作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

雅歌第六章

2009年01月31日 | 宗教・文化

 

神の呼びかけと忍耐にしめされた深い愛が歌われている。

雅歌第六章

女たちの合唱
1.   
どこへ行ったのか、あなたの愛しい人は。
女のなかでだれよりも美しい娘よ。
どこへ去ったのか、あなたの愛しい人は。
わたしたちもいっしょに探そう。

娘の歌
2.   
わたしの愛しい人は自分の園へ、
かぐわしい草の牧場へ降りて行きました。
羊の群を飼いに、園で百合の花を摘むために。

3.
わたしはわたしの愛しい人のもの、
わたしの愛しい人はわたしのもの、
百合の花咲く園で羊の群れの世話をしています。

青年の歌
4.
あなたは、ティルザの都のように美しく、
エルサレムのように麗しく、旗のようにわたしの胸をときめかせる。
わたしの恋しい人。

5.
あなたの眼でわたしを見つめないで。
わたしを戸惑わせるから。
あなたの髪はギレアデの丘を駆け下りる山羊の群のようにきらめく。

6.
あなたの歯は洗い場から追い立てられて駆け上がってくる雌羊のよう。
みんな双組にならんで失われたものはない。

7.
ベールに透かされたあなたの頬は、ザクロの実のよう。

8.
六十人のお妃と八十人の側女、乙女は数が知れぬほどいる。

9.
わたしの鳩は彼女ひとり。わたしには清らかな人。
その母のただ独りの娘。産みの親にはかけがえもない。
彼女を見る娘たちは幸せな人と言い、
お妃と側女たちも彼女をほめる。


女たちの合唱
10.
夜明けのように美しく見つめられ、
白い月の光のように清らかで、
太陽の輝きのように胸をときめかせる娘はだれ。

娘の歌
11.
流れの畔の花の実を見るために、
わたしはクルミの木の園に降りて行きました。
ブドウの蕾は開いたか、ザクロの花は咲いたか。

12.
そこで、わたしの気も付かぬうちに、
あの人はわたしの乳房を奪いました。
戦車でわたしを運び去るように。


13.
A 女たちの合唱

帰っておいで、帰っておいで、シュラムの娘。
帰っておいで、帰っておいで、あなた姿がよく見えるように。

B 娘の歌

マハナイムの踊りに人が見入るように、あなたたちはなぜシュラムの娘に見とれるの。


 

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国家の基礎としての聖書

2009年01月27日 | 国家論

 

国家の基礎としての聖書

これまでの論考でも、イスラエルやアメリカについてはその国家の基礎にキリスト教、もしくは聖書のあることについていくどか触れてきた。しかし、聖書やキリスト教を基礎としている国家は、アメリカやイスラエルの二カ国だけに留まるものではない。イギリスもスイスもデンマークもドイツもフランスもフィンランドなども、キリスト教や聖書の倫理を基礎としている。聖書の上に国家を築いている。ヨーロッパ諸国はそのほとんどはキリスト教国家である。

宗教を基礎にもたない国家はない。中国や北朝鮮などのように無神論という「宗教」の上に成立した国家もある。そして、国民生活の質は宗教によって規定される。だから劣悪な宗教の上に立つ国家と国民は不幸である。

たしかに日本では歴史的に伝統的にいまだ国民の圧倒的大多数は聖書やキリスト教とは無縁なところで暮らしている。伝統的な仏教や儒教、神道などの文化の現状からいっても、日本国の基礎が聖書にあるとかキリスト教にあるなど言うことはとうていできない。

日本は黒船ペリー提督がアメリカから来航して国を開いて以来も、和魂洋才を叫んで科学技術文明と精神文明を切り離し、実利的な国民性からも科学技術だけは手に入れても、キリスト教の流入は防ごうとした。しかし、伊藤博文らが制定の労をとった大日本帝国憲法も西洋キリスト教国の立憲君主制にその範をとったもので、すでに立憲君主制自体に西欧諸国の歴史的な由来がある。そして、西洋諸国の歴史からキリスト教を切り離すことはできない。現代においては世界のどの国も聖書とキリスト教の上に立つ西洋文明の影響からまぬかれることはできないのである。

たしかに仏教や儒教を倫理的な基礎としてきた日本には、論語や法華経などのような経典があった。しかし、西洋キリスト教国のように国民の書としての聖書やキリスト教のような日常的で体系的な倫理体系をもっているとは言えなかった。そのために、いわゆる文明開化後の日本において、国民道徳のみだれに直面した山県有朋たち明治政府の指導者たちは、西洋諸国の聖書のような国民道徳の規範ともすべく、教育勅語を儒学者で東大教授の井上哲治郎などに起草させ、それを天皇の権威において公布した。

教育勅語自体は普遍的な一般道徳を述べたもので、神道などの特定宗教に偏ったものではなかった。けれども、かならずしも十分に民主主義的ではない明治政府によって公布されたため、太平洋戦争時に国家主義を助長することになった。そして日本の敗戦後にGHQの占領政策によって失効することになる。

国民に道徳規範を人為的に国家権力の手によって強制することはできない。実際はむしろ逆で、国家が宗教によってその権威と正当性を獲得するものである。国家によって制定された道徳規範は、その国家の崩壊とともに権威と信用を失う。戦後の日本のように敗戦によって道徳の規範である教育勅語が失効してからは、国民は倫理的な価値基準を失って道徳的にもあてどもなく漂流し、その精神的な空白をカルトや新興宗教その他で代用し埋めようとする。

古来あらゆる戦争が民族と宗教の間に生じたように、太平洋戦争もまた宗教観をめぐる戦争でもあった。そして、日本の敗北の結果によって制定せられた日本国憲法には、その思想的な背景も大きく変わることになる。すでに伊藤博文の起草になる大日本帝国憲法そのものも「立憲君主制」というイギリスやプロシアのキリスト教諸国の歴史的産物に範を取ることによって、キリスト教の影響を間接的に受けていたが、戦後の日本国憲法にはその人権や個人の尊厳などの規定において、アメリカ・プロテスタンティズムの思想がより直接的に反映することになる。

だから、ある意味ではすでに日本国憲法の下にある現代日本も、思想的には聖書やキリスト教を基礎としていると言うことはできるが、ただそれが国民的な自覚の上には立っていないという現実がある。

戦後六〇余年をへてもなおそうした現状にあるとしても、事柄の必然性からいっても、いずれ日本国も国家としての基礎を聖書に求めるようになるのは、おそらく時間の問題だと思う。もちろん時間といっても、主なる神の眼には千年も一日のごとしという時間の単位の上での話である。いずれ日本国も国家の土台に聖書を据える時が来る。あるいはすでに来ている。聖書が日本国民の「国民的書物」となる日も近いのではないだろうか。毎冬繰り広げられるクリスマスのお祭り騒ぎもそれを証明している。

 

 

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ロゴス(ho logos)・概念・弁証法

2009年01月23日 | 哲学一般

 

ロゴス(ho logos)・概念・弁証法

新約聖書のヨハネ書の第一章の冒頭に、「はじめに言(ロゴス)があった。言は神と共にあった。言は神であった。言はこの世の存在する前からあり、言は神であり、言ははじめには神と共にあり、すべてのものが言(ロゴス)に由って神に造られた。被造物のなかで言によって造られなかったものは一つとしてなかった」(ヨハネ書1:1~3)と語られている。

そしてヨハネ書の福音書記者が「すべてのものが言(ho logos)に由って神に造られた」と語っているように、イエスの誕生そのものも、十字架上の死もまさに宇宙的な必然性(ロゴス=言、ことば)をもって現象したのである。

そうであるから、もし現実にイエスが救世主でないとすれば、我々人類はふたたび救世主を待たなければならないことになる。しかし、歴史的にはすでに絶対的な必然性をもってイエスはベツレヘムに生まれ、ゴルゴダの丘で十字架に架けられて死んだ。だから、もう人類は救世主の出現を新たに待つ必要はない。ただ、イエスを救世主と認めることのできないユダヤ人だけが、いつまでも空しく待望し続けているだけである。宇宙的な必然性と呼ぶか、ロゴスと呼ぶかはとにかく、絶対的な必然性をもってイエスはこの世に現象し、神との宥和を実現したのである。

そして、イエスの誕生は歴史的にも「神の国」がこの世に現れる端緒でもあった。イエスは何よりも「時は満ちて神の国は近い」(マルコ書1:15)ということばで伝道をはじめた。「時は満ちて」というのは、春が来て初めて櫻が咲くように、また、胎児が母胎のなかで十ヶ月近く生育してから初めて産み出されるように、生誕のための「必然的な条件が揃って」という意味である。この時以来、「神の国の訪れという喜ばしい知らせが告げられ、誰もがその中へ押し入ろうとしている」(ルカ書16:16)

二〇〇九年の初頭に就任したバラク・オバマ、アメリカ新大統領は、リンカーン第十六代大統領が就任の宣誓式で使った聖書を博物館の中から持ち出して、自分もそれに手を置いて宣誓した。このようにアメリカの建国も、この「神の国」の到来の知らせとは無関係ではない。歴史的にもアメリカという国は聖書の上に立脚する国であり、イエスが「まず神の国を求めよ」と命じていることと無関係ではない。そして、新旧の相違はあるけれども、いずれも聖書の基礎の上に立脚した国家という点では、イスラエルも米国と共通する

そして、新約聖書におけるロゴスの思想を近代において「概念」として捉えなおしたのがヘーゲルだった。ヘーゲルにおいては「概念」とは、マルクスが解したような人間の頭脳による観念的な生産物ではなく、ヨハネ書のロゴス(ho logos)のように、万物を産み出す魂のようなものである。それは鉄の必然性の法則性をもつものであり、宗教的には神の摂理とも呼ばれるものである。そして、その法則性は「弁証法」として、プラトン以来の高貴な哲学として近代においてヘーゲルによって復活されたものである。言(ことば、ロゴス=ho logos)は「概念」でもあり、理性であり、弁証法でもあり、かつ、光であり命でもある。それらは同一物のそれぞれの属性である。わたしたちはこれを知り学ぶことによって、永遠の命を得ることができるとされるものである。

 


 

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オバマ新大統領就任式

2009年01月21日 | 日記・紀行

オバマ新大統領就任式

久しぶりに朝から大阪に出る。秀吉太閤の残した遺産である大阪城を眺める。出勤途上の勤労者、サラリーマン、通学の学生たちなど、いつもながらの駅構内の出勤風景である。行き交うおびただしい群衆、高架橋から見るビル群も少しずつ変貌している様子がわかる。「百年に一度の未曾有」の不況下でも、人間の営みは片時も休むことはない。

若い頃と異なり、最近は生活圏も狭まってきたか、神戸などに出ることも少なく、また東京へもゆく機会がない。今頃は新宿も丸の内も池袋も、地下鉄や山手線も、今も昔のように相変わらず雑踏は流れ続けているだろう。群衆の中のひとりになって歩く。

アメリカ発の金融危機に国家的な苦難の状況に陥っているアメリカで、今日オバマ新大統領の就任式があった。「被抑圧人種」であった黒人から初めてえらばれた大統領である。困難な時期に若い大統領を選んだ。良くも悪くも若い国家アメリカの選択だった。

オバマ米大統領、就任演説全文
http://www.yomiuri.co.jp/feature/20081107-5171446/fe_090121_01_01.htm

私の記事に菱海孫さんから久しぶりにコメントをいただいた。その中に「女優の高峰三枝子さんが、園遊会の御前で「陛下?」と言ったきり言葉を詰らせた」と書いておられた。私はこの話は初めて聞いたけれども、あの高峰秀子(三枝子さん?でも)さんなら想像できると思う。

櫻井よしこさんもブログ記事で書いておられたけれども、私も日本の女性はすっかり変わったと思う。高峰さんや新珠三千代さんや鶴岡淑子さんなど、どちらかというと戦前世代からの昔の女優さんたちを思い出してそう思う。今日も電車のなかで出会う女子大生などを見てもそれを感じる。

とくに国家の命運を掛けた敗戦の後遺症としてある程度はやむをえないかもしれないけれど、伝統の型、文化の型がすっかり崩れ去っているのだ。それが皇室の中枢にまで及んでいる。それをよりよく再生することができるのか、もはやそれは不可能なのか、あるいはその必要も無いのか、本当のところはもちろん私には良くわからない。国家や民族の自立と同じく、すべては民族としての器量、資質次第なのだと思う。

 

 

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敗戦国民の焼き印――「浮雲」―成瀬巳喜男監督作品から

2009年01月17日 | 芸術・文化

敗戦国民の焼き印――「浮雲」―成瀬巳喜男監督作品から

もう1月も半ばを過ぎて、お正月気分ももうどこかへ消えかかっているが、お正月休みの時、テレビ番組も低俗でマンネリ化していてつまらないので、久しぶりにDVDで今は亡き成瀬巳喜男監督の「浮雲」という古い作品を取り出して見た。

浮雲
http://www.geocities.jp/yurikoariki/ukigumo.html

主演女優は高峰秀子、男優は森雅之である。こうした一昔前の俳優は今の人にはすでに忘れられて知らない人も多いかもしれない。成瀬巳喜男の監督した作品は芸術として事実を淡々と描写して行くだけで、社会批判や理屈をとくに大上段に振り上げているわけではない。しかし、この「浮雲」のなかで高峰秀子さんが演じていた「ゆき子」も、太平洋戦争の日本の敗戦の過程でみずからの運命を大きく変えられ、薄幸のうちに亡くなった一人の無名の女性だった。現代国家の運命は女性や子供も含めて国民ひとりひとりの運命に直結している。

映画の発端となる舞台は太平洋戦争で、日本軍が仏領インドネシアに進駐するに従って農林省の技官であった富岡(森雅之)も日本から出張してくる。その時に事務所にタイピストとして働きに来ていたのが、ゆき子(高峰秀子)だった。そこでふたりは知り合うが、富岡は現地に単身で赴任してきており、日本に妻を残していた。だから、ふたりの関係はいわば不倫の関係であった。そして当時のすべての日本人がそうであったように、敗戦によってふたりの運命は暗転する。

映画「浮雲」の批評そのものはまた別の機会に語りたいと思うけれども、要するに、主人公の「ゆき子」は、空襲によって荒廃した日本に終戦にともなって帰国したものの、すでに妻のいた富岡との復縁もかなうことはなく、それでとうとう食い詰めてオンリー(進駐軍兵士専門の娼婦)に身を落としてしまう。敗戦後も間もなく流行した「星の流れに」という歌の中にも、「こんな女に誰がした」という歌詞があったが、主人公ゆき子のような境遇の事例は数多くあったのだと思う。実際にも多くの日本人女性が戦争花嫁としてアメリカなどに渡っていった。ゆき子のつらく悲しい生涯に戦後の日本が象徴されている。

日本の敗戦によって威信や信用を失ったのは、だれよりも旧大日本帝国軍の軍人たちだった。実際どのような国においても、敗戦国の軍人や男性が信頼や価値を失うのはやむをえないといえる。とくに戦前の日本はかならずしも民主化が十分に進んでおらず、封建時代の名残もあって軍隊には階級意識や権威主義、事大主義が濃厚で、偉ぶっていた軍人も事実として多かった。だから、敗戦をきっかけに旧日本国軍や軍人たちが国民の信用を大きく失うことになったのもやむをえない面があったといえる。

それに輪を掛けたのがGHQなどの占領軍の手によって行われた占領政策だった。日本をアメリカに二度と対抗できない国にするための戦後教育を受けて育った女性たちには、旧日本国軍人についてとりわけ悪印象を植え付けられている。彼女たちの多くが兵士について抱いているイメージと言えば、売春宿の入口で眼の色かえて「順番待ち」をしている脂ぎって汚れた兵士たちの顔であったり、二等兵をいじめている醜い顔の軍曹であったりする。

こうした軍人観がとくに戦後の日本女性の多くの中に戦後教育や映画などを通じて刷り込まれているために、軍隊や軍人たちに対して、さらにはそこから父や兄弟など男性そのものに対して尊敬心など持てなくなってしまっている場合が多いのではないだろうか。少なくとも潜在意識の中ではその傾向にあるといえる。とくに法政大学教授の田島陽子女史や東京大学の上野千鶴子教授など教育を受けたインテリ女性ににその傾向が顕著に見られるように思える。

しかし、国家と国民の身体、生命、財産の安全を、みずからの命を呈して守ろうとする軍隊や軍人に対して尊敬の念を持てないでいる国民は不幸で哀れだ。アメリカやイギリスなど、かって大きな敗戦をこうむったことのない国民の間では軍隊や軍人ははるかに尊敬されているし憧れられてもいる。日本の自衛隊のように、たんに占領時代に制定された憲法上ばかりでなく、これほどに多くの国民から白眼視されている「軍隊」の存在も他国には例を見ないだろうと思う。

映画「浮雲」の女性主人公ゆき子に象徴されているように、戦争では多くの女性が薄幸の運命を担わされた。満州からの避難民や広島、長崎の原爆、東京大空襲のような悲惨な体験をした日本の女性の多くに軍隊や軍人に対する嫌悪や忌避の傾向の強いのも仕方がないと思う。また、戦後の日本の教育をになった教師などに共産主義者も多かったから、彼らは自分たちの階級闘争史観から戦前の旧大日本国帝国軍隊や軍人を全否定する教育を行ってきた。

その教育宣伝による意識形成の典型が先の田島陽子女史やノーベル賞作家の大江健三郎氏なのだと思う。彼らの軍隊観、軍人観には肯定的な要素はまったく見られない。自国の軍隊や軍人の道義性に対する信頼やその意義についての認識が完全に失われているのである。しかし、このような国が日本以外にあるのだろうかと思う。占領統治が終わって戦後60数年も経った現在もなお軍人、軍隊に対するコンプレックスを克服しえていない現状には、日本国民の資質に、とくに主体的な民主化能力に欠陥があるというしかない。そのコンプレックスは今なお、茶髪や一重まぶたの整形手術にも現れている。

評論家の櫻井よし子さんは、戦後の女性の変化に触れ、次のように述べておられる。
「手本となる先人に思いを馳せその学びを新しい年に生かしたい」
http://yoshiko-sakurai.jp/index.php/2009/01/03/


>>
「戦後の日本でいちばん大きく深刻に変わったのが女性ではないかと、私は感じている。家庭のあり方が妻や母たる女性の価値観や姿勢で決定づけられるように、戦後の日本社会の変化は、男性よりも、女性によってなおいっそう促されたと思う。だからこそ、かつて世界の人びとを感嘆させた日本人と日本社会のすばらしさの原点が、控えめながらも芯の強い、公の意識を持った女性たちであった面を思い起こし、その実例を知ってほしいのだ。」
>>


女性解放が声高に叫ばれる現代においても、とくに「女性解放」の遅れていると言われる日本では、確かに女性はいまだ社会の表面では表だって目立つ存在でないかもしれない。しかし、社会のあり方を決める上で女性の存在のあり方が決定的に重要であることは、「女性解放」などという安っぽいスローガンが叫ばれる以前に、封建時代と言われる江戸時代においても現代においても変わりがない。

とくにわたしたちの話すことばが母語とも言われるように、人は誰でも、まず母親から感化されるのである。民族の文化はとくに母親を通じて受け継がれてゆく。ユダヤ人社会でも、母親がユダヤ人であれば子供もユダヤ人になる。父親がユダヤ人であるだけではユダヤ人とは見なされないのである。

だから、母親の受け継いでいる伝統文化や倫理が歪められ損ねられた民族は崩壊してゆくだけである。もし明治期に優れた人物を多く輩出したとするなら、その背景には彼らを生み育てた明治の立派な母親たちの存在を抜きにしては考えられない。その母親たちは、たしかに田島女史や上野女史のように社会的にも有名にもならず歴史に名も残さずひっそりと消えていったかもしれない。しかし、その誰にも知られない生涯の価値は決して見過ごされてよいものではない。女性はその国家、民族の気質、伝統を守り育てる母胎である。

だから、ある国家、民族を崩壊させようと思えば、その女性の気質を破壊すればいいのである。そのために田島陽子女史のようなもっとも亡国的なウマシカ女性を無数に作り出せばよいのである。

さらに、日本の軍隊や軍人に対する忌避や軽べつの感情の根源には、日本の敗戦のために、日本軍人による過失や戦争犯罪を、日本軍自身の手による軍法会議などによって自律的に裁く機会を持ち得なかったということもある。日本の敗戦のために、日本の将兵たちの過失や戦争犯罪を旧日本国軍みずからの軍法会議で裁くことができず、それらをすべてこの戦争の勝者である連合国占領軍の手にゆだねざるをえなかった。

そのために軍人政治家から参謀本部の指導者、末端の将兵にいたるまで、日本軍人の過失や戦争犯罪を日本の軍法会議や司法の権限で裁きにかけることができなかった。そのことも、日本軍人に対する国民の信用をさらに大きく失墜させることになった。

日本軍兵士たちが戦争の混乱にまぎれて非戦闘員である女性や子供たちに対して犯した戦争犯罪や軍規違反、またインパール作戦のなどの戦略上の重大過失を、日本軍の軍法会議や一般司法裁判所で自律的に糾弾し処断することができていれば、もう少しは日本軍人たちの名誉も信用も権威も保つことができたかもしれない。

敗戦によって一切の権威と権力を失っていた旧日本軍には、みずからの軍法会議と司法によって、戦争の混乱のどさくさにまぎれて行われた日本軍の将兵たちの戦争犯罪を、旧日本軍自身がみずからの手で主体的に厳しく断罪することはできなかった。

もし旧日本国軍がそれだけの自浄能力を備えていれば、後世幾世代にもわたって同じ日本国民から、とくに日本女性たち自身から、彼女たちの祖父や父や兄弟に当たる旧日本国軍人に対する、あることないこと一切合切の軽べつの罵詈雑言その他の言辞を投げつけられるような哀れな状況を避けることができたかもしれない。

 

 

 

 
 
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猟犬

2009年01月16日 | 日記・紀行

猟犬

桃の木に寒肥を施すために山の畑にゆく。根っこの周辺を掘り起こしていると、笹の根がそこに食い込んでいたので取り除く。笹の根がいたるところにはびこっていてその生命力は強い。

先日来の寒さは薄らいでいるとはいえまだ寒い。スコップを振り回していると、丘の山手の方から鈴の音が聞こえてくる。誰か人でもお下りてくるのかと思っていると、イヌが、それもめずらしい灰青色の毛並みにまだら模様の、見た目がすぐにいかにも血統書付きの猟犬のような洋犬が草むらの向こうから現れた。鼻先や両足や腹部が泥に汚れて少しみすぼらしそうに見える。そして、わたしには決して近づこうとはしなかったが、周囲を絶えずせわしない様子で匂いを嗅ぎ回っている。

サルやイノシシの臭いでも追っているのだろうか。飼い主がすぐに現れるかと思ったが見えない。主のないイヌだろうか。それにしては首輪を付けているし、鈴も下げている。もし迷いイヌで懐いてくるなら連れて行ってやろうかと思って口笛で呼んでみたが、周辺を三四回ぐるぐるまわると、ふたたびもと来た草むらを駆け上がっていなくなってしまった。

いたるところに昨夜来の霜が乾かず凍てついているし、ところどころそれが溶けてぬかるんでいる。自宅にいては気がつかなかったが雪も降ったらしい。その跡がまだあちらこちらに残っていた。今年初めて見る雪のささやかな名残だ。愛宕山あたりには雪が降り積もったらしい。

埋めていたダイコンやニンジンを掘り出して泥を山からの水で洗う。ダイコンの真白さとともに水の冷たさも手にしみてくる。

 

 

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イスラエルとパレスチナの罪――人類の原罪

2009年01月10日 | ニュース・現実評論

 

レバノンからも砲撃「南北から挟み撃ち」 イスラエルに衝撃(産経新聞) - goo ニュース

イスラエルとパレスチナの罪――人類の原罪

戦争というものは、その当事者のどちらが悪いどちらが善人であるとかというような論争をしても、多くの場合不毛である。現実の世界史においては、敗者は悪人にされ、勝者が善人になる。このことは、日本の歴史でかって戦われた戦争であれ、人類の発生以来に世界中で戦われた戦争であれ、また先の太平洋戦争や現に行われているパレスチナとイスラエルの間の戦争でも本質的には同じである。

2008年末からのガザ地区への侵攻をイスラエルは、ハマスのロケット攻撃から身を守るための自衛のためであると言い、一方のハマスは、イスラエルの建国の結果として、自分たちが難民として悲惨な境遇に追いやられている被害者であると主張しイスラエルの存在自体を認めようとしていない。

民族や国家の間に起きる戦争は、また、たとえ同じ民族の間に生じた戦争であっても、それは正義や善悪を動機として行われるものではなく、利害をめぐって戦われるのが普通である。近代になればなるほど、戦争の道徳的な性格は高まってくるが、古代においては、その戦争の多くは文字通りのむき出しの略奪や支配など利益をめぐって行われたものである。いや、現代においてもなお、国家や民族のあいだに行われるほとんどの戦争というものは、利害対立をめぐって行われる。そこで掲げられる正義というものは互いの利害を隠すための標識にすぎない。世界史の舞台は今もなおライオンが子鹿に襲いかかるような、弱肉強食の世界である。

かって13世紀のユーラシア大陸において、モンゴル帝国のチンギス・ハーンが、東欧やロシア、中国、中東さらに日本にいたるまで、東西にわたって繰り広げた略奪と虐殺の侵略の歴史などはその最たるものといえる。

現在のパレスチナ・イスラエルのあいだの戦争も、3、4000年もの昔からその因縁を引きずっている。聖書の創世記の時代からすでにその起源はある。

聖書によれば現在のパレスチナの土地は神がアブラハムに約束された土地であり、アブラハムは父のテラといっしょにバビロニアのウルを出発して以来、この地ペリシテ人の国にようやくたどり着いて寄留し、やがてそこに定着したものである(創世記第二十章以下)。しかし、とうぜんそこに先住民がすでに住んでいたし、そこで命の綱である水の湧き出る井戸をめぐって争いも起きた。

やがてアブラハムの子孫はそのカナーン地方に定着したが、アブラハムの子孫であるヨセフは飢饉が起きたためにエジプトに逃れる。ヨセフの一族はそこで栄えるがエジプトのファラオの圧迫を受けて奴隷の境遇に置かれることになる。その同胞を解放したのがモーゼであり、彼はふたたび先祖であるアブラハムに約束された土地に彼らを連れて帰る。すでにその時にはカナン人が住んでいたが、それをモーゼの跡を引き継いだヨシュアは、先住民を追い払ってそこに住む。ダビデ、ソロモンの王の時代に民族としての全盛期を迎えるが、それもやがてバビロニアの王国に滅ぼされ、この民族は俘囚の身となって連れ去られる(エレミヤ書)。

歴史的にもヘブライ民族はディアスポーラとして全世界に離散してゆく運命にある。それがほぼ2000年にわたって続くが、20世紀のドイツで行われたヒトラーのホロコーストをきっかけに、ユダヤ人はシオニズム運動により1948年にパレスチナの地にユダヤ人の国家イスラエルを建国する。歴史の眼からすればそれもつい最近のことである。

ユダヤ人が全世界を流浪していた間にも、パレスチナの地では、彼らの子孫とともに多くのイスラム教徒やキリスト教徒たちが先住民として住んでいた。しかし、イスラエルの建国とともに、彼らの多くが難民としての境遇におちいることになる。歴史的に見れば、パレスチナ人もイスラエル人もいずれもが加害者であり被害者でもある。

今日の国家としてのイスラエルは、その本質はユダヤ教徒の国家である。この民族の数千年にわたる全世界の流浪によって、セム系民族としての血統的なアイデンティティはほぼ失われており、現在はただユダヤ教徒であることが唯一の「民族」のアイデンティティとなっている。その意味で国家としてのイスラエルの存在は聖書の神の実存についての歴史的な存在証明でもある。

また、この神は三位一体の神としてアメリカの建国を導いた神でもある。その意味で、キリスト者はアメリカもイスラエルもいずれについても、国家としての神の実存の証明として、その歴史的な存在の必然性を注視せざるをえないものである。

戦争が人間にとって悲惨な出来事であることは、今も昔も変わりはない。なくて良いものに戦争ほどのものはない。それにもかかわらず、人類の歴史と戦争の歴史は歩みをともにしている。イスラエル人もパレスチナ人もそれぞれの生存権を相互に認めない「過激派」が実権をにぎっているかぎり、血を血で洗う流血は避けられない。両者が民主主義の神を認め、互いの宗教の自由、信教の自由を認めあうときの来るまで、この地に紛争の止むときは来ないと思う。

しかし、人間はその原罪の本性を変えることができるか。できなければ、その帰結は、「悪しき霊」によって集められた王たちと指導者たちによって、メギドの丘に行われる終末の戦争を待つだけのことかもしれない(ヨハネ黙示録第十六章第十六節)。

 

 

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ヨハネ書第一章第九節~第十四節註解

2009年01月08日 | 宗教・文化

 

ヨハネ書第一章第9節~第14節

9    まことの光があった。この光は世に現れて、すべての人を照らしだす。

10   彼は世にあった。世は彼によって造られたが、世は彼がわからなかった.

11   彼は自分のところに来たのに、民は彼を受け入れなかった。

12   しかし、彼を受け入れた者、彼の名によって信じた者に、彼は神の子となる力を与えた。

13   血によらず、肉の欲にもよらず、また人の欲にもよらず、その人々は神から生まれた。

14  そして、言は肉となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちは彼の栄 光を見た。父の独り子としての栄光は、恵みと真理に満ちていた。

ヨハネ書第一章第9節~第14節註解

ヨハネ書の第一章は旧約聖書の創世記冒頭を踏まえて書かれている。創世記では「はじめに神は天と地を造られた」とあるが、このヨハネ書では「はじめに言(ロゴス)があった。言は神と共にあった。言は神であった。言はこの世の存在する前からあり、言は神であり、言ははじめには神と共にあり、すべてのものが言(ロゴス)に由って神に造られた。被造物のなかで言によって造られなかったものは一つとしてなかった」といわれている。そして、「彼(言)の中に命があり、命は人間を照らす光である」(第4節)

ここに、「光」「言」「命」などの重要かつ根本的な概念が出てくる。ヨハネ書がほかの共観福音書と異なって、抽象的なギリシャ哲学の雰囲気を感じさせるのも、このような叙述の仕方にあるのだと思う。

この「言(ことば)」の原語「ho  logos」には定冠詞がついており、そこには論理、思想、理性、概念などの意味も含まれていると考えられる。それと同時にここでは、「言(ことば)」は「神」に等しいものに見なされている。そして、この「言(ho  logos)」の中に命があり、命は人間の光である。これがヨハネ書の世界観である。光も言も命もおなじ一つのものの属性である。(第4節)

そして、この光について証しをするためにヨハネが神より遣わされる。しかし、ヨハネは光そのものではないという。光に「真」と「偽り」があるのだろうか。ここで「まこと」というのは、本物と偽物において「本当の」というくらいの意味である。おなじ金色でも、本物の金とメッキの金のちがいのようなものだろうか。哲学的な用語でいえば、光の「概念」であり、光そのものである。(第8節)

ヨハネ福音書の記者は、ここで「まことの光」としてのイエス・キリストをすでに前提しており、彼がヨハネと比較されて述べられている。そして、この「まことの光」がこの「世」に来てすべての人を照らすと言う。照らすと言うことには、当然に闇の存在が前提されており、闇においては物事を識別できないということであり、光の存在によって、それに照らされて、わたしたちは物事の美醜や善悪などを明らかに認めることができるようになる。(第9節)

新共同訳の第10節では、「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった」と訳されているけれども、この個所には「言(ho  logos)」そのものではなく、代名詞の「彼=同一物(autos)」が使われている。だから、この世に来たのは、「言」であり「光」でありかつ「命」というものの全体をあわせもった「彼=イエス・キリスト」が、この世にすでに現れて来たことが示されている。

また、旧約聖書においては、全世界を創造したのは主なる神であるが、この新約のヨハネ書では、言が神と等しいものとされているから、この世もまた「言」によって造られたとも言う。だから彼(言)がこの世に現れ来るということは、ご自分のところに、自分のものであり自分の民のところに来ることになるが、彼のものである民は彼のことを認めようとはしなかった。「認めなかった」というのは、知らなかった、理解しなかったという意味もある。だから、受け入れることもできなかった。(第10節、第11節)

しかし、何人かは理解し受け入れ、その名を信じて、彼を手に入れた人もいた。その名というのは、命であり言であり、まことの光でもある方の名、すなわちイエスという名前である。彼(言)は、その人たちに神の子となる権利、資格をお与えになった。(第12節)

その人たちは、血筋に由ってではなく、身体の欲に由ってでもなく、人間の欲望に由ってもなく、つまり、わたしたちが結婚して子供をもうけるようなやり方ではない仕方で、神によって産み出される。だからその父は肉体の父ではなく、神が父ということである。言(ho  logos)を受け入れ、その名を信じることに由って、神を父として持つことになる。(第13節)

言(ho  logos)が人間の身体のかたちをとり、わたしたちの間にお住まいになった。その方の栄光を見た。彼(言が身体となってこの世に現れた方)は、愛と真理に充ち満ちた父のすなわち神の傍らにあって、その独り子として光輝いている姿をわたしたちは見た。光り輝く、栄光に満ちるというのは究極の価値を持つもの、崇拝の対象となる至高の存在についての比喩的な形容である。
(第14節)

 

 

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明けましておめでとうございます(3)

2009年01月05日 | 日記・紀行

明けましておめでとうございます(3)

日本の根本的な課題は、「道州国家」の実現を追求してゆくことです。それによって現在の国のかたちを変え、中央集権的官僚政治を壊してゆくことです。その上で、教育を変革して「地方主権」の行政を実行できるようにすることです。全国民がこのことを理念として深くよく自覚して行動すべきです。

政治家などに働きかけてゆくことも必要でしょう。そして、東京への一局集中による経済行動の不効率な弊害の多い現状を変えて行くことです。もし私たちが「道州国家」「地方主権」を実現することができれば、現在の官僚の天下りの問題も、妊産婦のたらい回しによる死亡事故のような医療行政の破綻、また哀れな教育の現状――それは東京大学を頂点とする大学入試制度によって起こされる愚かしい受験戦争に現れていますが、これらの問題はよほど改善されてゆくのではないでしょうか。

多くの面で起きている日本の閉塞の状況は、徳川幕府から明治期へ、さらに戦前戦後を通じて今に至るまで続いている現在の中央集権的な行政機構と、その上にたつ官僚制度(公務員制度)に根元的な原因があることは明らかです。この現状を打開するためには、まず「道州国家」を実現して「地方主権」を確立することです。それによって現在の硬直した中央集権的官僚制度を破壊することなくして、日本の抱える多くの問題の解決はできないと思います。

日本の発展を阻害している「中央集権的官僚制度」を破壊するキィワードは「道州国家」と「地方主権」です。このブログでも引き続き、「道州国家」と「地方主権」の実現に向けてさらに論考を深めてゆくつもりです。今年も志を同じくする皆さんとの議論も活発に交換できることを期待しています。

正月早々、長々と政治や経済のことを論じてしまいましたが、せめて正月くらい、芸術の香気もほしいものです。

折に触れて開く西行の和歌、山家集などはいつ詠んでも味わい深いです。そのいくつかを詠んでみます。せめて西行の足の踏む砂粒ぐらいの歌でも自前で詠じることができればよいのですが。

716     わがやどは    山のあなたに    あるものを
            なにに憂き世を    知らぬ心ぞ

719     思ひ出づる  過ぎにし方を  はづかしみ   
            あるにもの憂き    この世なりけり

1227    かかる世に    かげも変わらず    すむ月を
            見るわが身さえ    うらめしきかな

1261    折る人の    手には留まらで    梅のはな
            誰がうつり香に  ならんとすらむ

1514    ささがにの    糸に貫ぬく    露の玉を
            かけて飾れる    世にこそありけれ

1544    友になりて    おなじ湊を    出舟の
            ゆくへも知らず    漕ぎ別れぬる

今年もみなさんまた良いお年でありますよう。

 

 

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明けましておめでとうございます(2)

2009年01月04日 | 日記・紀行

明けましておめでとうございます(2)

正月の記事がとんでもない方向にそれてしまいましたが、もう少し続けます。

昨年の秋に、アメリカの証券会社リーマンブラザースの倒産に端を発して金融危機が全世界に波及しました。あれほど大きな収益を上げていたトヨタ自動車も一転して赤字予想を発表するなど、それ以降に世界の経済状況が一変しているようです。アメリカのそうした金融資本主義の動揺にも左右されることのない経済構造を、本当はわが日本国において造り上げてゆくべきなのでしょうが、対米従属国家の日本には、それは困難な課題であるようです。国民にその自覚はありませんし、指導者にもほとんど問題意識もなく、あっても、その努力すら怠っています。その付けが回ってきているというべきでしょう。国家も政府も多くの国民もそれぞれきびしい局面に立ち至っているようです。その打開は困難ですが、一人一人が何とか立ち向かって行くしかないようです。

年末年始の報道によると、東京の日比谷公園では、民間のボランティアが「派遣社員村」を開き、また、そのテントが足りないとかの理由で、桝添要一厚生労働大臣や大村副大臣などに、食料や住居など追加の要請をしていました。しかし、本当に必要なことは彼らが働いて暮らすことのできる「仕事」でしょう。もし、日本が本当のキリスト教国家、キリスト教の政府であるならば、民間のボランティアの要請を待つまでもなく、住む場所も食べるものもなく年を越さざるをえない人々のために、すでに中央政府も地方政府も十分な対策を講じていたはずです。またその事実は日本の現在の地方政府や中央政府の民主化がどれほど進んでいるかの尺度でもあります。

日本の国においても遅かれ早かれ、中央政府、地方政府ともに民主化されてゆくはずです。そのことによって2008年末の日本のように、住居や食料もなく年を越さざるを得ない人々もいなくなる時がくるでしょう。ただ、そうした時代の早く訪れることを期待したいものです。

今後の20年、50年の日本のさしあたっての課題として、具体的にはどのようなことが考えられるでしょうか。次のような目的を追求してゆくべきだと思います。

まず、日本において「道州制国家」の実現を全国民的な自覚的な運動としてゆくことです。そして現在のような東京の一極集中を分解して、それぞれの地方が政治と行政の権限を確かなものにして「地方主権」を確立することです。現在のように、中央官僚たちが全国の行政を一律に規制することによって生まれる役人利権という弊害が国家の癌になっている現状を改革してゆくことです。これを目的意識として国家の指導的位置にある人たちがもっと強烈にリーダーシップを取ることです。

現在の日本では、大企業の本社のほとんどが東京に一局集中しています。そのために、地震や戦争などの災害に脆弱な国家になり、また、交通渋滞などによるエネルギー消費や経済活動における無駄、不効率、環境破壊などの多くの問題が生じています。日本国におけるこの中央集権的な東京一局集中を破壊してゆくことが解決の根本的な方向になることは明らかです。またそれによって、新宿歌舞伎町に見られるような、退廃的な都市構造も解消してゆくでしょう。

中央集権的な上意下達式の、儒教的な官尊民卑の不効率な行政が、封建政治の遙か昔からの名残として現在も日本に残存しています。日本国民の意識と国家の制度もまだ事実として半封建社会にあると思います。地方の行政に自立性や主体性は育っていません。これを「道州国家」を実現してゆくことで解決してゆくことが鍵になります。歓楽街なども完全には無くならないかもしれませんが、「道州国家」によって「地方主権」を確立することで、少なくとも東京の歌舞伎町に代表されるような巨大な現代のソドムとゴモラのようなその醜い容貌はその様相を変えてゆくことでしょう。

しかし、たとえ「地方主権」が日本に実現したとしても、現在のような江戸時代のちょんまげの跡を残したままの日本人の意識では、衆愚民主主義になるだけかもしれません。今も「裏金問題」や労働組合の「闇専従」、地方行政の「情報公開」の不徹底、地方議会と議員などによるお手盛り行政、知事や市長、自治体議員などを選ぶ地方選挙の投票率のあまりの低さなど、地方行政の現状は、中央政府以上にひどく、とても「民主主義」の体をなしているとは言えないと思います。

 

 

 

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