イラクの自爆テロが相次いで起きている。現地の治安が回復しているのか、それとも一向に改善が見られないのか、正確な情報がないのでよくわからない。
ただ言えることは、民主的な制度や国家体制を、そのような伝統がもともとないところに移植することの難しさである。アメリカがイラク戦争の「終結宣言」に際して、太平洋戦争後の日本の民主化をモデルにすると言っていたが、現在のわが国の民主主義の現状も、きわめて、お粗末ではあるにしても、まだわが国には、明治の自由民権運動や大正デモクラシーなどの「伝統と実績」が多少なりとも存在した。だからこそ曲がりなりにも最低の体裁だけは保持できたのである。
イランやイラクなどのイスラム教を宗教とするアラブ諸国では、そのような伝統や実績が存在するのだろうか。同じイスラム国でも、トルコのケマル・アタテュルクのような開明的な指導者が現れて、国家と宗教の分離を促進させた例もある。近現代国家の特質は、国家を宗教から解放するところにあるのに、今のイラクではイスラム教の取り扱いをめぐって憲法草案の起草で難航しているそうである。イスラム教の頑迷な保守派は、もちろん、その意識の中に「宗教改革」を経験しておらず、したがって、彼らには国家と宗教の分離と言う意識は存在しない。
本来、真の民主国家の前提には、「宗教改革」を国民や民族が体験することによって、国家と宗教の分離が国民に自覚されている必要がある。しかし、宗教改革を主体的に体験することのなかった、アラブ諸国や日本のような民族には、事実として、常に宗教と国家の関係が吹き出物のようにその膿が出てくる。宗教改革を体験しなかった民族や国民の間では、政治の世界においても、宗教と国家の分離と言う意識に達せず、そこに、自由と民主主義を定着させる困難がある。
自由は貴重なものである。イラク国民の多数は、まだ、その自由の意識に到達していないのかも知れない。そうした国民や民族にとっては「自由」や「民主主義」といっても、それは「猫に小判」「豚に真珠」なのだろう。彼らが、それを求めるようになるには、2,3百年早いのかも知れない。イラク国民の大多数が心底自由と民主主義を欲求するようになるまで英米軍や日本軍が撤退するのが現実的な選択なのかも知れない。
国民や民族が宗教改革を経験せずに、自由な民主国家を建設することが難しいのは、イランやイラクに留まらず、戦後60年を経た日本も同じである。現在問題になっている小泉首相の靖国神社問題もその一つである。小泉首相は、彼の意識の中では、国家と宗教の関係については、きわめて、無自覚で本能的な水準に留まっている。現代国家の指導者として、思想的に未熟だといわざるを得ない。
その結果、中国に対して、内閣総理大臣としてではなく個人の信仰の問題として小泉首相は反論できない。中国の批判が、信教の自由を侵害するものであることを反論できない。国家と宗教(共産主義)が完全に癒着している中国のような独裁国家が、小泉首相の靖国神社参拝を非難すると言うのは、それこそ、目くそ鼻くそを笑うの類で、まったくの笑い話、喜劇である。中国がそれを批判する資格を持つには、まず自国の国家と宗教(共産主義)の分離を実現してからのことである。
小泉首相は、善意の靖国信者と言うべきであって、国家に対して自己を犠牲にした兵士たちを畏敬しなければならないというそれ自体としては正しい意識が彼にはある。ただ、彼の意識のなかでは国家と宗教の関係が理論的に整理されていない。そして、これは何も小泉首相に留まらず、この点では日本国民の大部分と意識を共通にしている。この国民あってこの指導者ありと言うべきか。
そして、小泉首相よりももっとひどい前近代的意識の持ち主が、河野洋平氏や中曽根康弘氏、宮沢喜一氏らである。彼らは、中国の批判の尻馬に乗って、小泉首相に靖国神社の参拝を自粛するように進言さえしている。このことによって、これらの政治家が信教の自由という、現代国家の根本的な要請さえ理解していない非近代的意識の持ち主であることを証明している。こうした政治家が国会で多数を占めているのが、わが国の「民主主義」政治文化の現状である。
中国からの靖国神社参拝批判があったからには、むしろ、断固として、小泉首相は靖国神社に参拝しなければならない。それによって、中国の独裁的な指導者に、日本が完全な自由主義国家でもあることを証明しなければならない。