作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

悲しき教育現場

2007年09月25日 | 教育・文化

教師がいじめ認識? 生徒ら漏らす 神戸・高3自殺(神戸新聞) - goo ニュース

「下半身写真ネットに」神戸自殺生徒、遺書に記す(産経新聞) - goo ニュース

相変わらず、教育現場で「いじめ」はなくならないようだ。「石川や浜の真砂は 尽きるとも 世に盗人の 種は尽きまじ。」で人間から悪の種は尽きることはない。それにしても、こうした事件は、防ぐことはできるし、自殺に至るまでに何とか手を打つ手立てはあったはずであると思う。とくに生徒の教育管理に直接当たる学校関係者の責任は重大である。

以前にもこうした問題についていくつか論じたが、その原因の大きな根本は、国家がその共同体としての性格を敗戦をきっかけに失ってしまったこと、それ以来、国家として、国民に対する倫理教育ついての配慮をほとんど行ってこなかったことにある。いまだ国家としての倫理の基準を確立できないでいるためである。

こうした問題について、いまさら「教育勅語」を復活させることができない以上、「民主主義」を倫理として確立する以外にないことは、これまでにも繰り返し語ってきた。しかし、いまなお、今日の教育関係者のほとんどにはそれを切実な問題意識としてもつものはいない。これでは、いつまでたっても教育現場にその根本的な治療改善は望むべくもない。しかし、長期的な取り組みとしてはそれ以外に改善方法はないのである。それを放置して、いつまでも問題の解決を遅らせ、多くの児童、生徒を悩ませ続けるか。

ただ、短期的な対策としては、不幸にもこうした事件が生じた時には、今回の生徒の遺族は、加害生徒、保護者、学校関係者に対して、法的な責任を民事的にも刑事的にも追求しうる限り、徹底的に追及してほしいと思う。

それは、今日の学校教育関係者の――校長や教頭などの現場教員のみならず、文部科学大臣、教育委員会などの教育公務員の無責任、無能力を改善してゆくためにも、必要な措置であると思う。ご遺族の方々は、悲しみを乗り越えてそうしてほしいと思う。

民主主義を倫理教育としての観点から教育するという問題意識を今日の教育者はほとんどももっていない。その研究も行われていない。今一度正しい民主主義教育を、その精神と方法の両面にわたって充実させていってほしい。そして、いじめの問題などは、クラス全体の問題として、民主主義の精神と方法によって解決してゆく能力を教師、生徒ともども向上させてゆくべきなのである。

クラス全体にそうした問題解決能力のないこと、失われていることを、今回の事件も証明している。しかし、教師、児童、生徒たちの倫理意識の低さは、やがて結局は、自分たち自身がその責めを負うことになる。

         「いじめ」の文化から「民主主義」の文化へ

                 民主主義の人間観と倫理観

          学校教育に民主主義を

 

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理想の恋愛、理想の結婚

2007年09月11日 | ニュース・現実評論

畠山被告が娘への殺意否認 秋田・連続児童殺害初公判(朝日新聞) - goo ニュース

理想の恋愛、理想の結婚

人間であれなんであれ動物にとって、子孫を残すというのはその存在の根本的な使命と考えてよいと思います。そして、人間にとっては、その使命は結婚において家族をつくることによって果たされます。

聖書にもありますように、人は結婚することによって、それまで育てられた両親に別れを告げて、新しい伴侶と家族を形成することになります。そして、新婚の伴侶とともに生活の多くの時間を共同で過ごすことになります。生まれも育ちも違うそれぞれの自我をもった二人の人間が、一つ屋根に生活することからさまざまな問題が起きざるを得ないということなのでしょう。

だから、やはり人間の幸福ということを考えるとき、その結婚生活が幸福なものであるかどうかは、その人の人生を大きく左右するといえます。結婚の失敗は人生の失敗と言ってもよいくらいです。

もちろん、「成功」がすべて幸福であるというような浅薄な幸福観は持ちませんし、キリスト教でも、「悲しむ人は幸いなり」といった自虐的とも思われかねない幸福観もありますから、現代の多くの女の子たちが願うような、絵に描いたようなマイホームの小さな幸せがすべてだとは思いません。しかしそれでも、幸せな結婚生活は、多くの人が願ってしかも、なかなか手に入れることのできないものなのでしょう。

久しぶりに、家族の問題に関係のあるいくつかのブログやサイトを覗いたりしましたが、やはり、さまざまな家族があり家庭があるものだという感想をあらためてもちます。時々テレビニュースなどでも、立派な家庭のその豪邸が画面に写されてながら、一方でその家庭内殺人事件などが報じられているのを見聞きすると、それぞれの家庭内の事情というのは、なかなか外見からは、分からないものだということにあらためて気づきます。

昔、甥っ子らといっしょに帰省の途中に、瀬戸内海を行く船のデッキの上で、アンナ・カーレニナの文庫本を読んでいた記憶があります。その本はその以前から長く読み続けていて、ちょうど終局に差し掛かっていて、もう第7巻目ぐらいに入っていた頃だと思います。

すでに多くの人に取り上げられてはいますが、この本の冒頭に、「幸福な家庭はどれも似通っているが、不幸な家庭はそれぞれに不幸である」ということばがあったことをその時思い出したことを覚えています。瀬戸内の深緑の海と、背後に流れゆく松島の美しい景色とともに記憶に刻まれています。

幸福な家庭はみんな似たようなものだけれど、不幸な家庭にはいろんな形の不幸があるということなのでしょう。結婚生活の悲劇を描いてこれほど印象深い作品はすぐには思い当たりません。もちろん、家庭や恋愛の悲劇を描いた文学作品は無数にあります。小説などの文学作品は、むしろ、それらがテーマだと言ってもいくらいです。シェークスピアの「ハムレット」も、漱石の「こころ」も恋愛の悲劇を描いたものです。

実際、誰しもが理想の出会いを願い、理想の恋愛と理想の結婚を求めながらも、その多くは悲劇に、時には喜劇に終わってしまいます。それほど、男女の人間関係は難しいということなのでしょうか。

しかし、もちろん結婚生活や恋愛の失敗は決して侮ることはできません。それが人生の破綻につながることも多いからです。自分の拳銃で恋人を殺した警察官の事件もそうですし、数年か前に秋田で、自分の子供を殺すことになった女性も、つきつめれば最初の男性との結婚に失敗して離婚したことが、事件を犯すことになった最大の理由だと言うことがわかります。また、ついこの間も、仙台でスーパーで働いていた女性が、後輩の女性に好きな男性との結婚を横槍され妨害されたことを恨んで、おそらく彼女自身も想像することすらなかったに違いない事件を起こしています。

               秋田連続児童殺害事件

ネット上でも、結婚の問題がどのように取り扱われているのかちょと調べてみても、そこにはいろんな夫婦関係が記録されていて、なかには「こんな夫もいるのか」など驚かされることもあります。こんな夫と結婚すれば、奥さんも耐えられないだろうなと同情心も起きたりします。

それでも、その多くの記事について読んでも、やはり昔から「夫婦喧嘩は犬も食わない」ということわざもあるように、イラクやアフガニスタンに比べれば、日本は平和だな、くだらない、と感じることも少なくありません。

          ※ ラファエロ 聖母子像  写真先


 

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「韓流ブーム」

2007年09月07日 | 教育・文化

先の記事「瀬島龍三氏の死、古い人、新しい人」を投稿しましたところ、ある方から(女性だと思います)次のようなコメントをいただきました。

引用


はじめまして
記事を読ませていただきました。
なるほど、戦前の日本だからこその人間形成があるんですね。

昭和50年ごろだったと思います
映画監督たちの対談で戦争映画の俳優選びで悩んでいました。
「日本は豊かになり俳優たちは、きらきらと明るく満ちたりと瞳の者ばかりだ、食いつようなハングリーな顔つきの俳優がいなくなって、兵士役がいなくなった。」

そうですよねえ~~
昔の戦争映画、兵士が女性の順番をずら~~~っと
並んで、はやく!といいながら並んでいる映画。
あの頃の戦争映画はみんな痩せて飢えた俳優さんがいました

・・・・・・ YM
 >

このコメントを読んだとき、すぐに、少し昔に『冬のソナタ』などのテレビドラマでブレイクした「韓流ブーム」の社会的な背景について少し思い当たる点のあることを連想しました。

それは、現代の日本女性の多くが潜在的に不満不信の感情をもっているらしいことです。これだけ社会は豊かになっても必ずしも多くの女性は幸福感を持って生きているようでもないらしいことです。そして、その背景に彼女たちの父や兄などの日本の男性観に対する潜在的で根源的な不信感があるようにも思いました。それで、私は彼女に次のようなコメントを返すとともに、「韓流ブーム」にある日本の社会的な背景の問題をさらに考えてみたものです。

引用

YMさん、はじめまして
コメントありがとうございました。

そうですね。そうして、戦後の日本人は、私たちの父であり兄であり弟でもあった戦前の日本人の醜い面ばかり教えられて育ってきたのですね。彼らにそうした面がなかったとは言いません。

それは日本人だけではなく、満州で私たちの母や姉が体験したように、ロシア兵も中国兵も極限状態におかれた弱い男の多くが同じように犯す過ちです。

気の毒な日本人兵士の「汚点」ばかりをあげつらうのは、きっと戦後の日本人女性の思いやりの深さなのでしょうね。
 
・・・・・・ SR

「韓流ブーム」が示すもの

まだこの流行がどれほどのものかよくわかりません。一時期ほどの勢いはなくなったかも知れませんが、それでも今も、GOOブログなどでは韓流スターという項目があるし、そうしたサイトなどへのアクセス数などから言っても、このブームの根はまだなくなってはいないのではないでしょうか。

ブームというのは熱病のようなものです。もともと何かを信じることなくしては人間は生きることのできない動物ですが、とくに女性についてそれが言えると思います。時には熱病のように信じるものを求めます。しかし、海外のイスラム教国やキリスト教国のように、これといった特別の社会的な伝統的な信仰文化というものを持たない現代日本の多くの女性たちは、そうした信仰の代用として、ブランド品やアイドルや「韓流スター」を追い回すか、あるいは、怪しげな新興宗教に夢中になるか、セックスの一時の快楽におぼれるなどして、その満たされない渇きを癒そうとするのかもしれません。

こうした現象にも、現代の日本社会のさまざまな問題点が浮き彫りにされているように思います。そこにはやはり事実として、その背景に現代の日本の男性の多くに魅力がなく、そのために日本女性の多くを満足させることができないでいるという現実があるのでしょう。

とすれば、それではなぜ日本の男たちは女性たちに魅力がないのでしょうか。先の記事で由美さんという方からコメントをいただいたとき、この問題についてふと思い当たるところのあるような気がしました。それは、先の太平洋戦争で日本が未曾有の敗北を喫して以来、その戦後にかっての日本の軍隊、軍人が徹底的に貶められたということがあったということです。もちろん、あれほど尊大で傲慢になって肩で風を切って歩いて偉ぶっていた者も多かったかっての日本軍人が、敗戦をきっかけに国民からすっかり信用を失ったのにも実際に無理もない一面もあると思います。

それに、とくに敗戦後は、社会主義や共産主義が大きく勢力を伸ばした時代であったし、そうした階級闘争史観の立場に立つ人々は、かっての日本軍や日本軍人を、そして、靖国神社などを「軍国主義」の象徴として、眼の敵にしてきたともいえます。そして、一方で日本の軍人たちは日本の男たちの象徴でもあったから、軍人と日本の男がさげすみの対象として二重に映ったとしても仕方がなかったともいえます。

それは、日本をアメリカにとって二度と敵対できない国家にするというマッカーサーの占領政策や在日朝鮮人ら敗戦利得者たちの利害とも一致しましたから、あらゆる手段、あらゆる機会を利用して、戦前の日本軍と日本軍人に対して、その信用を失墜し、軽蔑の対象とするような政策がとられました。それにまた、旧日本軍のなかに実際ににそのように扱われてもしかたのない一面もありましたから、そうして、日本においては完全に軍人や軍隊は信用を失墜させられていったのだと思います。それに応じて日本の男もその価値と魅力を失っていったといえます。

先にコメントを寄せてくださった由美さんなども、そうした教育を受けて育った戦後世代の典型の女性のように思います。軍人といえば「売春宿」の前で眼の色変えて列をなす男たちというイメージです。そうして、そんな我が夫の、また父であり兄であり弟の姿を、潜在意識の中に育てていった多くの日本の女性にとって、日本人男性は不信と軽蔑の対象になっていったのだと思います。

しかしそれは、何も現代の太平洋戦争だけではないと思います。戦国時代の武士たちにしても、フビライハンに征服された十二世紀のロシアの男たちにしても、すべて戦争に敗れた男たちは妻子をまともに守ることができませんでした。だから、敗残兵の男たちには妻や娘たちから見離されてもやむを得ない面があります。戦後しばらくの間は、生活のためもあって、多くの日本人女性たちが国際結婚によって海外に渡っていったこともあります。もちろん、大和撫子としての矜持を守った日本女性も多くいたことは言うまでもありません。

そしてまた、戦後の日本は「平和憲法」を後生大事に戴くことによって、戦争のできない国になりました。戦争に懲りた多くの国民がそれを歓迎したことも事実です。その結果、一方では、たとえば北朝鮮に同胞が拉致されても、日本の男たちは、政治家たち、軍人たちも、長い間、見て見ぬふりをし傍観を決め込むしかなかった。それに気づいていた日本の女性は、口に出して言うかどうかはとにかく、そんな男たちの姿にも愛想も尽かしたでしょう。日本の男たちは、自国の防備でさえアメリカの青年たちに任せっぱなしで、それで自分たちは何をしているのかというと、ただひたすら商売に眼の色変えて忙しく、あるいは怪しげな海外ツアー、エロ、グルメなどの生活で娯楽と享楽三昧です。

そんな日本の男たちと比べて、韓国の俳優たちは、みんな兵役の義務を果たして、そこで国家の中に生きるということに気づかされ、そして凛とした一人前の男として鍛えられて帰ってくるのですから、日本の女性たちが、韓国人スターに血道をあげるようになるのも無理はないでしょう。

実際こうした問題も深刻だと思いますが、さらに「韓流ブーム」にはもう一つの問題も、示されていると思います。それは、テレビや新聞など独占的体質の日本のマスメディアにおける質的劣化と反日民族解体勢力による文化侵略の問題です。

それは、はっきりいって、NHKをも含む日本のテレビ局、プロデューサーが、まともなドラマ制作能力をまったく失って、視聴者の要求にこたえられなくなっているという事実です。どうしてそうなったのか、その理由はいろいろあると思いますが、もっとも大きな理由は、NHKと民放各局とともに、現行の電波法の上にあぐらかいて独占的で無競争の刺激のないインセンシティブな体質になってしまったためだろうと思います。かっての国鉄も、郵便局も、電電公社もすべて、ある業界を既成の企業・利益団体だけが独占して、そこに競争の原理が働かなくなると、その業界は腐敗し堕落し、顧客に対するサービスなど、どこ吹く風というようになります。かっての社会主義国のように、まともな仕事をしなくなります。


今、NHK、民放ともどもテレビ局は、仕事を下請けに丸投げして利ざやを搾取して生きています。彼らには、力のある脚本家を育てて、面白いドラマつくりに取り組もうという意欲もなければ、優れた面白い娯楽と芸術が両立するような質の高いテレビ・ドラマの製作に励もうという意欲も能力も、つめの先ほどもありません。

それが気の毒な日本女性をして、韓国製のテレビドラマに向かわしめていることになっています。彼女たちには、日本のテレビ局に、面白く楽しいドラマを見せるように要求することもできないのです。ですから、最近の「韓流ブーム」は、テレビ局と日本の男たちとに対する事実上の批判でもあります。女性たちにはそうした形でしか、自分たちの批判を表すことができないからです。

今日のようなテレビ文化の社会では、テレビ局の公共的な使命はとても重要です。ひところベストセラーになった、藤原正彦氏の『国家の品格』なども、テレビ・マスコミの「下品格」の反動として出てきたと考えてもよいものです。そして、残念ながら今なお、このテレビ局の改革はまったく手付かずのままで、そのために、女性のみならず男性も、ほんとうに面白い「日流ドラマ」を見ることもできません。

戦後六十余年たった最近になってようやく、「男たちの大和」や「硫黄島からの手紙」や「出口のない海」などのいくつかの映画で、かっての日本軍人たちのよい面、男らしい一面も少しずつ描かれ始めてはきていますが、それでもなお、兵役の義務も果たさず、実際に、自分の国も女性も子供たちも守ることのできない、お金とエロだけが生きがいのような多くの日本の男たちに、女性たちは何の魅力も見出せないようです。そして、やはり男らしい「韓流」になびいて行くのだろうと思います。

 

 

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瀬島龍三氏の死、古い人、新しい人

2007年09月05日 | ニュース・現実評論

「訴訟国家なら破滅」 鳩山法相 弁護士急増を懸念(産経新聞) - goo ニュース

瀬島龍三氏の死、古い人、新しい人

最近のニュースで感慨深かったのに、瀬島龍三氏の逝去の報道があります。瀬島龍三氏といっても今の若い世代には、いや団塊の世代にすら、ほとんどよく知られてはいないでしょう。

瀬島氏の死によって、戦前の日本がさらに遠くなってゆくことが実感されます。私のように戦後の日本については、アメリカ植民地文化の浸透した時代として、軽蔑するような価値観をもっている場合はなおさらです。瀬島氏のような、よくも悪くも戦前の日本人を代表するような人物が失なわれてゆくのは、時間は誰にも押しとどめることができないから仕方がありません。

それにしても、少なくとも、戦前の日本社会は、その中から瀬島龍三氏のような人物を作り出していたということです。そして、アメリカと戦争を始めて敗北はしたけれども、その敗北から戦後の日本を復興させたのも、実質的には戦前の日本で教育を受けそこで生育した瀬島氏のような世代でした。

戦後の教育でこのような人物は作れるでしょうか。また、実際に、それができないような方向で、アメリカは戦後の占領政策で敗戦後の日本を改造したのです。そして、戦後に作り出された人物といえば誰がいるでしょうか。同じく今日のニュースにたまたま出ていた人物を手近な一つの例として、たとえば今度の安倍改造内閣で新しく法務大臣に就任した、鳩山邦夫氏でも取り上げてみましょうか。

もちろん、人間にはそれぞれ資質なり個性というものがあるから、一律に外形的には比較はできないのですけれども、この鳩山邦夫氏などと、亡くなられた瀬島龍三氏の人間とその「品格」を比べるならば、世代や時代における人間類型の差というもののいくらかでも実感できるでしょう。戦後の教育では、せいぜい、鳩山邦夫氏程度の人物しか作り出せていないことがよく分かるのではないでしょうか。イチジクの木の良し悪しは、その実を食べてみればわかるとも言います。

教育もそうです。戦前の大日本帝国憲法下の教育と文化で育った人間と、戦後の日本国憲法下の教育と文化の下に育った人間を実際に比較すれば、だいたい、その「品格」の差は明らかになります。もちろん、戦後世代の大半の人間には、彼ら自身が受けて育った教育と文化の環境を、当事者として相対化して自己を反省する能力はありません。そうした彼らが21世紀の日本をになってゆくのです。日本の危機が深刻化するとすればそれは、彼らの手によって育てられた新しい世代が多数を占めるこれからでしょう。

鳩山邦夫氏に関連する記事を引用します。


「訴訟国家なら破滅」 鳩山法相 弁護士急増を懸念
2007年9月5日(水)04:14

 新司法試験の導入などで今後増え続けると予測される弁護士人口について、鳩山邦夫法相は4日の閣議後会見で「将来、国民700人に弁護士が1人いることになるが、それだけ弁護士が必要な訴訟国家になったら日本の文明は破滅する」と述べ、弁護士の急激な増加は望ましくないとの見解を示した。

 日本弁護士連合会が行った弁護士人口の将来予測によると、平成19年の弁護士人口は2万4840人で弁護士1人当たりの国民数は5142人だが、49年後の68年には弁護士人口は12万3484人となり、弁護士1人当たりの国民数は772人になるとしている。


 鳩山法相は「わが国の文明は世界に誇る和を成す文明で、何でも訴訟でやればいいというのは敵を作る文明だ」と述べた。さらに「そんな文明のまねをすれば、弁護士は多ければ多いほどいいという議論になるが、私はそれにくみさない」と明言した。


 鳩山法相は8月31日の記者会見でも、司法試験の合格者を年間3000人程度とする政府目標について「多すぎる。質的低下を招く恐れがある」との持論を述べており、一連の発言は今後論議を呼びそうだ。


引用終わり。

鳩山氏によれば、
「将来、国民700人に弁護士が1人いることになるが、それだけ弁護士が必要な訴訟国家になったら日本の文明は破滅する」そうです。鳩山氏は中西輝政氏の本でも読んでいたのかも知れませんが、こうした鳩山氏の認識に対する私の答えは、

「この程度で破滅するような日本文明は存在する価値がないから、一刻も早く破滅した方いい」ぐらいでしょうか。

この程度の人が法務大臣の職に就いているのですから、日本国民への法的意識のさらなる普及と充実は望むべくもないことがわかります。法律を一部の弁護士や裁判官、検事たちに階層的な独占を維持してゆくのではなく、法律をふつうの市民の生きる知恵や武器として、さらなる大衆化こそをはかるべきであると思います。「難関」の司法試験を突破してきたとされる、現在の裁判官や弁護士の多くが、どれほど市民的な常識から外れた見解を示しているかを知るなら、「専門化」がかならずしも、質の発展につながらないことがわかります。むしろ、奇形化し退化してゆくのではないでしょうか。

                 法律家と精神分析家の貧しい哲学―――光市母子殺害事件

法律の門戸をさらに開放して、市民、国民がもっと手軽に使える法律にしてゆく必要があります。難解な専門的な用語もできる限りやさしくしてゆくべきです。

鳩山氏が心配するほど、国民はバカではありません。法律がより身近に民衆のものになったとしても、「何でも訴訟でやればいいという敵を作る文明」になったりはしません。法律が国民や市民にやさしくわかりやすくなって実現するのは、明るく公正な社会です。法律を一部の特権者の手にとどめておこうとするのは、あいまいで不正を見逃す暗黒の社会のままに日本をとどめておこうとすることです。

 

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自由民主党―――この根腐れた政党

2007年09月03日 | 政治・経済

おらが大臣7日天下 地元祝賀ムード一変 遠藤氏辞任へ(朝日新聞) - goo ニュース

農水相更迭 識者コメント 内閣総辞職の時(産経新聞) - goo ニュース

自由民主党―――この根腐れした政党

次から次へと、腐った事案が明るみにでてくる。安倍首相が鳴り物入りで打ち出した新改造内閣も、発足するかしないかのうちに、遠藤某新農相が関係する共済組合の不正受給問題で辞任することになった。

国民が政治に今要求しているものは何か。それは、世論調査にも明確に現われている。国民の要求に忠実であればあるほど、その内閣への高い支持率と選挙結果で、国民はその支持を明確にする。その端的な例が小泉前首相時代の内閣だった。小泉内閣はその出発当初は80パーセントの支持を集め、その末期にでも40パーセント程度の支持は集めていた。

小泉内閣を引き継いだ安倍内閣は、当初こそ記録的な高支持率を集めて発足したが、閣僚の多くの不祥事によって先の参議院選挙でも大敗を喫した。それにもかかわらず、安倍氏は慣行を破って首相の座に居座り続けた。安倍首相は自分の「使命」をいまだ果たしきれておらず未練もつよいのだろう。その気持ちは分からないではない。しかし、安倍内閣が支持されなかったのはなぜか。国民の多くは安倍晋三氏の姿勢に改革へのあいまいな意思を嗅ぎ取っていたのである。

安倍晋三氏が目指す「美しい国」とは何か。それは、はなはだ抽象的で具体的ではないのだが、それが目指す象徴的な課題は、自由民主党の設立当初からの課題でもあった「自主憲法の制定」である。しかし、現実の問題として、「自主憲法の制定」はさしあたっての全国民の課題とはなっていない。現在の国民の要求するところとは、まず退廃した「官僚制度」に大鉈を入れてその改革を促進することである。その一方で、小泉改革によって派生した、いわゆる「格差」を是正し、「セーフティネット」の網を、よりきめ細かなものにしてゆくことである。現在、国民が切実な要求としているこうした要求に、安倍新内閣が十分に応えられるものになっているとは思われないのである。安部晋三氏の政治理念と国民の欲求は、一致していない。

日本の政治機構の改革の核心は「国家公務員制度」の改革にある。その核心をはずした改革は「改革」の名に値しない。現行の「公務員制度」が、あらゆる国家的問題の元凶になっているからである。国民はこの本質を自覚し、この課題の遂行を引き続き内閣に要求して行かなければならない。

教育審議会制度でお茶を濁すばかりで、国民に対してまともな民主主義教育さえ指導できない文部科学省。その三流の文部官僚の手による全国的に一律の教育統制は、国民の自由で創造的な能力の発達を阻害している。また厚生労働省や農水省に群がる多くの寄生的な政治家、公務員の実態は、もうすでにうんざりするほどに国民の前に明らかになっているとおりである。防衛省も早く省内改革を実現して、現在の分断した陸海空の指揮系統の統一をはかり、さらに国防省へと改組してゆく必要もある。

それにもかかわらず、こうした「国家の癌」にメスを入れるべき有能な主体が、治療を託すべき「医者」が存在しない。今やそうした真の政治家の不在こそが日本国の問題となっている。もちろん、こうした政治家や公務員の体質は、本来的には国民自身の持つ体質に由来するものであるから、国民性や国民自身の倫理性が向上することなくしては根本的には解決されることはない。しかし、一連のこうした腐敗政治家や退廃公務員を矯正することは、国民性の改造にもつながって行くことになる。

今度の安倍改造内閣の遠藤農相に象徴されるように、私たち国民は、泥棒に刑務所の管理を任せようとしているようなものである。情けないことではあるが、現在の政治家や公務員の多くは、本質的に、詐欺師や税金泥棒であると考えた方が、本質的な認識に近いのではあるまいか。

こうした政治家性悪説にたって、劣悪なわが国の政治的現実を少しでも改革してゆく道は、やはり、選挙によって政治家を定期的に落選させて入れ替えてゆくことしかない。そして、政治家の交代と同時に、国家公務員のトップも総入れ替えしてゆくことである。この点でも、アメリカの二大政党政治に学びうる点があると思う。


安倍内閣は中途半端な内閣である。いわゆる「小泉改革」も中途半端なままで終わった。まだ、日本国の根本的な改革は遂行されてはいない。それほどに、「改革」が困難であるということであるが、現在のような段階では、「自主憲法制定」といった国家の創造的な建設にはまだ着手はできない。六十年を経過してほとんど「桎梏」と化した現行制度の徹底的な「破壊」をまずは遂行することである。そのことによる痛みも、その破壊の先に、豊かな創造の世界が展望できさえすれば、国民はその痛みにも耐えるだろう。破壊の向こうに、新しい国家像を現実的な理念として明確に具体的に国民に提示にできれば、その破壊を国民は支持するはずである。政治家はそれが仕事である。ただ、それを実行できる有能な政治家を欠いている。


安倍首相のような中途半端が一番成果を上げ得ないのである。昔から、「二兎を追うものは一兎も得ず」とよく言われる。先に就任した与謝野馨官房長官のように、安倍内閣の要である官房長官の職に、公務員に対して妥協的な人物が就いたのでは、この内閣が国民の期待する国家の核心の改造はできないのは明らかだ。だとすれば、安倍新内閣の存在意義はいったい何なのか。

高村防衛相や升添厚生労働相のような目玉人事が一部にあるとしても、改革の司令塔ともなるべき、官房長官と幹事長の布陣を見れば、もはや、この安倍内閣は国家の根本的改造を託しうる内閣ではないことが明らかである。これではもはや安部晋三氏を見限らざるをえず、私たち国民は次の選挙で、改革を継続してゆく政治家と政党の創設に向けるように、選挙権を行使してゆかなければならない。泣き言を言っても仕方がないからである。


問題は、現行の政治家や公務員の人材という限られた制約の中で、どのようにして改革を促進してゆくべきかである。参議院でようやく多数を占め、自民党に代わりうる可能性を持ち始めた民主党に、一度は政権を持たせることだろう。国民は先の参議院選挙でその方向を明確にした。もちろん、この政党も自民党以上に問題の多いことは明らかである。しかし、もともと人間のすることだ。はじめから理想的な政治家も政党も存在しない。国民自身が自分たちのために、そうした政治家と政党を粘り強く育ててゆくしかないのである。

そして、来るべき衆議院総選挙で、自民党を少なくとも五年は野に置くことである。その過程で自民党は分裂し崩壊してゆくはずである。そのあとに現在の民主党も巻き込んで、政界を「自由党」と「民主党」に再編成してゆく必要がある。政治家も日本の民主主義もそこでさらに成熟してゆくだろう。

一九九四年に自民党が下野したときには、時の社会党の村山富市氏は「自社さ連立内閣」を構想して、社会党の血を吸い取らせてただその延命に手を貸しただけだった。そして自民党を一年もしないうちに権力に復帰させて、日本の政治改革を、20年遅らせてしまった。そのような愚を繰り返してはならないだろう。こんどこそ自民党を崩壊させることが、日本の真の政治改革に連なるからである。やはり小泉前首相には自民党を「ぶっ潰す」ことはできなかった。できるのはただ国民だけである。

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九月に入る

2007年09月01日 | 日記・紀行

九月に入る

記録的な暑さだったというこの八月もすでに去り、九月に入る。歳月人を待たずである。この夏にもいくつか印象深いできことはあったが、それも月日とともに、やがて深く記憶の闇の底に沈んでゆく。

久しぶりに山家集を開く。そういえば、この夏は暑さにまぎれて、ほとんど西行のことを忘れていたことに気づく。今ちょうど昼を過ぎたところだけれど、午前中の激しい雨の後のせいか、もう短い夏の命をはかなく終えてしまったのか、蝉の声も聴こえてこない。机の前で、ひところのあの夏の盛りの暑さを思い、蝉たちの合奏を、幻聴のように聴きながら詠む。

        水辺の納涼といふことを北白川にてよみける

231   水の音に  暑さ忘るる  まとゐかな
           梢の蝉の  声もまぎれて

夏の初めには、雨もよく降った。それも遠い記憶のかなたに消えつつある。

226   五月雨は  行くべき道の  あてもなし
           小笹が原も  うきにながれて

人は生きている限り、さまざまな事件に巻き込まれたりもする。

        撫子

234   かき分けて  折らば露こそ  こぼれけれ
           浅茅にまじる  なでしこの花  

先に皆既月蝕があったばかりだけれど、こちらは南の方が曇り空で、残念ながら見ることはかなわなかった。ただ、その前日に大原野を散策しているとき、月は小さく白く満月に浮かんでいるのは眺めた。

        蓮満池といふことを

248   おのづから  月宿るべき  ひまもなく
           池に蓮の  花咲きにけり

 西行は、彼の山家集は、やはり、いつどこを開いても感慨深い。

 

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