作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

ならず者の安倍晋三氏へ

2017年08月31日 | 教育・文化

 

この秋、政府は臨時国会に「特定複合観光施設区域の整備の推進に関する法律」を提出する予定です。

「特定複合観光」とか「観光先進国」などと言ってごまかしていますが、その内容はカジノ法案であって、安倍晋三政府は、国民を賭博漬けにして、金儲けをしようとするものです。

このカジノ賭博法案のために政府は公聴会を開き、「パブリック・コメント」も募集しているようです。意見募集の締め切りは本日、8月31日木曜日の午後5時までです。私もこの法案には反対なので、たいへん遅巻きながらですが、下記のようなコメントを事務局の方に送っておきました。パブリック・コメントの受付には残念ながら時間的な余裕はありませんが、公聴会など機会があれば、最後まで反対の声を上げてゆきましょう。

パブリック・コメントの送付先

「特定複合観光施設区域整備推進会議取りまとめ~「観光先進国」の実現に向けて~」
に対する意見募集について

http://www.kantei.go.jp/jp/singi/ir_promotion/kokumintekigiron/ikenbosyu.html


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ならず者の安倍晋三氏へ


最も高い倫理観が求められるはずの首相の地位にあるものが、カジノ法案を拒絶するでもなく、率先して刑法違反であるカジノ賭博の音頭をとってどうする。

国会で多数を占めるようになった驕りか?これで、やはり安倍晋三のその本性が“ならず者rogue”であることに多くの国民が気づくことになるだろう。

こんな法案を押し通して、カジノ利権に手を染めようとする自民党はやはり腐っていて、これでは次の選挙で日本維新の会とともに潰すしかないだろう。パチンコ利権だけでは満足できず、同類ヤクザの日本維新とともに刑法違反、賭博罪のカジノ利権に手を染めようというのだから。

せっかくこれまでカジノ法案を廃案にして、カジノの非合法化を保ってきたのに、友人のIR 業者の利益のためのトランプ大統領の口利きも断りきれず、日本の健全で立派な政治の伝統を破って国民の人格と家族の崩壊を売り渡す「ならず者」の安倍晋三はやはり売国奴というしかなく、改めてこの男には現行日本国憲法の改正の音頭をとる資格のないこともよくわかった。

そうであるかぎり、こんな「ならず者」安倍晋三が総理の座にあるあいだは、こんな男には日本国の最高規範である憲法の改正は絶対に任せられず反対する。高潔な他の政治家が現れるに期待するしかない。倫理的にも腐敗した精神の政治家には、国家の最高規範である理性的な憲法を制定する資格も能力もないことは明白だからだ。


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 安部晋三自民党のカジノ疑獄か? 検察に告発しよう

 

 

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山椒大夫

2017年08月27日 | 日記・紀行

 

山椒大夫

先週に丹後由良へ海水浴に行ったとき、浜辺の東北にある公園に森鷗外の文学碑が立っていた。そこに鷗外の作品『山椒大夫』の文章が刻まれていた。

『山椒大夫』については、はるか昔に⎯⎯多分まだ十代の頃だと思うけれど、読んだ記憶があるが、その小説の細部についてはもうほとんど忘れていた。アニメ映画にもなっていたらしいけれどもそれは見た記憶はない。

鷗外の文学碑には次の二節が刻まれていた。

「厨子王が登る山は由良が嶽の裾で、石浦からは少し南へ行って登るのである。柴を苅る所は、麓から遠くはない。」

「浜辺に往く姉の安寿は、川の岸を北へ行った。さて潮を汲む場所に降り立ったが、これも汐の汲みようを知らない。心で心を励まして、ようよう杓をおろすや否や、波が杓を取って行った。」

碑文を立ち読みしてから、厨子王の姉の安寿が汐汲みに出たらしい浜辺の岩場を眺めた。そこには海水浴客が泳いでいたり、釣り人が糸を垂れていたりしていて、その昔に安寿が汐を汲んだ往時の面影は感じられない。厨子王が柴刈りに登ったと語られている由良が岳の麓には今は国道178号線が走っている。安寿と厨子王の姉弟は、この由良の港に近い石浦に大きな屋敷を構えて住んでいた山椒大夫のところに、七貫文で奴として売られてきた。


小説の舞台は平安時代の末期というから、歌人の西行などが生きた時代と重なる。由良の浜の記憶がまだ鮮やかに残っている今日の日曜日に、森鷗外の『山椒大夫』読み返してみようと思った。短編でネットの青空文庫にあったのでタブレットで読んだ。

そして、小説を読んだ後、溝口健二監督作品で知られる映画『山椒大夫』もYOUTUBEに見つけたので、それも見た。
鷗外の原作が味わい深く印象が強かったので、映画の方は今ひとつの気がした。芸術作品としての完成度は鷗外の小説の方が上だ。特に、映画では厨子王と安寿は兄と妹として逆の設定になっており、それに厨子王はミスキャストだと思った。戦後思潮の露骨な脚本家の気持ちもわからない。それでも、進藤英太郎や田中絹代、香川京子などの一昔前の映画俳優に出会えたのうれしい。

由良の浜はきれいだった。穏やかな海に、わずかな時間だったけれど、少し沖合に出て青空を眺めながら浮かんでいた。


青空文庫
森鷗外 作『山椒大夫』https://goo.gl/Ueg6QE
Youtube
溝口健二監督作品『山椒大夫』https://goo.gl/kpwT2k

現代語訳『説経節』https://goo.gl/yBmDRt

第15回   山椒太夫 その1 厨子王丸は母、姉、乳母と都への旅に出るが...

 

                    

                       

 

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8月23日(水)のTW:丹後由良の浜

2017年08月24日 | ツイツター
 
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8月19日(土)のTW:#京都、#占領軍、#トランプ、#アフガニスタン、#おほ海、#源実朝

2017年08月20日 | ツイツター
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引き潮 Ebb tide Frank Chacksfield フランク・チャックスフィールド

2017年08月19日 | ツイツター

引き潮 Ebb tide Frank Chacksfield フランク・チャックスフィールド

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「an und für sich」をどう訳すべきか

2017年08月09日 | 哲学一般

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「an und für sich」をどう訳すべきか

Die Wahrheit des Seyns ist das Wesen.

Das Seyn ist das Unmittelbare. Indem das Wissen das Wahre erkennen will, was das Seyn an und für sich ist, so bleibt es nicht beim Unmittelbaren und dessen Bestimmungen stehen, sondern dringt durch dasselbe hindurch, mit der Voraussetzung, daß hinter diesem Seyn noch etwas Anderes ist, als das Seyn selbst, daß dieser Hintergrund die Wahrheit des Seyns ausmacht. Diese Erkenntniß ist ein vermitteltes Wissen, denn sie befindet sich nicht unmittelbar beim und im Wesen, sondern beginnt von einem Andern, dem Seyn, und hat einen vorläufigen Weg, den Weg des Hinausgehens über das Seyn oder vielmehr des Hineingehens in dasselbe zu machen.Erst indem das Wissen sich aus dem unmittelbaren Seyn erinnert, durch diese Vermittlung findet es das Wesen.—Die Sprache hat im Zeitwort: Seyn, das Wesen in der vergangenen Zeit: gewesen, behalten; denn das Wesen ist das vergangene, aber zeitlos vergangene Seyn.


(Wissenschaft der Logik, Erster Teil Zweites Buch. Das Wesen.Die Wahrheit des Seyns ist das Wesen.)

存在の真理は本質である。

存在は直接的なものである。知識とはその存在に本来的にあるところの真なるものを認識しようとするものであるから、知識は直接的なものとそれらの諸規定に留まってはいない。むしろ、存在の向こうには、なおその存在とは異なった何か他のものが、存在そのものとしてあるという、また、その背後には存在の真理が成立しているという前提をもって、知識は存在を掘り抜いてゆく。

この認識は媒介された知識である。なぜならこの認識は直接に本質のもとにあるものでなければ、また本質のなかに見出されるものではなくて、本質とは他者としての存在から出発して、あらかじめ一つの道を通って、つまり、その存在を超えて出てゆくか、あるいは、その存在へと入り込んでゆく道程をたどらなければならないからである。はじめに、知識は直接的な存在から自身を思い起こして、この道筋を通って本質を見出す。その言い回しは時制の動詞の中にある。過ぎ去った時間の中にある本質は、あったもの( gewesen)として保存されている。というのも、本質とは過去の、しかし時間を超越した過去としての存在であるから。
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先日ツイッターで大論理学の一節を訳したときに、気になった言葉があった。それはヘーゲル哲学では特に重要な概念である「an und für sich」をどのように訳すべきか、という問題に引っかかったからだった。

それでこれまで「an und für sich」がどのように訳されてきたか、少し調べてみると、ふつうは「即自かつ対(向)自的に」などと訳されている場合が多い。その他には「主観的かつ客観的に」とか「潜在的かつ顕在的に」などと訳されているようである。
       
「an und für sich」の原意を正確に理解するためには、ヘーゲルの概念観の核心を正しく理解している必要がある。ヘーゲルはすべての事物はその存在の根拠に概念を持っているとみる。そして、ある事物が事物であるのはすべてその概念によるのであって、概念がまだ事物に潜在的である段階は「an  sich」として、そして概念がその姿を顕在化させてゆく自己反照の段階が「für sich」として捉えられる。

表象をたどって「思考」することは哲学することではないけれども、たとえて言えば「どんぐり」は樫の木の「概念」がまだ潜在的な時の姿であり、その「概念」が発展して顕在化すると、樹木としての「樫の木」が姿を現す。「どんぐり」のその成長は内発的であって他の力を必要とせず、必然的であることから、「an und für sich」は文脈においては「必然的に」とか「独立して」とか「絶対的に」と訳される場合もある。

「an und für sich」の原語の事柄をさらにもっと的確に捉えて言い現すことのできる日本語がないかと考えていて、「本来的に」とか「元来的に」という言葉に思い及んだ。それでツイッターの訳文では「an und für sich」を「本来的に」と訳した。「本」とは「もともと」の意味であり「元々に」はじめに潜在的に存在するものから「出て来た」概念は「出来あがって」その完全な姿を実現する。すべて生命のあるものは、もっとも概念的な存在である。

本来の日本語で言い現してこそ、借り物ではない独自の哲学が生まれて来る。

 

 

 

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8月6日(日)のTW:経済制裁と戦争

2017年08月07日 | ツイツター
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8月2日(水)のTW:ガラパゴス憲法学?

2017年08月03日 | ツイツター
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