作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

一粒万倍、一粒の麦も、死なずば

2007年11月30日 | 農事

一粒万倍、一粒の麦も、死なずば

畝を作って、麦を蒔く。

スコップの手を休めて、麦畑から市街地を望む。柿もたわわに実をつけている。

ヨハネ書第12章第24節の、一粒の麦のたとえ話を思い出す。「一粒の麦の種が地に落ちて死ななければ、一粒のままである。しかし、もし死ねば、それは万粒の実を結ぶ。」

この言葉を、イエスは弟子アンデレを通じてギリシャ人たちにくれぐれも念を押して語られた。こうして、イエスはご自分の死の意味をたとえでお語りになった。イエスの死によって、イエスの御霊は聖霊として多くの人々の心に実を結ぶことになる。

そして、奇しくも本日の十一月三十日は、アンデレの十字架に架せられて殉難したとされる日である。アンデレの苦難を想い、アンデレの忍耐に学ぶ。

イエスは大工をなりわいにしていたそうだが、きっと麦を植えられたこともあったに違いない。

願わくは蒔いた麦の種に多くの収穫のありますように。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

玉ネギを植える

2007年11月22日 | 農事

玉ネギを植える

曇り、時々晴れ、時雨。

曇り空が切れ、明るい日差しが差し込んできたかと思うと、ひととき通り雨が降る。周囲が霧深くなる。あたりには人影もなく、存在するのは自分と空と山の自然のみ。玉ネギ畑の畝づくりに集中する。

コンポストと鶏糞を撒き、それを土壌に混ぜ込んでゆく。一通り混ぜ返して、水菜やネギの畑にもどったところで、先生の来るのに出くわした。

玉ネギの苗と水菜の苗を追加してもらって植えてゆく。麦も植える予定だが、もちろん本命は果樹。11時頃に畑に到着して、17時過ぎに帰る。今日は比較的長く農作業をした。少しずつ学んでゆくつもり。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「汝自身を知れ」(グノーティ・セアウトン)

2007年11月20日 | 哲学一般

「汝自身を知れ」(グノーティ・セアウトン)

年齢をとればとるほど、多くの事柄に慣れきってしまったり、細々した日常生活の必要に追われたりして、やがて新鮮な感動などほとんど覚えなくなる。その上に、温暖化だの高齢化だの対テロ特措法など、人間を悩ませる種につきることはないから、ますます子供のような新鮮な感覚は失われてゆく。そんな最近の気ぜわしい生活のなかで、久しぶりにというか、小さな感慨に浸らせてくれたニュースがあった。

JAXA(宇宙航空研究開発機構)が打上げた月周回衛星「かぐや(SELENE)」と日本放送協会(NHK)が、2007年11月7日に、月面のハイビジョン撮影に成功したそうである。37万キロの宇宙の彼方から、暗黒のなかにくっきりと浮かび上がる地球の美しい姿が、ネット上にも公開されている。
地球の出
http://space.jaxa.jp/movie/20071113_kaguya_movie01_j.html
地球の入り
http://space.jaxa.jp/movie/20071113_kaguya_movie02_j.html

映像で見れば実に小さな青い球体の上に、人類はその歴史を刻んできた。現在の科学の知見によれば、この青い球体は46億年前に太陽系の惑星として形成されたという。そして、一億年くらい前に原始的な猿が誕生し、そこから現在の人類が進化してきたという。そして、21世紀である現在は、キリスト生誕からもまだわずかに2000年ほどにしかならない。

この小さな青い球体の上に、人類はさまざまに歴史と文化文明を刻んできた。ピラミッドを造り、アレキサンダー大王は世界征服に乗り出し、ギリシャ文明は花開き、シーザーは暗殺される。近代に至ってはフランス革命やアメリカの独立があり、この百年の間に二度にわたって世界大戦もあり、多くの兵士たちがボロ屑のように死んでいった。私たちの父や母もこの惑星の上でわずか百年足らずの生涯を終え、やがてまもなく、私たちも彼らの跡を追ってゆく。個としての人間はまことにはかないものである。

それにしても、なぜ人間は、これほどにまで労力を払って、月探査機を作り、それにハイビジョンカメラまで積み込んで、宇宙から地球の姿を捉えようとするのだろうか。それは決して単なる経済的な動機にのみよるのではない。

古代ギリシャのデルフォイの神殿には「汝自身を知れ」(グノーティ・セアウトン)というアポロ神より下された神託が刻まれていたという。それが人類の宿命にもなっているからである。

ふつうには「汝自身を知れ」というと、「自分の姿をよく知って、身の程を弁えよ」とか「自分の分を弁えよ」といったことわざの意味に使われることが多い。「わがままはいけない。」「身の程知らずの目的を追求して身を滅ぼしてはならない」といった人間についてのいわゆる世知を示すものとして受け取られていた。

それを歴史的にさらに深い意味に発展させたのは、哲学史上ではソクラテスであるとされている。ソクラテスは、「汝自身を知れ」という神託によって、多くの若者や哲学者との対話のなかで、自身の無知を自覚することによって、もっとも優れた知者であるとされた。

ソクラテスの弟子には出藍の誉れ高い哲学の父プラトンがいる。さらにアリストテレスなどの先覚者たちの跡を受けて、哲学や宗教史上の多くの英才たちが、「汝自身を知れ」というデルフォイの神託の意味を営々として限りなく深めてきた。


近現代において、「汝」を「自我」と捉え、それをさらに個人の「主観的な精神」「有限な精神」として捉え直し、さらに、家族や市民社会や国家における法や道徳や人倫を「客観的精神」として、精神の必然的な発展として考察し、「汝自身を知れ」というアポロ神の神託にもっとも深く徹底的に応えたのはヘーゲルである。彼は言う。「自己を認識するように駆り立てる神とは、むしろ、精神自身の絶対的な掟そのものである。そのために精神のあらゆる働きはもっぱらに自己自身を認識することである」と。いかにも彼らしい人間観である。

地球から生命が、人間が生まれたように、自然から精神が生まれる。人間の肉体は物質であり自然に属するが、人間の自我、意識、精神は観念的な存在である。そして、この精神は、さらに芸術や宗教やさらに哲学そのものにおいて絶対的な精神として捉えられる。

人類は宇宙の創造の神秘と自分の姿を知るために、月や火星に向けて、宇宙に向けてこれからも、探査機は打上げられるだろう。しかし、また、宇宙の創造者である神に似せて造られたといわれる人間の精神を探求することによっても、絶対者、すなわち神の認識へと至ることができるのではないだろうか。それが「汝自身を知ること」「人間の真実の姿」を知ることにもつながるはずである。それらはヘーゲルの師カントを驚嘆させた二つのもの、天体に輝く星辰と、我が内なる道徳律でもある。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

水菜、壬生菜、春菊を植える

2007年11月19日 | 農事

快晴。よく晴れて、山も紅葉で色づき始めた。暖かい日差し。

すこし時間があったので、畑に行く。石灰を撒いた畑を一畝掘り起こし混ぜ返す。誰が飼っているのか、畑の脇にある崖の上から、鶏たちがしきりに鳴き声をあげているのが聞こえてくる。

よい天気で、五メートルも掘り進むと汗ばんできて、着て来たジャンバーと  を脱いで、竹竿に掛ける。

一時半に終了し、ネギ畑にもどると、ちょうど先生が来られ、「水菜など植えられますか。壬生菜や春菊も食べられるなら植えはったらよろしい」といわれて、調子に乗って植えることにする。自分の畑から苗をもってきてくださった。

それを教えられたとおり、一畝、縦に六株ずつ、十センチくらいの間隔で行列を作りながら植えてゆく。根の部分だけを浅く土に植え込み、そのあと根の周りだけ土が締まるように水を軽く注ぐ。

三時に終えて帰る。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ネギを植える

2007年11月18日 | 農事

ネギを植える

晴れ、時々雲る。やや風強し。今年初めての木枯らしらしい。

先生の話によると、この時期の一日の差は、収穫の時期には大きな差となって現れるからと言われて、農作業をせかされる。のんびりやろうと思っていたのに、少しとまどう。

ネギを根から十センチくらいで切って、ネギの「苗」を作り、何とかスコップで堀起こして土とコンポストを混ぜ合わせて作った畝に、五本ずつくらい束に、十センチ間隔で五列に、四十センチ間隔で行列を作る。

隣の畝を掘り起こし、コンポストを蒔く。攪拌は後日。

少し離れた畑に、玉ネギ畑の準備。石灰を二キロ蒔く。畝を五メートルくらい堀進んだところで、周囲が濃い闇に閉ざされ始めたので中止。果樹はとりあえず柿と桃とイチジクを思いつく。まず小さな一歩。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ブロッコリを植える

2007年11月16日 | 農事

晴れ、一時、通り雨。

今日は少し肌寒かったですが、分けていただいた小さな畑に出て見ました。五時半を過ぎるともう闇も濃く、周囲に人影のなくなる頃までいました。通り雨も少しありましたが、きれいな三日月が浮かんでいました。
ブロッコリだけ植え、ネギは途中でやめました。

草取りをしながら、「田の力」になるから男なのだとか、人間が「道具」を作りだす必然性のことなど、あらためて思いついたりします。草を抜いたり、土を掘り返していると、「自然」についてさらに探求してゆきたい気もします。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

聖霊とは何か

2007年11月15日 | 宗教・文化

聖霊とは何か

キリスト教の神は、三位一体の神として知られている。父なる神、子なるイエス・キリスト、そして、聖霊である。この三者は本質的には同じものであり、それぞれとして現象として異なっているにすぎないとされる。

父である神とは、天地万物を創造された主体である。子であるイエス・キリストとは、言うまでもなく、新約聖書に記録されている神としての人であり、その精神は言葉・理性(ロゴス)としてとらえられている(ヨハネ書第一章)。イエスは父なる神と性質を同じくする。

そして、イエスの「死後」に、私たちにイエスの「精神」を告げ知らせ、教えるものが、いわゆる「聖霊」であるとされる(ヨハネ書14:16)。また、この「聖霊」とは、私たちに真理とは何かを悟らせるものでもある(ヨハネ書16:13)。同じキリスト教でも正教会においては、「聖霊」は「聖神」と訳されている。

使徒言行録には、イエスが使徒たちに、まもなく「聖霊」が降って力を受けることを告げられた後に、天に昇られたことが記録されている(使徒言行録1:8)。また、使徒言行録の同じ章には、「聖霊がダビデの口を通して預言している」(使徒言行録1:16)とも書かれている。この「使徒言行録」は「聖霊」の働きを受けた初期のキリスト教徒たちの活動の記録である。

もともと聖書で「霊」と訳されている言葉は、原語では「ルアハ」である。父なる神が土から人間を形作られたあと、その鼻から吹き込まれたものが「ルアハ」である。(創世記2:7)それによって人は生き(息)るものになった。ルアハには「息」とか「風」の意味がある。

英語では「スピリット」に相当する語である。そして、息を吹き込み、ふるいたたせるのは、「インスパイアー」である。芸術家が創作する原動力となるものが「インスピレーション」であり「霊感」である。ドイツ語では「ガイスト」に相当する。

もともと漢字の「霊」には、「雨の水玉のように清らかな、形や質量をもたない精気」を指すらしい(漢字源)。それは、目に見える形ある肉体に対して、目には見えない精神を指している。それはまた、目には見えない力であり、やがて、生きている人間に幸いや災いをもたらす、神や死者などの眼にはとらえることのできない主体を指すようになった。とくに、中国や日本では、この意味合いに使われる場合が多い。

しかし、「聖霊」の「霊」とは、ヘブライ語聖書の「ルアハ」や「吹く」という意味を持つギリシャ語の「プネウマ」の訳語であり、漢語や日本語の「死者の霊」や「怨霊」などに残っている死者の魂というような意味合いはもともとない。

イエスの死後は、イエスの精神は「聖霊」として働き、「信仰」によってその働きを受けた(インスパイアーされた)人々は教団を形成する。だから「聖霊」とはいわば、教団や教会などの共同体の精神でもあり、「ハギオ・プネウマ」「HOLY SPIRIT」「Der Heilige Geist」とは、むしろ、個人の観点からすれば「良心」としてとらえた方が、事柄をより的確に捉えることになるかもしれない。しかし、いずれにせよ、この「聖霊」の概念は、倫理的な存在である人間の精神に由来するものである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

農を始める

2007年11月13日 | 日記・紀行

農を始める

若い頃より、いつの日にか携わりたいと思っていた畑仕事に、ようやく関われるようになった。比較的に近所に、農業を教えてくださる先生と土地を幸いに手にすることができた。

ゆくゆくは果樹や養鶏もやってみたいとは思っているけれども、先生の指導でさしあたっては、ブロッコリや水菜、タマネギなどの野菜から始めることにした。大根やニンジンは今年はすでにその時期を失しているという。

とりあえずは、雑草で荒れた土地の草取りから始める。六時頃になると、すでにあたりはほとんど薄暗くなってしまう。とにかく、小一、二時間ほど、この草取りから始める。草取りのあいだ、意外に思索に集中できることもわかった。どこまでゆけるかわからないけれども、行くところまでは行きたいと思っている。

ネギをもらって帰る。家に帰って食べると、確かに柔らかく甘い。
先日にも初めて先生に畑に案内されて、すでにほとんど実を落として萎え始めたトマト畑に足を踏み入れたとき、昔、幼い頃に母に連れられて帰郷したときに庭先で嗅いだ、青いトマトの鮮烈な香りの記憶がよみがえってきた。茎に残っていた小さな赤い実を一つもいでくださったが、甘く香りも強かった。

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

灰谷橋

2007年11月03日 | 日記・紀行

灰谷橋

文化の日。晴天の秋空が広がっている。携帯電話の新しい機種が入荷したという連絡があり、それを受け取りに行った帰途、時間にも余裕があったので少し遠出してみることにする。

テレビ報道によると、福田首相と民主党の小沢代表が密室で党首会談を行ったそうである。福田康夫氏小沢一郎氏などに代表される自由民主党の旧世代に欠けているのは、正しい民主主義の精神と方法についての自覚である。与党と野党の党首がそろって密室会談を開くことに何ら恥じることもない。


密室談義ほど民主主義の精神から遠いものはない。民主主義の考え方では原則的に情報は公開され、国民はその正確な情報の共有に基づいて公論として討議するのである。

与党と野党の党首がそろってこのていたらくだから、民主主義国家日本の看板には偽りがある。食品会社の虚偽表示と同じだ。これからは「民主主義国日本」の前に「自称」を付さなければならない。

こうした民主主義的な政治文化の貧困の背景には、日本の大学、および大学院における教育の貧困というさらなる根本問題が存在する。繰り返し述べているように、政治文化をふくめ国家国民の学術文化の水準は、その国家国民の保有する大学、大学院の哲学的能力の水準に規定され、それ以上には高まらないからである。

それにしても、私たちは短い生涯のうちに世界のごく一部分を見て、これが世界だと納得して死んでゆく。それは日常のこんな小さな散歩にも、新しい発見があることからもわかる。世界は無限であるのに、人間は有限である。この有限と無限との間にある質の違いは言葉にできない。宇宙の大きさに比べれば、吾々をさておいてカゲロウのはかなさを嘆くまでもないことである。世界を知り尽くすことはできない。

久しぶりに向日神社に立ち寄り、北山遺跡の近くから京都の市街地を眺望する。その後、二つの別れ道を左にたどる。少し山道をたどるが苦になるほどでもない。大原野をなお右を行くと長峰寺、左へ行くと小さな私のアルカディアがある。やがて里山に入り、眺望も開ける。

昔、中国の詩人の陶潜が『桃花源記』という奇跡的な散文を残している。そこから「桃源郷」という言葉も由来しているが、西欧にも古代ギリシャにアルカディアがあった。人間はつねに理想郷を求めて止まないのかもしれない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする