小説や映画や演劇では、思想や哲学と異なって、感覚によって捉えられることのできる具体的なイメージを通じて、具体的な形象を通じて、何らかのメッセージを伝えようとする。このメッセージというのは、少なくとも何らかの思想であり抽象的なものであって、単に感覚だけではそれは捉えきれない。意識と言語をもって思考し、何らかの観念を捉えることのできる人間だけがこのメッセージを、思想を捉えることができる。
この作品では、フランチェスカとキンケードが出会ったのは一九六五年の夏で、場所はアメリカ中部のアイオワ州のマディソン郡ということになっている。映画もそのように舞台が設定される。こうした具体的な舞台設定の上に、登場人物の言葉と行動の全体によって作者のメッセージが伝えられる。
このドラマが伝えようとしているメッセージとは何か。それは、彼らがはじめて夕食をともにして、キンケードがアフリカでの撮影体験をフランチェスカに得意げに語って聞かせている場面で「自然には課せられた道徳はない。それが美しい」と言っている。おそらくこれが、この作品の、原作者の、あるいは監督としてのクリントイーストウッドの主題だったのだと思う。
この映画の標題にもなっているように、橋はこの物語の象徴として用いられている。屋根つき橋が──これは実在する橋らしくてローズマン橋というらしい──がこの物語の象徴としての役割を果たしている。橋はいわば、河川の両岸をつなぐものである。その意味で、人間もまた本来、人類として同じ一つの実体であったものが、男性と女性に分かれ、それが再び、恋愛において、性関係において出会い一体化するのである。キンケイドとフランチェスカは、彼らの人生の中でこの出会いのときに、初めてこの一体感を、キンケイドは一心同体といっていたが、経験する。それは自然の持つ生命力の最先端の現象である。だからそれは、豊かな大地の生命力を象徴するアイオワ州の農村地帯の、生命力のもっとも旺盛な夏の出来事として描かれる。
しかし、一方で個人はまた人間として、人類として、社会的な倫理的な存在である。だから、いくらキンケードが芸術家気質のデーモンな衝動に駆られて一ヶ所に定住できず、家族礼賛のアメリカの保守的な気分に反論しても、彼らの人間的で自然的な本性が完全に解放されることはないのである。この二律背反は人間の置かれた宿命でもある。この二律背反の関係が一方に損なわれたとき、社会の掟によって裁かれる。
特にその共同体が狭く、親密で濃厚なものであればあるほど、掟は強く人間を縛る。彼女の近隣に住む不倫を犯したルーシーが、町の人々の噂によって殺されたように。それは人間の本来的な自然的な生命力を押し殺すものである。
フランチェスカは、それまでアイオワの田舎の農家の主婦として暮らし来た彼女の生活の中で、彼女の自由な自然的な欲求を、家族のために、夫のために子供たちのために、押し殺して生きてきた。それが、キンケードとの出会いによって、たった四日の間だけ解放される。
しかし、彼女のこの解放が、もし、アイオワの農村の単調で狭い家庭生活からさらに完全に解放されるものになったとき、それはもはや、解放でも自由でもなくなってしまうのをフランチェスカは知っていた。なぜなら、キンケードとの一体感、解放感、その自由な意識は、農村の狭い共同体の中での娘や息子や夫との束縛の多い不自由な生活があってこその自由であり、解放であったから。
だから、作中でフランチェスカが言ったように、キンケードとの愛がたとえ純粋で絶対的なものであっても、もし彼女が家族を捨て娘や息子たちと別れるなら、キンケードとの絆も長続きせず消えてしまうのである。だからこそ、フランチェスカはキンケードとの愛の絆をつなぐために、それが真実なものであればこそ彼と別れて残らざるを得ない。矛盾といえば矛盾であるがこれが現実である。
しかも、キンケードとの不倫の秘密は絶対に守らなければならなかった。それが一度明るみに出たとき、キンケードとの愛ばかりでなく、夫との夫婦関係も、思春期の子供たちの心も破壊され、家庭も崩壊せざるを得ない。そのことをフランチェスカはよく知っていた。だから、彼女はキンケードとの「永遠の四日間」を夫の生前のみならず、彼女の生涯の秘密にして置かなければならなかった。そうしてこそ、家族の平和が保たれるのである。だから、彼女の秘密を打ち明けることができたのは、「同病相憐れむ」関係で友情を交わしたルーシーだけだった。
そして、生涯秘密を守り通すことによって、キンケードとの愛の絆も失わず、また、家庭も破壊することのなかったフランチェスカは、それぞれが何らかの危機にある夫婦関係の子供たちに、家族を守った母として、息子や娘たちからもやがて許され理解されるのである。そして彼女の亡骸は遺灰として、キンケードと同じように、二人が出会った橋の上から子供たちの手によって撒かれる。ただ死後においてだけ彼らの一体の愛は成就されるものだったから。
全体的に叙情的な作品であると思う。アメリカ人のもう一つの精神的な一面を知らせる。アイオワの暑い夏の日々も、農村の主婦の官能的な描写も優れている。このフランチェスカの心情と愛の同じものは、わが国にも中世の女性、皇嘉門院別当によって歌われている。
難波江の 蘆のかりねの一夜ゆゑ 身をつくしてや 恋ひわたるべき
カメラの動きも被写体を美しく捉えている。もちろん、アイオワの夏の描写など、芸術作品としての完成度はさらにもっと追求できると思うが。
原作の小説はまだ読んではいない。買った本がどこかにあるのか、それとも買おうと思っていただけなのか。それもはっきりしないほど、昔に気にかかった映画である。また、機会があれば原作も読んでみたいと思う。いつのことになるかわからないが、いずれにせよ、ようやく映画は見終えたという気がする。