ」のような地方の零細企業だけが人身御供にさせられている。例によってマスコミも表面的な「小さな悪事」のみを大げさに取りあげることによって、本当の真実から、「根底にある大悪」から国民の目を逸らす役割を担っている。マスコミの無力と退廃もともに問題にしなければならないのではないだろうか。

今回の事故米・汚染米の問題の背景には、日本の農業行政の根幹的な問題がからんでいる。それは国内農業の国際競争力の強化や改革に取り組もうとせず、じり貧に陥りつつある現在の農政を糊塗し続けているという自民党政府の無為無策という現状がある。

日本政府は国内農業の保護を図るために、農産物の貿易自由化に背を向けて、国内米作農家の保護を優先するという名目で――それは自民党の農林関係族議員や農協の利害と一致しているのだが――そのために、ウルグアイ・ラウンドの交渉で一定量の米の輸入を義務づけられることになった。その結果として、外国との自由な競争によることなく、汚染米や事故米の温床となるような米を中国やベトナムその他の国から一定の割合で輸入せざるをえなくなっている。そのことこそが諸悪の根元なのに、その問題の根幹にほとんど誰も触れようとせず、枝葉末節の「三笠フーズ」という中小企業のバッシングに終始している。

もちろん、この会社の不正行為を見逃せるものではないが、一方で農林水産省は、400社にのぼるこの事故・汚染米の転売先企業を公表することによって自らの作為不作為の監督責任をカモフラージュしようとしているように見える。そうした表面的で現象的な事柄に眼を奪われて、誰もこの問題の根幹にある中央集権的な農業政策、監督官庁体制の問題を論じようとしない。

現在の中央官庁が行っているような中央集権的な北海道から九州沖縄に至る細々とした輸出入業務などの管理監督実務は、地方政府に本来任せるようにすべきだろう。そして地方政府の間で消費者、国民のために競争を行わせて、中央官庁としてはそこに不正取引が行われていないか、安全衛生上に問題がないかなど管理監督業務に徹するだけでよいのである。

「市民社会」と「国家」というそれぞれの空間を峻別し、原則として「市民社会」の自治の問題は「地方政府」に任せ、「中央政府」は国防、治安、司法など、真に普遍的で根幹的な問題にのみ関与して、政治と行政における「地方」と「国家」の役割分担を(東京も「地方」にすぎない)合理的かつスリムなものにして行く必要がある。それにしても国家のビジョンを明確に語れる政治的な指導者がなぜ現れないか。連邦国家を建設するくらいの改革がなければ、現代日本の抱える根元的な矛盾は解決されない。

今日のような情報や交通の発達している時代に、北海道から九州まで各都道府県の細かな輸出入の実務にまで口を挟み、また、そこから官僚としての利得をかすめようとするから、問題が頻発して絶えることがないのである。

現在の官僚行政から不正と無理無駄の非合理を排除して行くためにも、道州制の構築を全国民の当面の主要課題として行く必要がある。現在の農業や教育行政のように、遠く離れた東京から、大阪や九州の農業や教育にまで細々と容喙することによって利権を手放そうとしないから問題が起きるのである。現在の中央官僚が握っている権限を大胆に地方に移譲して、地方政府の自治能力の養成訓練を始めなければならない。まともな地方政府の建設がいそがれるのである。

またそれは単に農林水産省のみにとどまらない。厚生労働省、文部科学省、国土交通省などすべての省庁について言えることである。今日の日本の統治行政機構は明らかに至るところ制度疲労を来している。

とはいうものの、その一方で将来の地方政府の母胎ともなるべき、現行の都道府県行政の実態といえばどうか。大分県の教育委員会の教育審議監、富松某容疑者や大阪府の第三セクターの赤字や20億円にのぼる裏金問題に見るように、現在の霞ヶ関中央政府以上に惨憺たるものである。

 

 

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過ぎゆく時は

2008年09月17日 | 日記・紀行

 

九月に入ったとはいえまだ月半ばである。残暑も強い。それでも道々のいたるところに秋の兆しが見て取れるようになった。すでに曼珠沙華の蕾や花をいくつか見た。コスモスの咲き始めているのも見た。ふたたびめぐり来る、時。去りゆく、時。

                                           最後のトマト

時間そのものは無限であるかもしれないが、私たちに与えられた時間には絶対的に初めと終わりがある。人類史上いまだ誰一人として例外はない。いや、おそらくただ一人あったかもしれないがわからない。

人間の時間の単位は、おそらく60年。しかし、バッタや蛙にはそれぞれ時間の尺度が異なるだろう。それは相対的なもので、どちらが長いとか短いということもできない。

初夏あれほど耳をざわめかせた蝉やカゲロウの寿命も短いけれど、かといって人間の寿命も、天体の寿命に比べれば、まばたきの一瞬にすぎない。

                                         

見事に成長した稲田を見る。背に子を負った小さなバッタの母子を見て憐れみを感じる。

                                    背丈より大きくなったイチジクの木                         もう、主がいなくてもひとりで育ってゆける。

685     今日ぞ知る    思い出でよと     ちぎりしは  

                      忘れんとての    情けなりけり   

西行もまた別れの恋のつらさを深く知った人であったことがわかる。

                                                  

ニュースで、歌手の日野てる子さんが肺がんで9日に亡くなられていたことを知った。63歳。高校でフォークダンスを踊った同級生に似ていた。忘れえぬ時の記憶のために。

日野てる子 - 道

                -1965 夏の日の思い出

 


 

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夏の終わり

2008年09月10日 | 日記・紀行

夏の終わり

畑に行く途中に見る稲畑も、いよいよ色づき始めた。真夏の頃にあの覚めるように青かった田んぼも、時間の移ろいに色づきはじめた。稲穂もいよいよ重そうに頭を垂れる。

とりわけ夏の八月は、終戦記念日や広島長崎での原爆投下を回顧する特別の月でもあった。また今年の夏は、お隣の中国で北京オリンピックが開催された。ちょうど四十四年前に日本が東京オリンピックを契機に高度経済成長に入り、国際経済の仲間入りを本格的に果たしていったように、これからは中国が政治的に経済的に台頭して来ることは紛れもない事実としてある。

開催日時を八という数字にこだわったり、共産党幹部の指示で歌唱少女とは別の女の子を舞台に立たせるなど、共産国家の裏にある、いかにも面子にこだわる権威主義の一面も見せた。開会式も閉会式もテレビで観戦したが、台頭する中国と、一方に国際的にも存在感を失いつつある日本と、いろいろ考えさせられることも多かった。すべて自業自得とはいえ国の衰退に立ち会うのは耐えられない。「すべての国民は自分にふさわしい政治しかもてない」というのは、西洋のことわざである.

この夏は思い出深い夏になったと思う。祭りの後のように、今はすっかり枯れ葉になったキュウリやトマトに夏の盛りの面影はもうない。生命力にあふれた暑い夏のことを思いながら、枯れ葉や枯れた茎を取り払う。

照りつける夏の陽の下で、十分に熟れたトマトをもいで口にしたときに舌に残った甘みの記憶。トマトのあの特有の香りもまだ消えてはいない。やがて夏の終わりとともに、生命の宴も終わりの準備を始める。

その一方で、遠く冬を見てニンジンや大根の種を蒔く。たった一ミリか二ミリにも足らない小さな種子から、あの大根やニンジンの姿が現れて来るはずである。すでに青い小さな可愛い芽生えがある。人間すらあの小さな卵子と精子から成長してくるのだから。自然の「概念」の神秘に打たれる。季節も宇宙も生命も全て回帰してゆく。八月の夏もすでに遠い。

理性のかけらもない現在の虚しい日本の政局主義政治を離れてしばし「芸術?」の世界に遊ぼう。欧米の歌曲にすら夏の情感を共鳴するようになってしまったのは、西洋に毒された私たちみじめな敗戦国戦後世代の宿命か。いったい誰に日本の夏の新しい物語を語れるか。

Looking For The Summer 

All summer long 

Chris Rea : On The Beach

Sweet Summer Day...

 

 

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永遠の今

2008年09月08日 | 宗教・文化

 

永遠の今


さきに福田首相が辞任を表明されたとき、ご自身のメルマガの中で、「太陽と海と伊勢神宮」に触れ、「永遠の今」について語られようとした。魑魅魍魎の徘徊する政界の、虚妄と有限の地獄図に嫌気がさした福田氏の心のなかに、このとき潜んでいた菩提心がふと思わず顔を出したのかもしれない。

「太陽も海も伊勢神宮」も、もちろんすべて「真に永遠なるもの」ではない。それらも所詮はその影にすぎない。真に永遠なるものはただ神のみだからである。というよりも、私たちは真に永遠であるものを神と呼ぶのである。だから、真に永遠であるものが存在しなければ、神も存在しない。

政治という有限と虚妄の世界に疲れ果てた福田氏(「公共」と「家政」)が思わず口にされた「永遠の今」とは、無限が有限に自己を啓示する瞬間であり、有限が無限を垣間見る瞬間の事である。無限と有限とがきびすを接する瞬間が「永遠の今」である。このとき、人間は神を見、神はご自身を人間に啓示する。芸術も哲学も、この永遠なるもの、神を見ようとする人間の切ない憧れを示す試みである。

そして、この永遠なるものに、神にささえられたときにはじめて、「有限なる今」も政治もまた空しいものでなくなる。

福田氏が総理大臣の職を辞するに当たって、「政策を立案する際、この「永遠の今」を想うことがありました」と言うとき、思わずこの「想う」という言葉をつかったのも、決して偶然ではない。福田氏は政治という虚しくはかない今に耐えきれず、思わずそれを「永遠」という堅い杭につなぎ留めようとしたのである。ただ、それが「永遠なるもの」の影にすぎなかったとしても。

 

 

 

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「公共」と「家政」

2008年09月04日 | ニュース・現実評論

 

「公共」と「家政」

 

例によって、エキサイトのブログのコメントでは「内容が多すぎますので、695文字以上減らした後、もう一度行ってください。」という表示が出てしまいました。そのために、まとめて投稿するために、新しい記事にしました。

hishikaiさんの「福田康夫氏」論をあなたのブログで読ませていただきました。ギリシャの都市国家に二つの空間を見られているのは面白い視点だと思いました。近現代においてはさしずめ「国家・市民社会・家族(個人)」すなわち、「普遍・特殊・個別」の三つの空間を見るのでしょう。

確かに、福田氏には、国家体制や外交・防衛などの理念に関する問題、普遍的な問題について語る問題意識も能力もなかったのだろうと思います。それは福田氏が前総理の安倍晋三氏と同じように、氏の政治家になった本当の動機が、「たまたま政治家の二世に生まれたこと」にあったからではないでしょうか。(二世議員がこれほど支配的な立法府というのは、その国家がまさしく、いまだ封建的な後進国家であることの証明でしかないのですが、日本国民はこの事実をまだ自覚していません。病膏肓に入るですw。いぇ私は自分の国のことは客観的に見ることができるんです。あなたとは違うんです。)

福田康夫氏はあなたのおっしゃるように、「女房」たちの「家政」に関わる、せいぜい「市民社会」の問題しか本質的に語ることができなかったようです。そして、それは単に福田康夫氏だけの問題ではなくて、多くの日本の「政治屋」の問題でもあるのだろうと思います。

実際にも衆議院に巣喰う400余名の「選良」の多くは、道路の利権や農業の助成金そして、中小企業の政策金融などの問題には極めて鼻が利きます。もちろん、それらが重要な問題ではないというのではありませんが、誤解を恐れずに言えば場合によればそれは「税金泥棒」という意味も持ちます。しかし、そうした分野がもともと得意な人たちには「地方政治」の「家政」に従事してもらい、国家の中枢である衆議院では、せいぜい現行の定数の半数以下の200人程度の、本当に「普遍的な」「公共」の問題を論じる意思と能力を持った国民の「選良」たちによって運営してもらえばよいのではないでしょうか。(参議院と衆議院の二院制やその定数問題も真剣に議論する段階に来ていると思います。)


国家の中枢であるべき衆議院の政治的能力の低下の、その原因をさらに突き詰めてゆけば、それは日本の文化の問題や、大学、大学院での政治や憲法教育の問題にまで行き着くと思います。このような「政治屋」しか日本の大学では生み育てられないのが現状です。以前にもあなたの「福田康夫氏」論のように、福田氏について論じたことがあります。日本の政治や政治家の現状を見る一つの視点としていただけるのではないでしょうか。

福田康夫氏は、辞任表明後は、「公共の世界」の問題を超えて、永遠の問題、形而上の問題を語って、政治家ならぬ「宗教家」、「哲学者」として退任されようとしておられるようです。

福田首相:メルマガ最終号は抽象的に「太陽と海と伊勢神宮」
http://mainichi.jp/select/wadai/news/20080904mog00m010001000c.html

福田康夫氏の総裁選不出馬──日本政治の体質

福田内閣メールマガジン(第46号 2008/09/04)

②20080908

 

 

 

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理想の国家、現実の国家

2008年09月02日 | 国家論

 

かって私のホームページの中で、私自身の国家像を明らかにするために、スイスの行政や経済の一端を調べたことがある。その後の研究はいっこうに進んではいないけれども、スイスや北欧諸国の政治経済、その統治行政機構、国家形態などは、今日混迷するわが国の進路を明らかにして行く上で必要であるし、また有益であると思う。引き続き、機会があれば最大限に実行して行きたい。また、もし同志の方がおられれば意見も交換できればと思っている。(統計データは2005年当時のまま。日本の一人あたり国民総生産の順位は現在は低下していると思う。    第18位ぐらいをうろついているのではないか)

理想の国家、現実の国家(2005/11/16)

 

最も理想的な国家とは、宗教的に表現すれば「神の国」のことである。もちろん、完全に理想的な国家はこの地上には存在しない。しかし、より理想に近い国家ならある。その多くは欧州の国である。とりわけスイス、フィンランド、アイスランド、など北欧、中欧のどちらかと言えば小国である。さしあたっては、これらの国家を理想としている。特にスイスである。スイスは、面積としては日本の377835k㎡ に対して41290k㎡であり、日本の人口が1億2767万人であるのに対して、スイスの人口はおよそ745万人。しかし、一人あたりの国民生産は世界第5位だという。日本は11位である。世界的に有名な大企業も多い。フィンランドは携帯電話会社で世界的なシェアーを誇るノキアやパソコンの基本ソフトのLINUXで知られている。国際経済競争力でも世界一位に評価されている。

これらの国は、いずれも国民一人当たりの国民総生産は先進国でも最高水準にあり、教育程度も高い。OECDの学習到達度評価でも高い水準にある。ふだんは新聞やテレビのトップニュースに報じられるようなことはほとんどないが、国民は平和で豊かな生活を享受している。世界にトップニュースで知られることは必ずしも幸福なことではない。むしろ、その存在などほとんど知られることがなくてもよいのだ。

これらの国の特徴についても、多くのWEBサイトで調べることができる。

外務省、スイス連邦の項        

スイスのページ  http://www1.linkclub.or.jp/~swiss/

スイス連邦(スイスれんぽう);ウィキペディア(Wikipedia)
 

「主な産業は、観光業、精密機械工業(時計、光学器械)、化学薬品工業、金融業(銀行、保険)。


国民1人あたりのGDP(国内総生産)は、$32,000で、世界第5位(2002年)。ちなみに、日本は、$ 28,700で、第11位。

通貨のスイスフランは、金よりも堅いと言われるほどの安定通貨。国内の物価および賃金水準は高く、国民の貯蓄高も、日本並みに高い。また、輸入関税率は低く、高級外車などが比較的安く購入できる。スイスの欧州連合 (EU) 加盟の賛否を問う国民投票において、国民の過半数が反対票を投じる重大な理由はここにある。すなわち、スイス国民にとってEU加盟は何らメリットが見出せないのである。」

スイスの国内産業には、観光や精密機械、化学薬品、金融保険などが多く、世界的な銀行や保険会社が多い。また、国内には、多くの国際機関が本拠地を置いている。

特に賞賛したいのは、多くの山岳地帯に非常に高度な技術に裏付けられた精密機械工業が存在することである。

わが国も、こうした美しい風土を背景とする観光産業と高度な産業技術の両立する国家社会を理想としたいものである。田中角栄の列島改造論以来、いたるところ荒廃してしまった国土を回復する必要がある。人心の荒廃と自然の荒廃には深い因果関係がある。

日本も山間部に森林を多く持っている。しかし、残念ながらそうした地帯の多くは過疎化が進み、荒廃こそ進んでも、そこに精密機械工業が盛んになるなど考えられていない。また誰も、どこの自治体もそうした一帯に超高度の情報技術産業を確立させようと発想するものもいない。せいぜい、信州の諏訪湖畔に精工舎やエプソンなどの工業がある程度である。

発想を転換して、そうした過疎地帯にも、IC産業やその他の最新ハイテク産業を定着させることができないものだろうか。

                                              

 

そして、スイスにはもっともオーソドクスな民主主義国家体制を学ぶことができると思う。わが国の民主主義は、太平洋戦争の敗北を契機として、アメリカ占領軍によってもたらされたために、多くの点でわが国の「民主主義」は奇形化している。そのために『戦後民主主義』などと揶揄され誤解されることになっている。特に、戦争放棄条項と一緒に民主主義が憲法に導入されたために、民主主義が、極めて観念的な狂信的平和主義と混同されるようになった。特にこの傾向は女性に強いようである。

 

日本の民主主義を本来の姿に戻すために、自衛隊を国防軍に改組し、また、国民の兵役の義務化を主張したい。スイスでは、これらは自明の国民的な義務である。

私にとって多くの理想的で模範的な国家は、残念ながら、そのほとんどが北欧や中欧などのヨーロッパ諸国でありキリスト教国である。その中には残念ながら、アジアの国家、仏教国やイスラム諸国は一国もない。イエスが「ただ神の国を求めよ」と言ったことと無関係ではないと思う。

こうした事実を見るとき、国家の繁栄と民度や文化の水準の高さは、結局、宗教であるキリスト教と関係があると推測せざるを得ない。しかし、日本人は、この創造と主体性の根源を手に入れようとはしない。だから、いつまでも神の国は近づかず、いつも模倣と追随に終わるのだ。

(2005.08.05 )

基本的な方向としては、現在の日本の中央集権的な官僚主権国家を、道州制を基盤とした地方分権型行政に変えてゆくこと、また、地方政府の行財政改革と人材の育成を進めながら、地方財政の中央依存から脱却してゆくこと、地方政府の質を高め、より大きな自治・裁量権を与えること、だろうと思う。問題は、この実現を妨げているのは何か、である。

 

 

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