作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

すずめの雛

2006年07月28日 | 日記・紀行

用事を済ませて帰宅すると、玄関の軒下に足元で何かばたばたしているのに気がついた。よく見ると、すずめの雛だった、仰向きになってひっくり返ったまま、脚と羽をばたばたさせているばかりで、自分で身返りすることさえできないでいる。一昨日以来の梅雨明けらしい天気で、強い西陽が直接、雛の身体に照りつけている。このままでは熱にやられるなと思った。

静かに掴んで、体をひっくり返してやると、ばたばた羽を動かして逃げようとするのだけれど、大して飛ぶこともできず、家の壁の隅にうずくまったままになっている。

そういえば、この間も帰宅すると、子猫がバイクのシートの上にちょこんと座っていた。痩せさらばえて、灰色がかった毛も抜け落ちかねないみすぼらしさだった。そのときは、とりあえず油揚げを一欠けら与えてやると、貪るように食っていたが、家の中に入ってからふたたび覗いて見ると、その子猫は姿を消していた。それ以来見ていない。

先日の梅雨の長雨もようやく明けたようで、暑い真夏の太陽が空に昇るようになった。すずめの雛や子猫が独りで生きてゆくには、こんな季節は過酷な季節だ。とりあえず、小さな皿に水を入れて、その雛を掴んでその中に放り込んでやったが、ばたばたしてすぐに飛び出してしまう。とにかく、植え込みの影に皿と雛を並べて家の中に入ったが、生き延びられるかどうか。まだ自力でも飛べないような雛は、親の餌やりがなければ生きるのも難しいのではないかと思う。

このもっとも生命力に満ち満ちた真夏を迎えようとするとき、今日もまた、この地球上ではいたるところで、あたかも巨大な浪費でもするように生命が失われてゆくのだろう。しかし、生命は循環である。個々のスズメは死んで行くが、類としてのスズメは永遠の命のように繋がってゆく。

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福田康夫氏の総裁選不出馬──日本政治の体質

2006年07月25日 | 政治・経済

九月に行われる自民党総裁選に福田康夫氏が出馬しないことになった。福田氏本人は、これまでも一度も総裁選出馬への意欲を明確に示したことはなかった。

小泉首相の靖国神社参拝問題が対中国や韓国との外交問題化し、その結果、日本国内にも小泉首相の靖国神社参拝に懸念を抱く人々の間に、靖国問題で慎重な姿勢を示す福田氏に支持と擁立の動きが見られるようになった。福田氏本人はそうした勢力の動きや世論の動向を見極めて態度を決しようとしていた。

そうした時に、北朝鮮のミサイル発射実験が行われて、それを契機として、国連安全保障理事会で対北朝鮮決議案が採択されることになった。その過程で、安部晋三氏等の外交努力とそれにともなう世論の安部氏支持と福田氏への支持の低下を見た福田氏は自民党総裁選の勝利の芽はないと判断して、はじめて公式に自身の総裁選不出馬を表明して、周囲の福田氏待望論を打ち消したものである。

このような一連の経過を見て分かることは、福田康夫氏が確固とした政策や政治理念をもった政治家ではなかったということである。もし、福田氏に政策に対する切実な欲求があったなら、勝敗を度外視しても、また、年齢などを言い訳にすることもなく、自民党の総裁選に立候補していただろう。かって小泉首相が自身の郵政民営化政策を実現するために、橋本龍太郎氏や小渕恵三氏ら旧角栄派の首相候補と総裁選で戦って、二度敗北を喫したように。

福田氏は結局、小泉氏のように政治理念に対する切実なミッションを持っていなかったのだ。福田氏は今回の不出馬の理由として、自身の年齢や靖国問題における国論の二分を懸念してなどという理由を挙げておられるが、それは本質的な問題ではない。福田氏自身に語るべき政策、理念がなかったということである。

しかし、それは単に福田康夫氏にのみにとどまらない。日本の「政治家」
の多くに共通している。彼らの求めるのは、政策や理念の実現ではなく、その本音の多くは「利権」である。だから、総裁選の出馬不出馬の判断の基準も、政策や理念の実現ではなく、首相の座を獲得できるかどうか、その勝敗のみが自己目的になる。現在の自民党員「政治家」の多くがそうである。


彼らが党派を組むのは、理念や政策が基準ではなく、権力の座にあることによる「利権」が核である。日本の政党は、共通の政策や理念の実現を目的とする政治家の集団たりえていない。その点においては、現在の自民党も民主党も旧態依然として本質的には同じである。利益選挙談合政治屋集団の水準から脱していない。その現実的な論理的帰結は、派閥政治である。日本政治は相変わらず、前近代的な派閥政治から脱却できていない。

今回の総裁選問題での森派閥会長の森喜朗元首相のように、派内の融和という政治屋の利権を優先して、国家の政策、理念論争という政治家としての根本的な大義を二の次にするということになる。

福田氏は自身の立候補によって、日本国内が靖国神社問題で国論の二分することに対する懸念を、不出馬の理由の一つとされているようであるが、それは言い訳に過ぎない。

たとえ、国内を二分するほどの大論争が存在したとしても、対中国や韓国などの外交問題に関しては、多数決原理に従って国論を一致させて対応するのが、真の自由民主国家の国民というものである。

たとえ国論を二分するようなテーマでも、その団結を失わず、自由な討論を展開するのが自由民主国家の姿である。もし福田氏が総裁選に立候補して、中国や韓国や北朝鮮の国民の目の前で、日本国民が靖国問題で国論を戦わせるならば、彼らの国と日本のいずれが本当の自由民主国家であるかを実証する機会にもなりえただろう。しかし、そうはなりえなかった。なぜか。中国も韓国も北朝鮮も、そして日本もその表向きの政治的な看板にかかわらず、その国家国民の体質はお互い似たもの同士だからである。

日本の政党政治は、かって論考したように、自由主義を理念とする自由党と民主主義を理念とする民主党の二大政党による政治以外にありえないと思う。日本の現実の派閥政治を、この政治の概念に近づけてゆくことが課題である。(「民主党四考」)

また、福田氏があえて論争を避けた小泉首相の靖国神社参拝問題については、小泉純一郎氏が一私人の個人の資格で靖国神社に参拝することを言明している限り、靖国神社に参拝するもしないも、正月に行くも秋季例大祭に行くも、また、八月十五日の日本の敗戦記念日にするも、小泉純一郎氏の完全な自由である。産経や朝日などのマスコミが、中国や韓国の尻馬に乗って、それを公的な問題にすること自体が問題である。それは、小泉氏の個人的な問題に過ぎない。その個人の自由を完全に保障するのが日本の国是である。まして、諸外国からの干渉の余地は全くない。(「小泉首相と靖国神社」)

 

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第六十七篇註解

2006年07月21日 | 宗教・文化

詩篇第六十七篇

指揮者たちは、賛美の歌を奏でる。

神が私たちを憐れんでくださるように。
また、私たちを祝福してくださるように。
どうか御顔を私たちの上に輝かせてください。
あなたの道が世界に知られ、すべての異邦の民があなたに救われますように。
神よ、すべての人々があなたに感謝しますように。
人々が皆、あなたに感謝しますように。

すべての国民は喜び、歓びに歌え。
あなたはすべての国民を公平に裁き、
地上のすべての国民を導かれるから。

神よ、すべての人々があなたに感謝しますように。
人々が皆、あなたに感謝しますように。セラ (強調の音符) 

大地は豊かに作物を実らせ、
神が、私たちの神が、私たちを祝福してくださる。

神が私たちを祝福してくださる。
地の果てにいたるまで、すべてのものが神を畏れるように。

第六十七篇註解

神は私たちを憐れみ祝福してくださる方であるが、また、怒り裁く方であることも知っている。だから、私たちは怒りや裁きではなく憐れみと祝福を求める。神は愛する方であるから。

父である神の御顔は、イエスの顔にもっともその輪郭をあらわしている。その御顔の輝きに私たちが照らされ、父なる神の意思とイエスの御心が世界中に知られるとき、そのときこそはユダヤ人だけでなく異邦人も救われるときである。

詩人は、すべての諸国民が神に感謝を捧げることを勧める。神は諸国民を偏り見られることなく公平に裁かれ、また地上のすべての国民を教え導かれるから。

また、神は豊かな実りと産物で私たちを祝福してくださる。
この地球はどんなに豊かなことだろう。稲や麦、果実などの大地の収穫と、大海原を覆い尽くすような魚の大群によって、日々の糧を恵んでくださる。
それゆえに詩人は、この慈しみ深い神をすべての人が敬い畏れるように勧める。

勤労感謝の日や感謝祭などに歌われ祈られるべき感謝の詩である。

 

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秋田連続児童殺害事件

2006年07月20日 | ニュース・現実評論
虐待の有無など捜査 母子関係の実態解明へ (共同通信) - goo ニュース

こうした事件にはあまり触れたくはないが、記録のために少しだけ感想を書いて置こうと思った。

この事件の根本的な原因は、現代の日本の男女関係の多くに健全なモラルが成立していないことにあるのではないだろうか。現代日本の男性も女性も本当の意味で相互に尊敬できるような愛情をもてないでいる。結婚とは何か、その価値や目的など、それが男女ともに現代の日本の青年たちには教えられていない。

とくに日本の女性の価値観の多くは、ブランド志向であり金銭的な欲求第一であり、夫婦関係や家族の価値と大切さについて教えられる機会もないまま、個人の欲望の充足がすべてに優先している。戦前の家族制度が失われたあと、そんな精神的な風土になって、それに代わるような健全な家庭を育む文化や宗教を持てず、その伝統もない。その精神的な空虚さを埋めるために、浮き草のように、刺激を求めて移ろい歩く。

この犯罪を犯した女性も結局別れた夫と幸福な結婚生活をもてなかったのだろう。それが第一のすべての不幸だった。彼女も本当は不幸で気の毒な女性だったのだ。夫を愛することのできなかったこの女性は、娘をも十分に愛することが出来なかった。もともと、この女性自身も愛情に包まれた家族に育ったのではないかも知れない。もちろん確実なところは分からない。人間は動物と違って、環境に完全に支配されるものではないから。

いずれにせよ、そして

①別れた夫への憎しみが、娘に向かい、衝動的に娘に手をかけることになった。子供が自分の幸福の障害になっていると感じていたから。

②しかし、警察は彼女のこの犯罪を見逃すか、少なくとも事件を「穏便」に済まそうとした。

③おそらく、近隣や地域では、この女性の犯罪の可能性は認められていたはずである。

④女性自身は、警察に自分の犯罪を暴いてもらいたかった。それは、彼女自身に娘への罪の意識と愛情もあったからである。しかし、警察は彼女を逮捕しようとしなかった。日本の警察は「やさしい」ところもあるからである。

⑤女性は近隣や地域の彼女に対する視線にまた反感を覚えていた。娘に対する犯罪に自暴自棄になっていた彼女は、その憎しみがふだん家族ぐるみで親しく付き合っていた「幸せそうな友だちの」女性に向けられ、子供を失った思いをその女性にも思い知らせようと思った。また、新たな犯罪によって確実に彼女自身も逮捕されることによって、精神的な苦痛から逃れようとした。それが、男の子の殺害につながる。

こうした事件から見えてくるのは、日本の家族に見られる索漠とした風景のように思える。夫は仕事に明け暮れ、妻は自己本位の満たされないむなしさを、ブランドやアイドルで紛らわそうとする。少女も中年女性もその本質は変わらない。

男性も女性も本当の心のふるさととしての家庭をなかなか作れないでいる。この事件で感じるのは、そうした現代日本人の救いのない精神状況のような気がする。

 

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詩篇第三十二篇註解

2006年07月19日 | 宗教・文化

第三十二篇

ダビデの教訓詩。

幸せだ。その咎が取り去られ、その罪を許された者は。
幸せだ。主にその不義を数えられず、心に偽りを持たない者は。

私は沈黙を続けたが、私の骨は終日のうめきによってくたびれ果て、
昼も夜もあなたの御手は私に重くのしかかり、
私の喉も、夏の日照りに涸れ果てた。セラ。

私はあなたのみ前に私の罪を認め、咎を隠さなかった。
私は言った。主に背いたことを私は告白しよう。
すると、あなたは私の罪を赦された。セラ。
だから、神を敬う人はすべてあなたに向かって祈る。
あなたを探し出せる間に。

洪水のあふれるときも、その人には及ばない。
あなたは私の隠れ家。私を苦しみから守られる。
私はあなたに救われて歓びの声をあげた。セラ。

主は言われる。私はあなたに歩むべき道を教え諭し、
あなたを見守り導く。
あなたは馬やラバのように、愚かでかたくなになるな。
くつわと手綱であなたに近づかないように
それらは押さえつけなければならない。

悪しき者には悩みが多いが、
主に依り頼む者は愛に恵まれる。
だから歓び踊れ、正しい人よ。主によって喜べ。
心のまっすぐな人はすべて、歓びに叫べ。

 

詩篇第三十二篇註解

神に反抗したのに、その咎が取り去られ、神の戒めに背いて悪を犯したのに、その罪をとがめられず許された者は、幸いであるという。

神の愛は人間の罪を許し、人間の犯した罪を忘れ、彼の犯した罪がなかったようにみなす。それは、神が愛そのものに他ならないから。その姿はイエスの中に目の当たりに見られる。「娘よ。あなたの信仰があなたを癒した。安心して行きなさい。もう病み患うことはない」とイエスは言われた。(マルコ書5:34)

冒頭に「ダビデのマスキール」とある。「マスキール」の正確な意味はわからないらしい。だから、そのまま訳されずに使われている。第8節の冒頭の「スキルハー(目覚めさせる、悟らせる、賢くする)」と語形が似ていることから、教訓や黙想を目的とした詩ではないかと言われている。文語訳では「訓諭(をしへ)のうた」となっている。英語訳には「告白と許し」という標題が付けられている。


この詩篇のテーマは「幸福な者とは誰か」である。それについての教訓を与える。私たちが詩篇を読むとき、単に祈りとしてばかりではなく、その一つ一つの語句の意味について深く考え、黙想し、そこから智恵や教訓を学ぼうとする。聖書の言葉は神の智恵の結晶であるから。ただ、その智恵は奥深く隠され(ヨブ記11:6)、人間の思いとは異なっている(イザヤ書55:8)という。

確かに、それは幸福についての考えにもいえるかも知れない。ここでは「神の戒めに背いたのに許された者、犯した過失を覆い隠された者」が幸せであるという。同じ詩篇の第一篇では、「主の教えを愛し、悪人と共に歩まない者」が祝福された者(アシュレー)、幸せな人とされ、さらに新約聖書においては、「謙虚な人(心の貧しい人)」「柔和な人」「悲しむ人」「正義を切望する人」「憐れみのある人」「心の清い人」「平和のために働く人」「正義のために迫害される人」たちは幸せであると言う。(マタイ書五章、ルカ書六章など)

こうした幸福観は、現代の日本の世間に一般的な考え方と比較してみればまったく異なっているように思われる。とくにキリスト教の幸福観については、まるで不幸が幸福で、幸福が不幸だといっているようにさえみえる。

いずれにせよ、今ここでは詩人は明らかに、幸福ではない。主の戒律に背き、過失を犯してしまったからである。しかもそれを心に秘めて沈黙を守っていたとき、主のみ手が、彼の良心に昼も夜も重くのしかかって来る。骨まで古びるようなその苦痛に詩人はうめき、夏の日照りに会ったように喉も渇ききろうとしている。

そこで詩人は耐え切れず、自分の犯した罪を認め、自分の犯した悪行を主の前に隠さずに告白することを決心する。そして、詩人が「自分の過ちを包み隠さず主に告げよう」と言ったとき、主は彼の犯した不法の罪をすべて許してくださった。だから詩人は忠告して言う。主に忠実な人々はみな、主を見出しうる間に、許しを求めて祈るべきであると。

そのとき困難が洪水のように押し寄せても、その人には及ぶことがない。主は苦難から詩人を守る隠れ場であるから。そして何よりも主は、救いの喜びを与えてくださる。

こうして、詩人は主に救われる歓びを知った。そして主は彼に言われる。あなたを悟らせて、あなたが歩み進むべき道を教えよう。そして忠告して言われる。馬やラバのようになるな。それらは鞭や棍棒でなければ言うことをきかない。分別や悟りもない。また危険だからそれらに近づくことのないようにと。

悪を行う者には悩みが多い。しかし、主に信頼するものは、主の愛によって守られる。罪の許されることがどれほど幸せなことか。だから、主に救われた正しい人は主において歓び踊れ、心のまっすぐな人は歓びに叫べと。


 

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海の日

2006年07月17日 | 日記・紀行

海の日。昨夜、雨上がりに祇園祭に行く。船鉾や芦刈山、伯牙山、岩戸山など新町通り界隈の山鉾を見て回る。夜店も賑わっていて身動きも取れないほどの人通りだった。蒸し暑かった。

今日は山鉾巡行だけれど、先ほど(14時ごろ)まで京都は激しい雨。少し小降りになったようだ。 小林麻美の「雨音はショパンの調べ」などを久しぶりに聴く。

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サンクトペテルブルク・サミットの隠された主役

2006年07月16日 | 政治・経済

ロシアのサンクトペテルブルクで、サミットが開かれている。ここには中国の胡 錦濤首相も招かれている。当然に大きなテーマになるのは、北朝鮮のミサイル発射問題である。サミットに先立って、ブッシュ大統領はプーチン・ロシア大統領と会談して、北朝鮮の核保有を容認しないことを確認しあった。

しかし、今一度本当に確認しておかなければならないのは、中国、ロシア、それにアメリカが、北朝鮮の核保有を容認しないことの真の目的である。確かにそれは表面的には、北朝鮮の核保有による極東情勢の不安定化を問題にしているようにも見える。しかし、アメリカをも含めて、中国、ロシアの真の意図がどこにあるかを日本国民はしっかりと自覚しておく必要がある。

それは、隠されてはいるが、これらの国が会議の真の対象にしているのはいうまでもなく、ほかならぬ日本である。これらの国の主たる関心事は、北朝鮮の核保有にあるのではなく、それを契機として、日本が核保有することによって、その結果、日本が自主独立の性格をより強めることを警戒しているのである。

その意味では、基本的には、極東アジアの構図は、太平洋戦争前夜とは今日も変わっていない。在日アメリカ軍の存在も、極東アジアに対するアメリカの覇権の維持という側面のほかに、同時に、アメリカに対する日本の従属性を恒久化させておきたいからでもある。日米安保条約のこのもう一つの半面も当然に忘れるべきではないだろう。

だから、日本の当面の主敵である北朝鮮が本当は日本の「真の味方」でもあるということもできる。このことを確認した上で、小泉首相などは自分こそがこのサミット会議の隠れた主役であることを自覚して臨む必要があると思う。

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詩篇第五十四篇註解

2006年07月15日 | 宗教・文化

詩篇第五十四篇

指揮者たちの調べに乗せて。ダビデの教訓詩。
ジフの人々が来て、サウルに「ダビデが私たちのところに身を隠しているのではないか」と告げた。

神よ、あなたの御名によって私を救ってください。
そして、あなたの力によって、私を裁かれよ。
神よ、私の祈りを聴いてください。
私の語る言葉に耳を傾けてください。
私の見知らぬ者たちが、私に立ち向かい、
凶暴な者たちが私の命を求めています。
彼らには自分の前に神はない。
見よ。神は私を救う者。
主は私の魂を支えられる。
私を狙う者たちに災いを返し、
あなたの真実によって、彼らを滅ぼしてください。
よろこんで私はあなたに生けにえを捧げ、
あなたの御名に私は感謝します。
主よ、それは良いことですから。
主はすべての苦難から私を救い出し、
私のこの眼に敵の滅亡を見せたからです。


詩篇第五十四篇注解

ダビデのこの詩の生まれた背景は、旧約聖書サムエル前書第二十三章第十五節以下に書かれてある。
ダビデの名声が高まるにつれて、ダビデの主人サウルは自分の地位に不安を抱くようになり、ついにはダビデの命さえ付け狙うようになった。そのため、ダビデは荒野に逃れ、その要害の地にひそみ、ついにはジフの森に身を隠さなければならなかった。そのとき、ダビデを励ましたのが、サウルの長子ヨナタンだった。

そのときジフの人々は、サウルの許に来て、ダビデが自分たちの所に身を隠していることを告げた。それで、サウルは従者を引き連れ、ダビデの命を求めてジフの森の要塞にまで来た。そうした絶体絶命のときに、ダビデが主なる神に救いを求めて祈ったときの詩である。敵との戦いや苦難のときに救いを求める時の祈りとして読むことが出来る。

「教訓詩」と訳した「マスキール」の意味はもともと教えとか賢明なという意味らしく、そうした意義のある詩をマスキールと呼んだと思われる。

「御名によって私を救ってください。」
名は体を表すというが、神の御名は、神そのものでもある。だからユダヤ人は神の御名をみだりに唱えなかった。神みずから、ご自身で救ってくださるようにとダビデは祈る。

「力によって裁き」
裁きとは、力の行使に他ならない。歴史とは神による力の行使であり、また裁きでもある。ダビデは祈りと言葉によって、神の裁きを願う。
ダビデにとって異邦の民ジフの人々は、ダビデに抗って立ち、いまやダビデの敵サウルを案内してやってくる。ジフの人々は神を知らず、神を前にして祈ることもない凶暴な人々である。

しかし、祈りに応えて、神がダビデを助けられる。それは言葉ではなく確かな事実である。その恵みは現実である。だから、その事実を「見よ」(ヒネー)という。

「あなたの真実によって、彼らを滅ぼしてください。」
主は誠実な方、だから、真実にしたがって報いられる。これはダビデの変わらぬ確信だった。このときも、使者が来てペリシテ人が侵入してきたことをサウルに告げたために、サウルはダビデを追跡することを中止して急きょ引き返さなければならなかった。

救われたダビデは、喜んで神に感謝の犠牲を捧げる。感謝の祈りといけにえとを捧げられるのは素晴らしいことである。なぜなら恵み深い主は、すべての苦しみと悩みからダビデを救い出し、敵の敗北をダビデの眼に見せたからである。

 

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世界史の進行

2006年07月14日 | 歴史

人類にとって平和はもっとも貴いものの一つである。しかし、平和も長く続くと、その貴重さも忘れ去られる。人間の悲しい性なのかも知れない。

先の北朝鮮のミサイル発射実験は、自由と平和のうちに安眠してきた日本人に、あらためて国際情勢の危機と歴史の現実を教えることになった。


北朝鮮のみならず、イランの核問題や、さらに緊迫してきたイスラエル・パレスチナ問題がある。しかし、最近の出来事は、まだ本格的な歴史的転換を予感させるようなものではないと思う。もし次に大きな歴史的転換点があるとすれば、その一つは、中国の民主化の問題であり、もう一つは、中東におけるイスラエル・パレスチナ問題の帰着だろうと思う。もちろん、現在の北朝鮮問題も、日本にとっては切実な問題ではあるだろうが、やはりそれは極東アジアの地域的な問題であって、世界史的には根本的に重要な問題ではないと思われる。

また個人的には、このような人類の歴史に何らかの目的を洞察できるのかという哲学的な問題もある。そして、もし洞察できるとすれば、それは何か。
多くの歴史家は、こうした問題意識をもたない。ただ、国内外の歴史的重大事件を単に時間的に配列し、記録してゆくだけである。ただ、哲学的歴史家だけが、その歴史の中に目的を予感し、あるいは認識して、時にはその必然性を論証しようとさえする。


北朝鮮の問題については、かって、日本人拉致問題との関連で少し考察したことがある。(「日本人拉致被害者の回復」) やはり、北朝鮮にはその国家体制に大きな問題があり、それゆえに周辺の利害関係国も関心を持たざるを得ない。理想は、「国際社会」が協力して、現在の「不幸な」北朝鮮のような国家体制を、自由で民主的な国家体制へと転換させてゆくことであると思う。そのために私たちに出来ることは何か。

北朝鮮がこうして問題化することによって、かっての日清・日露戦争、さらに太平洋戦争前夜、そして、すでに半世紀以上も過去になった朝鮮戦争の歴史的背景を、あらためて、平和のうちに惰眠を貪っている日本人にも想起させることになる。朝鮮問題は極東アジアの歴史的な因縁問題でもある。ただ、歴史的に異なるのは、曲がりなりにも日本が当時のように、2・26事件のようなクーデターを起こす国ではなくなっているということである。これは現在の日本国を買いかぶりすぎか。


かっての朝鮮戦争は、共産主義ソビエトおよび中国と資本主義アメリカとの間の代理戦争として戦われた。北朝鮮の立場からすれば、この戦争は資本主義からの民族解放戦争の意義を持っていたはずである。しかし、二十一世紀に入った今日、すでに共産主義ソビエトは存在せず、社会主義中国は、すでに経済的にはれっきとした資本主義国である。少なくとも、共産主義対資本主義という図式においては、歴史的にはその決着はついたように思われる。そうした中で、北朝鮮はキューバなどとならんで、社会主義諸国の中で余命を保っている数少ない国の一つである。

そもそも人類の「解放」を目指して建国したはずの社会主義国家が必然的ともいえる過程をたどって軒並みに崩壊したのはなぜか、それ自体は興味あるテーマではあるが、それはここでは問題にしない。

今回の北朝鮮のミサイル発射は、北朝鮮の国家体制がその危機的な様相をさらに深刻化させていることの現れである。それには、ブッシュ政権の北朝鮮への金融封鎖などが効を奏している。制裁法案を成立させた日本も、北朝鮮の解放や拉致被害者の回復を目指して効果的に活用すべきであると思う。地上の天国を目指して建国されたはずの国家がいまや地上の地獄と化している。

かってのクリントン民主党政府に比較して、現在のブッシュの共和党政権は対北朝鮮に対しては原則的に対応している。クリントンの北朝鮮に対する融和的な政策の付けを今支払っているということが出来る。遅かれ、早かれ北朝鮮問題には決着をつけなければならないときがくる。その時が近づいているのではないだろうか。アメリカは北朝鮮問題は極東アジアの問題として、二国間関係に持ち込もうとしている北朝鮮に応じてはいない。基本的にアメリカは極東問題に深入りはしたくないのだ。少なくともブッシュ政権はかってのクリントン政府よりは日本の国益に適っている。

私たちにはこうした北朝鮮のような国家体制からその国民をどのように解放するかという課題がある。またそれ以上に、多くの日本国民が拉致されて来たにも関わらず、それを憲法上の制約といった理由で、不作為による道徳的な退廃を日本国民は許してきたという問題もある。イスラエルが自国の兵士が拉致されたという理由で、一度は撤退したガザ地区に、拉致兵士の回復のために激しい攻撃を加えているが、これが本来の国家の姿である。

さらに大きな歴史的視点で見るならば、軍事的にのみならず経済的にも勢力を拡大しつつある中国およびロシアに日本がどのように対処してゆくのかという問題がある。その核心はいうまでもなく、日本の自由と独立をどのように確保して行くかということである。

中国やロシアにとって、北朝鮮がいわゆる自由主義陣営の傘下に入ることは、好ましいことではない。現在の中国、ロシアの政府にとって、アメリカに対して敵対的な政策をとる北朝鮮の存在は、これらの国にとっても防波堤としての役割を果たす。似たもの同士ということわざがあるように、中国もロシアも北朝鮮とは本質的には似たもの同士だからである。北朝鮮の体制変革は、否が応でも、彼らに、とくに中国に対して自国の体制変革の危機の接近を自覚させることになる。その基本的な構図は、自由な海洋国家と集権的な大陸国家とのせめぎあいである。

今回の北朝鮮のミサイル実験は、日本人のぼやけた国防意識を少しは目覚めさせたという点でも意義がある。日本人も自分たちが守るべき価値とは何かをもう少しまじめに悟り、それを守るためにはそれ相当の犠牲を払うことなくしては、享受できないということを知り、道徳的にも謙虚になることだと思う。自由を他民族から与えられた国民は、その価値を知らない。現在の多数の国民意識はそれを守るための義務についても自覚することのないノー天気ぶりである。

日本国がまず正真正銘の自由民主主義国家になり、自衛隊を国防軍に、防衛庁を国防省に改組し、スイスのように徴兵制を制定することである。そこにおのずから、北朝鮮だけではなく、真の目的でもある中国やロシアに対する日本の取るべき態度も決まってくると思う。今回の北朝鮮のミサイル発射実験は、また、日本国がさらに真の国家となってその概念を実現してゆく歴史の必然的な道程の一こまだと思う。

 

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青い稲田

2006年07月09日 | 日記・紀行

滝の町に用事があって、自転車で出かける。
用事を済ませた後、小塩方面に足を伸ばす。まだ梅雨は明けていないが、日差しが強い。光明寺道に入り寺の正面にまで出る。中には入らず。

途中、トマトやキュウリを置き売りしている農家があったので、キュウリとトマトとナスとピーマンを買って帰る。トマトがきれいな赤に熟れている。
春頃にはまだ柔らかいビロードのようだった早苗が、今は稲田に移し植えられて、青々と葉を繁らせている。生育も順調なようだ。

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