作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

4月23日(火)のTW:ヘーゲル『哲学入門』序論 二

2019年04月24日 | ツイツター
 
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ヘーゲル『哲学入門』序論 二[意識と知識]

2019年04月23日 | 哲学一般
 
§2[意識と知識]

Das Bewusstsein überhaupt ist die Beziehung des Ich auf einen Gegenstand, es sei ein innerer oder äußerer. Unser Wissen ent­hält teils Gegenstände, welche wir durch sinnliche Wahrneh­mungen erkennen; teils aber Gegenstände, die  dem Geist selbst ihren Grund haben. Jene machen die /sinnliche,/ diese die /intelligible/ Welt aus. Die rechtlichen, sittlichen und religiösen Begriffe gehören zur letzteren.




意識とは一般的に、一つの対象と「私」との関係である。その対象が私の内部にあるものか、あるいはそれが外部にあるかにはかかわらない。私たちの知識には、一方では、私たちが感覚的な知覚を通して認識する対象が含まれているが、しかし他方においては、その知識の対象は精神自身に根ざしている。前者は/感覚的な/世界からなり、後者は/知的な/世界を構成する。法的な概念、道徳的な概念、そして宗教的な概念は後者に属する。(※ 1)

※1
意識とは私と対象の或るものとの関係のことであるが、その対象は目や耳、鼻などの感覚器官によって認識しうる外部にある対象と、善悪や真偽、美醜など、精神自身に原因をもつ内部にある対象とに分かれる。後者は知的な世界を構成する。
 
 
 
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日本国の「国家理念」の定式化とその意義について

2019年04月23日 | 国家論

 

日本国の「国家理念」の定式化とその意義について
 
日本国の国家理念、⎯⎯「自由にして民主的な独立した立憲君主国家」

現代日本の政治家の資質の劣化については、多くの国民にも気づかれ始めているのではないだろうか。右派に人気のある、ある作家の言によれば、現在の日本の政治家の八割方が「屑」の政治家なのだそうである。

しかし、現在の日本の政治家たちに、「野党の政治家たちは全部屑だ」などと愚痴ったところで、もちろん日本国民はいささかも幸福にもならず、日本政治の堕落と腐敗の事態がいささかでも改善するものではない。

考えなければならないのは、なぜ現在の日本の政治家たちの多くが国民多数の目には「屑」に映るのか、また、どうすれば国民の負託と需要に十二分に応えるこのとのできる資質と能力を持った政治家たちを得ることができるのか、ということだろう。

日本の政治家たちが「屑」に映るというのは、彼らが国民の貴重な税金を費消していながら、日本国民の多数の負託に十分に応えきるだけの資質と能力を欠いているためである。それは、最近の政党支持率を見ても明らかである。



【図解・政治】政党支持率の推移:時事ドットコム https://is.gd/VefYyA
 
 
支持する特定の政党のない国民の割合は、実に、六割にも達する。もし彼ら政治家たちが、民間の営利企業の経営者であるならば、これほど国民の需要に応えきれない企業として、もうとっくの昔に倒産していることだろう。

彼ら政治家たちもまた親方日の丸で、彼らの職業活動である「政治」によって国民の需要に応えることがなくとも、政党交付金など税金で養われているために失業もしないから、堕落しきっているのである。
 
上記の政党支持率の推移の表を見てもわかるように、政党は一強多弱の状態にある。第一に、弱小野党が七党もあるというのは、いかにもこれらの諸政党が雑魚野党であることを示しており、これでは国民のための強力で効率的な政治は実行できない。
 
どうして、現在の日本政治がこんな雑魚野党の集合体になってしまったのだろうか。おそらくそれは、現代の日本の政治家たちの国家哲学や国家の理念についての認識がとりわけ貧困であること、それに起因する資質や能力の劣化に原因があると思われる。
 
イギリスの政治思想家スマイルズによれば、「国民は自らの民度にふさわしい政治しかもてない」ということらしい。このことが真理であるならば、やはり自らの民度を自己批判して何とか向上させてゆくしか手はないのかもしれない。(政治のありようは、その国民の鏡) 

日本国の国家理念については、以前に「自由にして民主的な独立した立憲君主国家」として定式化したことがある。これは、日本の国家としての理念であるとともに、日本国のもっとも普遍的な概念でもある。

それは国家の概念としては絶対的なものであり、日本国としての理念はそれ以外にはあり得ないものである。政党政治として、いやしくも日本国の政党である限り、与党も野党もこの国家理念を政治理念とすべきであり、すべての政治家は、この政治理念の実現を目指して政治に従事すべきものである。

もし、この政治理念に異を唱える政治家、政党が存在するならば、この政治理念に対する批判を明らかにして、自らの政治理念の優越とその正当性の根拠を論証すべきだろう。

「自由にして民主的な独立した立憲君主国家」というこの普遍的な理念を日本国において具体的に現実的なものとしてゆくのは政治家の使命である。さらに、この国家の理念からいえば、日本国に存在すべき政党は、論理的には、自由を実現する「自由党」と民主的な国家社会の形成を目的とする「民主党」以外ではあり得ない。

この二つの政党によって日本国の政治が担われるべきものであり、かつ、それで必要にして十分である。そして「自由党」も「民主党」もいずれも、さらに根本的により完成された「独立した立憲君主国家」の実現を使命とする。日本国の政党と政治家は、この国家の理念を立法において、司法や行政、また軍事国防などの組織において、さらに具体的に現実的なものとしてゆかなければならない。
 
イギリスであれアメリカであれ、多少なりとも「まともな国家」であるならば、「自由党」と「民主党」に相当する現実的な国民政党が、それぞれ交代して国家の政権を担っている。たとえば、イギリスにおいては保守党と労働党が、アメリカにおいては共和党と民主党がそれに相当する。

しかし、とくに我が国には、イギリスにおける保守党、アメリカにおける共和党に相当するような、自由と伝統を堅持する、いわゆる「保守政党」が存在しない。これは日本の宿痾といえるほどの政治の貧困であり悲劇である。日本の政治家たちの資質能力の劣悪さはここにまで至っている。とくに野党の現状はひどすぎる。

日本の政治家たちの国家理念についての認識がもし明確なものであるならば、日本の政界も「立憲民主党」「小沢自由党」「希望の党」「国民民主党」などといった上記の表に見るようなわけもわからぬ雑魚政党の、烏合の寄り合いに成り果てることもなかっただろう。
 
 
 
 
 
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4月22日(月)のTW:ヘーゲル『哲学入門』序論 一

2019年04月23日 | ツイツター
 
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ヘーゲル『哲学入門』序論 一[意志と精神]

2019年04月22日 | 哲学一般
*

G.W.F. Hegel

Philosophische Propädeutik

Erster Kursus. Unterklasse. Rechts-, Pflichten-, und Religionslehre.


*Einleitung*

§1[意志と精神]
 
Der Gegenstand dieser Lehre ist der menschliche Wille und zwar nach dem Verhältnis des besonderen Willens zum allge­meinen Willen. Als Wille verhält der Geist sich praktisch(※1). Das /praktische/ (※2)Verhalten, wodurch er seine Unbestimmtheit eine Bestimmung oder an und für sich(※3) die Stelle ihm ohne sein Zutun vor­handener Bestimmungen(※4) andere aus sich selbst setzt, ist von seinem /theoretischen/ Verhalten(※5) zu unterscheiden.


ヘーゲル 『哲学入門』

第一課程、下級クラス、法律、義務、および宗教についての教課



この教課の対象は人間の意志であるが、それはまた、特殊な意志の普遍的な意志に対する関係からみたときの意志である。意志として精神は行動的にふるまう。/行動的な/ふるまいは精神の/理論的な/ふるまいからは区別されなければならない。行動的なふるまいというのは、精神が自らの無規定に一つの規定を自分自身から与えるものであり、あるいは、本来的に精神自らの関わりなくしてすでにある諸規定を他の諸規定に置き換えるものだからである。(※6)
 
※1   praktisch  についてはすでに「実践的」という訳語が確立しているが、
   ここでは「行動的」と訳した。文脈に応じて訳し分けていきたい。
※2   /  /に示された語は原文ではイタリック体。
※3    an und für sich  本来的に、潜在的かつ顕在的に、即かつ向自的に
※4   ohne sein Zutun vor­handener Bestimmungen  が具体的に何を意味するのかがわかりにくい。真、善、美における本能的な判断などのことか。
※5  Verhalten  ふるまい、態度、行い、行動、
※6   精神における praktisch  行動的なふるまいと theoretischen 理論的ふるまいの区別がどこにあるのか、なぜ区別されなければならないのか。

   精神はまず意志として現象するがそのときは行動的である。

 

 

 
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4月16日(火)の#伊勢大輔、#ゲーテ、#祖国、#文化交流、#民間防衛、#国会議員

2019年04月17日 | ツイツター
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4月9日(火)のTW:「元号と政治家」

2019年04月10日 | ツイツター
 
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2019年、平成31年の春

2019年04月09日 | 日記・紀行
 
今年で平成の時代は終わる。新しい元号「令和」、この四月に決まったばかり。自然と人間と都市と時間。

曲:愛の暮らし 
歌:森山良子
        作詞:Tommy Children・日本語詞:加藤登紀子

作曲: Alfred Hause
 
この両手に 花をかかえて
あの日 あなたの部屋をたずねた
窓をあけた ひざしの中で
あなたは 笑って迎えた

手をつなぎ ほほよせて
くり返す 愛のくらし
花は枯れて 冬が来ても
すてきな 日々はつづいていた
愛をかたる 言葉よりも
吹きすぎる 風の中で
求めあう ぬくもりが
愛のかわらぬ しるし

人はいくども 愛に出会い
終わりのない 愛を信じた
ある日 気がつく 愛の終りに
人はいくども泣いた

手をつなぎ ほほよせて
くり返す 愛のくらし
花は咲いて 春が来ても
すてきな日々は 戻って来ない
愛をかたる 言葉よりも
風にこごえた この両手に
あなたの身体の ぬくもりが
今も 消えずに残る
 
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元号と政治家

2019年04月03日 | 国家論
 
元号と政治家

政治家たちは皇室に関連することについて、あまり口を挟まないほうがいい。皇室にかかわる問題、事柄は、いわゆる識者、学者、文化人といわれる人たちに任せておけばいい。与党であれ野党であれ、政治家がしゃしゃり出て、皇室について余計な口を挟むべきではない。

とはいえ「天皇ロボット」論などを唱えておられる憲法学の泰斗である樋口陽一氏などは、今回の政治家、安倍晋三首相の元号の制定の過程における政治利用に反対できないはずだ。なぜなら、樋口陽一氏にとっては、恐れ多くも天皇陛下は、国民主権のもと選挙で選ばれた政治家、内閣総理大臣、安倍晋三氏のロボットと等しき存在でなければならないそうだから。憲法学の大先生、樋口陽一氏には立憲君主国家の意義が理解できない。

新しい元号の解釈などは、学者先生たちに、歴史家、文学者、古典研究者たちに任せておけばいいことであって、何も素人の政治家である内閣総理大臣の安倍晋三氏が、出しゃばって新元号の講釈などを垂れなくてもいい。

いうまでもなく、元号は皇室のものであり、国民主権の「国民」といった正体の定かでもない、またその実体もよくわからない雲をつかむような得体も知れない存在が決めるものでもない。

元号をお決めになるのは、あくまでも天皇陛下であって、内閣総理大臣の安倍晋三氏でもなければ、ましてや官房長官の菅義偉氏でもない。もし現行の日本国憲法が、日本の古来からの確立した慣習法から逸脱しているのなら、改正されなければならない。

内閣総理大臣はただその職責において「有識者」を組織して、元号について候補となる諸案を研究させる。その過程の中から内閣は閣議などを経て、いくつかの諸案を絞り込んでゆき、それらを新しき天皇陛下に奏上して、その諸案の中から最終的にご決定いただくべきものである。

たとい内閣総理大臣であっても、政治家である安倍晋三氏やまして官房長官である菅義偉氏などには「元号」についての最終決定権はない。このたびの「平成」後の新しい元号の制定過程を見ていて、あたかも現在の政権与党を担っている自民党政府の内閣に元号制定権があるかのように振舞っていた。

安倍晋三氏などは、あたかも自分が音頭をとって新元号を制定したかのように、高潮した浮かれた趣で、新元号である「令和」の意義の講釈を行なっているように見えた。そこには、元号はあくまでも皇室のものであって、内閣などの政治家たちによって政治的に決められるものではないという、元号制定についての政治家としての自己相対化の自覚と謙虚さがないように思えた。皇室のものである元号を取り扱っているという畏れや謙遜も見えなかったように思う。(思い違いなら幸いである)

立憲君主国家についての深い哲学的な洞察もない、国家社会主義の系譜を引く、「保守」を自称する政治家としての安倍晋三氏の振る舞いだけがそこに見られた。

(※20190403追記)

「天皇ロボット論」者である憲法学者、樋口陽一氏らには、なぜ内閣総理大臣である安倍晋三氏の「元号の政治利用」について批判する資格がないのか、上記での論考だけでは分かりにくいかもしれません。下記の論考なども参考に。

『天皇機関説』と『象徴天皇ロボット論』https://is.gd/54Lvs0
 
(追記201904010)
 
 
 
 
 
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