作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

「作雨作晴」記事一覧(20190423〜20190627)

2019年06月30日 | Weblog

 

「作雨作晴」記事一覧(20190423〜20190627)

 
 
 
 
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ヘーゲル『哲学入門』序論についての説明 二[経験について2]

2019年06月27日 | 哲学一般

 

Erläuterungen zur Einleitung  §2

Bei den Bestimmungen, was recht und gut ist, können wir uns zunächst an die Erfahrung überhaupt halten und zwar fürs Erste an die  äußerliche,  nämlich an den  Weltlauf. (※1)Wir können sehen, was als recht und gut  gilt oder was sich als recht und gut bewährt. Hierüber ist zu bemerken: 1) dass, um zu wissen, wel­che Handlungen recht oder gut und welche unrecht oder böse sind, man schon zum Voraus  den Begriff des Rechten und Guten haben müsse; 2) wenn man sich also daran halten wollte, was der Weltlauf auch als geltend zeigt, so würde sich darüber  nichts Bestimmtes  ergeben. Es käme in Ansehung der Resultate oder der Erfahrung, die man macht, auf die Ansicht an, die man mit­bringt.
In dem Weltlauf, weil er selbst dieses verschiedenartige Geschehen ist, kann Jeder für seine subjektive Ansicht, sie mag noch so verschieden sein, Bestätigung finden. Es gibt aber auch zweitens eine innerliche  Erfahrung über das Rechte, Gute und Religiöse.
(※2 )

序論についての説明 第2節[経験について2]

何が正しいのか、そして何が善いのかを決定する際に、私たちはさしあたっては経験一般に頼ることができ、それも確かに第一には 外的な 経験に、言い換えれば、世路 に頼ることができる。
私たちは、何が正義で、また何が善として認められているのか、あるいは、何が正義で、また何が善であると証明されているのかを知ることができる。これについては次のことが注意されなければならない。1) どのような行動が正義で、あるいは善であるのか、どのような行動が不正であり、あるいは悪であるのかを知るためには、人はあらかじめ正義と善についての概念をもっていなければならないということ、 2)そこで、もし人がまた世路が認めていること(正義と善についての概念)に固執したとしても、それについて 何一つ決定的なもの は与えられないだろう。人が作り上げる結論や経験の見解というのは、人が身につけている考え方次第である。
世路自体はこうした多様な現象であるので、世路においては、なおその主観的な見解がどのように異なったものであったとしても、すべての人は賛同を見いだすことができる。しかしまた、第二に、正義や善そして宗教についての内的な 経験というものがある。


Wir urteilen durch unser  Gemüt  oder  Gefühl,  dass etwas von dieser Handlungsweise gut oder böse ist; auch haben wir ein Gefühl von Religion; wir werden religiös affiziert. Was das Gefühl als eine Billigung  oder  Missbilligung  desselben sagt, enthält bloß den unmittelbaren Aus­spruch oder die Versicherung, dass etwas so ist oder nicht so ist. Das Gefühl gibt keine Gründe an und spricht nicht nach Grün­den.

私たちは自分の 心情(Gemüt)あるいは 感情(Gefühl)を通して、この行動の仕方について何が善であり、あるいは何が悪であるかということについて判断する。さらに、私たちは宗教的な感情をもっている。私たちは宗教に影響される。その行為について 是認 するとかあるいは 否認 するというような感情の告げることは、何がそうであり、何がそうでないというだけの単なるただの直接的な表現、あるいは保証が含まれているにすぎない。感情は何らその根拠を与えるものではないし、根拠にもとづいて言うのでもない。


Was für ein Gefühl wir haben, der Billigung oder Missbilligung, ist auch bloße Erfahrung des Gemüts. — Das Gefühl aber ist überhaupt  unbeständig  und  veränderlich.  Es ist zu einer Zeit so beschaffen, zu einer anderen anders. Das Gefühl ist über­haupt etwas  Subjektives.  Wie ein Gegenstand im Gefühl ist, so ist er bloß in mir als besonderem Individuum.(※3)

私たちが心情として持つものは、それに同意するにせよ、あるいは同意しないにせよ、それはまた心の単なる経験に過ぎない。その感情はしかし一般に気まぐれ であり、変化するもの である。感情はある時にはある状態にあり、また別の時には他の状態にある。感情は要するに主観的なもの である。一つの対象をどのように感じているとしても、それは単に特殊な個人としての私のうちにあるにすぎない。

Wenn man wahrhaft erkennen will, was eine Rose, Nelke, Eiche u. s. f. ist, oder ihren Begriff auffassen will, so muss man zuvör­derst den höheren Begriff, der ihnen zu Grunde liegt, auffassen, also hier den Begriff einer Pflanze; und um wieder den Begriff der Pflanze aufzufassen, muss man wieder den höheren Begriff auffassen, wovon der Begriff Pflanze abhängt und dies ist der Begriff eines organischen Körpers. — Um die Vorstellung von Körpern, Flächen, Linien und Punkten zu haben, muss man die Vorstellung des Raumes haben, weil der Raum das Allgemeine ist; hingegen Körper, Fläche u. s. w. sind nur besondere Bestim­mungen am Raum. So setzt Zukunft, Vergangenheit und Ge­genwart die Zeit als ihren allgemeinen Grund voraus und so ist es denn auch mit dem Recht, mit der Pflicht und Religion, näm­lich sie sind besondere Bestimmungen von dem  Bewusstsein,  welches ihr allgemeiner Grund ist.
(※4)


もし人が本当にバラ、カーネーション、樫の木、などとは何か、あるいはそれらの概念を把握したいのであれば、つまり、その概念を理解するためには、まずその根底にあるより高い概念、つまりここでは植物の概念を理解する必要がある。そして、さらに植物の概念を把握するためには、人は植物という用語にかかわるより高い概念を再び把握しなければならない。そして、これは有機体という概念である。
物体、表面、線、および点の観念を持つためには、人は空間の観念を持たなければならない。なぜなら、空間は普遍的だから。これに対して、物体、表面、などは単に空間についての特殊な規定に過ぎない。同じように、未来、過去そして現在はそれらの普遍的な根拠として時間を前提としている。そして、それはまた法律、義務、そして宗教についても同じで、すなわち、それらは 意識 の特殊な規定であり、意識はそれらの普遍的な根拠である。

 

(※1)
der  Weltlauf.  世故、世路、
lauf は普通「走ること」「歩み」などを意味すると考えられ、Weltlauf はしたがって、「世間の道」「世間の歩み」といった意義である。ヘーゲル精神現象学の訳で知られる金子武蔵は「世路」と訳している。私もそれを踏襲した。武市健人などは「世故」と訳している。
日本語では、世知、世間知、世俗の知恵、世間の常識 ぐらいの意味だろう。

私たちのいう「経験」には単に「私」の経験のみならず、他者、他人の経験も含まれる。私たち個人は、すべてのことを経験し尽くすことはできない。そこで、未体験、未経験の事柄について私たちが判断や結論に迫られる場合、まず、とりあえずは世に通用している常識などにしたがっていれば、「大きく道を間違えることはない」と考えている。その場合には私の個人的な「経験」に頼るのではなく、広い意味での他者、他人の「経験」にしたがって、物事の是非や善悪を判断しているということになる。しかし、ただこれらの「経験」は、理由や根拠を示すことができない。社会常識や宗教は、たとえば「盗むな」と教えるけれども、そこではその確たる根拠や理由を説明しない。

(※2)
物事の是非や善悪を判断する根拠になるのは、物事の「概念」である。だから、物事について正しい判断を得るためには、正しい「概念」をもっていなければならない。だから、人間の行為や国家のあり方についても、正しい判断をえるためには、人間や国家についての正しい「概念」を人は持ち得ていなければならない。「概念論」の決定的な重要性もここにある。

(※3)
単なる心情(Gemüt)あるいは感情(Gefühl)だけでは、それは各個人の内部の主観的な断言や確信にとどまるもので、気まぐれで時には変化するもので、それらは客観性も普遍性も持ちえない。それでは他者との議論も共同性も成立しない。それを「概念」による論証や証明によって、認識や判断の客観性や普遍性を目指して、哲学を「単なる愛知」から「科学(Wissennshaft)」へと高めたのがヘーゲルである。


(※4)
もし人が事物について、それが何であるかを明らかにしようとするとき、つまり事物について定義しようとするときには、それらの事物の根底にあるより高い概念を、すなわちより普遍的な上位概念を持ち得ていなければならない。バラや菊、松などの根底にある高い概念は植物であり、その植物のさらに根底にある概念は「有機体」である。逆にえば、バラや菊や松などは植物の特殊な規定である。同じことは、点や平面、物体と空間との関係についても、また過去、現在、未来と時間との関係や、法律、義務、宗教と「意識」の関係についても言える。法律や義務、宗教の根底にあるより高い概念は「意識」である。ちなみに、もっとも抽象的で普遍的な概念は、「物質」あるいは「観念」である。

 

※追記(20190704)

 上記の(※1)で取り上げた「der /Weltlauf./ 世故、世路」については、ヘーゲルが「精神現象学」において、徳と世路(Die Tugend und der Weltlauf)の対立として論じていることでよく知られている。

世路、der Weltlauf は、いわば世間知や一般常識として「大人の立場」として肯定的に評価される。「世路、der Weltlauf 」に示されている、世間知や一般常識は、確かに、その理由や根拠を明確に提示するものではないけれども、歴史や伝統の上に承認されてきた「知」として、若者の一面的な正義感、「徳、Die Tugend」よりも高く評価される。

若者の態度と大人の立場

 

ヘーゲル『哲学入門』序論についての説明 二[経験について2] - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/AYTTz6

 

 

 

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「山家集」こころざすことありて 864私的註解

2019年06月24日 | 西行考


「山家集」 こころざすことありて 864私的註解

こころざすことありて、扇を仏にまゐらせけるに、院より賜はりけるに、女房受けたまはりて、包紙に書きつけられける

864
ありがたき  法にあふぎの  風ならば  
    心の塵を  払へとぞ思ふ

仏道修行を思い立って、扇を仏様に献上しようとした折に、崇徳院から扇を賜りましたが、女房がそれをお受け取りになって、包紙に歌をお書きつけになられました

864
ありがたい仏法に出会うためにいただいた扇であおいだ風であるならば
   積もり積もった心の埃をお払いになったらよろしいかと思います


西行の和歌は単に花や雪、月などの自然の叙景や、死や別離、恋や孤独などを歌ったものばかりとは限らない。西行はまた真言僧でもあって、仏教の教えに関連する和歌も多く詠んでいる。と言うよりも正確には、西行にとって和歌を詠唱することそれ自体が、仏教の教えを実行する宗教的行為であったということができる。

西行がここで扇を賜ることになった崇徳院は、保元の乱で後白河天皇に敗れて讃岐に配流となった。この和歌にも西行と歴史の接点が黙して語られている。


 

 

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ヘーゲル『哲学入門』序論についての説明 二[経験について1]

2019年06月15日 | 哲学一般

§2


Die erste Quelle unserer Erkenntnis ist die /Erfahrung./ Zur Er­fahrung gehört überhaupt, dass wir etwas /selbst/ wahrgenom­men haben. Es muss aber auch ein Unterschied gemacht werden zwischen Wahrnehmung und Erfahrung. Die Wahrnehmung enthält zunächst nur einen einzigen Gegenstand, der jetzt zu­fällig so, ein anderes Mal anders beschaffen sein kann. Wenn ich nun die Wahrnehmung /wiederhole/ und in der wiederholten Wahrnehmung dasjenige bemerke und festhalte, was in allen diesen Wahrnehmungen sich gleich bleibt, so ist dies eine Er­fahrung.


第2節[経験について1]


私たちの認識の第一の源泉は/経験/である。経験には一般に私たち自らが何かを知覚したことが属している。しかし、また知覚と経験の間には違いがなければならない。知覚にあってはさしあたっては単一の対象しか含まれていないし、それはまだ偶然にそうであって、他の時には他のものが対象となりうる。今もし私が知覚をくり返して、そしてその知覚のくり返しの中で、すべてのこれらの知覚のうちに変わらないものがあることに気づきそして確信するなら、その場合にはこれは一つの経験である。
Die Erfahrung enthält vornämlich /Gesetze,/ d. h. eine Verknüpfung von zwei Erscheinungen so, dass, wenn die eine vorhanden ist, allemal auch die andere erfolgt. Die Erfahrung enthält aber nur die Allgemeinheit einer solchen Erscheinung, nicht aber die Notwendigkeit des Zusammenhanges. Die Erfahrung lehrt nur, dass etwas so und wie es geschieht oder vorhanden ist, aber noch nicht die Gründe oder das Warum.


経験には取り分け/法則/を、言いかえれば、二つの現象の組み合わせにおいて、一方が存在する場合、また、つねに他方が生じるということを含んでいる。しかし、経験は、単にこのような現象の一般性を含んでいるのみであって、二者の結びつきの必然性はしかしながら含んでいない。ただ経験は何かがそのように起こること、あるいは存在することを教えるだけであって、しかしその根拠やあるいは理由を教えるものではない。Da es sehr viele Gegenstände gibt, über welche wir nicht selbst die Erfahrung machen können, z. B. die Vergangenheit, so müs­sen wir uns auch auf die /Autorität/ Anderer verlassen. Auch die­jenigen Gegenstände, die wir auf die Autorität Anderer für wahr halten, sind Erfahrungsgegenstände.


そこには私たち自身が経験することのできない非常に多くの対象が存在する。たとえば、過去については、私たちは権威のある他者に頼らざるをえない。私たちが他者の権威にもとづいて正しいとみなす対象といったものもまた経験対象である。



Wir /glauben/ das auf die Autorität Anderer, was /wahrscheinlich/ ist. Wir halten oft für wahrscheinlich, was wirklich unwahrscheinlich ist, aber ge­rade /das Unwahrscheinliche ist oft das Wahre. —/ (Eine Begeben­heit bewährt sich vorzüglich durch die Folgen und durch den mannigfaltigen Zusammenhang von Umständen, von denen wir die Erfahrung selbst gemacht haben. Die Männer, welche etwas erzählen, müssen /Glaubwürdigkeit/ haben, d. h. unter sol­chen Umständen gewesen sein, Kenntnis von der Sache haben zu können. Aus dem Tone derselben können wir auf ihre Red­lichkeit schließen, ob es ihnen Ernst ist oder ob sie irgend ein Interesse dabei haben. Wenn Schriftsteller unter der Regierung eines Tyrannen schreiben und sie machen ihm Lobeserhebun­gen, so sehen wir, dass dies Schmeicheleien sind.


私たちは、真理らしく見える権威のある他者を信じている。実際には真理らしく見えないものを、私たちはしばしば、真理らしく見なしている。しかし、まさに真理らしくないものが、しばしば真理であったりする。出来事は主にその経験の結果と私たちが経験した状況にかかわるさまざまな関連性を通して証明される。出来事を私たちに語る人々には信頼性がなければならない。すなわち、事柄についての知識を持つことのできる状況にいたことである。経験について語る口調から私たちは彼らが真剣であるか、そこに何らかの利害を持っているかどうか、彼らの誠実さを推測することができる。暴君の支配下にある著作家が書くとき、そして、彼を賛美称揚するときには、そこに私たちは追従をみる。Wenn wir Je­mand von etwas erzählen hören, worin er selbst mit eingefloch­ten ist, so wird man wohl hören, dass er zu seinem Vorteil er­zählt. Wenn Jemand aber von seinem Feinde eine gute Eigen­schaft oder Handlung sehr rühmt, so müssen wir das Gesagte eher glauben.)


自身が関わっていることについて誰かが何かを語るのを私たちが聞くときは、おそらく彼は自分に有利なことを語っているように人には聞こえるだろう。しかし、誰かが敵について語るときに、その良き性格やあるいは行動について賞賛するなら、私たちはむしろ言われたことについて信じるに違いない。)



Die Erfahrung lehrt also nur, wie die Gegenstände beschaffen sind, nicht, wie sie sein müssen, noch wie sie sein sollen. Diese Erkenntnis geht nur aus dem /Wesen/ oder dem /Begriff/ der Sache hervor. Sie allein ist die wahrhaftige. Da wir aus dem Begriff die Gründe des Gegenstandes erkennen lernen, so müssen wir auch von den rechtlichen, moralischen und religiösen Bestimmungen die Begriffe erkennen.(※1)


それゆえに、経験はただ、対象がどのように作られているかだけを教えて、対象がどのようにあらねばならないかとか、なおのこと、どのようにあるべきかは教えない。こうした認識は事柄の本質からか、あるいは概念のみから生まれてくる。これらの認識のみが真実のものである。そこで私たちは対象の根拠を概念から認識することを学ぶのであり、だから、私たちはさらに法的な、道徳的な、そして宗教的な規定についての概念を認識しなければならないのである。



(※1)ヘーゲルの論考においては、その論述の展開の必然性を検証し確認することが重要である。まずもって「知覚」の意義を明らかにするとともに、この「知覚」が「経験」へと必然的に進展ゆく過程を論証していく。しかし、「知覚」や「経験」の段階においてはそこに何らかの「法則性」が含まれるとしても、まだそこでは必然性は論証されてはいない。その根拠や理由も明らかにされてはいない。また、知覚や経験は、事物や対象がどのようなものであるか、何であるかを教えるだけであって、それらが、どのようにあるか、どのようにあるべきかを教えない。それを教えるのは、事物の根拠である「本質」や「概念」である。そして、その認識のみが真実の認識である。だから、法律や義務や宗教などの次元においても、それらがどのようにあるべきか、そのあり方を認識するためには、まず法律や義務、宗教についての「概念」が認識されていなければならない。



 


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ヘーゲル『哲学入門』序論についての説明 一[知覚について]

2019年06月11日 | 哲学一般

 

Erläuterungen zur Einleitung

§ 1

Die Gegenstände sind das Besondere, was sie sind, durch ihre Bestimmung; ein sinnlicher Gegenstand z. B. durch seine Ge­stalt, Größe, Schwere, Farbe, durch den mehr oder weniger festen Zusammenhang seiner Teile, durch den Zweck, zu dem er gebraucht wird u. s. f. Lässt man nun die Bestimmungen von einem Gegenstand in der Vorstellung weg, so heißt man dies: abstrahieren.

Es bleibt ein weniger bestimmter Gegenstand oder ein abstraktes Objekt  übrig. Nehme ich aber in der Vorstellung nur eine einzelne solche Bestimmung heraus, so ist auch dies eine abstrakte Vorstellung. Der Gegenstand, in der Vollständig­keit seiner Bestimmungen belassen, heißt ein konkreter Gegen­stand. Abstrahlte ich von allen Bestimmungen, so bleibt mir bloß die Vorstellung des ganz abstrakten Objekts übrig. Wenn man sagt: Ding, so meint man wohl etwas Bestimmtes, aber man spricht von etwas ganz Unbestimmtem, da es unser Ge­danke ist, der ein wirkliches Ding zu dieser Abstraktion eines bloßen Dinges macht.

 

序についての説明

第1節[知覚について]

すべて対象とは、その/規定/を通して存在するものであり、特殊なものである。一つの感覚的な対象は、たとえば、その形体、大きさ、重さ、色彩によって、その部分の強くか弱くか結び合わされている固さによって、また、それらの使用される目的などによって存在するもので、いずれも特殊なものである。もし、人がその表象のうちにおいて、その対象からそれらの規定を取り去るとき、人はこのことを/捨象する/と言う。

そこにはわずかに規定された一つの対象が、あるいは/抽象的な客体 /が残されている。しかし、もし私が表象の中から、このようなただ一つの規定のみを取り出すとすれば、これもまた一つの/抽象的な表象 /である。
その規定において完全であるような対象は、/具体的な/対象と呼ばれる。もし私が/すべての/規定を捨象するなら、そこには私に全く抽象的な対象の表象が残されるだけである。

人が、//というとき、そこでは確かに人は何か規定されたものを/思い浮かべて/いる。しかし、人がまったく無規定な何かについて語るときに、そこで一つの現実の物を、一つの単なる物をこの抽象なものに変えてしまうのは私たちの思考である。

 

 Die sinnliche Wahrnehmung  ist teils äußerliche, teils inner­liche. Durch die äußerliche nehmen wir Dinge wahr, welche räumlich und zeitlich außer uns sind und die wir zugleich von uns unterscheiden. Durch die innerliche sinnliche Wahrneh­mung bemerken wir Zustände teils unseres Körpers, teils unserer Seele. Ein Teil der sinnlichen Welt enthält solche Ge­genstände und ihre Bestimmungen, wie z. B. die Farben, denen das Sinnliche zu Grunde liegt und die eine geistige Form erhal­ten haben.

Wenn ich sage: dieser Tisch ist schwarz, so spreche ich erstens von diesem einzigen konkreten Gegenstande; zwei­tens, das Prädikat schwarz, das ich von ihm aussage, ist ein all­gemeines, das nicht mehr bloß von diesem einzigen gilt, sondern mehreren Gegenständen zukommt.Das Schwarze ist eine ein­fache Vorstellung. — Von einem eigentlichen konkreten Gegen­stande wissen wir unmittelbar. Das unmittelbare Bewusstwer­den ist die Anschauung.


感覚的な知覚は、一方では外的であり、他方では内的である。
外的な感覚的知覚によって、時間的にも空間的にも私たちの外にあって、そして同時に私たちから区別される物を、私たちは知覚する。内的な感覚的知覚によって私たちは一方では私たちの身体を、他方では私たちの精神の状態を自覚する。感覚的な世界の一面は、このような(身体や精神の)対象を含んでおり、そして、それらの規定は、たとえば色彩のように、感覚的なものにその根拠があり、そして精神的な形式をすでに含んでいる。
「この机は黒い」と私が言うとき、私は最初に、この単一の具体的な対象について語っている。次に、私がそれについて表現している述語の「黒い」は一つの普遍的なものであり、それはもはやただ単にこの単一のものにだけに通用するのではなく、むしろそれ以上のさまざまな対象について当てはまるものである。黒は一つの単純な表象である。⎯ 一つの実際の具体的な対象については、私たちは直接的に知る。直観とは直接的に知ることである。

 

Eine allgemeine abstrakte Vorstellung hingegen ist eine vermittelte  Vorstellung, weil ich von ihr ver­mittelst einer andern weiß, nämlich durch die Abstraktion oder das Weglassen anderer Bestimmungen, die im Konkreten damit verbunden sind. — Eine konkrete Vorstellung wird analysiertindem man die Bestimmungen auslegt, die im Konkreten ver­einigt sind. Die intelligible Welt erhält aus dem Geist ihren In­halt, überhaupt reine allgemeine Vorstellungen, z. B. Sein, Nichts, Eigenschaft, Wesen u. dgl. m.

 

それに対して、一つの普遍的で抽象的な表象は、一つの/媒介された/表象である。なぜなら、私はそれについては、他の表象を介して、すなわち、抽象することによって、あるいは、具体的なものにおいて、それと結びついている他の規定を省略することによって、知るからである。⎯ 一つの具体的な表象が/分析される/のは、具体的なものの中で結びついているさまざまな規定を人が分解することによってである。知的な世界はその内容を、ふつう純粋に普遍的な表象は、たとえば、存在、無、個性、本質などといったものは、精神から受け取る。


 

私たちの認識作用の最初の段階である知覚について分析する。知覚の対象は「物」である。現実の「物」はさまざまに規定された具体的なものであるが、その物からあらゆる規定を捨象してしまうと、そこには単なる、カントのいわゆる抽象的な「物自体」が残されるだけである。現実の具体的なものは、主語(主体)として私たちの意識の対象であるが、私たちの意識、精神はその知覚作用において、その述語において、さまざまに分析する。たとえば、一つの「物」である「塩」は、それは「白く」もあり「辛く」もあり、結晶体としては「立方体」でもある。

分析は悟性作用によるものでもあり、活けるものを分断して判断することである。

私たちの意識とその対象である「物」との弁証法的な関係を分析した精神現象学の「知覚」の段階について記述したものである。

 

 

 
 
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ヘーゲル『哲学入門』序論 十二[意志と普遍]

2019年06月07日 | 哲学一般

 

§12[意志と普遍]


Dass aber der Wille /wahrhaft/ und absolut frei sei, kann das, was er will, oder sein Inhalt, nichts Anderes sein, als er selbst. Er kann nur in sich selbst wollen und sich zum Gegenstande haben. Es will also der reine Wille nicht irgend einen besondern Inhalt um seiner Besonderheit willen, sondern dass der Wille als sol­cher in seinem Tun /frei sei/ und /freigelassen werde/,oder dass der allgemeine Wille geschehe.
Die nähere Bestimmung und Entwicklung von diesem allgemei­nen Grundsätze des Willens stellt die Rechts- Pflichten- und Religionslehre dar.(※1)(※2)


第12節[意志と普遍]

しかし、意志が/真に/、かつ絶対に自由であるということは、意志自身として、意志の欲するものであり、あるいは意志の内容であって、それ以外にはあることのできないものである。意志はただ、自己自身のうちにおいてのみ欲することができ、そして自己を対象としてもつことができる。だから純粋な意志は、意志の特殊性のための特殊な内容をまったく欲していない。むしろ、意志自体はその行為において/自由であり/、かつ/自由に解き放たれている/ということ、あるいは普遍的な意志が生じていることである。意志のこの普遍的な根本原理についてのさらに詳しい規定と展開は、法律−義務−そして宗教についての教課のところで述べられる。

※1
重さが物質の根本規定であるように、真に絶対的に自由なものとして、自由は意志の根本規定であるが、この自由から意志は特殊性ではなく普遍性を求める。個人の、特殊な意志と普遍的な一般的な意志との関係を論じたカントの定言命法がここでも明らかに踏まえられている。法律や義務、宗教は人間の普遍的な一般的な意志を原理とするものだから。

※2
なにぶんにも拙訳のために誤訳の個所も多々あろうかと思います。ご指摘いただければありがたいです。これからも改善してゆきたいと思います。なお、こうしたヘーゲルの作品についても、Wikipedia のように、多数の人々の協力によってより完全な日本語訳が実現されてゆけば、そして、それが日本国民の共有財産となれば、どんなに意義あることだろうかと思います。




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ヘーゲル『哲学入門』序論 十一[意志と恣意]

2019年06月04日 | 哲学一般

 

§ 11[意志と恣意]

Der Wille kann zwar mancherlei äußerlichen d. h. nicht aus sei­nem Wesen hervorgehenden Inhalt in sich aufnehmen und zum seinigen machen. Insofern bleibt er nur der Form nach sich ; gleich, nämlich, dass er sich bewusst ist, von jedem Inhalt so­gleich wieder abstrahieren und seine Reinheit wiederherstellen zu können, nicht aber dem Inhalt und Wesen nach. Er ist /inso­fern/ überhaupt nur /Willkür./(※ 1)

意志は確かに、多くの外にある、すなわち、意志の本質からもたらされたのではない内容を、自らのうちに取り入れて、そして、意志自身のものにすることができる。
意志がただ形式においてだけ自己同一性を保つかぎり、同じく、すなわち、意志は自らを意識して、すべての内容を、同時に、再び捨象して、そして意志の純粋さを回復することができる。しかし、それは内容と本質によるのではない。意志は、/そのようなものであるかぎり/一般的にただ/恣意/にすぎない。

※1
意志は意志の本質からもたらされたものでない内容、たとえば、不倫や殺人などの「悪」をも、意識して自らの意志とすることができる。またそれを実行することなく、その意志を捨て去って、もとの白紙へと意志の純粋さを回復することもできる。しかし、内容と本質からそのようにするのでないかぎり、一般的にはその意志は恣意といわれるものにすぎない。

 

 

 
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