作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

冬の旅

2007年05月30日 | 日記・紀行

冬の旅

朝から雨、昼過ぎには時折激しく降り、ひと時収まったが、また夜になって再び降り始め、雷光さえ差し込んだ。

久しぶりに古いレコードで「冬の旅」を聴く。ハンス・ホッターの声。
詩人は冬に旅に出る。強い風、凍る涙。意識もかすんでゆくなかで詩人は故郷を思い出す。
詩人は故郷を離れた後悔を歌う。 
 
   菩提樹

村の門のそばに泉があり、
そこに一本の菩提樹が立っていた。                                  

私はその木陰で、夢を見た。
多くの甘美な夢を。

私はその樹皮に刻んだ。
多くの愛の言葉を。
その言葉は、歓びにつけ悲しみにつけ、
私をいつもそこに連れて行く。

今日もまた、私は旅行かなければならない。
深い夜を通り過ぎて、
そこは闇の中で、
私はなお見つめなければならなかった。

そして、菩提樹の枝はざわめいていた。
私に呼びかけるように。
私のところにもどっておいで、若者よ。
ここにこそあなたは憩いを見出すのよ。

冷たい風は吹き付ける。
私の顔に真っ向から。
帽子は頭から吹き飛ばされたが、
私は振り返ろうともしなかった。

今や私には多くの時間が過ぎ、
あの場所からも遠く離れている。
そして、私の耳にはいつもあのざわめきが聞こえてくる。
あなたはあの場所にこそ憩いを見出せたのに。

 

Am Brunnen vor dem Tore
Da steht ein Lindenbaum:
Ich traeumt' in seinem Schatten
So manchen suessen Traum.

Ich schnitt' in seine Rinde
So manches liebe Wort,
Es zog in Freud' und Leide
Zu ihm mich immer fort.

Ich musst,auch heute wandern
Vorbei in tiefer Nacht,
Da hab' ich noch im Dunkel
Die Augen zugemacht.

Und seine Zweige rauschten,
Als riefen sie mir zu,
Komm' her zu mir Geselle,
Hier find'st du deine Ruh'!

Die kalten Winde bliesen
Mir grad' ins Angesicht,
Der Hut flog mir vom Kopfe,
Ich wendete mich nicht.

Nun bin ich manche Stunde
Entfernt von jenem Ort,
Und immer hoer ich's rauschen:
Du faendest Ruhe dort!

 

Der Lindenbaum
DerLindenbaum                                                           

Der Lindenbaum    

 

 

                                        

コメント (8)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

現象と本質

2007年05月25日 | 歴史

現象と本質

pfaelzerweinさんからイラク戦争の評価をめぐってコメントをいただきました。イラク戦争の詳細な分析についてはここでは展開できませんが、イラク戦争についての私の基本的な認識だけを明らかにして、pfaelzerweinさんのコメントにとりあえず答えたいと思います。

イラク戦争については、アメリカの対テロ戦争の一環として捉える必要があると思います。アメリカは、2001年9月11日に発生したアメリカ同時多発テロ事件を受けて、対テロ戦争の宣言を開始し、テロを計画したとされるビン・ラーディンをかくまっているとされるアフガニスタンのタリバン政権を攻撃し崩壊させました。続いて、ブッシュ大統領は、2002年の一般教書演説で、イラク、イラン、朝鮮民主主義人民共和国の三カ国を「悪の枢軸」のテロ支援国家として規定しました。


アメリカが、ビン・ラーディンらのテロの対象になるのは、それは直接的にはアメリカ軍がサウディアラビアなどに駐留して、現在のサウディアラビア体制を支えて、ビン・ラーディンらイスラム原理主義反体制勢力にとって障害になっているからです。また、その駐留が、イスラム教徒の、とくに過激なイスラム原理主義者の、アメリカ軍に対する反キリスト教敵対意識を助長させています。こうした問題には、かってベトナムでアメリカが「専制政府」の後ろ盾となってベトナム民衆の反感を買った経験が忘れられています。こうした点はアメリカも猛省すべきであると思います。しかし、これは現在の問題の本質ではないと思います。


タリバン政権やビン・ラーディンらが目指すイスラム原理主義国家としての宗教的独裁国家は、自由と民主主義の立場からは容認できないと思います。かってのタリバン政権が行った、バーミヤーン遺跡の破壊や女性抑圧も忘れてはならないと思います。おそらく、シリア・レバノン・サウジアラビアなどの中東諸国の民主化が実現され、これらの諸国でのイスラム原理主義勢力が弱体化するまでは、アメリカはテロの恐怖からは解放されないだろうと思います。また、これに因みますが民主主義国家イスラエルの存在は、中東の独裁国家群にとっては、喉に痞えた骨のように不愉快なものです。ただ、パレスチナ問題について、イスラエルの政策には多くの問題があるとは思いますが。


それはとにかく、イラクについては、1991年の湾岸戦争の終結以来も、アメリカとイラクとの矛盾は根本的には解消してはおらず、それが、2001年の同時多発テロ事件を受けて、イラクの対テロ支援国家としての疑惑がさらに深まりました。それにフセイン政権の査察ボイコットを受けて、父ブッシュ時代の湾岸戦争のフセイン政権との軋轢の最終解決にむけて、現ブッシュ大統領は、武力行使によるフセイン政権打倒とそれに代わる民主政権の樹立に踏み切ったものです。実際にそれによって多くのイラク国民は自由へと解放されるはずでした。


こうした歴史の背景には、アフガニスタンにおける前のタリバン政権のようなイスラム原理主義勢力とフセイン政権のような世俗化された独裁政権の存在があります。自由と民主主義を原理とする政権と、これらの独裁政権は原理的には両立できません。もちろん、それぞれの国家における「自由と民主主義」は、その国民と民族の責任において実現されるべきものであり、他国がどのような名目であれ干渉することは本来的に内政干渉に当たります。イラク戦争の場合には、その後大量破壊兵器を保有を証明することができなかったわけですが、しかし、大量破壊兵器の拡散とフセイン政権の独裁的な抑圧政治を懸念したアメリカが、事実上イラク国民の解放に向けて武力行使に踏み切ったことに対しては理解と支持を示すことができるものです。


ブッシュ政権の不手際は、はっきり言って、その「失敗」は、フセイン政権の打倒後の「占領統治政策」にあるので、このアメリカの「失策の尻拭い」は、その後エジプトでイラク安定化会議が開かれたように、イラク民主政府の樹立支援のために、改めて独自に各国の国際支援の方策が模索されるべきであると思います。ラムズフェルド前国防長官の対イラク軍事政策に対する批判もありますが、結果論にすぎないでしょう。


フランスの戦争反対は、事実として問題の根本的な解決にならず、問題を将来に先送りしてさらに深刻化し拡大させるだけの無力で口先だけの無責任なものです。その「戦争反対」の非難の矛先は、アメリカに対して以上に、むしろタリバンやイランなどにおけるイスラム原理主義勢力の暴力と専制にこそ向けられるべきものです。そうでなければ、それは単なる偽善か、批判に許容的な自由アメリカに対する甘えでしかないでしょう。

イギリスのブレア政権がブッシュ援護で「手を汚した」とするものではありませんし、もし英国世論でブレア政権が「英国を米国の番犬化」したとするなら、その世論にも同意できません。むしろ、ブレア政権は国内外において、自由と民主主義の擁護に相当の責任を果たしたと考えています。またpfaelzerweinさんがおっしゃられるように、米国の「政治文化社会の未熟」や「精神文化の崩壊」という判断にも賛成できません。むしろ、わが日本のそれにこそ懸念を持つもので、日本のそれと比較しても、アメリカの「自由と民主主義」の精神や「政治文化社会の成熟度」は強靭で復元力も高いと思います。

世論についての考え方や、イスラム教国家国民の民主化の難しさについての私の考えには、下のような論考があります。よろしければ、ご参考までに。

タイ国のクーデタ事件に思う
http://blog.goo.ne.jp/askys/d/20060921

公明党の民主主義
http://blog.goo.ne.jp/maryrose3/d/20061017

女系天皇と男系天皇──いわゆる世論なるもの
http://blog.goo.ne.jp/maryrose3/d/20060227

イラク戦争の新局面
http://anowl.exblog.jp/759348

         ウィキペディア「イラク戦争

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日々の聖書(14)――人か神か

2007年05月23日 | 宗教・文化

日々の聖書(14)――人か神か

主は言われる。
呪われよ。人に信頼し、
肉にすぎないものに頼る者は。
彼の心は主から離れている。
だから、彼は荒地の枯れ木のように、
恵みの雨を見ることもなく、
誰も住まない荒野の干からびた塩の地に、
住まうことになるだろう。
幸せだ。主に信頼し、
主に望みをおく者は。
彼は小川のほとりに植えられた木、
流れに深く根を張り、
日照りに悩むこともなく、
その葉は青く繁っている。
旱魃の年を恐れることもなく、
果樹が実を結ばないこともない。

(エレミア書第十七章第五節~第八節)

ここでも人間の二つの類型が示されている。肉にすぎない人間に頼る者と神に頼る者である。人間不信もここに極まるというべきか。しかし、これが聖書の人間観であることは否定しようもない。エチオピア人がその黒い皮膚を、豹がその斑の毛皮を変えられないように、人間は罪深く、直く正しい人には変われない。(エレミア書13:23)

そんな人間であっても、人に頼らず、神に頼るものは幸せであるという。
なぜか。人に依頼するものは結局は、彼の心は神から離れるからである。
唯一の神、主を前にしては、常に選択を迫られる。お金か神か。人か神か。
人間は二人の主人には仕えることができないからである。(マタイ書6:24)

エレミアもつねに詩篇に慣れ親しんでいた。それは、ここでも明らかである。
エレミアの口には、詩篇冒頭の数節がおのずから口ずさまれて来る。
主の教えを愛し、日夜口ずさむ者は、小川のほとりに植えられた木のように、
その葉はつねにみずみずしく、いつも果実を実らせている。
ただ詩篇の第一篇では神の教えを愛する者と神に逆らう者とが対比させられていたが、
ここではエレミアは人間に頼る者に対し、神に頼る者とを比べている。

この人間類型は、現代においても基本的には変わらないのだろう。
科学や民主主義や自己に頼るものは、結局は人間に頼るものである。
エレミアの眼には、彼らの心はすべて主から遠く離れている。
だから彼らは、砂漠の枯れ木のように、恵みの雨を見ることもない。

それに対し、主に信頼し、主に望みをおく者は、
彼は小川のほとりに植えられた木のように、
葉は青く繁り、旱魃を恐れることもなく、
果樹は豊かに実を稔らせるという。
新約聖書ではイエスを信じる者には、聖き霊が生ける水となって流れてくるとも言われている。(ヨハネ書7:38)
エレミアにもイエスにも、詩篇冒頭の川のほとりに植えられた木のたとえが、つねにその心に湧き起こってくる。

 

主は言われる。
呪われよ。人に信頼し、
肉にすぎないものに頼る者は。
彼の心は主から離れている。
だから、彼は荒地の枯れ木のように、
恵みの雨を見ることもなく、
誰も住まない荒野の干からびた塩の地に、
住まうことになるだろう。
幸せだ。主に信頼し、
主に望みをおく者は。
彼は小川のほとりに植えられた木、
流れに深く根を張り、
日照りに悩むこともなく、
その葉は青く繁っている。
旱魃の年を恐れることもなく、
果樹が実を結ばないこともない。

(エレミア書第十七章第五節~第八節)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

タイトルの変更

2007年05月21日 | Weblog

宗教などに関連する問題を取り上げているブログのタイトルを変更しました。

海だけではなく、空もタイトルに含めました。また、詩篇註解の目次もとりあえず作成することにしました。

詩篇註解目次

http://blog.goo.ne.jp/aseas/d/20070501

関心や興味のある方には読んでいただいて、コメントなどいただければと思います。内容については改善、改稿をつねに心がけてゆこうと思っています。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

toxandoriaさんとの議論

2007年05月15日 | 芸術・文化

 toxandoriaさんとの議論

toxandoriaさんのブログ(『toxandoria の日記、アートと社会』http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070514)を読んで、それにコメントをお送りしたところ、次のようなコメントを返していただきました。こうした議論に多少の興味を持たれる人もいるかと思い、記事として新しく投稿しました。toxandoriaさんに許可はえていませんがよろしくお願いします。もし不都合のようでしたら消去します。


そら『toxandoriaさん、TBありがとうございました。ドイツ旅行記など楽しく読ませていただきました。もうドイツからは帰られたのでしょうね。

それにしても、あなたの「ドイツ旅行の印象」に掲載された、ドイツの市街地の光景は、わが日本のそれと比較して思い出したとき、(「冬の大原野」http://blog.goo.ne.jp/askys/d/20070120)あまりにも憐れで貧弱で涙が出そうになります。

私自身は海外旅行での経験は実際にないので、それは正確な認識ではないのですが、この予測はたぶん誤ってはいないだろうと思います。民族や人間の「精神」の問題に関心をもつものとして、私には民族精神の現象としての市民生活は引き続き興味あるテーマです。


たとい経済力で世界でGDP第二位とか三位とかいっても(その功績を毛頭否定するつもりはありませんが)、肝心の文化的指標においては、いつ西欧、北欧の豊かな文化環境に果たして追いつき追い抜くことができるのかと思うと、絶望的になります。「幸福度」という絶対的な尺度においては、日本人はいったいどの程度にあるのだろうかと思ったりします。


民主主義の制度と精神についても同じように思います。あなたのブログ記事もいくつか読ませていただいていますが、あなたもそこで日本人の国民としての「カルト的性格」についての懸念を示されているようです。

ただ、それらの指摘について同意できる点も少なくありませんが、また同時に、必ずしもあなたの考えに賛成できない点も少なくないようにも思います。日本の民主主義についてあなたほどには絶望していないし、希望も失っていないということに、その根本的な相違は尽きるでしょうか。

現在の安倍内閣についても、確かに多くの懸念は持ってはいても、それに対する評価についてはあなたほどには辛くはないというのが、私の現在の立ち位置であるように思われます。むしろ、私が現在もっとも深刻に感じている問題は、安倍内閣にではなく、主にテレビ業界をはじめとするマスメディアの退廃と堕落、教育と官僚と大学の無能力です。そうした文化の退廃は全体主義の反動を呼び起こしてもやむを得ないくらいに考えています。その意味で、私はプラトンのような全体主義は必ずしも否定はしていません。

あなたにTBをいただいて、現在の感想を簡単に述べさせていただきました。ただ、これはあなたのブログをまだ表面的に読み込んだだけの意見に過ぎませんが。


       そら(http://blog.goo.ne.jp/askys)』 (2007/05/15 15:04)

 

 toxandoria 『“そら”さま、コメントをいただき、こちらこそありがとうございます。

ご指摘のとおり、必ずしも経済力と幸福度は一致するものではないと思います。さらに、それは必ずしも知的という意味での精神力の問題でもないようです。やはり、“分をわきまえて足るを知る”という人それぞれの煩悩との闘いの問題なのでしょうか?

日本人の「カルト的性格」については、もっと多面的に考察すべきと思っていますが、今のところでは、やはり欧米のような「市民革命のプロセス」の不在ゆえに吹っ切れていない、悪い意味での歴史の残り滓(のような病原体?)が存在するような気がします。つまり、決して絶望している訳ではなくハラハラしながら観察しているといったところです。

恐らく、それは日本人的な良さの面でもあるのでしょうが、その“弱点”(?)を承知の上で狡猾に利用しようとしたり、或いは、そのような日本国民の善良さを逆手に取り、ひたすら上位下達的、権力的に安易に国民を支配しようとするアナクロ感覚の為政者たちは、より厳しく批判されて然るべきだと思います(実は、これらの“人種”に接近遭遇して些か嫌な思いをしたという原体験ゆえかも知れませんが・・・)。

京都芸術大学あたりの自然は出向いたことがあるので承知しておりますが、まだまだ綺麗な自然が残されている方ではなかったでしょうか。いずれにしても、京都市内及び周辺の都市開発のアンバランスな姿が目立つことは確かですね(京都に残る寺社や自然が好きで、時々たずねております)。

記事でも書きましたが、日本の京都のような位置づけ(ドイツ文化を象徴する都市?)であったドレスデンは、連合軍による猛爆撃でことごとく破壊されたにもかかわらず、よくここまで修復し再建できたものだと、実際にこの目で見て驚き、感動しました。

古い都市景観や建造物を大切にし、徹底して修復し、保全するというヨーロッパの価値観と感性の元にあるものは一体何かということが、今ふたたび自分への問いかけとなっています。昨年の夏にブルージュ(ベルギー)でも同じような心理となりました。石の文化やキリスト教の信仰心のためだというだけではなさそうです。そして、最近は古代ローマ文化との接点が気になっています。

メディアの堕落(=商業主義への異常な傾斜)と大学の荒廃についても同感です。特に、大学についてはプラグマティックに一般教養を切り捨てたことが荒廃傾向に輪を掛けたのではないかと思っています。

今後とも、どうぞよろしくお願いいたします。』 (2007/05/15 17:37)

 


 

コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本はいつまでアメリカに甘えていられるか

2007年05月10日 | ニュース・現実評論

米副大統領、8日から中東4カ国歴訪=イラク支援・安定化が焦点に(時事通信) - goo ニュース

日本はいつまでアメリカに甘えていられるか

「自由の使徒」アメリカはイラク戦争問題で共和党と民主党で対立を深め国内も混迷を深めている。イラク戦争でアメリカが窮地に陥っているのをみて、日本国内でも反米主義者たちの多くはほくそえんでいるのではないか。


自爆行為や無差別テロで市民を殺戮し、スンニ派とシーア派の宗派対立をあおってイラク国内の民主的な体制の確立を遅らせ妨害している「テロリスト」たちこそ、早く武器を捨て、イラクの民主的な制度の確立に参加し協力して、その中で自らの政治的な目的を追求すべきでないのか。彼らがそれを承認さえすれば、アメリカはすぐにでもイラクから撤退してゆくだろう。


イラク戦争に大きな欠陥があったとすれば、それはその戦争目的にではなく、戦争後のイラクの「占領統治」における戦術に大きな欠陥があったためであると思う。しかし、今更そんな過去を振り返っても仕方がないので、アメリカは今後は、イラクの国内政治に関与する度合いを低くして自らは後方に退くと共に、イラクの「戦後復興」の役割を国際的な枠組みに肩代わりさせてゆかざるをえないだろう。先のエジプトでのイラク安定化外相会議は、武力でイラクを安定化させることに失敗したアメリカのやむをえない方針転換を示している。


そうして、いずれにしてもイラク戦争で疲弊しつつあるアメリカは、冷戦を勝ち抜いた唯一の大国としての「世界の憲兵隊」としてこれまで果たしてきた役割を今後は縮小してゆかざるをえないだろう。すでにドイツからはアメリカは主要な兵力は撤退させているし、また、韓国では半島で戦争が起きた場合の戦時作戦統制権が、2012年には韓国軍に戻され、今の韓米連合軍司令部も解体されることになっている。こうしたアメリカの政策転換は先の北朝鮮ヘの大幅な譲歩にも現われている。


こうしたアメリカの動向は日本にも影響を及ぼさざるをえない。アメリカ国内ではすでに、憲法に戦争放棄条項をかかえて独立して自国の防衛を果たすこともできない日本のために、日米安保条約で日本の防衛義務をになってゆくことを、重荷に感じ始めている。その端的な例が北朝鮮を巡る六カ国協議だった。極東アジアの問題にアメリカは深入りすることを避け、それらの問題は北東アジアの当事国自身に委ねようとするものだった。


安倍首相は先の訪米で、北朝鮮の拉致問題にも深くかかわりたくないブッシュ大統領やライス長官の袖を引っ張って、どうにかテロ指定国家の解除に慎重な態度をとらせることに成功はしたが、もし、このまま北朝鮮が時間稼ぎの中で核ミサイルを完成させて、アメリカ本土への直接攻撃を可能にすれば、日米安保条約も有名無実化するだろう。アメリカは自国民の多大な犠牲を覚悟して、日本の防衛に走ることはないだろう。そのときにはアメリカはその代償として日本が自国の自由と独立を守るために、核武装することを容認するかもしれない。

それを日本の自由と独立のための好機と見るべきか。しかし、いずれにしても、そうした状況は、ある意味ではアメリカ任せの日本の安全保障がこれまでのように暢気なものでは済まされなくなるということでもある。平和ボケはいつまでも許されないということかもしれない。


これまで日本国民は日米安保条約によるアメリカの庇護のもとで暢気に憲法第9条の戦争放棄条項を巡る神学論争を続けて来たが、アメリカという強力な後ろ盾を期待できなくなったそのときに、中国や北朝鮮、さらにはロシアの強大な武力の前にして、果たしてそうした状況をそのまま続けてゆけるだろうか。それとも、命さえあれば自由や独立はどうでもよいか。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

教育の再生、国家の再生

2007年05月09日 | 教育・文化

教育の再生、国家の再生

今の安倍内閣においても、教育改革は内閣の最重要課題に位置づけられている。それは現在の安倍内閣ばかりではなく、歴代の内閣においても教育の問題は最重施策として取り上げられてきた。前の小泉首相は、郵政改革で頭がいっぱいだったから、教育の問題はそれほど自覚されなかったかもしれないが、その前の森喜朗元首相の内閣でも、文部科学省に教育諮問委員会を作って教育改革を目指していた。森喜朗氏でさえそうだった。森喜朗氏は文教族の国会議員としても知られている。

確かに国家の再生には教育の再生が前提になるだろう。しかし、教育の再生には何が必要なのか。教育の再生には、国語教育の再生が必要であり、国語教育の再生には、なにより哲学の確立が必要であると思う。だから、少なくとも国家の再生といった問題に関心をもつ者は、まず哲学の確立によって国語教育の再生をめざし、国語教育の再生によって教育の改革を、そして教育の改革を通じて国家の再生を計るということになる。教育の再生は国語教育から、ということではないだろうか。


江戸時代から、日本には「読み書き、ソロバン」という教育上の標語があって、この標語の教育の核心をついた普遍的な真理は、今日においても意義があるだろうと思う。読み書く力を十分に育てることが教育の根本的な課題であることは今日でも同じだと思う。


読む能力は、知識や情報を外部から吸収するのに不可欠であるし、書くことによって、自らの意思を社会や他者に向って発信することができる。この二つの能力は、個人が充実した社会生活を営んでゆく上で不可欠のものであるし、また、どれだけ高いレベルでそれらの能力を育成できるかが、個人の生涯を意義のあるものにできるかどうかも左右するのではないだろうか。


確かに、現在の学校教育でも国語教育がおろそかにされているとは思わないし、生徒たちの国語能力の向上に向けて、それなりの努力は行われていると思う。朝の授業前の読書の時間は多くの学校で普及しているようであるし、作文の時間などで文章を書くトレーニングもそれなりに行われている。


ただ、それでもなお、日本の国語教育における「読書の訓練」は生徒たちの自然発生的な意欲や努力に任せられたままで、読書の技術などは、まだ学校の現場では洗練されも高められもせず、充実してはいないようだ。もちろん日本の教育の伝統としても確立されてはいない。それは、多くの人々から指摘されるように、今日の大学生がまともな論文を書けないということにもなっている。

だから日本で世界的に通用する学術論文を書くことができるのは、リテラシーという言葉で「言語による読み書きできる能力」が長年の伝統の中に確立されている欧米などの海外に留学して、そこで教授などから専門的な論文教育を受けて、論文の書き方に「開眼した」という留学体験のある、大学の修士か博士課程の卒業者に多いのではないだろうか。この点で今日なおわが国の普通一般教育や大学や大学院での論文教育は充実していないようにも思われる。


この事実は、かなり高名な日本の学者、教育者の文章が実際に拙劣であるという印象からも証明されるのではないだろうか。論文教育はいわば科学研究の方法論の一環として行われるべきものであり、その核心は、論理的思考力であり、哲学的な能力の問題である。自然科学系の有名な学者であっても、その文章に現われた認識や論理の展開で、正確さや論証力に劣っている場合も少なくないように思われる。


いずれにしても、これだけ学校教育の普及した国民であるのに、果たして、それにふさわしいだけの国語能力が確立されているだろうかという問題は残っていると思う。実際の問題として、一般的に国民における読み書きの力は、(自分を棚にあげて)まだまだ不十分だと思う。


それでも、今日のように、とくにインターネットが発達し、ブログなどで比較的に簡単に個人が情報を発信できるようになったので、なおいっそうそうした能力は求められると思うし、また、その能力育成のための機会も容易に得られるようになったと思う。多くの優れた学者の論説文もネット上で容易に読めるようになったし、また、語学力さえあれば、自室にいながらにして世界中の著名な科学者、学者の論文も読むことができるようになった。一昔に比べれば、翻訳ソフトなども充実して、語学能力の育成もやりやすくなったと思う。


蛇足ながら、私自身は文章を書くときに注意すべきこととしては、次のようなことを心がけるようにしている。それは、思考の三要素として、「概念」「判断」「推理」の三つの項目にできうるかぎり注意して書くことである。


「概念」とは、一つ一つの用語を正確にして、それぞれの言葉の意味をはっきりさせることであり、

「判断」とは、一文一文の「主語=述語」の対応が正確であるか「何が何だ」をはっきり自覚することであり、

「推理」とは要するに、文と文のつながりのことであり、接続詞や副詞などが正確に使われて、一文一文に示された判断が、論理的な飛躍や誤りがなく、必然的に展開されているか確認することである。

そんなことを検討し反省しながら書くようにしている。しかし、文章を書く上でこんな基本的なことも今の学校では教えられていないのではないだろうか。

なかなか、理想どおりにそれを十二分に実行できずに、現実にはご覧のような悪文、駄文になってしまっているのは残念であるにしても、これからも引き続き改善してゆくべき課題であると思っている。

今日の記事も、また、「教育の再生」や「国家の再生」といった大げさな標題を掲げてしまったけれども、多くの人がブログなどを書いてゆくなかで、「言語による読み書きできる能力」、、、いわゆるリテラシーを高めてゆくのに、こんなブログの記事でも、少しでも役に立てば幸いだと思っている。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

醜い日本人

2007年05月07日 | ニュース・現実評論

醜い日本人

私のような市井の片隅に生きる無名の者が「醜い日本人」などと語っても、おそらく世間の嘲笑を買うだけだろうが、しかし、曽野綾子氏のような高名な小説家なら、そうした言葉にも少しは耳を傾けられるのかもしれない。産経新聞のような全国紙に女史の『「醜い日本人」にならないために』という評論文が掲載されているのを読んだ。


確かに、とくに最近私も、曽野綾子氏と同じそんな印象を受けるように思う。自分を棚に上げて女史と同じような感想をもっている。それは近年流行のインターネットや携帯電話の悪い側面が出てきているためだといえるのかもしれないが、しかし、やはりネットや携帯電話が人間や国民の資質を決めるわけではないだろう。それは表面的な本質を見ない論議だと思う。


そうした状況の根本にある原因は、やはり先の太平洋戦争の敗北に、またそれを契機とした日本の「古き善き」文化的な伝統の崩壊にこそみるべきではないだろうか。太平洋戦争の敗北は何も、軍事力における敗北にとどまらないと思う。


現代の日本人がもし「醜い日本人」になりつつあるとするなら、それは太平洋戦争の軍事的な敗北が、何よりも現代日本人の倫理道徳心における敗北に連なり、また現代日本人の政治や教育における敗北となり、それがまた、現代日本人の学術文化における敗北を証明するものになっているということなのだろう。それは、民族をそのあるべき姿に正すことのできない現在の学校教育の敗北でもあり、さらには宗教や芸術や教育などに現われる日本民族の伝統文化の総合力の敗北の問題でもあるだろう。  


あくまで相対的であるとしても、太平洋戦争前の日本人に比較して戦後の日本人が「醜い」のだとすれば、それは結局、日本のかっての伝統的な宗教や倫理や学術や芸術文化が、太平洋戦争の敗北とその後の占領軍統治という日本史に未曾有の歴史的な困難を克服しうるものではなかっただけにすぎない。そうした困難に際して日本の伝統文化が自らの民族の倫理や文化の健全さを確保するだけの力あるものではなかったということを証明しているに過ぎないと思う。


そして、太平洋戦争後六十年を経過した今、一種の植民地文化的な状況に生育した戦後世代を両親に育てられた現在の若者たちの文化的状況が、少なくとも戦前の日本人の感覚をまだ失ってはいない曽野綾子氏のような世代の眼に、「醜い日本人」として映じているのだろう。


ただ問題が深刻であるのは、今の若者たちや、現代以降の日本人たちには、おそらく、戦前の伝統文化的な「美しい日本人」の感覚を概念として生まれつきまったく持たないことだろう。だから、昔の日本人の感覚による「醜い」という自覚すら彼らは持ちえない。自覚さえあればいつかあるべき姿を回復する可能性は失わない。しかし曽野綾子氏のような世代の眼に深刻に映るのは、現代の若者たちにはもはやそんな自覚すら失われている状況にあることだ。このまま更なる六十年を経過したとき、おそらく明治や大正の「美しい日本人」の伝統の姿は見る影もなくなるにちがいないと思う。

【正論】作家・曽野綾子 「醜い日本人」にならないために

作家 曽野綾子(撮影・飯田英男)

作家 曽野綾子(撮影・飯田英男)

 ■他人のために生きる「美学」学びたい

 ≪個性のない若者たち≫

 近頃の日本人はどうも醜くなったような気がする、と私の周囲の人が言う。私も時々同じように思う。しかしそう思う時には、必ず一言心の中で言い訳する声が聞こえる。

 「人間というものは、自分を棚にあげないと何も言えない」

 どういう点が醜いのか書き出したらきりがないけれど、醜いというからには外見からわかることがほとんどだ。

 東京の渋谷、新宿、池袋などのにぎやかな町では、若い人たちに洗われながら歩くことが多い。そこに溢(あふ)れているのは、痩(や)せて筋力がない貧弱な細身に、まるで制服のように同じ流行の衣服を着ている若者である。ほとんど同じ髪形をし、最近は流行の重ね着のほかに、バストのすぐ下にギャザーを寄せたセーターと「ももひき」をはいて内股でぺたりぺたりと歩く。

 朝早いテレビのニュース番組には、こういう個性のない肉体と、まるで同じような髪形と服装のお嬢さんが時には4人も出てくる。4人とも必要だということは、魅力の点でもアナウンサーとしての技量の上でも、多分1人ではもたないということを局側が知っているからだろう。

 BBCだってCNNだって1項目のニュースを読むのは原則1人のアナウンサーで、1行読んで別の人の声に渡したりしない。そしてその女性たちが、実にそれぞれ強烈な個性美を持っている。あらゆる男性視聴者の女性に対する好みをすべて揃(そろ)えました、と言っているように見える。年増派あり、神秘派あり、モノセックス風あり、近寄ると危険派あり、肌の黒いカモシカのような肢体派あり、昔の小学校の受け持ちの女先生に対する憧(あこが)れ派あり、あらゆるタイプ別に女性を揃えております、という姿勢が言下に見えている。

 ≪「魂の高貴さ」を学ぶ≫

 そこで大切なのはその人の個性であって、黒髪の日本人のくせに金髪に染めているというだけで、これは自分のない人だという判断をされても仕方がないだろう。今は少し廃(すた)れたが、破れたジーンズ・ファッションが私は嫌いだった。アフリカの貧しい青年たちは、新しいジーンズなどなかなか買えない。もし破れている流行の品と、破れていない新品とどちらでもあげるよ、と言われたら、アフリカの貧しい青年で破れたジーンズをもらいたがる人はいないだろう。他人の貧しさをファッションにして楽しむ神経に、私はどうしてもついていけないのである。

 こうした無神経は日本人の素質が悪いからではなく、すべて学習の不足から来るのである。日本以外の国では、その人に対する尊敬はすべて強烈な個性の有る無しが基礎になっている。もちろんお金や権力のあるなしもその一つの尺度とはなり得るだろうが、日本では、最近全く若者に教えていない分野があることがわかった。つまり魂の高貴さということに関して教師も親も知らない上、当人も読書をしないから、損得勘定、自己愛などというもの以外に、人間を動かす情熱の存在やそれに対する畏敬(いけい)の念というものがこの世にあるのだと考えたこともないのである。

 ≪「偉くなる」って何?≫

 つい先日、JR北陸線の車内で女性が暴行を受ける事件があったが、異変に気づきながら一人として暴力的な犯人に立ち向かう男性がいなかったというニュースは、まさにこうした日教組的教育の惨憺(さんたん)たる結果を表している。

 もっとも私は昔から西部劇の中の男だけがならず者に立ち向かうという設定には抵抗を覚えていた。女も抵抗の戦いに、できる範囲で働けばいいのである。それが男女同権というものだ。北陸線の中でも、男女にかかわらず知恵を働かせて車掌か鉄道警察隊に知らせようとした人がいてもよかったのだ。

 最近の調査によると、人生の目標に「偉くなること」をあげる若者たちの率が、日本ではアメリカや韓国に比べて著しく低い、という。私にもその癖(へき)はあって、権力を志向する政治家の情熱をほとんど理解していない。しかし「偉くなること」を総理や大会社の社長になること以外に、他人のために自らの決定において死ぬことのできる人、つまり自らの美学や哲学を持つ人、と定義するならば、私はそうした勇気をずっと憧れ続けている。

 本当の人道的支援というものは、生命も財産もさし出せることです、と言うと、そんな損なことをする人がこの世にいるのだろうかという顔をされることも多い。

 それほどはずかしげもなく功利的な日本人を他国人は何と思うか、やはり教えた方がいい。(その あやこ) 

(2007/05/05 06:52)


TITLE:【正論】作家・曽野綾子 「醜い日本人」にならないために|正論|論説|Sankei WEB
DATE:2007/05/11 18:01
URL:http://www.sankei.co.jp/ronsetsu/seiron/070505/srn070505000.htm
 

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

エキスポランド

2007年05月06日 | 日記・紀行

エキスポランド社など家宅捜索 コースター脱線事故(朝日新聞) - goo ニュース

黄金週間も終わりを迎えつつあった昨日、痛ましい事故が起きてしまった。吹田市のエキスポランドで、「風神雷神2」と呼ばれたジェットコースターが脱輪事故を起して、乗っていた女性が死亡し、その友人が重傷を負うなど、多くのけが人が出た。子供の日ということもあって多くの人が春の休日を遊園地で楽しんでいる中での事故だった。

このニュースを聞いたとき、一昨年に起きたJR福知山線脱線事故のときに感じたのと同じような、なんともいえない虚しい思いがこみ上げてきた。あの時に感じたのと同じ思いがふたたび込み上げてくる。この事故で、多くの人々が深く傷ついたことだろうと思う。しばらくの間は、天真爛漫に、ジェットコースターをもう楽しむことができないだろう。それとも、ジェットコースターの本当の恐怖を楽しむことができるのか。

エキスポランドには私の青春時代の記憶も少しはかかわっている。大阪吹田市の千里丘陵を切り開いて大阪万国博覧会が開催されたのは一九七〇年のことだった。「人類の進歩と調和」をスローガンに掲げられたこの博覧会が開かれた当時の日本の社会には、現在のような閉塞感はなかったようにも思う。今よりももっと活気と夢に満ちていた。

博覧会の終了後に、その跡地に万国博記念公園が造られ、そこにエキスポランドもできた。そんな開園まもないこの遊園地に、その頃まだ学生だった私はアルバイトとして、さまざまな遊戯施設の補助の仕事についていたことがある。まだジェットコースターはなかったと思う。それ以来ふたたび訪れたことがないので、細かなことは今はほとんど記憶からも薄れてしまっているけれど、そこでのアルバイトが楽しい貴重な思い出として印象に残っていたことは確かである。


その頃は私もまだ二十歳前後だったし、ちょうど自分と同じようにバイトにきていた女の子二人と仲良くなって、回転シャワーなどに一緒に乗って遊んだ記憶が残っている。その一人はFさんと言って、今も古い手帳を捜しだせれば、彼女の住所と電話番号が残っているかもしれない。名前は忘れてしまったが苗字は今でも覚えている。一度二度電話をしたかもしれないが、地理的に少し遠かったせいか、結局は深い交友にはならなかった。今思い出しても、それは若い日の楽しいアルバイトだったが、昨日のニュースで、その記憶を少し傷つけられたような気もする。

 

 

 主よ、汝はいにしえより、世々我らの住処にてましませり

山いまだ成りいでず、汝いまだ地と世界とを造りたまはざりしとき

永遠よりとこしえまで、汝は神なり

なんじ人を塵に帰らしめてのたまはく

  人の子よ、汝ら帰れと

なんじの目の前には、千年もすでに過ぐる昨日のごとく

また夜の間のひと時に同じ

汝これらを大水のごとく、流れ去らしめたもう

彼らは一夜の眠りのごとく、朝に生えいずる青草のごとし

あしたに生え出でて栄え、夕べには刈られて枯るるなり

我らは汝の怒りによりて消え失せ、

なんじのいきどおりによりて怖じまどう

汝われらの不義を、御前におき

我らの隠れたる罪を、御顔の光の中におきたまえり

我らのもろもろの日は、汝の怒りによりて過ぎ去り、

我らがすべての年の尽くるは、一息の如し

われらが歳を経る日は、七十歳に過ぎず、

あるいは健やかにして八十歳にいたらん

されどその誇るところは、労苦と悲しみとのみ

その去りゆくこと速やかにして

我らもまた飛び去れり

誰か汝の怒りの力を知らんや.....

願わくは汝のしもべにかかわれる御心を変えたまえ

願わくは朝に我らを汝の憐れみに飽きたらしめ

世終わるまで歓び楽しませたまへ....

我らが苦しめる日と、災いにかかれるもろももろの年にくらべて

我らをたのしめさせたまへ.......

 

                                                      詩篇第九十篇

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

風薫る五月

2007年05月02日 | 日記・紀行

風薫る五月

五月に入った。風薫る五月と言いたいところだけれど、昨日今日は先の昭和の日の頃のようには快晴にはならず、空も曇りがちで雨模様でさわやかな風は吹いてこない。桜の花もすっかり散って、その跡に新緑がさわやかに眼に入るようになった。早朝、街を走っていると、眼に入る街路樹がとても美しい。晩春からまもなく初夏へと、季節のめぐりはあわただしい気さえする。

明日は五月三日の憲法記念日、さらに鯉のぼりが空に舞う、端午の節句の子供の日へとまことに意義深い祝日が続く。

昔、子供の頃に銭湯で菖蒲湯に浸かったことがある。そのとき匂った菖蒲の葉の香を懐かしく思い出す。今ではそうした風習や伝統もすっかり廃れてしまって、菖蒲湯などに入ったこともない人も多いのではないだろうか。平安時代の枕草子などにも、この日には薬玉を飾り、軒に菖蒲の葉を挿したことが記録されている。

平安時代の菖蒲から、武士の鎌倉時代になって「尚武の日」になったようである。現在では戦後の「平和主義」のためにこうした祝い方は嫌われているようだ。武とは、本来矛を止めることであり、真の平和主義のことだと思うのだが。何事にも表と裏がある。日本国憲法の第9条についても、その意義とともに、その限界について、今日特にその否定的側面について深く研究される必要があると思う。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする