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日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

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ヘーゲル『哲学入門』第二章 義務と道徳 第四十三節[実用的な教養について]

2022年03月01日 | 哲学一般

 

§43

Zur praktischen Bildung (※1)gehört, dass der Mensch bei der Be­friedigung der natürlichen Bedürfnisse und Triebe diejenige Be­sonnenheit und Mäßigung beweise, welche in den Grenzen ihrer Notwendigkeit, nämlich der Selbsterhaltung, liegt. Er muss 1) aus dem Natürlichen heraus, davon frei sein; 2) hingegen in seinen Beruf,   (※2) das Wesentliche, muss er vertieft und daher 3) die Befriedigung des Natürlichen nicht nur in die Grenzen der Notwendigkeit einschränken, sondern sie auch höheren Pflich­ten aufzuopfern fähig sein.

第四十三節[実用的な教養について]

実用的な 教養としては、人が自然な欲望と衝動をみたすに際しては、自身に必要な限界内に留めること、すなわち自己保存の限界こえないよう思慮深く、節度を守ることが必要である。
人は、1)自然から解放され、自由でなければならない。
;2)それに対して、人は自らの職業おいては、本質的なことに没頭しなければならない。
そしてそれゆえに、3)自然な欲求の充足は必要な限度に制限するだけでなく、より高い義務ためにそれを犠牲にすることができなければならない。

Erläuterung. 

説明

Die Freiheit des Menschen von natürlichen Trieben besteht nicht darin, dass er keine hätte und also seiner Natur nicht zu entfliehen strebt, sondern dass er sie überhaupt als ein Notwendiges und damit Vernünftiges anerkennt und sie dem­gemäß mit seinem Willen vollbringt. (※3)Er findet sich dabei nur insofern gezwungen, als er sich zufällige und willkürliche Ein­fälle und Zwecke gegen das Allgemeine schafft. (※4)

人間が自然の衝動から自由であるということは、彼が何の衝動ももっておらず、したがって、自然本能から逃れるために人間は何の努力しなくてもいいことを意味するのではない。むしろ、人間は衝動を一般的に必要なものとして、そして、それが合理的なものであることを認識し、そして、したがって、それがかなうように自分の意志で実現することである。偶然で恣意的な気まぐれや目的を、普遍的なものに逆らって実行しようとするときにときにのみ、そこに人間は束縛を感じるのである。

Das bestimmte, genaue Maß in Befriedigung der Bedürfnisse und im Gebrauch der physischen und geistigen Kräfte lässt sich nicht genau an­geben, aber es kann Jeder wissen, was ihm nützlich oder schäd­lich ist. Die Mäßigung in Befriedigung natürlicher Triebe und im Gebrauch körperlicher Kräfte ist überhaupt um der Gesund­heit willen notwendig, denn diese ist eine wesentliche Bedin­gung für den Gebrauch der geistigen Kräfte zur Erfüllung der höheren Bestimmung des Menschen. Wird der Körper nicht in seinem ordentlichen Zustande erhalten, wird er in einer seiner Funktionen verletzt, so muss man ihn zum Zweck seiner Be­schäftigung machen, wodurch er etwas Gefährliches, Bedeuten­des für den Geist wird. — Ferner hat die Überschreitung des Maßes im Gebrauch der physischen und geistigen Kräfte, ent­weder durch das Zuviel oder Zuwenig, Abstumpfung und Schwäche derselben zur Folge.

欲望の充足や肉体的および精神的な能力の使用において、はっきりとした正確な限度を示しえないとしても、しかし、自分にとって何が役に立つか、あるいは何が有害であるかは誰もが知ることはできる。

自然の本能の充足と身体の能力の使用における節度は、一般に健康 のために必要である。というのも、人間がさらに高い使命を果たすために精神的な力を使うためには、健康は不可欠な条件だからである。

身体が適切な状態に保たれていないなら、もし身体の機能の一つでも損なわれているなら、それを何か注意の必要なもの、精神にとっても肝要なものとして、人はその治療を目的としなければならない。⎯⎯⎯ さらに、身体的な能力、および精神的な能力の使用も限度を超えると、それが多すぎても少なすぎても、身体も精神も結果として鈍くなり弱まる

Endlich ist die Mäßigkeit mit der Besonnenheit verbunden. Diese besteht im Bewusstsein über das, was man tut, dass der Mensch im Genuss oder in der Arbeit durch seine Reflexion sich überschaut und also diesem einzelnen Zustande nicht ganz hin­gegeben ist, sondern offen bleibt für die Betrachtung von Ande­rem, was auch noch notwendig sein kann. Bei der Besonnen­heit ist man aus seinem Zustande, der Empfindung oder des Geschäfts, zugleich mit dem Geist heraus.

最後に、節度は思慮と結びついていること。思慮とは、人が自分が何をしているのかということを意識することである。すなわち、娯楽においても、あるいは労働においても、人間は自ら反省することを通して自分を振り返り、そして、したがって一つの立場に完全に没入してしまうことなく、むしろ、なお必要なものが他に何かありえないかを広く考察する。人は思慮において、自分の立場から離れて、同時に精神をもって感情や仕事から離れて抜け出す。

 Diese Stellung, sich in seinen Zustand nicht vollkommen zu vertiefen, ist überhaupt beizwar notwendigen, aber dabei nicht wesentlichen Trieben und Zwecken erforderlich. Hingegen bei einem wahrhaften Zweck oder Geschäft muss der Geist mit seinem ganzen Ernst gegenwärtig und nicht zugleich außerhalb desselben sein. Die Besonnenheit besteht hier darin, dass man alle Umstände und Seiten der Arbeit vor Augen hat.(※5)

自分の立場に完全に没頭してしまわないというこの姿勢は、確かに一般的には必要なものではあっても、しかし、本質的ではない衝動や目的においては求められない。それに対して、真の目的や事業においては、精神は全き真摯さをもって取り組まなければならないし、同時に真の目的や事業から外れてはならない。ここでは思慮とは、仕事のすべての状況と側面に眼を注ぐことである。

 

(※1)
Zur praktischen Bildung 実用的な教養
praktischen
実用的な、実際的な、実行的な、実践的な
Bildung
「教養」や「教育」と訳される。
学術、職業、芸術において知識や技術の習得、創造、さらには人格など個人的な、文化的な能力の育成や成熟など日本語にはない含意がある。「Bildung」に相当する日本語としては「修行」などが適切かもしれない。 
「Bildung」の概念を知るには、主人公の人間的成長を主題とする小説、Bildungsroman 教養小説 があり、ゲーテの『ヴィルヘルム・マイスターの修行・遍歴時代』などがよく知られている。

(※2)
Beruf  職業、「召命」

(※3)
宗教などにおいて往々にして否定的に見られがちな「本能」や「衝動」といった自然性も、人間にとって一般的に必要なものであり、合理的で理性的なものであることを認めること。

(※4)
「偶然で恣意的な気まぐれや目的を、普遍的なものに逆らって実行しようとするときにときにのみ、そこに人間は束縛を感じるのである。」

単なる気まぐれや恣意、わがままの満たされない場合にも、ふつう束縛を感じて「不自由」であるという。
「自由」についての正しい概念を得ることは、本当の自由社会を実現してゆく上できわめて重要である。「freedom」と「liberty」  の概念の区別。

 (※5)
人間は精神と身体からなることから、§41 [自己に対する義務]において、「精神に対する義務」と「身体に対する義務」が求められる。前者は「理論的な教養」を培うことであり、後者は「実用的な教養」である。
本節の主題である「実用的な教養」とは、自己の身体と職業と使命に対する教養である。

 

ヘーゲル『哲学入門』第二章 義務と道徳 第四十三節[実用的な教養について] - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/iFQOhG

 

 

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