作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

今年最後の記事

2005年12月31日 | 日記・紀行

 

二〇〇五年も今日で終わる。時間の流れは誰にも止められないから仕方がない。一つ一つの出来事が、過去の海に沈んでゆく。そうして、やがてすべてがさらに深い忘却の淵に沈んでゆく。

今年も人それぞれにかけがえのない一年があったことと思う。
嬉しかったことと悲しかったこととを天秤にかける。
特に嬉しかったことも、取り立てて悲しかったこともない平凡な一年だったかも知れないと思う。

「後悔先に立たず」だけれども、遣り残したことは多い。来年は──もちろん、神さまの恵みによって生き長らえていれば──もう少し、しっかり計画を立てて着実に実行してゆきたいと思う。

今年の出来事として思い出される中でも、ブログを書き始めて間もないころ、中国や韓国で反日暴動が起きたことと、尼崎でJR西日本の脱線事故のあったことが印象に残る。人の心を引き裂くような凶悪な事件も少なくなかった。その多くは解決が持ち越されたまま年を越す。イラクでは多くの人がテロの暴力で犠牲になったが、イラクでの民主国家の建設は、危うい足取りだけれど何とか進行しているようだ。
北朝鮮の拉致問題には目立った進展は見られなかった。そして、郵政解散総選挙があった。民主党は敗北し、小泉自民党が圧勝するということがあった。

それでもブログのおかげで、日々それぞれの記憶を少しは書き留めておくことが出来た。少しは忘却の淵から救い上げることは出来るかも知れない。ただ、残念なことは、せっかくブログを公開していながら、問題意識を共有する人たちと十分に議論できなかったことがある。来年はそれによってさらに考えの深まることを願っている。
十二月に入ってからも、そんなに忙しくもなかったのに、多くの記事を書き残してしまった。

来年こそは、犯罪や事故の少ない平和な一年でありますように。
日本国と世界に、そして、一人一人に平安で幸せな日々が訪れますように。

何かの縁があって、このブログを読んでくださった皆さん、よいお年をお迎えください。

 

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今日はクリスマス

2005年12月25日 | 日記・紀行

    今日はクリスマス──伝道の書第十二章、詩篇第五十一篇

今年もクリスマスが来た。ただ一人の人の誕生日が今年も全世界で祝われる。その人の誕生日は西暦に刻まれているから、生まれてから何年の星霜を閲したかわかる。今年はその人が生まれてから二〇〇五年、その人は僅か三十余歳で十字架に付けられて一度は死に、そして三日目に復活し、今もなお、聖なる精神として生き、世界と個人に生きて働いておられる。

今年のクリスマスを無事に迎えられることを感謝する。しかし、今年も私は多くの過ちを犯し、罪を犯した。なすべき義務も果たさず、多くの愚行を重ねた一年だった。これというほどに仕事も成果が挙がらず、無為に一年を過ごしてしまった。
しかし、願うことは、無垢な人の十字架の死によって、私の愚かさと罪の贖われることを。主の御名の崇められんことを、御国の来たらんことを。クリスマスにちなんで。

詩篇第五十一篇


指揮者によるダビデの賛歌。バテシバに通じたダビデの所に、預言者ナタンが来た時。

私を憐れんでください。神よ。あなたの愛によって。
あなたの深い憐れみによって私の咎を消し去ってください。
私の悪をことごとく洗い流し、罪から私を清めてください。
私の過ちを私は知っています。
私の罪はいつも私の前にあります。
あなたに、あなたにのみ私は罪を犯し、
あなたが悪と認められることを、私は行った。
あなたの語られることは正しく、過たずあなたは裁かれる。
まことに、私は不義のうちに生まれ、私の母は罪のうちに私を身もごりました。
あなたは心の奥の誠実を喜ばれ、そして、隠された知恵を私に教える。
ヒソプの枝で、私の罪を拭ってください。そうすれば私は清められます。
私を洗ってください。私は雪よりも白くなります。
楽しみ歓ぶ声を聞かせてください。
あなたに打ち砕かれた骨が歓び踊るように。
あなたの御顔を隠して私の罪を見ず、私の悪をすべて消してください。
清らかな心を私に造り、新しく強い魂を与えてください。
あなたの御前から私を退けず、あなたの聖なる霊を取り上げないでください。
あなたに救われることによって、私はふたたび歓びを取り戻し、聖なる霊が惜しみなく私を支えてくださるように。
あなたに背く者たちに、私はあなたの道を教えます。罪を犯した者はあなたの御許に立ち返るでしょう。
血を流す者から私を救い出してください。神よ、私の救いの神よ。
私の舌は、あなたの正義を歓び歌うでしょう。
主よ、私の唇を開かせてください。私は口を開いてあなたを賛美するでしょう。
たとえ私が捧げたとしても、あなたは生けにえを好まれず、祭りも喜ばれない。
神の喜ばれる捧げものは、打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔い改める心を、神は軽んじられない。
御心によって、シオンを恵み、エルサレムの城壁を築いてください。
その時こそ、正義という供え物と、燃え尽きる全き生け贄はあなたに喜ばれるものとなる。その時こそ、あなたの祭壇に牡牛が捧げられるでしょう。

 

そして、青年時代から、聖書の中でももっとも好きな本の一つだった『伝道の書』の第十二章から。

伝道者は知恵あるがゆえに、つねに人々に知恵を教えた。伝道者は多くの格言を学び、それが真理であるか、心を尽くして吟味した。伝道者は美しい言葉を捜し求めた。彼の書き残した言葉は真実である。智者の言葉は、迷える羊を導く牧童の棍棒のようなもの、集められた格言は、堅く打たれた釘のように、揺らがない。それは、私たちすべての案内者である神から与えられたもの。

我が子よ、肝に命じておかねばならないのは他でもない。本を書くことには終わりがない。激しい勉強は身体を磨り減らす。

帰するところ、言うべきことはただ一つ。神を畏れ、神の戒めを守れ。私たち全ては、そのために造られたのだから。神は私たちの行為のいっさいを、善であれ悪であれ、隠れてなされたことのいっさいも、裁かれるだろう。(9節~14節)

二〇〇五年、クリスマスの記念に

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保守と改革──守るべきもの改めるべきもの

2005年12月14日 | 日記・紀行

ここ二三日寒い日が続く。今日は最低気温が零度を下回った。

昨夜、中川八洋氏の『日本核武装の選択』を読む。中川氏は現代の著作家のなかでも気にか掛かっている一人である。だが著書をまともに読んだのははじめてである。書店などで立ち読みしたときの印象では、反進歩主義者の保守派で、特にイギリスの保守的な思想家、エドマンド・バークの考え方に共鳴されているようである。反ヘーゲル主義者でもあるようだ。書評は書いておこうと思っている。

また、最近の皇室典範の諮問会議で答申をうけて、男系天皇か女系かと問われているなかで、すでに中川氏は今日を見越して、自身の見解を著書に明らかにされているようである。

どんな物事にも改めるべきものと守るべきものがあると思う。それは、単に個人について言えるばかりではなく、社会についても言えるのではないだろうか。

最近の日本の政治改革でも、郵政改革やその他の小泉改革は断固として推進されるべきだが、男系天皇などは必ずや守られなければならない伝統であると思われる。何が改められ、何が守られるべきか、この問題についての理性的な判断が重要であると思う。

 

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男系天皇制か女系天皇制か──皇室典範に関する有識者会議をめぐる議論

2005年12月06日 | ニュース・現実評論

 

男系天皇制か女系天皇制か──皇室典範に関する有識者会議をめぐる議論

皇室典範に関する有識者会議での答申が小泉首相に提出され、そこでの結論が、女性天皇と女系天皇を肯定したものであったことから、天皇制の伝統を破壊するものであるといった批判的な意見が出て来ている。それと同時に、一方で、男女同権の現代の時代の趨勢に合致して賛成だといった意見に至るまで、さまざまな議論が出ているようである。

しかし、天皇制についての本質的な、理性的な、あるいは同じことであるが哲学的な論証に基づく議論はあまり多くないように思われる。

天皇制の問題の考察には、国家の概念が前提になるし、それを前提にしない議論は、必然性の証明や論証のない軽佻浮薄なものにならざるを得ない。

国家の本質からいえば、君主制は必然的に出てくるものであるし、また、そうであるなら君主の本質からいってもっとも妥当であるのは、男系による天皇制以外にはありえないということになるだろう。ここでは、その具体的な論証をおこなう余裕はないが、国家にとって君主制が必然的であるとするならば、その君主は必然的に男系でなければならないのである。君主制の本来の概念とはそういうものである。日本の歴史がそれを実証してきた。それは、哲学的に論理的に絶対的であって、それ以外にありえないものである。それは国家の概念から必然的に出てくるものであるから。

だから、男系は「男女同権」の現代思想に合致しないからとか、皇室の安定性を図るためには、長子や女子の継承が認められなければなければならないといった議論は、すべて本末転倒した本質を見ない議論であると言わざるを得ない。

天皇制の議論の本質は、国家の秩序の問題から論じる必要があり、この秩序が国民の福祉に絶対的に不可欠なものであるという要請からくるものである。だから、この観点を外した、皇室典範に関する議論は誤ったものにならざるを得ない。

今回の有識者会議の議論は、拙速に過ぎる。議論の内容は、少数意見か多数意見かといった数量的に「民主的」に決せられるべき事柄ではなく、その判断が真理であるかどうか、その判断の質だけが問題にされるべきものである。もっと時間をかけて、そして有識者の選抜そのものにも、もっと議論を深めるべきである。しかし、今の日本の国においては、政治家をはじめ憲法学者ら、いわゆる「有識者」たちの多くには、君主制の思想に、日本の皇室の意義の理解に及ばない。

 

 

 

 

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マディソン郡の橋(2)

2005年12月04日 | 芸術・文化

 

小説や映画や演劇では、思想や哲学と異なって、感覚によって捉えられることのできる具体的なイメージを通じて、具体的な形象を通じて、何らかのメッセージを伝えようとする。このメッセージというのは、少なくとも何らかの思想であり抽象的なものであって、単に感覚だけではそれは捉えきれない。意識と言語をもって思考し、何らかの観念を捉えることのできる人間だけがこのメッセージを、思想を捉えることができる。

この作品では、フランチェスカとキンケードが出会ったのは一九六五年の夏で、場所はアメリカ中部のアイオワ州のマディソン郡ということになっている。映画もそのように舞台が設定される。こうした具体的な舞台設定の上に、登場人物の言葉と行動の全体によって作者のメッセージが伝えられる。

このドラマが伝えようとしているメッセージとは何か。それは、彼らがはじめて夕食をともにして、キンケードがアフリカでの撮影体験をフランチェスカに得意げに語って聞かせている場面で「自然には課せられた道徳はない。それが美しい」と言っている。おそらくこれが、この作品の、原作者の、あるいは監督としてのクリントイーストウッドの主題だったのだと思う。

この映画の標題にもなっているように、橋はこの物語の象徴として用いられている。屋根つき橋が──これは実在する橋らしくてローズマン橋というらしい──がこの物語の象徴としての役割を果たしている。橋はいわば、河川の両岸をつなぐものである。その意味で、人間もまた本来、人類として同じ一つの実体であったものが、男性と女性に分かれ、それが再び、恋愛において、性関係において出会い一体化するのである。キンケイドとフランチェスカは、彼らの人生の中でこの出会いのときに、初めてこの一体感を、キンケイドは一心同体といっていたが、経験する。それは自然の持つ生命力の最先端の現象である。だからそれは、豊かな大地の生命力を象徴するアイオワ州の農村地帯の、生命力のもっとも旺盛な夏の出来事として描かれる。

しかし、一方で個人はまた人間として、人類として、社会的な倫理的な存在である。だから、いくらキンケードが芸術家気質のデーモンな衝動に駆られて一ヶ所に定住できず、家族礼賛のアメリカの保守的な気分に反論しても、彼らの人間的で自然的な本性が完全に解放されることはないのである。この二律背反は人間の置かれた宿命でもある。この二律背反の関係が一方に損なわれたとき、社会の掟によって裁かれる。

特にその共同体が狭く、親密で濃厚なものであればあるほど、掟は強く人間を縛る。彼女の近隣に住む不倫を犯したルーシーが、町の人々の噂によって殺されたように。それは人間の本来的な自然的な生命力を押し殺すものである。

フランチェスカは、それまでアイオワの田舎の農家の主婦として暮らし来た彼女の生活の中で、彼女の自由な自然的な欲求を、家族のために、夫のために子供たちのために、押し殺して生きてきた。それが、キンケードとの出会いによって、たった四日の間だけ解放される。

しかし、彼女のこの解放が、もし、アイオワの農村の単調で狭い家庭生活からさらに完全に解放されるものになったとき、それはもはや、解放でも自由でもなくなってしまうのをフランチェスカは知っていた。なぜなら、キンケードとの一体感、解放感、その自由な意識は、農村の狭い共同体の中での娘や息子や夫との束縛の多い不自由な生活があってこその自由であり、解放であったから。

だから、作中でフランチェスカが言ったように、キンケードとの愛がたとえ純粋で絶対的なものであっても、もし彼女が家族を捨て娘や息子たちと別れるなら、キンケードとの絆も長続きせず消えてしまうのである。だからこそ、フランチェスカはキンケードとの愛の絆をつなぐために、それが真実なものであればこそ彼と別れて残らざるを得ない。矛盾といえば矛盾であるがこれが現実である。

しかも、キンケードとの不倫の秘密は絶対に守らなければならなかった。それが一度明るみに出たとき、キンケードとの愛ばかりでなく、夫との夫婦関係も、思春期の子供たちの心も破壊され、家庭も崩壊せざるを得ない。そのことをフランチェスカはよく知っていた。だから、彼女はキンケードとの「永遠の四日間」を夫の生前のみならず、彼女の生涯の秘密にして置かなければならなかった。そうしてこそ、家族の平和が保たれるのである。だから、彼女の秘密を打ち明けることができたのは、「同病相憐れむ」関係で友情を交わしたルーシーだけだった。

そして、生涯秘密を守り通すことによって、キンケードとの愛の絆も失わず、また、家庭も破壊することのなかったフランチェスカは、それぞれが何らかの危機にある夫婦関係の子供たちに、家族を守った母として、息子や娘たちからもやがて許され理解されるのである。そして彼女の亡骸は遺灰として、キンケードと同じように、二人が出会った橋の上から子供たちの手によって撒かれる。ただ死後においてだけ彼らの一体の愛は成就されるものだったから。

全体的に叙情的な作品であると思う。アメリカ人のもう一つの精神的な一面を知らせる。アイオワの暑い夏の日々も、農村の主婦の官能的な描写も優れている。このフランチェスカの心情と愛の同じものは、わが国にも中世の女性、皇嘉門院別当によって歌われている。

 難波江の 蘆のかりねの一夜ゆゑ 身をつくしてや  恋ひわたるべき

カメラの動きも被写体を美しく捉えている。もちろん、アイオワの夏の描写など、芸術作品としての完成度はさらにもっと追求できると思うが。

原作の小説はまだ読んではいない。買った本がどこかにあるのか、それとも買おうと思っていただけなのか。それもはっきりしないほど、昔に気にかかった映画である。また、機会があれば原作も読んでみたいと思う。いつのことになるかわからないが、いずれにせよ、ようやく映画は見終えたという気がする。

 

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マディソン郡の橋

2005年12月01日 | 芸術・文化

(1)

この映画が封切りになったときに、見ようと思っていたのが、機会を失ってしまい、今日までいたったものである。なぜ見たいと思ったのかよくわからない。
この間たまたまビデオが手に入ったので、ようやく見ることができた。この映画の製作日は一九九五年であるので、すでに十年が経過してしまっている。原作も読もうと思って買って置いたはずなのに、そのことすらすっかり忘れてしまっているほどの昔のことになっている。

主演のクリント・イーストウッドは私たちの世代ではテレビ番組の「ローハイド」でなじみになった俳優として知られている。彼もその後は「ダーティ・ハリー」などその他のハードボイルド風の映画や西部劇で活躍していたようだが、あまり興味も持てず、私はほとんど見たことがない。


この映画は作家ロバート・ジェームズ・ウォラーのベストセラー小説を映画化したものであるという。主題は男女の愛である。ただ、普通の恋愛映画と違う点は、中年の男女の愛を描いている点である。男は離婚の経験者であり、そして、女の方には夫と娘と息子がおり、彼女は普通の家庭の主婦である。だから、当然に彼らの愛は不倫の愛である。

 

男は職業がカメラマンで自分の理想を追求して家庭を顧みない、──省みないということではないのだろうが、少なくとも妻にはそのように見られて、結局離婚している。そして、この主人公がカメラの魅力的な被写体を求めて、とある夏にアメリカ南部の州──アイオワ州の田舎町を訪れたことに始まる。そこで、たまたま道を尋ねたのが平凡な家庭の主婦フランチェスカ──彼女はメリル・ストリープが演じていた──だった。夫や子供たちは牛の品評会に彼女だけを残して出かけて、四日間を留守にしていたところから、二人の関係が始まる。


フランチェスカはもともとはイタリア出身の女性で、イタリアに旅行に来ていた夫と恋におち、結婚のためにアメリカにきたという設定になっている。しかし、彼女の幸福な家庭の生活範囲の狭さに、そしてまた、よくできた夫との平凡で幸福な夫婦関係に贅沢な倦怠を覚えていた矢先の出来事だった。


この土地を訪れた、よそ者であるこのカメラマン──キンケイドは、魅力的な被写体として「屋根のある橋」を探し出し、その道案内をたまたま時間に余裕のあった主婦フランチェスカに頼むことから物語は始まる。主婦は、行きずりのこの男に何か運命的なものを感じ、家族が誰もいない彼女一人が留守にしている家にキンケイドを泊める。もちろん、すでにこのこと自体は危険な行為である。実際にフランチェスカは、キンケイドがたまたま、彼女のイタリアの郷里に詳しかった因縁もあって、親しくなり、一晩の床を伴にすることになる。

物語の中には、ルーシーという彼女と同じ町に住む女性で、道ならぬ恋のために小さな町じゅうの噂の種になって、人々からもよけものにされている女性を登場させている。そのことによって、フランチェスカの行為の危険な結果を暗示している。二人の情事が知られれば、たちまち、ルーシーという女性の運命が、フランチェスカの運命にもなるのである。


この物語は、キンケイドとフランチェスカのたった四日間の恋が、その遺品の中に残された三冊のノートブックに記録されているのを彼女の死後になって読むことによって、初めて子供たちが知ることになっている。
映画では、すでにすっかり成人した娘と息子の二人が──そして彼ら自身も自分たちの結婚生活や恋愛関係にそれぞれに問題を抱えているが──そのノートブックを読むことによって、平凡な母親であると信じていたフランチェスカの知られざる一面を、四日間の日々を回想することによって知るという構成になっている。特に息子のほうは、父親を裏切った母親の行為を醜いものに思い、なかなか母を許せないでいる。

 

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