終戦記念日
今日は終戦記念日である。本当は「終戦記念日」などという姑息な名称で呼ぶのではなく「敗戦記念日」として、日本民族の歴史に記憶として深く刻み込み、永遠に反省と教訓の日にしてゆくべきなのだろうが。
テレビなどのマスコミでも、NHKの番組をはじめとして、多くの記念番組が今年も組まれている。けれど、相変わらずそこで示されているのは、戦前のわが国の国家体制は悪であるという、一方的で硬直的で「自虐的な」批判的国家観に基づいた番組編成である。戦前の日本の国家体制は「悪」であり、犯罪国家だったという既成観念を前提とした上で、あいかわらず番組内容が編成されている。
国家の間の戦争であれ、子供の間の喧嘩であれ、一方が完全な悪で一方が完全な正義である、というようなことは普通たいていの場合ありえない。喧嘩や戦争は二者の間で起きるのであり、二者を悟性的に切り離して、一方を悪として断罪し、他方を正義として断定するような認識では、永久に真実を見ることはできないだろう。単独では戦争や喧嘩は起きず、相手が存在してこその戦争や喧嘩である。そこには互いにそれぞれの言い分があり、その言い分にはそれなりに根拠も存在するのが普通である。
東大の憲法学者やNHKなどに代表される現代のマスコミ人に多く共通する傾向は、国家性悪説に立った国家観である。そこには、マルクスなどの階級国家観や階級闘争史観などの思想の影響もあるのだろう。国家や戦争を見るにしても、そこには必ず何らかの視点が存在する。しかし、それが果たしてどれだけ自覚されているか否かはとにかく、あるいはそれが自覚されていないだけに、事態は病膏肓に入っている。ここではその論証はできないが、結論のみいえば、マルクス流のブルジョア国家性悪説やルソーの契約国家説などは誤った一面的な国家観だと思う。
そうした間違った国家観に基づきそれを視点とする東大の憲法学者やNHKなどの番組制作者たちが、日本社会にもたらす害悪は小さくはない。「国家を地上の神のように敬わなければならない」と言うヘーゲルの国家観と彼らのそれとは、まさに百八十度転倒しているのである。はたしてどちらが正しいのか。
今年の「終戦記念番組」でも、とくにNHKなどは「証言記録 市民たちの戦争」
というタイトルに見られるように、「市民」を国家から切り離し、市民であると同時に国民でもあるはずの「市民」に、被害者としての視点のみから、国家と戦争を見させようとする。そのことによって、「国民」という視点と倫理を損い、また、それを「市民」たちから奪おうとする。無知と惰性の相変わらずのNHKの亡国国家観にもとづく番組制作の戦後六十余年ではある。
正しい国家観、国家の概念を確立することがどれほど重要であるか、そのことがこの一事によってもわかる。また、それなくして「品格ある国家」の建設なども不可能である。藤原正彦氏などがその著書『国家の品格』に展開されているような浅薄な「国家観」では、到底「品格ある国家」など実現するはずもない。そしてその一方でまた、日本国民は、「証言記録 市民たちの戦争」というNHKのプロパガンダ番組を相変わらず見せられて、その「品格無き国家」とともにますます沈み込んでゆくばかりである。
今日は終戦記念日である。本当は「終戦記念日」などという姑息な名称で呼ぶのではなく「敗戦記念日」として、日本民族の歴史に記憶として深く刻み込み、永遠に反省と教訓の日にしてゆくべきなのだろうが。
テレビなどのマスコミでも、NHKの番組をはじめとして、多くの記念番組が今年も組まれている。けれど、相変わらずそこで示されているのは、戦前のわが国の国家体制は悪であるという、一方的で硬直的で「自虐的な」批判的国家観に基づいた番組編成である。戦前の日本の国家体制は「悪」であり、犯罪国家だったという既成観念を前提とした上で、あいかわらず番組内容が編成されている。
国家の間の戦争であれ、子供の間の喧嘩であれ、一方が完全な悪で一方が完全な正義である、というようなことは普通たいていの場合ありえない。喧嘩や戦争は二者の間で起きるのであり、二者を悟性的に切り離して、一方を悪として断罪し、他方を正義として断定するような認識では、永久に真実を見ることはできないだろう。単独では戦争や喧嘩は起きず、相手が存在してこその戦争や喧嘩である。そこには互いにそれぞれの言い分があり、その言い分にはそれなりに根拠も存在するのが普通である。
東大の憲法学者やNHKなどに代表される現代のマスコミ人に多く共通する傾向は、国家性悪説に立った国家観である。そこには、マルクスなどの階級国家観や階級闘争史観などの思想の影響もあるのだろう。国家や戦争を見るにしても、そこには必ず何らかの視点が存在する。しかし、それが果たしてどれだけ自覚されているか否かはとにかく、あるいはそれが自覚されていないだけに、事態は病膏肓に入っている。ここではその論証はできないが、結論のみいえば、マルクス流のブルジョア国家性悪説やルソーの契約国家説などは誤った一面的な国家観だと思う。
そうした間違った国家観に基づきそれを視点とする東大の憲法学者やNHKなどの番組制作者たちが、日本社会にもたらす害悪は小さくはない。「国家を地上の神のように敬わなければならない」と言うヘーゲルの国家観と彼らのそれとは、まさに百八十度転倒しているのである。はたしてどちらが正しいのか。
今年の「終戦記念番組」でも、とくにNHKなどは「証言記録 市民たちの戦争」
というタイトルに見られるように、「市民」を国家から切り離し、市民であると同時に国民でもあるはずの「市民」に、被害者としての視点のみから、国家と戦争を見させようとする。そのことによって、「国民」という視点と倫理を損い、また、それを「市民」たちから奪おうとする。無知と惰性の相変わらずのNHKの亡国国家観にもとづく番組制作の戦後六十余年ではある。
正しい国家観、国家の概念を確立することがどれほど重要であるか、そのことがこの一事によってもわかる。また、それなくして「品格ある国家」の建設なども不可能である。藤原正彦氏などがその著書『国家の品格』に展開されているような浅薄な「国家観」では、到底「品格ある国家」など実現するはずもない。そしてその一方でまた、日本国民は、「証言記録 市民たちの戦争」というNHKのプロパガンダ番組を相変わらず見せられて、その「品格無き国家」とともにますます沈み込んでゆくばかりである。