作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

国家再建のためのメモ

2008年11月24日 | 国家論

 

これまでこのブログでも何度か書いた記事で、国家の再建に関わる事柄について、備忘録をかねてメモ書きしておこうと思う。後ほど、さらに論点を深めることができればいい。

一、腐敗し堕落した政党政治の再構築。選挙談合型利権屋政治から、政界を再編して理念追求型の自由党と民主党の政治へ。自由主義者は自由党へ民主主義者は民主党へ。自由主義は資本主義の立場に近く、民主主義は社会主義の立場に近い。二者相互の緊張関係と切磋琢磨でいずれも国民ために尽くす国民政党であること。国会議員の定数削減をはかり、政治家をモラルと見識における真の選良に限る。日本の政治をまともな「政党政治」に値するものにして行くこと。

一、立憲君主国家体制の追求。自衛隊と防衛省をそれぞれ国防軍と国防省に発展改組すること。同時に国民皆兵制度を確立する。封建時代は武士階級だけだったが、民主国家においては全国民すべてが国防の権利と義務と責任とを担う。

一、大学、大学院の改革。―― 官僚、政治家の資質低下、マスコミや教育の退廃と堕落、今日の国民におけるカルト、新興宗教の蔓延の傾向は、いずれも小中高教育の根幹をなす大学および大学院の教育能力の劣化、退廃によるところが大きい。公教育がその防波堤になりえていないためである。大学・大学院におけるヘーゲル、カント哲学の再興による弁証法教育、哲学科学教育を確立すること。教育立国を実現する。文部科学省、教育委員会、日教組を解体し、教育革命によって、根本から国民教育を再建してゆく。

一、国家体制、憲法の研究。とくにイギリスの立憲君主制国家、スイス、デンマーク、フィンランド、スウェーデン、ノールウェイなどの欧州、北欧諸国の政治経済制度、国家行政機構、憲法、学校教育、宗教などの研究。国会内に専門的な研究チームを立ち上げて本格的な研究に取りくませ、日本の道州制の実現に向けた指針を与える。明治維新以来の日本の国家体制の再構築のために都道府県制から道州制へと転換する。その際に、道や州は経済実力的には北欧諸国の一国に相当するものとして市民社会を構成する。

一、政治風土、政治文化の改革。とくに自民党政治家に見られるような、飲み食い、飲酒のなれ合いもたれ合いの湿った政治家の世界に、合理と能率の乾いた風を通すこと。二世三世議員の輩出も同じ文化的な土壌が゛背景にある。政治家の会合での飲み食いは原則廃止(せいぜいお茶・コーヒー程度)し、政治家・官僚の記者会見も、演説テーブルを使って原則立ったままで行う。座ったままでの記者会見は行わない。

一、社会資本の整備と充実を図る。道路やダム、その他の「箱もの」建設業やその他すでに衰退産業となった地方のローテク産業などスクラップアンドビルドの転換を図り、新規産業分野の開発と、産業構造の根本的な改革をはかる。雇用対策、不景気対策として取り組むべきは、ハイテク、バイオ、自然エネルギーなどの新事業の発掘、電気ガス水道などのライフラインの地中一括埋め込みなどの社会資本充実事業、都市農村の景観改善事業、ビオトープなどによる河岸美化と管理など。アメリカニューディール政策並に、不況対策の国家的プロジェクトとして実行する。

一、二兆円にものぼる定額給付金などの無効無策の経済対策ではなく、雇用機会と税収増加の見込める新規産業、夢ある未来産業の研究開発に取り組む。給付金は国民から自立心を失わせ、依頼心を増長させるだけ。政治家と官僚は夢と実ある政策研究にそのない頭を絞れ。

 

 

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勤労感謝の日

2008年11月23日 | 日記・紀行


今日は勤労感謝の日。山で畑仕事に関わりはじめたのも昨年の十一月だったから、まだ一年にもならない。ずいぶん長い時間が経っているいような気がしているが、まだ一年にしかならないのだ。先日からタマネギと麦のために畝づくりをはじめた。

去年はタマネギの苗をもらって育てたが、今年は種を播いて苗を育てることからはじめた。一ミリにも足りない小さな種から苗を育てる農業がこれほど繊細な仕事であるとは思わなかった。それはとくに箱庭農業の日本だけの特色なのかもしれない。アメリカやオーストラリアのような広大な農地を相手に耕作をやる場合は、ここまで繊細にはならないだろうと思う。私の大雑把な気質としては、トラクターを駆って大地を掘り起こす方が向いているように思う。
とにかく出遅れた種まきだったけれど、何とか人並みに苗は育った。

先の記事でも歌人の西行を取りあげた関係で、ネットで検索してみると、さすがに昔からの国民的な歌人らしく多くの人がブログやサイトで西行を取りあげ論じていた。とくに『digital 西行庵』さんなどは西行周辺の資料としてはこれ以上望めないほど充実している。また管理者の新渡戸広明さんという方は、理科系の人らしく、西行についての解釈をおこがましく語ることなく、ただひたすら客観的な資料そのものに西行の人となりを語らせようという謙虚な姿勢に徹しておられる。その他にも、西行に関する優れたホームページも少なくない。お気に入りに記録しておく価値のあるブログやサイトも少なくない。

いくつかの西行関連のネットサーフィンをしていて知ったことは、とくに、栂尾高山寺の開山として知られる明恵上人が、西行について聞き書きを残していることだった。知れば知るほど西行の姿が大きく重くなってくる気がしている。とくに西行の和歌も本当に知るためにも、仏教思想も知っておく必要もありそうだ。

また、東京工業大学教授の桑子敏雄氏に『西行の風景』(NHKブックス)という著書のあることを知った。それで先日、京都の図書館にその本のあることを知って借り出した。そして、今日読み始めた。

本を読んで、新しく視界が開けるという体験はそうざらにあるものではないけれど、桑子氏の『西行の風景』は、西行を見る新しい一つの視点を持たれているようで、示唆に富むように思われる。一言でいって、私には和歌の世界を思想的に哲学的に軽く見ているきらいがあったかもしれない。

書評は書いておこうと思っている。この本のキィワードは「空間」と「言語」である。私などはそんなときすぐに、なぜ「時間」がないのか、と生意気な反論を思い浮かべるが、大切なことは、私自身がどれだけ西行の真実に迫れるか、ということであるにちがいない。
桑子氏の「空間と言語」論は興味が持たれる。まだ三十ページほど読んだばかり。

先日、右京花園の宝金剛院を訪れたときのことを、紅葉紀行としてブログに書き始めた。偶然かどうか、ヘーゲルを読み囓っている私には「すべての個人は時代と民族の子である」という命題がつねに頭にあって、西行や待賢門院璋子などの歴史的な人物を論じる場合にも、場所と時代と伝統文化の視点で捉えようとする。おそらく私にとっての「場所」が先の桑子教授の「空間」と重なるところが多くあるのだろうと思う。この「場所」の概念は西田幾多郎などの哲学のなかでも重要な位置を占めているようだ。

先の記事でも、待賢門院が再建を尽くした宝金剛院が花園双ヶ丘という「場所」にあることを重視して、私の視点からその地理的な位置をできるだけ記録しておこうと思った。また、写真もいつになく多く撮ってしまったけれど、その風景もまた私という主観によって知覚せられ切り取られた客観的な世界の記録である。それが「風景」でもある。ただ残念ながら西行のようにそれを言語によって和歌として表象する力はない。
次は待賢門院璋子をめぐる歴史紀行にしたいと思っている。調べれば調べるほど、歴史についての無知が明らかになる。

 

 

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紅葉紀行(3)待賢門院璋子――青女の滝

2008年11月22日 | 日記・紀行

紅葉紀行(3)待賢門院璋子――青女の滝

それでも庭園の事跡に、わずかながらも待賢門院璋子の面影を偲ぶことはできるのか。とくに御堂の北東に木立の影に宝篋印塔をめぐって静かに端座している供養仏のたたずまい仏足石を眺めたとき、藤原璋子の信仰の名残を見たような気がした。

そこから少し南に歩いたところに青女の滝がある。名は滝でこそあれ、私が訪れたこのときには、流れ落ちる水はなく枯れていた。梅雨や夏の雨の季節にこの滝が蘇るのかそれはわからない。この滝が待賢門院の意思によって造られたことは確かで、それは璋子の当時の関係者の日記にも残されている。その後彼女の意向に添って、さらに滝の高さを増し加えられたことなども記録されている。青女の滝の水涸れの跡が、涙の枯れ果てるまで泣いた待賢門院や西行の面影のように思えた。

    秋深く芹なき野辺の滝枯れは恋ひしき人の涙の跡しも  

      
さらに池に添って歩いてゆくと歌碑が目に付いた。見ると西行のではなく待賢門院堀河の和歌が刻まれていた。

ながからむ心もしらず黒髪のみだれて今朝は物をこそ思へ(千載和歌集)

堀河の局が仁和寺に住んでいたことは山家集にも記録されている。往時この法金剛院も仁和寺の敷地の一部とされていたからこのあたりに暮らしていたのかもしれない。和歌自体は待賢門院とは直接関係はなく、後朝の思いに乱れる堀河の局の気持ちを詠ったものである。

いつどこで詠まれたのかわからないが、西行は次の歌を詠んでいる。

1033   なにとなく芹と聞くこそあはれなれ摘みけむ人の心知られて

これは美しい后の姿に恋心を抱いた殿守りが、ふたたびその姿を見たいと思って御簾近くに芹を供えたという故事によるもので、この歌からも、また西行や堀河の局たちが待賢門院を追悼して交わした和歌などからもわかるように、中宮璋子に仕えた人々のあいだには共通する思慕の情があった。

西方浄土への道案内として西行を頼りとしていたという堀河の局に、その甲斐が本当にあったのかどうか、もし生きているなら訊ねてみたくて詠んだ歌。

    黒髪の思ひみだれしきぬぎぬにたのみしひとのしるべ有りしか

さらに池の廻りを巡って行く。池の端に立って紅葉の向こうに御堂を眺める。夏にはこの池も美しい蓮の花で埋め尽くされるらしいけれども、秋の深まりつつある今はその面影はない。嵯峨菊の彩りが木陰に覗かれるだけである。

池の畔に植えられた山椒薔薇やナナカマドや黒椿、紺蝋梅などの木々の名前をその標識によって記憶しながら歩いた。紫式部も池に風情を添えていた。すでに葉を落とした沙羅双樹が、薄く曇った空に梢の枝先を突き刺すようにして立っていた。

南門の傍に小さな鐘楼が残されている。これも往時を偲ばせるものかもしれないけれども、青女の滝がわずかに小さく発掘されて残されているように、待賢門院の生きた頃の古図に描かれてある寝殿造りの御所は失われてないし、五重の塔も南御堂もない。かっては池もはるかに広く舟で渡ったという。

池の紅葉を振り返り見ながら歩いていると、背中に誰かとぶつかった。振り返ると異国の、きれいな女性が微笑んでいる。灰色の眼の柔和な表情で立っていた。嵐山などとは異なってほとんど人影もないこの古寺をひとりで訪ねて来たらしい。彼女の清楚な面影を思って詠む。

    夏過ぎてなほ咲きのこる外つ国の青き瞳の撫子の花

御堂の中に入れなかったこともあり、西行や堀河の局たちの面影を髣髴させるようなものはなかった。そして保元の乱で兄の崇徳院が讃岐に流された後、妹君の統子内親王、上西門院は1160年にこの地に隠棲したらしい。その面影も、庭先のどこを見回してもない。確かに待賢門院璋子は皇子や内親王の不遇を知ることなく亡くなった。しかし、それを幸いと言えるはずもない。

鎌倉幕府を開いた源頼朝も若き日には蔵人としてこの統子内親王に仕えていたという。その縁で上西門院統子に仕えた女房たちにも鎌倉幕府に縁のある者もいるという。また、不遇のうちに晩年を過ごしたらしいこの上西門院統子は、母に似て容姿が美しく、弟宮の雅仁親王(後の後白河天皇)と法華経読誦の早さを競い合ったりしたことが当時の歴史書、今鏡や愚管抄などにも記録されている。愚管抄の作者である大僧正慈円は、西行や藤原俊成などとも交流のあった歌人でもある。

今となっては法金剛院の境内に西行や待賢門院璋子らしき面影を偲ぶことのできるものはない。過去の歴史の中に消え去ったこれらの人々を蘇らせるためには、平家物語や保元、平治物語などの軍記物、また今鏡、愚管抄、栄花物語などの歴史物語をあらためて繙くしかないようである。また、そこに転変する時代の狭間に生きた人々の哄笑も落涙もともども映し描かれているようである。

駐車場を出ると来た道を戻り、仁和寺の前を南に向かい、嵐電の御室駅の前を過ぎて帰る。                                                                                              

                           

 

 

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紅葉紀行(2)待賢門院璋子――歴史

2008年11月21日 | 歴史

 

紅葉紀行(2)待賢門院璋子――歴史

私が訪れたときには、駐車場にも、またそこから拝観受付所に通じるあたりにも人影はなかった。紅葉は目に付いたが、その色つきからまだ絶頂を迎えていないことはすぐにわかった。

拝観受付所で呼び鈴を押すと、ご住職とおぼしき袈裟姿の男性が奥の方から出てきた。拝観料と引き換えにパンフレットを受け取る。東の御堂の方に向かって歩きはじめて間もなく、後ろから二人連れの女性の歩いてくるのがわかった。私はその時お寺の中をゆっくりと見回りたかったし、またカメラにも記録しておきたかったので、彼女たちに先に行き過ぎてもらうことにした。それで御堂の間の道に入り、脇に咲いていたこれまで見たこともないような大きな鶏頭の花や、黄色い実をつけた千両などを眺めていた。

仏殿は修理中のために拝観できなかった。待賢門院璋子たちによっても多くの仏画、仏像などが寄進されたのだろうが、来年四月まで見ることができない。落ち着いた桜の季節の頃にふたたび訪れてもよいと思う。

藤原冬嗣を祖とする藤原北家の公実の女として待賢門院璋子は1101(康和三)年に典侍藤原光子を母に生まれている。七歳の頃に父と死に別れ、白河天皇の猶子となった。このことが藤原璋子の生涯を決定づけることになった。

藤原氏の摂関政治の全盛を誇った藤原道長の没した1028(万寿4)年からこの頃すでに八〇余年を経過している。藤原氏が外戚となり摂政関白の地位によって実権を握る政治は続いていたが、白河天皇には藤原氏とは姻戚関係はさほど深くはなかった。

白河天皇の治世については、平家物語のなかでも「みずからの意のごとくにならないものは、賀茂川の水と、双六の賽と山法師のみである」と語られている。歴史的にも白河天皇は院政をほしいままにしたことでも知られている。白河天皇の後を嗣いだ堀河天皇が若くして亡くなられて、孫の鳥羽天皇がわずか五歳で即位する。このとき白河天皇は法皇として幼い新天皇を後見し、藤原氏の外戚を排除してみずから親政を執り行うことになる。

鳥羽天皇もその誕生と同時に母である藤原苡子を失ったために、鳥羽天皇もまた祖父白河天皇に引き取られ養われていた。だから時を経てほとんど運命的に璋子は入内し、そして鳥羽天皇の中宮となった。もともと璋子も鳥羽天皇も白河法皇の猶子どうしである。二人は白河法皇の寵妃、祇園女御に養われていた。しかも鳥羽天皇の母である藤原苡子はまた璋子の父である藤原公能の姪でもあった。

歌人の西行法師は出家前にはこの鳥羽天皇に北面の武士として仕え、藤原璋子の兄である藤原実能の家人であった。だから藤原璋子は西行と関わりが深かったはずである。

仏殿が工事中であったので拝殿することもできず、藤原璋子の事跡を偲ぶことのできるものは境内に見あたりそうもなかった。ただ、いかにも嵯峨野にある寺らしく、御堂の傍らに色とりどりの嵯峨菊が鉢に植えられて並べられていた
西行が法金剛院を訪れたときに、いつどの場所で待賢門院を懐かしんだ和歌を詠んだのかはわからない。しかし、出家して間もなく西行は嵯峨野に庵をもって隠棲していたし、嵯峨野から内裏までの途上にあるこの双ヶ丘の地に仁和寺や法金剛院は位置しているから、西行も折に触れて立ち寄ることもあっただろう。

鳥羽天皇の譲位にともなって璋子は待賢門院の院号を賜る。この待賢門院に生まれた皇子顕仁親王(崇徳天皇)が鳥羽天皇の皇子ではなく祖父の白河天皇の落胤であるという噂は昔からよく知られていたらしい。それは歴史的な文書である古事談などにも記録され、また鳥羽天皇が崇徳天皇について「叔父子」であると語ったことなどが伝えられていることによるらしい。

また、それらを根拠にされたのだろうと思われるが、現代において待賢門院璋子の生涯を詳細に考証された角田文衛氏などは、女性の月事なども手がかりに古事談の記述を事実として立証されようとしている(『待賢門院璋子の生涯』朝日選書)。しかし、果たしてそれは真実であっただろうか。

ただ、若い日の待賢門院璋子がかなり放埒であったことは確かであったようである。しかし、この時代の人々を現代人の倫理意識によって批判しても真実を洞察することにはかならずしもならないと思う。ただ、この藤原璋子が養父である白河法皇の深い愛情を受けて育ったことはまちがいはなく、またその影響を受けたことによるのか、自身も仏教に深く帰依されたことは明らかだ。この法金剛院の建立に尽くされたことや、また、たびかさなる熊野参詣などによっても、待賢門院の信仰と立場が推測されうる。

もともと平安期のはじめに清原夏野が建てた山荘のあとに文徳天皇が天安寺を建立し、そのあとに待賢門院によって再建されたのがこの法金剛院であるといわれる。白河法皇や鳥羽上皇に寵愛されて待賢門院璋子は栄華を誇った。その歴史的な事跡として今も残されているのがこの法金剛院である。

そして彼女が熱心に行った寺院建築や熊野参詣が当時の荘園制度の発達と、そのうえに立った経済基盤の上にあったことは明らかで、院政によって強大な権力を保持しえた白河法皇の時代の背景には、すでに藤原道長の摂関政治の全盛期は過ぎ、その力が弱まっていたこともあった。

また荘園の発達は法皇やその庇護を受けた寺社に大きな富をもたらす一方、その権益を実力で保証する武家が、公家や貴族に代わって台頭して来ており、世相にはすでに末世的な時代の転換期を予感させるものがあった。

待賢門院璋子はこうした時代に生きた女性で、彼女自身は生前にその悲劇を目撃する不幸は免れたものの、その没後十数年にして皇子である崇徳天皇は反乱の廉で(保元の乱)讃岐に流されることになる。そうした時代の不安は晩年の璋子にも忍び寄っており、それがいっそう深く彼女を仏教に帰依させることになったにちがいない。

京の町ではすでに璋子の時代にも多くの邸宅が放火によって焼失することも少なくなかった。その後さらに時代をさかのぼる応仁の乱など、度重なる戦火によっても、内裏の邸宅など京都の多くの市中が灰燼に帰している。この法金剛院も待賢門院が建立した当時とは大きく姿を変えているともいわれる。さらに近代現代の都市の発達で、この法金剛院も敷地の多くは切り取られ失って、待賢門院往時の壮大な光景は失われている。

 

 

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紅葉紀行(1)宝金剛院――地理

2008年11月20日 | 日記・紀行

   

  十月の中頃、宝金剛院の紅葉見けるに、上西門院おはします由聞きて、
  待賢門院の御時思ひ出でられて、兵衛の局に差し置かせける

  紅葉見て 君がためとや  時雨るらん  昔の秋の 色をしたひて

                            山家集

紅葉紀行(1)宝金剛院――地理

焦かれる思いで出かけたけれど紅葉にはまだ余裕があった。春の花にせよ秋の紅葉にせよ、そのもっとも美しい盛りに巡り合わせるのはむずかしい。

だいたい京都に出るときはまっすぐ東に走って桂大橋の西詰めまで出る。そして洛北を目指すときには橋を渡らずそのまま桂川の左岸をまっすぐ北に上がる。洛中に出る場合はこの橋を渡って行く。

この桂大橋の西詰めには桂離宮がある。これほど近くを何度も通り過ぎながらこの離宮の中にまだ一度も入ったことがない。いや遠いむかしに誰かに連れられて来たことがあるかもしれないが、すでに多くの観光地名所と一緒になってしまって定かではない。それほどに神社仏閣にはさしたる関心もなかった。しかし今は、この桂離宮はできるかぎり近い内に見ておきたいと思うばかり。

洛西から洛央に入るためには、いずれにせよ桂川を渡らなければならない。桂大橋でなければ上野橋を渡る。桂川に架かる橋にはその他に久世橋、久我橋、羽束師橋、五条西大橋などがある。行き先によって渡る橋も代わる。紀貫之たちの生きた昔は土佐日記にもあるように、難波から京に入るためにはみな淀川からこの桂川を上って行った。

山家集で待賢門院に寄せた西行の歌を詠んだ縁で宝金剛院を訪れてみようと思い立つ。場所は花園近くと聞いていたから、距離としては桂大橋を渡っていた方が近い。けれど途中に嵐山にも立ち寄ろうと思い上野橋から行くことにする。

上野橋を渡り桂川の右岸に沿って北に走るとやがて左手に松尾橋が見える。さらに北に走ると嵐山や遠く愛宕山の山容が姿を見せ始める。桂川のせせらぎは午後の陽光を川面に照り返していた。ススキの穂が川面の光を背に風に揺らいでいる。荻と区別ができない。

遠くの小倉山や愛宕山のあたりをながめても、まだ紅葉には間があるように見えた。西行が詞書きに詠っていたように「紅葉未だ遍からず」で、「かつがつ織れる錦」にも至っていなかった。

それでも秋は秋で、ところどころの黄葉と紅葉は美しい。画布に向かい油絵の具を手にすることもできないから、持参したデジカメにせめて秋の名残を留めておこうと数葉の写真を撮る。できるだけ人出を避けるために平日を選んできたけれど、すでに秋の観光シーズンに入っているのか、嵐山にはもうかなりの人出があった。

渡月橋の橋のたもとは観光客で混み合っていた。その間を抜けて大堰川の右岸にそって往くと右手には何軒かの料亭が列んでいる。このあたりの料亭で宴会に出た記憶も今はもう忘却の淵の中。時雨殿の前を通って夢窓疎石の開山になる天龍寺の境内に入る。境内の紅葉はよく色づいていた。

勅使門から出て山陰嵯峨野線を横切り新丸太町通りまで出る。このあたりは観光客と自動車の列で混み合っていた。嵯峨小学校の脇を抜けてそのまままっすぐに往けば清涼寺に出る。ここから大覚寺や落柿舎も近い。またいつの日か時間を掛けて歴史探索に訪れる日を期待して、今日は東にまっすぐ目的の新丸太町通りを行く。二時を少し回っていた。

京福常盤駅を過ぎ双ヶ丘の交差点を横切り、花園黒橋のバス停に至ったときふと脇を見ると法金剛院の標識のある駐車場が目に入った。地理を探すのに手間取るかもしれないと思っていたのにあまりにもあっけない。

 

 

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秋色深まる

2008年11月18日 | 日記・紀行

秋色深まる

十一月に入って、大原野、大枝あたりの農園の柿が色づきはじめのを見て、去年一昨年と、とくに印象に残るような紅葉の季節を見ないで過ごして来たことを思い出した。今年は都合をつけて、時期をのがさず何とか紅葉の記憶を留めておこうと思っていた。

それなのに、日々の忙しさにかまけている間にもう霜月を半ばも過ぎてしまう。うかうかすると、今年も秋の紅葉を見過ごしてしまいそうな気がする。それも少し気にかかって、歌人の西行さんはどのように紅葉を見て記録しているのか、調べてみた。

      題知らず
472   いつよりか紅葉の色は染むべきと時雨にくもる空にとはばや

いつ頃から紅葉の色が濃く染まり始めるのだろうかと秋の時雨の空に訊ねてみようと思ったと西行は歌っている。

今日は風も強く、きのうおとといに比べて、当地もめっきり冷えた。最高気温でも十四五度だと気象台が報じていた。

山家集の秋の巻は、和歌を詠みすすめてゆくに連れて、紅葉の錦が次第に深く染まっていく光景が眺められるようになっている。初めはまだ紅葉も疎らである。ところどころ、かろうじて色をなして織った錦のようである。さらに一歩一歩山道を奥深く辿るにつれ、時雨の露を帯びる一雨毎に、緋の色も濃く染まってゆく。古今和歌集が春夏秋冬の四季の移りゆく景色を錦絵巻のように展開させているのと似ている。

     紅葉未だ遍からず
473  糸鹿山  時雨に色を  染めさせて  かつがつ織れる  錦なりけり

どこかにすでに書いたかも知れないけれど、私がこれまでに見たなかでもっとも美しいと思った紅葉は、むかし鞍馬の山道を歩いていて出会った。全山が紅葉の陽に照り映えた中に迷い込んだように思われた。その時と場所の巡り合わせは神の恵みというほかない。

        落葉網代に留まる
504   紅葉よる  網代の布の色染めて  ひをくくりとは見えぬなりけり

いずこからか流れてきた紅葉が網代の白い布に絡まって冬魚を捕る網代のようにも見えなくなってしまう。川のさざ波に揺れる紅葉の緋の色が網代にいっそう色鮮やかに映える。紅葉をもっとも美しく詠った歌かもしれない。しかし、これは川に紅葉の散った冬の歌である。

一山の紅葉の自然な色美しさもそれに人事を絡めて詠まれるようになってくると、いっそうその切なさが募ってくる。人がもっとも心をときめかせるのはやはり人と人との関係に対してであるから。

      寄紅葉懐旧といふことを、宝金剛院にて詠みける

795  いにしえを恋ふる涙の色に似て  袂に散るは紅葉なりけり

ここで西行が懐旧に涙を流しているのは、宝金剛院を再興した待賢門院を懐かしんでのことである。待賢門院璋子は西行がまだ在俗の頃に仕えた鳥羽天皇の中宮だった。この中宮に仕えた女房の堀河など待賢門院璋子に縁ある人々との交流を詠んだ和歌も西行には少なくない。

西行を取り巻く人間関係も生きた時代も調べてみると面白いと言うか、なかなか複雑であることもわかった。

西行の仕えた鳥羽上皇の中宮は先にも述べた待賢門院璋子である。この人は鳥羽上皇の祖父であった白河法皇の養女でもあった。そして、待賢門院に生まれた皇子、すなわち後の崇徳天皇は実は白河法皇のご落胤であったらしい。

そのため法皇として権勢を振るった白河法皇の死後に崇徳天皇は譲位させられ、鳥羽上皇の皇子である近衛天皇が跡を継ぐことになった。しかし鳥羽上皇の死後さらに異母兄弟の間に帝位をめぐって争乱(保元の乱)があった。

平家物語にもその栄華を謳われている平清盛と西行は同い年で、互いに北面の武士として同じ鳥羽上皇に仕えた同僚であったという。そして西行が二十八歳の時に待賢門院璋子は四十五歳でなくなっている。西行はこの待賢門院璋子に惹かれていたらしい。

そして待賢門院璋子が再興しそこで落飾したとされる宝金剛院を西行が訪れたとき、すでになき待賢門院を偲んで詠んだのがこの歌である。

この宝金剛院は今も右京花園に残されてあるらしい。そこに待賢門院の御陵もあるようだ。サイクリングで行けない距離でもない。暮れ果てる秋の形見に紅葉でも眺めに出かけようかと思う。

      暮秋
488   暮れはつる秋の形見にしばし見ん紅葉散らすな 木枯らしの風

 

 

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NHKの言論自主規制

2008年11月16日 | 教育・文化

NHKの言論自主規制

 

今月の初めに航空自衛隊の田母神俊雄元航空幕僚長が解職されるという事件があった。田母神氏が民間会社の懸賞論文に応募して、そこで明らかになった歴史観が政府見解と異なるという理由によるものである。この問題は新聞の全国紙においても、その是非についての意見はとにかく、取りあげられるほどの社会問題になっていた。

そうして11月13日、この田母神氏がに参院外交防衛委員会に参考人として招致されることになった。私はこれほどの社会問題になっているのだから、当然のことながらNHKで中継放送されるのだろうと思って、当日にNHKの番組を見てみたのであるが、放送日程には組み込まれていなかった。

世論を二分するほどになっているこれほど大きな問題を、その当事者が国会で発言するというのに、なぜNHKは報道し中継しなかったのだろうか。参院外交防衛委員会での田母神氏に対する質疑を聞いて国民はその是非を判断するはずだったのだ。NHKの報道の取捨選択の基準はどこに、また誰に権限があり、また放送の公正さを公的に検証する機関はどのように存在しまた公開されているのだろうか。それが気になった。

今それらを直ちに調査する暇はないけれども、ただ近年のNHKの番組を見ていて感じていることを書いておきたい。

NHKで働く人々のジャーナリズムの能力は、その真実の追求と報道の能力は、その番組制作能力とともに著しく低下してきているのではないか。ひと昔前のNHKの仕事のようには高く評価はできなくなっている。果たしてNHKは日本の放送文化の格調を保つうえで指導的な役割を果たしているのか。最近はその意思も能力も失われつつあるのではないか。また、NHKで働く人々の資質もそれだけ落ちてきているのではないか。民営放送番組と同じような大衆に媚びる番組も著しく増えているようにも思う。

最近は確かにインターネットの発達などもあって、以前のように新聞やテレビだけに情報も限定されることはなくなっている。私たちはかならずしもテレビに頼らずとも、ネットテレビなどによる視聴の機会も増えている。が、それにしても、ほとんどの新聞の社説にも取りあげられている田母神論文問題の、その当事者が国会に参考人に招致されているというのに、それをNHKが中継報道しないという、その判断を疑問に思う。

かって以前にも、NHKが明らかに報道を自主規制していると思われることを経験したことがあった。その時の傾向が相変わらず改善されず、事態がそのまま続いているように思われることである。

もう何年も前になってしまったけれども、 冬季オリンピック大会のフィギアスケートで荒川静香選手が優勝したとき、金メダルを授与されたその表彰式後に、静香選手は日の丸を着てウィンニングランで観衆に応えてリンクを周回していた。そのときに静香選手の跡を追っていたNHKのカメラマンは、突然カメラを天井に焦点を据えたままにして、日の丸を背負った静香選手の美しい姿をまったく国民に伝えようとしなかった。荒川静香選手の背負った日の丸の姿を、その時NHKは共同放送していた韓国などの他国に「気を遣った」ためであるとも言われている。 

                                

NHKの国家観

HKの国家観②

また、俳優の関口知宏さんの登場した中国の鉄道紀行番組で、青蔵鉄道を紹介していたときも、この鉄道のもつ問題をチベット民族の立場から報道するということも一切なかった。

中国チベット動乱と日本

NHKの報道姿勢

NHKで働く人々は言論の自由や報道についてのしっかりした哲学とジャーナリストとしての主体性を持つべきであるし、また日本国民に対する教育的使命やその責任の重要性ということを、今いっそう自覚する必要があると思う。

とくに大衆の劣情に媚びる番組ではなく、番組の自主制作能力をもっと高めて、また、土曜日の重要な時間帯に韓国、中国やその他の外国製のテレビ番組の安易な購入などに依存したりすることなく、以前のように本当に楽しくまた価値ある国産の番組の制作と放映に努めてほしい。

また、同じ公共放送であるイギリスのBBCやドイツのZDFのインターネット放送サービスなどに比較すれば、技術的にも完全に立ち後れている。NHKよ、もっとしっかりしてほしい。日本国民の受信料で信頼を受けて経営を託されているのだから、それはNHKの当然の責務であるはずである。

 

 

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悟性的思考と理性的思考

2008年11月12日 | 哲学一般

 

悟性的思考と理性的思考

hishikaiさん、懇切なご返事ありがとうございます。現在話題になっていて、昨日も参議院の外交委に参考人として招致されて意見を述べていた田母神前空幕長の懸賞論文問題について、今ちょうど私も論じようと思っていたところでした。

今回のあなたの文章を読んで、あなたの問題意識がさらによくわかったように思います。いくつかの興味ある論点がありますが、時間も限られていますので、とくに気にかかった二三の点に絞って私の考えを述べさせてもらおうと思います。

一つはキリスト教の問題です。これは今回のテーマである「グローバリズムと伝統」の問題とは少し外れています。それにもかかわらず、あなたがご返事の中でかなりのウェイトをもって語られているのが印象的でした。この問題についても、もう少し補足して述べておいた方がよいかもしれません。

その中であなたはカルヴァンの予定説を取りあげられていました。それについて私はよく知らないので断定はできないのですが、「人間倫理の最終的な課題は絶対者に預けておくことができる」というその言説は、何か現実回避の、あるいは勝手な人間の現実逃避のような印象を持ちます。

いずれにせよ、有限な人間に、肉体を背負った人間に完全な倫理をそもそも求めることはできないのだと思います。自然的な人間は「悪」であることを宿命づけられていると思うからです。あの大金持ちの青年に対してだけではなく、すべて人間に完全な徳を、完全な倫理を求めるのは、昔のユダヤ人のように律法主義に陥るのではないでしょうか。

人間が自力で自分を救うことができるなら、何もイエスが十字架で死ぬことはなかったのではありませんか。「律法によっては罪の自覚しか生まれない。神の前には誰一人として正しい者はいない」とも書かれてあります。(ロマ書3:20)

先の論考で引用した「持ち物を売り払って貧しい人に施し、私に付いて従え」というイエスの言葉を、「律法」のように受け取られているのではないかと気になりました。新約聖書以後の今日に生きる私たちには、そうした律法主義からは解放されているのではなかったでしょうか。「人が義しいとされるのは律法の行いにではなく、信仰による」とも書かれてあるのではないですか。(ロマ書3:26)

また、hishikaiさんがおっしゃるように、「世間」が最終的な価値基準であるような伝統の私たちの社会で、仏教の「無の哲学」や、あるいは儒教のような「有の哲学」に終始するときは、前者おいてはすべてが「虚無」の中に解消され、後者においてはすべてが政治主義に陥ってしまうのではないでしょうか。

そして、もう一つの問題、これが私たちが今回のテーマにしていることだと思いますが、「袋小路の設問」の問題があります。

「袋小路の設問」とはあなたの文脈でいえば

①「西欧化の不可避」と「伝統文化の防衛」、
②「全体の状況(グローバリズム)」と「伝統の縮約である諸基準(ナショナリズム)」

などのそれぞれ二者が「一体不可分であるディレンマ」にある中で懊悩している事態です。

hishikaiさんは、私の論考のなかに「アメリカグローバリズムの悪しき申し子竹中平蔵や堀江貴文」と「日本の古き良き伝統文化」の対立設定による衝突、あるいはその優先順位を巡るディレンマを発見され、そしてその懊悩の捌け口を反米に、あるいは反日の憤激の中に(またその反動としての媚米と自惚れ愛国心に)解消しようとする傾向を社会に見て、その解決の理路を探らんとされておられるようです。

こうした問題提起で感じるのは、いわゆる「悟性的思考」の限界であるように思います。二律背反する二者の矛盾関係を、「悟性的な思考」が解決することができず、ニッチもサッチも行かずに懊悩し破綻して自暴自棄に陥る有様です。

問題の核心は、悟性的な思考による「袋小路の設問」ではなく、理性的な思考(弁証法的な問題認識)による「出口の見える設問の仕方」ができるかどうか、その能力にあると思います。

hishikaiさんが述べられたような「二律背反」する矛盾関係の問題解決のためには、どうしても理性的思考(弁証法的思考)が必要であると思います。それら相互に対立し矛盾する二者を否定し去ることなく、それぞれを契機として含む新しい状況にアウフヘーベンする方向で問題解決をはかるべきでしょう。

その能力を育成すること、弁証法的な問題解決能力を日本人も修得すること、これが核心的な課題であると思います。私が以前に「国家指導者論」で、大学や大学院教育の中心課題が、弁証法的能力の育成にあると主張した根拠もここにあります。
以前にブログ上で議論のあり方について考えたことがあります。

「ブログでの討論の仕方」

そして、「伝統とグローバリズム」を巡る議論は、私の方は取りあえずここまでにしたいと思います。さらに興味あるテーマで、議論、討論のできることを楽しみにしています。

 

 

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グローバリズムと日本の伝統

2008年11月08日 | Weblog

グローバリズムと日本の伝統

hishikaiさん、コメントとTBありがとうございました。
あなたの2008年11月4日の記事『伝統とグローバリゼーションを読ませていただきました。しばらく所用で時間がとれず、すぐにご返事できませんでした。あらためて読み返してみて、感じたこと考えたことを書きます。あなたの記事を私が誤解しているとすればご指摘いただきたいと思います。

私の先の小論「ソフトバンク孫正義氏にみるグローバリズム 」に対するあなたの批判の要点は、最後の結論の段落に書かれていると思います。引用します。

>>

「全体の状況に注意を払う必要があるのは、私達の生活とそれに伴う伝統が常にその中にあり生きて変化しているためである。全体の状況と伝統の縮約である諸基準とでは、特に時代の分岐点にあってその選択が迫られた場合には、本来的な拘束力で全体の状況が優ると考えなければ伝統それ自体の存続をも危うくする。

例えば明治の文明開化にあって我国の建築家が和風建築から洋風建築へと様式の変更を迫られたとき、建築家の胸にどのような選択が働いたであろうかということを、後世の私達は現在に残る和洋折衷様式の中に発見することができる。それを残念でありながらも最善の選択であったと許すことは卑怯な考え方だろうか。

あるいは弁護士が自分の客に請求された賠償額が妥当ではないと主張するときに「この賠償額は不正だ」と言うだろうか。そうではなく彼は全体の状況に照らして、請求された賠償額は「現在の一般的な水準からはずれている」と言うべきではないだろうか。さもなければ彼は信用を失い、客は全てを失うのではないだろうか。」

>>引用終わり

ソフトバンク社の孫正義氏が「女優のお二人に、一台一千万円もする携帯電話端末をプレゼントされたこと」(以下、孫正義氏の「販促営業行為」と言います。)に対して、先の小論で私は、「日本の先進的な経営者として倫理的にも正しいのだろうか」という問いを投げかけました。

それに対し、 hishikaiさんは、「倫理的にも正しいのだろう」かという私の「狭量な」問題提起は、「現在の一般的な水準からはずれている」というべきではないか、そうでなければ「全体の状況」を見失って、「伝統の縮約である諸基準」すらも誤解され、その「信用」をも失ってしまうと言われているのだと思います。

つまり、孫正義氏が行った「一千万の携帯電話端末のプレゼント」という時代の「全体の状況」は「伝統の縮約である諸基準」に優先されるべきで、さもなければ、「伝統の縮約である諸基準」そのものも存続を危うくしかねないと述べられているのだろうと思います。

hishikaiさんの見解についての私の以上の理解が間違っていないとしたうえで論を進めます。

先の私の小論での用語については、一般的に常識的な概念理解を前提にして論じたつもりでした。が、たとえ学術論文でないとしても、もう少し用語の意味の輪郭をはっきりさておいた方がよいと思います。

ここでの重要なキィワードは「伝統」と「グローバリズム」(あるいは「グローバリゼーション」)だろうと思います。何をもって「伝統」と言うか、また、「グローバリズム」と言うかという問題です。さらにhishikaiさんのおっしゃる「伝統の縮約である諸基準」についても同じことがいえると思います。

私が「伝統」ということばで考えている中身は、普通に日本人が「武士道」などということばでイメージされている、質実倹素な生き方、暮らし方ぐらいの常識で考えてもらえればいいと思います。

私たちの生きる現代の観点から、継承されるべき伝統と否定されるべき伝統のあることは当然です。「伝統」のすべてが、継承、存続されるべきであるとは誰も考えてはいないでしょう。先の小論ではかならずしも厳格に規定はしていませんが、「江戸時代の身分制度」や「戦前の小作人制度」などを、「伝統」の範疇の中にまったく含めていないこと、また、明治時代の「和洋折衷文化」も必ずしも否定していないことも了解していただける思います。

先の私の小論では誤解を招きかねない点があったとすれば、明確にしておく必要があると思います。言うまでもないことですが、「孫正義氏の「一千万円携帯電話端末プレゼント」自体が、法律的にも道徳的にも「悪」であると断罪しようとするものではないということです。

孫正義氏はソフトバンク社の経営者として、営業、販売促進のキャンペーンの一環として、当然の営業行為としてなされたのであろうと思います。ですから当然に私の先の小論の見解も、孫正義氏の「販促営業行為」は法律的にも道徳的にも違反している、すなわち「悪」であるから中止せよ、といっているのではありません。

売り上げの向上という観点から、企業経営の立場から見れば、私の見解がかならずしも正しいとは言えないかもしれません。それに、私がそのようなことを言ったからといって、孫正義氏がそのような営業上のキャンペーンを中止するはずもないでしょう。

孫正義氏の「販促営業行為」は「悪」ではありませんから、続行しようが、中止しようが、いずれにせよ私にそれを阻止する義務も権利もありません。そうしたことは本質的には私にはどうでも良いことで無頓着です。

しかし、ただ私の価値観からいえば、孫正義氏のような「販促営業行為」は「悪」ではないが、経営的にも倫理的にも「低い」とは思っているということです。その見解を一市民の一つの意見として述べただけであります。それ以上でも以下でもありません。その点で「倫理的にも正しいか」と言う表現は、かならずしも適切ではなかったかも知れません。

ちょうど、聖書の中に次のような話があります。

「永遠の命」を探していた大金持ちの青年とイエスが出会ったとき、イエスはその青年に言ったそうです。「もし完全になりたいのなら持ち物を売り払って貧しい人に施し、そして私に付き従ってきなさい」と。イエスがそう勧めると、青年は「悲しみながら立ち去っていった」そうです。(マタイ書19:20、ルカ書18:22、マルコ書10:21など)。

もちろん、その青年がイエスに付いて従わなかったからといって、彼が「悪」を行ったことにはなりません。ただ、イエスの価値観からすれば、青年は倫理的には完全ではなかったというにすぎません。

先の私の小論は、日本の企業文化、経営者の意識についての問題提起にすぎません。「一千万円携帯電話端末のプレゼント」も、ひと昔まえの一般の日本人の価値観では、かならずしも賞賛されるようなものではなかったのではないかと、ただ私が推測するだけです。そうであれば、私の価値観はそれに近いと思うだけです。そして、現代日本においては私のような意見は、多くの人に一笑に付されるだけだと言うこともわかっているつもりです。

グローバリズムもすべて否定されるべきだとも考えている訳ではありません。グローバリズムの本家とされるアメリカでも、先に議会でやり玉に挙げられたリーマンブラザースのような経営者ばかりとは限りません。むしろ、公平に見て、企業倫理は全体として見れば、日本よりは欧米諸国の方が高いのではないかと思っています。日本的経営は、多くの点でいまだ国際水準にさえ達していないのではないかと思います。西尾幹二氏などと異なって、いわゆる「小泉改革」なるものが中途半端の失敗に終わったと考える所以です。

さらに付け加えれば、アメリカやイギリスなどのヨーロッパ諸国のグローバリズム、自由主義、個人主義には、キリスト教という宗教的な「伝統」が存在していますが、それをまねた日本の「戦後民主主義文化」にはキリスト教に相当するものがないこと、などもその背景にあると思います。

ですから、孫正義氏の「販売促進営業活動」に対する、一介の市民にすぎない私の見解は、hishikaiさんの言われるような「伝統の縮約である諸基準」に反するものであるとも思いませんし、したがってまた、そうした見解が「全体の状況」に反するために現代日本人の信用を失って「伝統の縮約である諸基準」そのものも存続できなくなるようなものとも考えません。

最後に、グローバリズムの帰結として生じた、いわゆる「経済格差」について、言い添えますと、「経済格差」そのものがあってはならない、というものではありません。
努力や能力に応じた「格差」がなければ、「悪平等」になってしまいます。ただ、それが固定化すると、社会内に一つの中に階級制度が生まれかねません。

課題は、「格差」自体を無くすことではなく、それを固定化させることなく、階層間や、「階級」間の流動化を十分にはかって、制度としての階級を作らないことです。

「いわゆる格差問題について」 

 

 

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ソフトバンク孫正義氏にみるグローバリズム

2008年11月03日 | ニュース・現実評論

上戸彩1298万円ケータイ「父」に見せます(日刊スポーツ) - goo ニュース

ソフトバンク、お披露目

ソフトバンク孫正義氏にみるグローバリズム

ソフトバンク社はパソコンやインターネットの普及にともなって発展してきた会社である。この会社を率いてきたのは孫正義氏である。かって電信電話事業が旧国鉄と同じように電電公社という特殊法人による独占的な企業体だったころから電気通信事業に新規参入し、さまざまな規制の壁と闘いながら、インターネット事業の開拓において先駆的な役割を担ってきた。

ソフトバンク社の経営者として孫正義氏が登場してきた時代の背景は、小泉元首相が郵政民営化を掲げて登場してきたときと重なっている。それはアメリカの金融資本が、日本の証券市場において利益を獲得するために、日本の商業慣行や閉鎖的とされた金融システムに国際標準規格を持ち出して、強く国際化グローバル化を迫り要求してきた時代と軌を一にする。

大蔵省の護送船団方式にあぐらをかいて遅れをとっていた日本の金融システムや旧郵政省の傘下にあって巨大化した郵便局銀行、簡易保険と旧電電公社に代表される通信事業などは、官僚行政によって保証された独占事業のゆえに、国内的にも消費者や国民の要求に応えられないようになっていた。

すでに巨大銀行と化した郵便局に預けられた国民の膨大な預貯金は、財政投融資資金として、また国会の規制の届かないもう一つの国家予算として特別会計に組み入れられ官僚の裁量のままだった。また、とくに自民党の経世会族議員らに仲介されて不況下の公共事業対策として、赤字国債の購入などに当てられ、その資金は地方の土木建築業者らに垂れ流しされた。そのために放漫赤字財政を招き、それが幾世代に渡ってつけ回しすることになるほどに背負いきれない赤字財政になっていた。

そうした中で小渕恵三元総理大臣が「世界の借金王」とうそぶきながら過労で病死したこともそれほど昔のことではない。政治家や官僚たちは、国民全体の奉仕者であるべきという日本国憲法の規定に反して、むしろその「利権集団化」が進行し、天下りや口利きなどによる搾取と寄生化が一段と深刻になった。

バブル経済の崩壊後に、「失われた十年」として何ら効果的な政策を打ち出せなかった旧来の自民党政治家に代わって、「自民党をぶっ壊す」と言いながら登場した小泉元首相は、自由競争と市場原理の信奉者である竹中平蔵慶応大教授を特命大臣に任命し、金融機関に国税を投入してようやく不良債権問題に決着のめどをつけたのである。アメリカ・グローバリズムの申し子竹中平蔵氏は、アメリカ留学中に学んだ経済学理論によってその使命を果たし、崩壊の危機にあった金融機関を公的資金の導入によって不十分ながらも立て直した。

その竹中平蔵氏が「小泉郵政民営化総選挙」の折りに、Tシャツに「改革」と白く染め抜いた、かっての ライブドアの社長、ホリエモンこと堀江貴文氏を応援して歩いたことはまだ記憶に残されている。堀江貴文氏は 自民党の公認を得て、岡山県の亀井静香候補の地元から刺客候補として立候補していた。その堀江氏は落選はしたが、氏が若き経営者として絶頂期にあったとき、一月の家賃が二百数十万円もする六本木ヒルズの高級マンションに住まい、「金で買えないものは何もない」などと週刊誌に語ったことも記憶にあるはずである。この堀江貴文氏などが、伝統的な日本の文化、価値観から外れたアメリカグローバリズムの悪しき申し子であったことは明らかである。竹中平蔵氏などにも、国税の賦課を免れるために、住民票を国外に移したとかいう噂もある。

確かに、アメリカから吹いてきたグローバリズムの風は、預貯金者のサービスに背を向けたままで閉塞していた日本の金融業界や、インターネットなどの電気通信事業に風穴を明け、たとえ外圧的にではあれ、事業の効率化と消費者へのサービス向上に寄与したことは明らかである。

一方それにともなって、国民の間に経済格差が広がり、階級格差ともいえる貧富の差が、また、ワーキングプアーと呼ばれるような、労働行政の欠陥の犠牲者も増えている。本来は、小泉元首相の実行した「規制緩和」――しかし、それも中途半端な――のあとに、安倍元首相などが十分なセーフティーネットを構築すべきはずだったのに、それにも失敗している。

いずれにせよアメリカ発のグローバリズムは、その住宅投資銀行やリーマンブラザースなどの経営破綻によって引き起こされた金融危機で明らかになったように、アメリカの金銭崇拝文化と分かちがたく結びついている。破産した投資銀行の社長が従業員の犠牲の上に、何百億ドルの報酬を手に入れることなど、とうてい日本の企業文化とは相容れないものである。先の堀江貴文氏などは、愚かにもこのアメリカグローバリズムの波に乗って、率先してアメリカの金銭崇拝文化の信者になった一人にちがいない。

グローバリズムの到来は避けることはできない。問題はそれに付随するアメリカニズム、その利己的な金銭崇拝文化から、伝統的な価値観、生き方としての文化など、どのようにして日本の文化防衛を果たして行くかである。

携帯電話市場で快進撃を続けているらしいソフトバンク社の孫正義氏が、コマーシャルに登場する女優のお二人に、一台一千万円もする携帯端末をプレゼントしたそうである。しかし、孫正義氏にも頭を冷やして考えてほしい。子供の学校給食費さえ払えない家庭が増大しているなかで、ダイヤを散りばめた携帯電話端末がどういう意味を持つか。日本の文化にそうしたマモニズムを、金銭崇拝を助長するような行為は、日本の先進的な経営者として倫理的にも正しいのだろうか。孫正義氏にそれを問うことははたして無意味か。

また、そもそも戦後生まれの女優のお二人にも、対価のないプレゼントを拒むだけの気位を彼女たちに期待するのも無理な話か。

ただ、心ある日本人に訊ねてみたいことは、プレスリーの崇拝者、小泉元首相によって持ち込まれたアメリカグローバリズムから日本の伝統的な価値観、文化をどのように防衛してゆくか、という問題である。

 

 

 

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