作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

NHKの国家観

2006年02月28日 | 日記・紀行

 

林道義氏のサイトを見ていると、「平成18年2月27日 日の丸を隠す日本のマスコミ」と題する記事の中で、荒川静香選手の金メダル授与式の後に、彼女が日の丸をまとってリンクを巡ったシーンが放映されなかったことに異を唱えていた。http://www007.upp.so-net.ne.jp/rindou/sunpyo.html

別に一日テレビにかじりついているわけでもないし、何が報道され、あるいはされなかったか、いちいちマスコミの報道事実についても検証できるわけではない。しかし、荒川静香選手が日の丸を纏っている美しい姿は、すでにネット上の映像で私も知っていたし、その画像は記念としてダウンロードして保存していた。彼女のメダル授与式も見ていたが、ただこの写真が、その直後に、彼女がリンクを周回したときにとられたものであることは、林道義氏のサイトを見るまで気づかなかった。

NHKばかりでなく民放各社も報道しなかったという。もしそれが事実なら、確かになぜ放映しなかったのだろうという疑問が湧く。そこには、やはり現在のマスコミの価値判断の一般的な傾向が反映しているのかもしれない。
ただ、私がネットを通じてこうした事実を知ったように、インターネットが広く普及してゆくのに応じて、現在のマスコミの限界や「偏向」は明らかにされていくのかもしれない。情報は最大限に公開され周知されていく必要がある。そして、最大限に多数の観点が国民に提供されることの中から真実が明らかになってくる。情報公開こそが、その正確な記録と保存こそが、決定的に重要である。

すでに今日のニュース報道でも、都市再生機構が、分譲マンション6棟の構造計算書を紛失したというニュースが報じられていた。http://news.goo.ne.jp/news/asahi/shakai/20060228/K2006022801060.html

マンションの鉄筋不足など深刻な手抜き工事が発覚し、構造偽装問題がこれほど大きな社会問題になっているおり、常識的に考えて紛失などありえない。公務員による意図的な情報隠しとしか考えられないではないか。

以前にも「民主主義とアーカイブス社会」の関係について論じたことがあるが(民主主義と文書管理)、公共的な行政に携わる公務員と公共団体の文書記録についての意識の低さは眼にあまる。その背景には公共の文書管理についての国民全体の意識の低さと教育文化の問題がある。

今日の社会でもっとも腐敗し堕落しているのは、公務員とマスコミ関係者なのかもしれない。真実を正確に伝えるべき記者は、記者クラブで飼い殺しにされ、真実を伝える勇気をもたないばかりではなく、民主党の偽メール事件のように、虚偽報道の張本人にすらなっている。政治家も公務員も新聞記者も直接に生産的な労働に携わらない職業である。それだけ腐敗しやすいのかもしれない。

NHKの最近の番組内容には、昨年の紅白歌合戦のキャンペーンに見られるような、過度に意図的な視聴率拡大作戦が目に付くようになった。NHKの改革が改悪にならないように望みたいものだ。また、そのニュース報道にも一定の立場が反映するのは避けられないのかもしれない。とすれば天気予報や地震その他の災害ニュースなどを例外にして、いっそうのこと公共放送は廃止して、それぞれの思想的立場、利害を明らかにした民間の報道各社が自由に報道するなかで、国民はそこから自らの責任と取捨選択で自由に判断するようにしたほうが、報道の本来の目的にかなうかもしれない。

ちょうど竹中総務相の諮問会議でNHKの廃止問題も議題に上っているようである。真剣に検討する価値があると思う。林道義氏が語っているように、その報道に「主観的なイデオロギー的な情報の選別」を働かせているとするなら問題であると思う。これは単にNHKの問題に限らず、国家から特権的に周波数を割り与えられているマスコミの、特に民放各テレビ局の責任と使命の自覚の問題である。

テレビ局の退廃も問題にしなければならないと思う。腐敗し堕落するのも自由であるなら、それに異議を唱えるのも国民の権利であり義務である。民主主義社会におけるモラルの回復を、西尾幹二氏のように全体主義の芽と見るのは間違いである。ただ、自由な民主主義に甘えてモラルを失った国民は、戦前のように、その懲罰として全体主義の運命を担わされることはありうる。

 

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ヘーゲル哲学史2

2006年02月27日 | 哲学一般
フィヒテ哲学批判

ヘーゲルはフィヒィテ哲学をカント哲学の継承者であると考えている。「フィヒテの哲学はカントの哲学の完成であり、特にその首尾一貫した展開である。」岩波全集哲学史下三(p129)


フィヒテは「知られることの少ない本格的な思弁哲学」と「通俗哲学」を残したが、彼は後者によって多く知られている。ibid(p131)

一.本来のフィヒテ哲学

ヘーゲルはフィヒテの功績を次のように述べている。
カント哲学の欠陥を、「全体系に思弁的な統一を欠く没思想的な不整合」に見たヘーゲルにとって、フィヒテこそ、その不整合を止揚した人に他ならなかった。ibid(p132)
フィヒテの心を捉えてやまなかったのは、この不整合を揚棄する絶対的な形式だった。

フィヒテの哲学は「自我を絶対的な原理とするから──それは同時に自己自身の直接的な確実性である──宇宙の全内容がその所産として叙述されなければならない。」ibid(p132)

フィヒテもヘーゲルにとっても、自我とはこのような存在であった。すなわち言う。
「直接現実になっている概念と、その概念になっているこの現実──しかもこの統一を超えた第三の観念はなく、また、それは差別や統一をその中に含むものである──それが正しく自我なのである。自我は自己を思考の単純性から区別し、また同時に、この他者を区別する手段も直接的に自我に等しく区別されない。したがって自我は純粋な思考でもある。」ibid(p133)


フィヒテが原理とするこの自我は、概念的に把握された現実である。なぜなら、他者を自意識の中に取り込むことこそ、「概念的に把握する」ことに他ならないからである。そして、概念の概念とは、概念的に把握されるものの中に自意識が自己の確実性を見出すことである。これが絶対的な概念であり、絶対知である。しかし、フィヒテは、ただこの概念の原理を提起したのみであって、概念そのものを展開して、学を、絶対知を確立するまでには至らなかった。ibid(p134)


これを実現したのがヘーゲルであり、彼の精神現象学だった。

 

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フラ・アンジェリコ

2006年02月25日 | 日記・紀行


三時から五時までテレビを見た。再放送だと思うけれど、歌伝説「ちあきなおみの世界」は面白かった。ちあきなおみの歌手活動は、青春のころの記憶と重なって懐かしい。彼女が現役で活動していたころは、ファンでも何でもなかったし、特に気にもとめず聴き流していただけだけれど、あらためて彼女の歌を聴いてみると、独自の世界をもった貴重な歌手だったことが分かる。彼女自身もユーモラスなキャラクターを持った女性だった。今頃彼女はどうしているのだろうか。

イタリアの都市、フレンツェの紀行番組を見る。ルネッサンスの花開いた、この美しい偉大な伝統の蓄積された都市は、近世ヨーロッパの原点でもある。ミケランジェロの建築や絵画、ダビデ像などの彫刻、ラファエロの聖母子像、ボッチェルリのビーナス像、レオナルドダビンチの徒弟時代の作品など、世界の至宝がこの都市のいたるところに秘められている。
フラ・アンジェリコの受胎告知などは美術館ではなく、祈りに没頭する修道士たちの暮らした修道院の中の、廊下の壁をもともと飾っていたものだ。伝統と文化遺産が山塊のようにそびえている。

こうしたヨーロッパの都市を見るとき、わが日本の都市の貧弱と醜さを思うと涙が出る。引き続き、「奥能登の冬」を見て、象とカワセミのように、大きいことばかりに価値があるわけではない思って慰める。

荒川静香さんの特別番組とドラマ「氷壁」の最終回がある。女優の鶴田真由さんが魅力的だ。見ようと思う。テレビ浸けの一日になるかもしれない。

音。子供たちが歓声を上げながらボールを蹴っている。乳児の泣き声も聞こえる。

 

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荒川選手の金メダル

2006年02月24日 | 日記・紀行
 

低迷を続けていたトリノオリンピックでようやく荒川静香選手が金メダルを獲得して消えかけていた希望をかろうじてつないだ。すばらしい芸術的ともいえる演技だった。こうした才能は作ろうと思っても作れるものではない。どうしても天賦の素質が必要とされる。一方で、今回のその他の日本チームの不振は問題が大きい。

国内では、民主党がホリエモン氏の「偽メール」をめぐって混乱している。政治における人材の不足、政治家の貧困は、わが国の長年の宿痾である。
その根底には教育と文化の問題がある。
戦後六十年をかけて劣化させてきた教育と文化の「成果」がこれから徐々に蝕み始める。その復興は困難を極める。

中国やロシアの台頭という困難な国際状勢の中で、政党政治の一角を担うべき民主党がこの体たらくでは。
民主党に対する期待と要望についてはこれまでもいくつか述べてきたが、「自由党」と「民主党」の二大政党が日本の政党政治を担ってゆくという政治の理念、自由と民主政治の概念はいささかも揺るがない。

 

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ヘーゲル哲学史

2006年02月23日 | 哲学一般


久しぶりにヘーゲル哲学史を読む。インターネットの時代では、このヘーゲルの哲学史のテキストも、国内外のネットで検索して自室に居ながらにして読める。ただ、日本語訳「ヘーゲル哲学史講義」はまだネット上には上梓されていないように思われる。日本語ではまだ無条件に公開されているサイトはない。国民の税金を使ってなされた仕事なら、無条件に国民に公開すればよいのにと思う。商業上の利用は駄目だそうである。商業に対する偏見があり、文化的にも閉鎖的なのだ。

ネットの普及に応じて、ヘーゲル研究などのサイトも少しずつ充実してきているように思う。けれど、まだ、世界の最先端を行くような充実した研究サイトはないようである。大学での「象牙の塔」の内部での研究形態も変えてゆくかもしれない。

哲学史の第三部は、悟性哲学批判である。ヒュームやバークレイの主観的観念論、スコットランドの経験哲学、フランスの唯物論哲学を検証したのち、フランス大革命の観念的な実現であるドイツ啓蒙思想を経て、ヤコービとカント哲学の批判にはいる。

ヤコービの哲学

ヤコービも信仰を知識や思考と対立して捉えるが、ヘーゲルとっては、「思考とは普遍的な知識であり、直観とは特殊な知識である」であるから、ヤコービにおける直観に基づく信仰も特殊な知識にすぎないというのである。思考が媒介された知識であるのに対して、ヤコービの信仰は直接的な知識である。(岩波ヘーゲル全集哲学史下三  p67 )


私たちが今知っているものは、無限に多数に媒介された結果である。   (ibid.p69) にもかかわらず、ヤコービもまた、直接知の立場に、直観の立場にとどまっている。カントと同様にヤコービもまた、「思考の確信にとっては外的なものは何らの権威をもたず、一切の権威は思考によってのみ有効である」ことを主張しはしたが、ただ、カントの信仰は彼の不可知論によって単なる理性的な要請にもとづいたものにすぎないし、また、ヤコービのように「私の胸の中に啓示される」というだけでは、いずれにも証明も客観性もない。

ただ特殊なもの、偶然的なものを追い払う思想によってのみ、原理は客観性を得て、その客観性は単なる主観性から独立して、潜在的かつ顕在的な(必然的な)ものになる。絶対的観念論者ヘーゲルはこう批判する。

ヘーゲル批判の特色は、それぞれの哲学の意義と限界を明らかにし、その限界を、矛盾を内在的に弁証法的に克服して、より高い真理へと発展させることにある。  ibid(p70)こうして、ヘーゲルは彼に先行する二人の哲学を批判し克服してゆく。

カントの哲学

ヘーゲルはカント哲学を執拗に批判する。カント哲学はヘーゲル哲学の母胎だから。カントは自由や必然、存在と概念、有限と無限、一と多、部分と全体などを悟性的に規定するのみで、概念的に把握しない。
ヘーゲルのカント哲学批判の核心は、物自体を現象と分離した悟性的なカントの二元論、不可知論批判である。

カントは、事物を「概念的」に把握しない。カント哲学は、「悟性的な認識の方法を組織化した形式的な体系」にすぎない。  ibid(p104)

だから、カントたちが理解した、存在や有限や一などは概念ですらないと言う。カント哲学にあっては、自我は対象とは相互に他者として分離されたままである。しかし自我と外的対象は弁証法的な関係にある。(精神現象学を見よ。)

「カントの著作は思考しようという試み、言い換えると、物質という表象を生み出さざるをえない思考規定を明らかにする試み」である。だから、概念──テーゼ(正)、存在──アンチテーゼ(反)、真理──ジンテーゼ(合)が絶対的な形式として、カントにも予感されているが、それらは概念的に、演繹的に把握されてはおらず、カントにあっては経験的な感性と悟性が特殊のまま外的に結合されるにとどまっている。

ヘーゲルは、カントのあの有名な百ターレルの例を取り上げて、概念と存在を分離したことを批判する。これが、カント批判の眼目であると思う。ヘーゲルにあっては単なる観念の百ターレルが現実の百ターレルに移行する。このヘーゲルの概念観は誤解されて、ほとんど正確に理解されていないのではないだろうか。


ヘーゲルの概念観は、それをわかりやすい比喩でたとえるなら──このこと自体、悟性的な説明であって、概念の進展の必然性の論証はない──概念とは建築士の頭の中にある家の設計図か青写真のようなものである。それはもちろん実際の家ではない。しかし、この青写真・設計図は材料と労働を媒介にして現実の家となって実現し、この建築士の概念や表象は「揚棄」されて客観的な存在となる。


また、人間という「概念」は精子や卵子の内部に観念的に含まれる。ヘーゲルにとって存在はすべて内部にこのような概念を含むものとして理解されている。だから、目的とは「一つの概念が対象の原因とみなされる限りにおいて、その概念を対象化したもの」である。  ibid(p119)

そして事物はすべてそのような概念の自己展開として「概念的に把握」されてこそ、その真理性が客観的に実証されると言うのである。ヘーゲルにあって概念がカントやヤコービらの「単なる概念(観念)」と異なるのは、概念が潜在態から顕在化して自己を必然性をもって展開してゆくダイナミックなものとして捉えられていることである。

ヘーゲル哲学に対する批判や誤解は、その多くはこのヘーゲルの概念観に対する無理解から来ているように思われる。

また、ヘーゲルはカントが、特に自然論において、物質を原子からではなく、力と運動から構成しようとしている点も評価している。この点は、アインシュタインの相対性理論によってもその正しさが証明されているのではないだろうか。カントのダイナミックな自然論を評価しそれをヘーゲル独自に発展させた彼の自然哲学は、悟性的な現代物理学と比較しても、今日においても興味のあるところではないかと思う。

こうした哲学史などを読んでいつも感じることは、カントにせよヘーゲルにせよ、西洋哲学の著しい特色は、この自我や自意識についての分析の深さ鋭さである。この背景にはおそらくキリスト教の存在があると思う。キリスト教民族以外に、このような自我意識を形成できるだろうか。

ヘーゲルにとってもカントにとっても自我は個別性にあってなお直接的に本質的であり普遍的であり客観的である。この個別にして有限の自我の内部に無限と永遠が開示される。それはすでにキリスト教において準備されていた事柄だった。カントが有限性と無限性を悟性的に分離したの対して、ヘーゲルにあっては有限性が自己の内部の矛盾を克服して、無限性の高みへと登りつめる。ibid(p107)

世界はただ一つの種子から永遠に咲き出でる花にほかならない。ibid(p134)

いずれにせよ、ヘーゲルの法哲学講義や哲学史講義は、ヘーゲル哲学体系そのもののよき解説書であることは言える。彼の哲学の理解は、全体を理解しなければ細部が分からず、細部が分からなければ全体も分からないという構図があるのかもしれない。漸進的に読解してゆくしかないようである。

それにしても、ヘーゲルの概念論は現代においても意義をもつか。
私は以前に自由民主政治の概念至高の国家形態の小論文を書いたことがある。これらはいづれも、ヘーゲルの概念論を踏まえた、理念の具体化の試みである。少なくとも私にとっては意義がある。

ヘーゲルの概念論は引き続き勉強して、まとめてゆきたいと思う。あまり深く研究されていないヘーゲルの概念論と自然哲学は引き続きテーマにしてゆきたいと思っている。

もし、こうした問題に興味や関心をお持ちの方があれば、議論し切磋琢磨してお互いの認識を深めてゆきましょう。

 

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世界と自分(2)

2006年02月19日 | 宗教・文化

 

世界と自分(2)

『それからイエスは彼らにある例えを話された。言わく。「ある金持ちの畑が豊作だった。そこで彼は自分で考えて言った。「どうしよう。私の穀物を蓄えておくところがない。」そして言った。「こうしよう。自分の蔵を壊してより大きい蔵を建て、そして、そこに私の作物と財産を蓄えておこう。そして自分の魂に言おう。「私の魂よ。おまえは多くの財産を永年にわたって積み上げてきたではないか。これから休みを取って、飲み食いして楽しもう。」
しかし神は彼に言った。「愚か者よ。おまえの命は今夜取り上げられる。そのとき、おまえが用意したものは一体誰の物となるのか。」』
(ルカ伝第十二章第16~20節)

ここでは、金持ちの「自分の命」が彼が長年蓄えた「財産」と比べられている。人がどんなに富や財産を積み上げても、それは自分の命あっての物だねであることが語られている。この金持ちは不幸にも、自分の財産を楽しむ前に命を取り上げられてしまった。

この愚かな金持ちの例えは、イエスが人々に教えを説いているときに、群集の中の一人が、兄弟と遺産を争って、イエスに財産の分配を依頼したときに、イエスが貪欲の警戒すべきこと、人の命が財産によってもどうすることもできないことを教えようとして取り上げられた例えである。

ここでイエスは、神の眼に富むことと自分自身のために富むこととの違いを明らかにして、神の眼に富むこととはどういうことかを説明する。上の章節はそのような文脈で語られた言葉である。

この金持ちは、財産を手に入れたが、自分の命を失ってしまった。マルコ伝の第8章で全世界を手に入れても自分の命を失えば、何の得にもならないと言われたのと同じことが語られている。いかにも青年イエスらしい厳しいことばである。これらの教えはペテロなど選ばれた使徒に向けられたものであったのかもしれない。このキリストの教えと、旧約の伝道の書などに語られている次のような教訓と比べれば、その差異は著しい。


「見よ。良いこと望ましいことは、飲み食いし、そして神が私たちに与えられた生涯の日々に、太陽の下で労苦して得た産物を味わい楽しむことである。それは私たちに与えられた分なのだから。私たちにできるもっとも幸福で良いことは、神が私たちに富や財宝を与えられ、私たちにそれを楽しませになるなら、私たちは感謝して私たちがその労苦によって得たものを楽しむべきだ。それは神からの贈り物だから。」(第5章第18、19節)

「だから、私は楽しむことを薦める。人は太陽の下で飲み食いし、楽しむ以上に善いことはない。それは太陽の下で神が与えられた生涯の日々、骨折りと苦しみに添えられたもの。」(第8章第15節)

こうした旧約の教訓に比べれば、明らかにイエスの教えは深刻である。これが旧約の教えと新約との差異であるのかも知れない。旧約に比べれば、キリストの教えは日々に死を覚悟して生きようとする者たちへの教えのように思われる。神はなぜ人間に「死」と言う絶対的な限界を与えられたのか。なぜ肉体の生命は永遠ではないのか。それは分からない。しかし、この事実は人間に与えられた絶対的な前提である。ここで明らかに要求されている倫理の水準が旧約と新約とでは違うのである。そしてキリスト教では、有限の肉体の生命に代えて、永遠の生命が、「精神の生」が自覚されてくる。

 

 

 

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世界と自分

2006年02月17日 | 宗教・文化

 

世界と自分

「もし、あなたが全世界を手に入れたとしても、自分の命を失えば、それが何の得になるか。人は失った命に何を代えるだろうか。」


(マルコ伝8:36,37 ルカ伝9:25  マタイ伝16:26)

これらの福音書のテキストは、おそらく、同じ原典から採られたのだろう。この言葉が語られた文脈がもっとも明らかになっているのは、マルコ伝かもしれない。

それによると、イエスが弟子たちと一緒にフィリポ・カイサリア近くの村村を巡っているときに、弟子たちにメシアとしてのご自分の身分を確認された後で、やがて来るべき苦しみと死とを避けられないものとして述べられたときに、弟子たちにもその覚悟を問うたときに述べられた言葉である。

ここで対比されているのは、「全世界」と「自分の命」である。そして、全世界をもってしても取り換えることのできないものとして、弟子たち一人一人のそれぞれが持つ命、魂の価値を明らかにしている。それは詩篇四十九篇8節9節でも語られているように、(おそらく、イエスにも詩篇のこうした個所が念頭にあったのだろうが)、神に対しては人間は自分の命はもちろん、兄弟の命も買えない。魂を贖う代金は高く、永久に払いきれない。それほど、私たちにとって命は魂は貴重であるという。

人は全世界をもってしても贖えないこの命を、この魂をどうすれば得ることができ救うことができるのか。
それに対してイエスは言う。自分の命を救おうとするものはそれを失い、福音のためにそれを失うものが、命を得ることができると。この逆説が、イエスの説明だった。この自分を失えば、たとい全世界を手に入れたとしても、それは取り返しのつかないものになるという。

それは、自分を捨て、自分の十字架を背負ってイエスの後に従うことが自分の命を救うことになるという人間的にはきわめて困難な選択を告げた後に語られた言葉だった。イエスは弟子たちを叱って言った。「あなたたちは神のことを思わず、人間のことを思っている。」 また、イエスはご自分の生きた時代を、神に背いた罪深い時代と言っている。

このときイエスに付き従っていたペテロたちが、イエスと同じように自分の十字架を背負って、師の後に従ったことを私たちは知っている。ここには、自分の命、自分の魂を得ること、救うことの代価がどういうものかが明らかにされているのではないだろうか。

 

「もし、あなたが全世界を手に入れたとしても、自分の命を失えば、それが何の得になるか。人は失った命に何を代えるだろうか。」

 

 

 

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至高の国家形態

2006年02月09日 | 哲学一般

皇室典範の改正問題を小泉首相が提起することによって図らずも、国民の世論が分裂しかねない危機を招いている。愚かなことである。最低の政治的な選択というほかはない。皇室典範(伝統として確立された「自然法」としての)については、本来的に改変ということはありえない。なぜなら、皇室典範の概念からいってそれは過去を踏襲し、将来に世襲してゆくこと自体に意義があるからである。この問題について前に論じたことがある。

男系天皇制か女系天皇制か──皇室典範に関する有識者会議をめぐる議論

保守と改革──守るべきもの改めるべきもの

これらの問題について、もう少し考察してみたい。

至高の国家形態とは、すなわち国家の概念は、その現実的な形態としては立憲君主制を取る。それは自由秩序が相互に緊張しながら調和している国家である。

自由は人間にとって至高のものであって、人間にとって光や空気がなければ肉体が死ぬように、精神的な存在である人間にとっては、自由がなければ精神は死ぬのである。だから自由のない国家は悲惨である。

しかし、神ならぬ人間はこの自由を正しく行使できず逸脱する。自由は専横でもなければ恣意でもない。自由とは守るべき秩序を正しく守ることがほんとうの自由である。

しかし、フランス革命や中国、カンボジアの文化大革命に見られたように、秩序なき「自由」において人間の悪は往々にして多数者の暴虐に帰結する。それは、過去の革命国家に例を見るように、いわゆる「人民民主主義」国家が、国家としての概念に一致せず、いわば奇形国家だからである。そうした国家ほど国民に不幸をもたらすものはない。

もっとも完成され調和の取れた、理念として正しく安定した国家は、君主の人格の中に国家全体の秩序を見る国家である。この秩序の中に国民の自由は最大限に確保されるのである。

秩序は君主制において実現される。君主制の中でも、もっとも純粋な君主制は一系君主制である。人間は男性と女性しかないから、現実には男系君主制か女系君主制かのいずれかでしかない。日本は伝統的に男子一系君主制に従ってきた。そして、君主制とは世襲そのものに意義があるから、日本にとっては従来どおり男系君主制を過去と同様に未来においても持続することがもっとも正しい選択である。もし日本が伝統的に女子一系君主制をとってきたのであれば、将来においても女系君主制を維持してゆくのが最善の選択である。男女同権とか男尊女卑といった、悟性的な浅薄な論議ではない。


欧米にも君主制があるが、それは、日本の男子一系君主制ほどその世襲は純粋なものではない。にもかかわらず、わが国が世界にもまれに貴重な男子一系世襲制を取り替えて、そこに女系君主制を導入するのは、世襲制の純粋を損なうものであって、君主制の本来の概念からいって、改悪というほかはない。それは、タリバンのバーミヤンの佛像破壊などとは比較にならない、過去の貴重な伝統遺産の破壊以外の何ものでもない。小泉首相をはじめ「有識者」と称される人々は、悟性的な理解力しか持たない人には、それが理解できないのである。君主制の価値を正しく理解するのは最も困難なことである。(欧米人の多くも理解できない)

明治の大日本帝国憲法で、伊藤博文は、「立憲君主制」の理念にしたがって、日本国を、正しい国家概念へと、「至高の国家」へと形成するのに少なからず貢献した。しかし、「立憲制」についての、すなわち「民主主義」について、伊藤博文をはじめ国民の理解に未熟と欠陥があったために、昭和の初期に、正しい「立憲制」を逸脱して「全体主義」にいたる道を開けてしまった。

自由とは共同体の意思が国民の個々の意思と一致することにある。民主主義が自由と不可分の関係にあるのはそのためである。戦前の大日本帝国憲法の「立憲君主制」では、その「立憲」における民主主義の未熟のために、「全体主義」を許し、太平洋戦争の開戦を抑止し切れなかった。現在の日本国憲法が今後改正されるに当たっても、この過去の教訓に深く学んで、より完成された民主主義と君主制にもとづく「立憲君主制」の理念を新しい憲法で追求してゆく必要がある。

曲がりなりにも保持しているわが国の「立憲君主国家」体制は、至高の国家体制である。日本国民は、自らの国家体制に誇りを持つべきであるし、さらに、国家と国民は「立憲君主制」国家の理念を追求してゆくべきだと思う。

アメリカなどに見られるような大統領制国家は、剥き出しの市民社会国家であって、ただ多数であることだけが「真理」とされる、恣意と悟性の支配する、往々にして品格と理性に欠ける国家であることを日本国民は忘れるべきではないだろう。

 

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必然性と運命

2006年02月03日 | 歴史

 

「自分の身にふりかかることを自分自身の発展とのみ見、自分はただ自分の罪を担うのだということを認める人は、自由な人として振舞うのであり、その人は自分の身にどんなことが起こっても、それは少しも不当ではないのだという信念を持っている。」
 ヘーゲル「小論理学§147(岩波文庫p100)」

これは小論理学で可能性と現実性の統一としての「必然性」について考察しているときに、ヘーゲルが必然性の問題を哲学的なカテゴリーから逸れて、「人間の運命」の問題として補注の中で考察したときの言葉である。この論考に見ても分かるように、この哲学者が、人間や人生の機微にも深く通じていたことが分かる。

同じ個所では、哲学と宗教の認識方法の違いにも触れて、次のようにも述べている。

「われわれが世界は摂理によって支配されているという場合、この言葉のうちには、目的はあらかじめ即自かつ対自的に(絶対的に)規定されたものとして働くものであり、したがってその結果はあらかじめ知られ、欲せられていたものと一致するということが含まれている。世界が必然によって規定されているという考え方と、神の摂理の信仰とは、決して相容れがたいものではない。
神の摂理ということの根底に横たわっている思想は、後に示されるように概念である。概念は必然性の真理であり、そのうちに必然を止揚されたものとして含んでおり、逆に必然性は即自的には概念である。必然性は概念的に把握されていない限りにおいてのみ、盲目なのである。
したがって、歴史哲学が、生起したことの必然性を認識することをその任務と考えているからといって、それが盲目的な宿命論だという非難ほど誤ったものはない。むしろ、歴史哲学は、そうすることによって、弁神論の意義を持つようになるのであり、神の摂理から必然を排除するのが神の摂理を敬うことになるのだと考えている人々は、その実こうした捨象によって、神の摂理を盲目的で理性のない恣意へ引き下げているのである。
素朴な宗教意識は犯すべからざる永遠の神意について語るが、これは必然が神の本質に属することをはっきり承認しているのである。神でない人間は、特殊な考えや欲求を持ち、気まぐれや恣意によって動くから、彼が望んでいたものとは全く別なことが、その行為から生じてくるということが起こる。しかし、神は自分が欲することを知っており、その永遠の意志は内外の偶然によって定められることがなく、自分の欲することは必ず遂行する。──必然という見地は、われわれの信条、および態度にかんして、非常に重要な意義を持っている。」(ibid  p96)

ここには、ヘーゲルの歴史意識と宗教観との密接な関係が読み取れる。彼にとって、歴史哲学の探求は、歴史の中に働く理性を認識することであり、弁神論の意義をもっていた。彼の哲学は必然性の追及でもあったが、それは、宗教的には神の意志の探求に他ならなかったことが分かる。

現在の世界史の進行は、神の意志の現れであり、その摂理である。この摂理の探求の中から、多くの歴史家、哲学者が、盲目的な宿命ではなく、法則として理性として、神に自覚されている目的として認識したものが自由であった。その意味で、自由は歴史の概念──正確には理念──である。ヘーゲルのこの歴史観は必ずしも独創ではなく、カントの歴史観を継承し発展させたものである。

またここでは、ヘーゲル独自の概念観もよく現れている。彼にとって概念とは、マルクスが誤解したような単に抽象された観念ではなく、いわば事物に内在する魂であり、宗教的に表現すれば、神の意志でもあった。しかし、唯物論者は、観念的な実在としての概念を認めず、運動の究極的な根拠として物質しか認めないが、唯物史観では、人格的な精神的な概念である自由をどのように説明するのだろうか。どちらが現実をよく説明するか。唯物論では意志の自由の問題をどのように扱うのだろうか。

繰り返し述べているように、宗教と哲学の違いは前者が表象的な認識であるのに対して、後者が概念的な認識であるということにある。しかし、表象的な認識はもちろん「誤れる認識」のことではない。それによっても法則や真理は認識される。宗教を単に阿片として切り捨てるだけでは(そうした側面のあることはヘーゲルも認めている)片付かないだろう。ただ、宗教の認識は、その形式上の不完全から、必然的に哲学に移行せざるをえないということである。宗教の克服はこの面で実現されるだけである。宗教に含まれる真理を感情的に否定し去ることはできない。


私たちの目の前で進行している世界史。イラク問題やパレスチナ問題、さらには北朝鮮問題など、多くの偶然の集積の中から必然性の貫徹と自由の実現という歴史の究極的な目標を洞察すること、それが歴史哲学の任務であることは今日でも同じである。これは個人と人類の運命の探求でもある。必然性の認識と人間の自由──わがままと同義の「自由」ではなく──との関連も明らかである。

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2006年02月01日 | 趣味娯楽

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Bach Partita 4 for Harpsichord - Allemanda

Johann Sebastian Bach - Cantata "Ich habe genug" (BWV 82)

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